第42話 タイセツナヒト
ルクレツィアの相手をウィンたちへ任せてからしばし時間が経った。一葉の感覚では半刻――1時間ほど経ったように思えるが、それが信用できないことも理解している。時計が機能しないこの場所で、しかもこのような状況では経過時間などに何の意味も無いだろう。
チラリと確認した限りではウィンたちとルクレツィアの間で、ウィンが作成した紋章魔術が展開しているようだった。動き回る一葉には“それ”をよくよく観察することはできない。しかし嫌というほど実験に付き合わされた一葉が、少し距離がある程度でその気配を間違えるはずもなく。彼女の顔色は目に見えて蒼褪めた。
(まさかあんな物まで持ち込んでたなんて! 最初に無理矢理でも持ち物を確認しとくべきだったか、それとも持ち検しなかったお陰でああして無事に戦えてる事を喜ぶべきか……うわ、ホントに悩むわ)
一葉から見れば恐ろしい防御手段ではあるが、それでも今のところは失敗の気配は感じられない。それならば儲け物と思って意識を切り替える方が良いのだろう、と一葉は諦めることにした。
むしろ割合と順調なウィンたちに比べ、一見派手な応酬をしている一葉たちこそが膠着状態に陥ってしまっているのだ。仕事を任せた相手の心配をしている場合ではない。
「いい加減、当たってもいいんじゃな、いっ!?」
「嫌だよ、痛いもの。お姉さんたちこそ、そろそろ疲れてきたんじゃないの?」
「まさか。まだまだ行けるよ」
ニヤニヤと浮かべられた笑いへ一葉も同じく笑いを返した。しかしそれがきちんとした笑顔になっているのかは分からない。むしろ唇の端が引き攣っただけの歪んだ表情になったような気もしていた。
そのすぐ傍らでは無表情を保ったサーシャがナイフを繰るが、易々と避けられてしまう。
「おっと、危ない危ない」
先ほどサーシャが一度だけ傷を負わせたのだが、その時には“召喚士”も僅かではあるが痛そうな表情を浮かべていた。その反応や血のように流れ出した魔力が“召喚士”へ戻らず辺りを漂っている事もあり、サーシャの攻撃が無駄ではないのだということが分かったのだが。
「別に、無理しないでいいよ。さっきまでと同じように、早く倒れちゃえば楽になれるのに」
嘲笑とともに襲い来る黒い蔦の槍を結界で防ぎ、一葉は小さく呻き声を上げる。
「くっそ……手数は多いけど……」
「はい、攻め切れてはいませんね」
微かに息が乱れているところを見ると、サーシャもまた見た目よりも余裕がないのだろう。先ほど傷を負わされた事を警戒したためか、少しでもナイフの範囲へと距離を詰めればサーシャに対する攻撃が範囲外にいる時と比べて倍以上へと増えた。それを捌かなくてはいけないために余計な体力消耗につながり、消耗から怪我へと繋げないためには再び距離をとらなくてはならない。
何度も攻撃を繰り返し、攻撃を捌いていくうちに、いつしか同じような流れを延々と繰り返していた。一葉たちが思っているように、派手な応酬こそあっても決定的な攻撃には何一つ繋がっていないのだ。
そんな彼女たちの視線に気づいたらしく、まだまだ余裕のあるらしい少年は嘲笑を張り付けたまま小首を傾げて見せる。
「イチハお姉さん、やっぱりそろそろ限界なんじゃないの? けっこう具合悪いんでしょ」
「余計な、お世話っ!」
舌打ち混じりに光弾を射出する。待たせてしまっているウィンたちには悪いが、決定打が遠かった。
“召喚士”は言った。彼への攻撃のために魔力を爆発させたとしたら、ルクレツィアの体もまた爆ぜるだろうと。彼女に刻まれた呪いの紋章には一葉の魔力が転用されているため、ルクレツィアだけが魔力爆発を逃れるという事はできないのだ。
さらに言えば、一葉たちの内で誰か1人でも近づけばルクレツィアは攻撃用の霊術を乱射する。銀の鳥籠に攻撃をすればルクレツィアの魔力を使ってそれを補修する。自身で制御できないその流れは遠慮なしにルクレツィアの魔力を使い切り、いずれ彼女は命を落とすだろう、と。
(あー、視界が揺れるわ……)
その上悪い条件は重なり、少年が言うように一葉の体調も思わしくなかった。『コトダマ』を乱発しすぎているらしく、先ほどからめまいが酷くなっていたのだ。無意識の焦りばかりが積み重なっていく。
何をどうすれば攻撃につながるのか、思考のまとまらない一葉には分からない。
「イチハ様!」
揺れる視界でボンヤリとしていたところへ腕を引かれ、それと同時に今まで一葉が立っていた場所が黒い槍に穿たれて砕けた。一葉の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
「っ……助かりました!」
「ご無事で何よりです」
後続の槍を結界で防ぎながら声をかければ、どこかホッとしたようなサーシャの声がかけられた。
「あれー、まだまだ大丈夫そうかな? なら、攻撃の量を増やそうかっ!」
結界の向こう側から無邪気な聞こえ、雨のように黒の槍が降り注ぐ。周りの床が見る間に削れていく。一葉たちを中心にした半径2メートルの内外では、恐らく10センチ単位の高低差が生まれている事だろう。
「あははははははははははははっ! 楽しい。楽しいねぇ、お姉さん!!」
「う……っく……」
甲高い哄笑に言葉を返す余裕も無く結界を支える一葉の手が、込められた力で震えている。『狛犬』の切っ先がぶるぶると揺れた。彼女の結界へ相当な圧力がかかっているのだ。
その時、サーシャはある事に気付いた。その水色の瞳が見開かれ、一葉を凝視している。
「イチハ様!」
「え……あ……!」
『狛犬』を掴み結界を支える右手――だけではなく、一葉の全身が僅かに発光していた。その周囲を、もう馴染みとなった蛍灯がフワリと舞う。
――魔力還元。
ついに、一葉たちの恐れていた事態が発生した。
「あはははっ! どうするの? ねぇ、そのままだとお姉さん、すぐに消えちゃうんじゃないのっ? もう辛いでしょ? 苦しいでしょ? でもそんなに頑張らなければ楽になれるんだよ! 僕と一緒にずっと生きようよ、ねぇ!」
「ちょっと、マズいかな……」
頭痛をこらえるような顔も、ボンヤリと光を放っている。このまま『コトダマ』を使い続ければ“召喚士”が哂う通り最悪の事態――消失まではそう遠くないだろう。
しかし一葉の運はまだ、枯渇したわけではなかった。
「あれ……僕も体が光ってる。何でだろ?」
不思議そうな声に揺らぐ視線を向ける。いつの間にか黒の槍が止んだその先には、一葉と同じように光を纏った少年の姿があった。声と同じく心底不思議そうな表情で小首を傾げ、彼はその小さな手のひらを見下ろしている。
「一体何が」
「あ、そっか……よし!」
いぶかしげなサーシャに笑みを見せ、一葉は息を吸い込んだ。体に力を入れ、できる限り力強く見えるように息を整える。
そして最後に強張った頬から力を抜いた。
「私の力を吸いすぎたみたいだね!」
「っ!?」
バッと顔を上げた少年へ、今までのうっ憤を込めた一葉が満面の笑みを見せる。
「元々相性の悪い魔力が混ざり合って、反発したんじゃない? ふふっ……魔力還元癖が、そっちの魔力にもついちゃったみたいだねぇ!」
「な……!」
サッと顔色を変えたところを見る限り“召喚士”にとってもそれは致命的な事象なのだろう。当然である。“召喚士”もまた一葉と同じく魔力で存在を構成しているのだから。それが還元されるということは魔術を使えなくなるという事実だけではなく、すなわち“召喚士”という存在の消滅と同じ意味を持っていた。
じわりと還元され始める事が彼にとっては初めてだからだろうか。それとも何らかの要因が関係しているのか、焦りも含めて思うように魔力を操れていない様子である。
(私が消滅しても相手が残ってたら意味ないし、そんな終わり方はダメなんだよね。分かってる。もう、間違えない)
両手をきつく握りしめた一葉は即座に思考を巡らせる。
(となると、今すぐに決着をつけるのは絶対に無理。ここで畳みかけなきゃこっちが全滅する、かな。死なないまでもまた魔力で直接攻撃されるかもしれないけど、アイツを撃退できて私が消滅してなきゃとりあえずはオッケーだし)
それだけを考えた一葉はさっと片眉を上げると、右手の一振りと“さて”の一言で大量の光弾を生成した。最低でも20は下らない光の群れを自分の周囲に留めて、彼女は精々穏やかに、ニコリと微笑む。
「別に今すぐヤケになって、感情任せで術を叩き込んでも良いんだけどね。この光弾ひとつひとつの威力は分かってるでしょ? それを今、一斉に撃ったら……」
「うーん、直撃したら僕でも危ないかな」
どうにか混乱を沈めたのか、表面上は普段通りの余裕を含ませた声音で“召喚士”は嘯いた。一葉もまた外面だけは強気を保ったまま気安く肩を竦めて見せる。
「名付けて“若気の至り砲”なんてね。一生に一回くらい魔力がカラッポになるまで魔術をぶっ放してみたいものでしょ? いつもの私にはできない事だけど、もう魔力還元が始まってる今ならいっそ後腐れなくできるからね。この前の『レイズ』と同じだよ」
「他の人なら可愛い夢でも、お姉さんの力じゃ全然可愛くないよねぇ」
もちろん無理やりにでも落ち着きを取り戻した“召喚士”にはそれを防ぐ手段も避ける手段も、そして力尽きた一葉たちを圧倒する手段もあるのだろう。それでも前回ギリギリまで追いつめた筈の一葉にしてやられた事を考えれば、万全ではない今こそ逃走を選ぶ確率が高いと一葉は踏んでいる。
何より一葉の後ろにはサーシャもいるのだ。前回とは違い十二分に動き回れる彼女ならば、一葉にかかりきりになっている“召喚士”へ攻撃を見舞うことは間違いない。例え1回1回の攻撃が一葉の術ほどの威力を持たなくても、回数を重ねればいつかは決定的な傷になるだろう。
ニコニコと笑い合うだけの2人の“異界渡り”から、その内心を読み取ることはできない。
「……まぁ、いいよ」
やがて少年は笑みを深め、ふわりと宙へ浮いた。
「今回は引いてあげる。でも、そのままじゃ悔しいから……そうだね」
「うぁ、あ、あぁぁぁぁっ!」
「これくらいは予想してたでしょ? せいぜい頑張って耐えてよ」
慈雨の谷を再現したように、苦痛の声を上げると同時に一葉は膝の力を失う。慌てて支えるサーシャが覗き込んだ顔色は血の気が引いた蒼白だった。それにもかかわらず額には脂汗が浮いており、一葉が“召喚士”から何らかの攻撃を受けた事は明らかである。
「何を!」
「あぁそっか、銀のお姉さんには見えないんだぁ。簡単な事だよ。僕とお姉さんの魔力をもう少し混ぜてみただけだよ。何にもしないまま逃げ帰るなんて、悔しいからね」
それが一葉にとってどれほどの打撃になるかを僅かながら知っているサーシャは、凍てつく視線を“召喚士“へと向ける。しかしそれを彼は切り捨て、むしろ優しく一葉へ語りかけた。
「ねぇお姉さん、勝手に消えるなんてツマンナイことはしないでね。……あぁそうだ。次はどこに行けばいいか分かるよね? そうそう、邪魔な人は連れてこないでね。僕、あんまり騒がしいのは好きじゃないんだ。お姉さんのお友達くらいならいいけどさ。期限は新節の最終日だよ。もし来なければ、ね」
そんな最悪の予言を投げつけた“召喚士”は虚空へ溶けて消えた。それと同時に銀の鳥籠が消え失せ、乱射させられ続けていたルクレツィアの霊術も停止する。
「っく……危な、かった……」
ゼイゼイと荒い呼吸の合間に呟かれた言葉を耳にして、サーシャは一葉の肩を一度だけ強く抱きしめた。そして無言のままその肩を支えて、仲間たちの元へと歩き出すのだった。
鳥籠の消失をこの場の誰よりも待っていたのは、間違えようも無くジョシュア=ルイズである。
「ルクレツィア様!」
“召喚士”の退却と同時にルクレツィアの術が止まった。様子を窺ったウィンにより大丈夫だろうと判断を下され、ジョシュアはルクレツィアへと駆け寄ったのだ。
数日ぶりに見た主は四肢こそくたりと力を失っているが、意識ははっきりとしている。体から力を奪うらしき黒い紋様はまだ残っていたが、ウィンが言った通り、先ほどまでのように霊術を無差別に乱射する事は無かった。
声が出ない事だけは気がかりだ。それでもルクレツィアが生きていたというだけで、ジョシュアは安堵から力が抜けてしまった。
「良かった……」
戦闘前に言っていた通り、手も、足も、声も、後で一葉がどうにかしてくれるのだろう。そんな事よりも今はただ、この気位の高い主が浮かべる気の強い表情を見られた事がジョシュアには嬉しかったのだ。ジョシュアの主は何も言わず何も示さずただその体をジョシュアへ預け、体が傾いだ拍子に絹糸のような髪が細い肩を滑った。
ほっと息をついた彼が普段より素直なルクレツィアを抱き上げたところへ、サーシャに支えられた一葉もまた合流する。その顔色は白いものの既に足取りはしっかりとしており、サーシャの支えは念のためという程度に見えた。
「大丈夫ですか?」
「何とか生きてますよー。結構危なかったですが」
しかし一葉の体が再び発光した現場を見ていたレイラはやはり気がかりらしく、不安げに問いかけた。そんな相棒へ明るい笑みを返し、一葉は義兄を見る。
「うーっす、お疲れ」
「そちらこそ」
「助かったよ」
「いえ、成功して良かったですよ。賭けでしたからね」
「ホントにね。術の気配がした瞬間に心臓縮んだわ」
何だかんだとボロボロな様子のお互いへ意地を張る事無く苦笑いを向け合い、最後にジョシュアとルクレツィア――正確には、ルクレツィアの首元へと視線を向けた。
「うわ、えげつな……」
きゅっと眉を顰めると一葉は慎重に魔力を集め始める。そんな彼女に何かを察したのか、いきなりルクレツィアが暴れ始めた。殆ど力が入らないため当然のようにジョシュアによって押さえられてしまうが、それでも彼女は抵抗をやめようとはしない。
その表情は何かに怯えているようにも見えた。
「鳥籠と霊術の制御に関しては、その場にいないと継続しないモノだったのかな? まぁ、何にせよラッキーか。よし」
ルクレツィアをじっと見ていた一葉はひとつ頷くと、ジョシュアへと顔を向ける。それは彼女を僅かでも知る者からすれば不自然なほどに明るい――見るからに、作られた笑顔だった。
「ちょうど良いのでジョシュアさん。そのまま少しの間、レティさんを押さえておいてください」
ジョシュアは微かに迷った末に頷く。主の暴れ様や一葉の様子に疑問を抱いたものの、一葉ならば悪い様にはしないだろうと判断したため彼は素直に従ったのだ。
ジョシュアの裏切りによって半ば諦めたように力を抜いたルクレツィアだが、その目だけは未だ吊り上がり、焦げ茶の髪の魔術士をキッと睨み続けている。
「ヤだな。そんな怖い顔、しないでくださいよ」
笑う一葉がサーシャから離れ、光る右手をルクレツィアへとかざした。その光が黒い模様と触れた途端にルクレツィアの体から黒い靄が滲み、それはやがて一葉の手へと集束して消える。
そして。
「この…………この、戯け者……っ!」
数日間出していなかったらしく掠れてはいたものの、以前と変わらない声と気迫で、ルクレツィアは目前の魔術士を真っ先に罵倒したのだった。ここ数日の間で動かしていなかった体はジョシュアに預けたまま、それでも掠れの残る声だけは勢いが良い。
「仕方無いでしょう。別に、慈善的な気持ちからじゃありませんよ」
「慈善云々など言葉にする価値すらあるまい、この痴れ者が! そんなものはまた別の問題じゃ!」
頬を紅潮させてまで余計に怒鳴るルクレツィアへ、一葉は眉尻を下げて困ったように笑う。その笑顔によってルクレツィアの怒りの火へさらなる油が注がれた。一葉自身そうなるとは理解していたが、それでも笑うことしかできなかったのだ。
「ぬしには唯でさえ不利な条件が揃うておろうが! それにもかかわらずまた、そのような……っ!」
のどを抑えて咳き込んだかと思うと、ルクレツィアは変わらず声を張り上げる。
「自分から余計な首を突っ込みおって!」
吊り上がる濃紺と深緑の瞳には、一葉の首元が映っていた。そこには先ほどまでルクレツィア本人にあった、黒い蔦のような模様が絡みついている。まるで首を絞めるように、一葉の存在をじわりじわりと脅かすように。ルクレツィアにかかっていた呪いはそのまま一葉へと根を移し、呪いの分の魔力を増やした代わりに一葉が持つ魔力の流れを偏らせていた。
一葉の特性上、それにはルクレツィアのように体の動きを縛るという効果は無いのだが、元々の魔力すら慣らし終わっていない一葉がさらに魔力を上乗せされても『コトダマ』の行使に支障が出るだけである。結局のところ足かせには違いないのだ。
「そうは言いますけどね、私こういう“呪い”にかかるのって初めてじゃないんですよ。だからレティさんよりはマシかなぁって」
「誰がぬしの経験を聞いおるか! 唯でさえ力を無駄に出来ぬ時に、余計な事をするなと言うておるのが理解できぬ程の阿呆かや!?」
「でも、レティさん。私が……失礼」
真後ろから物言いたげな気配が届き、苦笑と共に一葉は言い直す。
「私たちが、アレの住処に向かってる間にですね。レティさんに無防備のままでいられると困るんですよ。万が一でも私たちが失敗した場合、レティさんに残った呪いはもう誰にも解除できないでしょう? そんな時に何か起こったら?
なら、リスクを……危険を承知の上で、レティさんに万全の状態を保っておいてもらわないと」
「それは確かに正論じゃ。しかしその正論の上でぬしが妾の呪いを解くと、それを狙うた上で妾に呪いをかけたと! ぬしの頭ならばあの下郎の下衆極まりない狙いを読めておろう!?」
誰かが息を呑む音がした。しかしそれを気にせず、一葉はゆったりと笑む。
「まぁ、確かにそれは分かってましたけど。理解できても全然嬉しくないですが。でも」
自分の中でくすぶる“召喚士”の気配に一葉は苦い顔をした。
「他に無いんです。こればっかりは。元から解除する方法なんて短時間じゃ分からないし、大体今の私は前みたいに魔力を自由に扱えない。それでも呪いを移動させることくらいはできるし、私のバカみたいな魔力量なら、少しくらい余計な魔力が混ざったところで体が動かなくなるなんてことは無いですし。確かに気持ち悪いですけど、さっきも言った通り何度か経験してる私の方がよほど上手く立ち回れるでしょう」
それまでの苦笑から一転して、黒い瞳の魔術士は厳しい表情をルクレツィアへと向ける。
「とにかくもう時間をかけて準備する段階じゃないんです。今あるもので最大限の効果を引き出さないといけないんです。誰かの代わりに自分が、なんて、今更考えてるわけじゃありませんよ。そんな事を考えたら負けちゃいますから。分かってるでしょう?」
「……っく」
言われるまでも無くルクレツィアには分かっていた。ただ、これ以上一葉に重荷を押しつけたくはなかっただけなのだ。この問答が自分の我がまま以外の何物でもない事をルクレツィア自身こそが理解していたが、言葉にしないその気持ちが一葉は嬉しいと思っている。
「正直言えば『コトダマ』とか魔力の扱いを間違えて消えるのがすごく怖いですけど。前みたいに“どうなってもいいかな”なんて、今はもう思えないんですよ。自分の存在がかかるほど限界まで力を使うなんて、もうできません。
……これが良かったのか悪かったのかは分かりませんけど。少なくとも、変な自己犠牲精神はちゃんと捨ててますよ。その上での判断です」
一葉はそれだけを言って言葉を切る。怒りで頬を紅潮させつつ唇を噛みしめて黙りこんだルクレツィアへ最後に笑みを向けてから、彼女は他の4人の顔を見回した。
「さて、帰りましょうか。最後までアレがご丁寧に魔力を混ぜてってくれたおかげで、帰り道は私でも作れそうですし」
宙を見て何かを探った一葉は手を大きく開き、一拍だけ叩く。すると室内にわだかまっていた奇妙な魔力が清められ、全員の目に映る色が鮮やかになった。誰かが大きく呼吸する音が聞こえる。澱みが無くなった空気はそれだけでとても美味しく感じられるのだ。
空気が清められたと同時に“ここ”への扉を開いた時のように空間が歪み、やがて王城の客間にあってもおかしくない程に立派な扉がそこに現れた。一葉の手が開いた扉の先は“入り口”と同じく、ルクレツィアの私室である。
「さぁ、先に通ってください。私はコレを維持するために最後じゃなきゃいけないんで」
「それでは、申し訳ありませんが俺から行きます」
まずはルクレツィアを抱えたジョシュアが申し訳無さ気な顔で通過する。さすがに疲れ切ったのだろう、目を閉じてジョシュアに身を預けるルクレツィアの姿が印象的であった。
次にレイラとウィンがどこかホッとしたように、さらに一葉を気にしながらのサーシャが扉を通過した。
「次は――絶対に、逃がさない」
扉を最後にくぐった一葉の呟きは誰の耳にも届かないまま“隠れ家”の空気に響く。しかしそれも扉を閉じられてから瞬きを2、3度する間で、“隠れ家”ごと消滅したのだった。
「お願いがあります」
報告のためにウィンやレイラ、サーシャと共にアリエラの客室へ戻った一葉は、話が終わるや否や口を開いた。普段の彼女とは違う様子に周囲は口をつぐんでいる。それほど鋭い視線を一葉はゼストへと向けていた。
「……内容に依るのじゃが」
「“召喚士”との戦いに必要な事です」
眉をひょいと上げただけで先を促すゼストへ、一葉は目に込めた力を緩めずに唇を開く。
「ミュゼルで一番腕がいい鍛冶師を。それから、出来るだけ古くて大事にされているような宝石か宝飾類をください。例えば……そうだな。白金貨と同じくらいの価値が良いです。それくらいなら凄く大切にされてるので、使いやすくて。逆に言えばそれ以下だと使い物にならないと思います」
「ほぅ。アリエラ様の“護り”と同じような物を作るのじゃな?」
「はい」
一葉の肯定へ好々爺然とした水色の瞳が細められた。途端に加えられた圧力に、しかし一葉が引くことは無い。本音を言えば今すぐに視線を逸らしたかったが、それをしてはいけないと彼女は知っていたのだ。
ゼストの隣にいるアリエラが、はらはらとした様子で一葉たちを見ている。
「随分高い要求じゃが……どうしても、かのぅ?」
「はい」
緊張からコクリと喉を鳴らして一葉は頷いた。
「どうしても、です」
内心を押し隠して笑顔のまま彼女は口を噤む。一葉もゼストも何も話さない事で、室内には耳に痛い無音が流れた。
やがて諦めたようにゼストが溜め息を吐き出したことで、凍りついた空気が一気に溶けていく。
「鍛冶師は問題ないじゃろ。ミュゼルに戻り次第顔を合わせられるよう、手を打っておくとするかの。宝石類の方は……最高の物となると、悪いが今は約束できんのじゃ。最低限、私の手に入る中で最高の宝石を用意しよう」
困ったようなゼストへ肩から力を抜いた一葉は微かな笑みを向けた。
「ありがとうございます。ご迷惑を、おかけします」
「何。可愛い娘の珍しいおねだり位、聞いてやるのが養父の務めというものじゃよ」
冗談めかしたゼストへ無言で頭を下げる。そして頭を上げると、一葉はようやくアリエラと視線を合わせた。
「ごめんね。遅くなったけどタダイマ。全員が無事に帰ってきたよ」
「……はい」
アリエラはホッとしたように、おずおずと笑顔を浮かべる。
「皆が無事で、本当に良かったです。それと」
そしてそっと全員を見回すと、彼女もまた頭を下げる。その背筋の伸びた姿勢はとても潔く、彼女の真っ直ぐな心根が表れていた。
「レティ様を助けてくださり、ありがとうございました。私の我がままで、あなたたちを失わなくて良かった」
彼女はもう、以前のような何も知らない軽率な王女ではない。自分の言葉に含まれた重さを知っているのだろう。
「お帰りなさい」
様々な事件に巻き込まれることで傷つきながらも“待つ”という事を学び取ったアリエラへ、一葉たちはにっこりと笑った。
第6章 鳥籠の小鳥 ――終了――