第40話 Over the Wall
さて、と、一葉へ向けて低く小さな声が真横からかけられた。
「何を悩んでいるのかは知りませんが」
「え?」
潜められたその声は、召喚獣の咆哮や爪と剣がぶつかり合う音や自分たちの息遣いが響くこの石の空間では一葉にしか届かないだろう。それを理解しているウィンは義妹の戸惑いには構わずに先を続けた。
「自分たちの事は自分たちでどうにかします。貴女は先の事だけを考えていればそれでいいので、余計な事はしないでください。むしろ迷惑です」
にこやかな声に包まれた皮肉はいつも通りのウィンのものであった。
しばし言葉を切った2人の視界の先では、召喚獣がその最後もまたいつか見たソレとそっくりな状況で終わりを迎える。隙をついたレイラが眉間に細剣を打ち込み、その細剣を媒介としてサーシャが召喚獣を内側から凍りつかせたのだ。
焔が消える。ジョシュアによって斬り落とされた首がゴロリと転がり、それはやがて砂と変じて虚空へ消えた。
(あぁ……また、間違えるところだったのか)
普段の一葉ならばウィンの言葉にカチンと来ただろうが、しかし今はなぜかそれが心を軽くする。このような非常事態にも関わらず、ようやく呼吸が楽になったような気さえした。
「……迷惑なんて、酷いなぁ。これでも一応皆のために動こうと思ってるのに。親切心なのに」
「貴女が誰かのためなんて殊勝な事を言うとは珍しい上に胡散臭いですね。“面倒を避けるため”や、人への情に“流された”もしくは事態に“巻き込まれた”が貴女の日常でしょう?」
「人を巻き込む筆頭が、良く言うよね。あぁ、そうだウィン」
「何ですか?」
突然問いかけのように呼ばれた名前にウィンは横目で一葉を見ている。
「あのさ、ウィンも余計なもの持ってきてるでしょ。何持ってるの?」
「……まぁ、普段であれば不必要なものですよ。使う機会があれば良いのですが、それまでは内緒です」
くくくっと笑う整った横顔は、こんな異常事態であっても“いつも通り”の義兄だった。いつも通り、研究熱心で一葉を研究に巻き込む顔である。それが何となく面白く思えた一葉もまた、知らず知らずのうちに普段と同じ苦笑を浮かべる。
そのうちに戦闘を終わらせた3人が歩み寄ってきて、微笑む2人を不思議そうに見た。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ、何も。ウィンにちょっと失礼なことを言われていただけですよ。あとは雑談です」
「ウィン様はそれが普通なので、どうぞご容赦ください」
「サーシャ。貴女こそ失礼ですよ」
ウィンの苦言にサーシャは肩を竦めるのみで、一葉やレイラだけではなくジョシュアにまで苦笑が浮かんでいる。いつの間にか、一葉の持っていた苛つきはどこかへ消えていた。
「さぁ、先に進みましょう。早くレティさんのところに行かないと」
「そうですね。後に待つジョシュア殿のご苦労を減らさなければ」
努めて明るい声で一葉は仲間を通路の奥へと誘う。彼女に合わせて珍しくおどけたようなレイラの声に、当のジョシュアはただ浮かべた苦笑いを深くするのみであった。
「えぇと……大体、地図は作り終えました、か?」
壁面につけたインクの印と手の中の帳面を交互に見つめ、顎に指を当てた一葉が困ったように言う。
「……はい、その筈ですが」
「こちらの分岐も全て向かいましたし、あちらの道も調べ終えました。行ける場所は全て見た筈ですよ」
サーシャとウィンが厳しい表情で地図を覗き込んだ。普段の印象はあまり似ていない2人だが、こうして並べてみると薄いながら血縁があるからか、それとも幼いころから近くで育っているからか、どことなく似ているように見えた。
「しかしこの形は作為的ですね」
「はい。ここ……中央に何かがありそうな形です」
同じように地図を見るレイラへ地図を指差しながらジョシュアが同意する。
「やっぱりそうですよねぇ……何しろ“ロ”の字ですから。いくらここが亜空間って言ってもコレは怪しい」
そして最後にまとめられた一葉の言葉へ、全員が頷いた。
一葉たちが囲んでいる紙には、どう見ても大きな“ロ”の字型の地図が出来上がっていた。戦闘を幾度も繰り返しながら作り上げたそれには、細かく見たならば分岐や行き止まり、曲がり道などが多数書き込まれているのだが。
全体を見れば外側を四角く道が這い、内側は未踏破区域という形に分かれている。
「かといって強引に壊そうとしたって……」
「明らかに守られていますね」
一葉や彼女に同意したウィンだけではなく、全員が重苦しいため息を吐き出した。
道がなければ作ればいい。その方針に切り替えたところで結果は無駄に終わった。試しに壁に向けて攻撃を仕掛けてもみたのだが、攻撃力に秀でたウィンやサーシャ、土属性の術を得意とするレイラやジョシュアだけではなく、一葉の術ですら壁に傷をつけることもできなかったのだ。
五度ほど試したところで魔力の無駄遣いであると結論付け、壁への攻撃は取りやめた。
「ったく。どこが“出入り口”なんだか……」
現在地は最初に足を踏み入れた場所、あの“扉”があった地点である。時間をかけて探索を進めてみれば結局この場所が一番安全だと判明したのだ。一葉と言う守り手がいる以上、背後からの攻撃を心配する必要のない場所はそれだけで強味であった。
「仕方ありませんねぇ……うん。時間も歩数もちょうどいいですし、そろそろ休憩にしますか。ご飯も食べておきましょう」
「そうですね」
一番の安全地帯を定めるまでに食事を5回、睡眠を2回とる程の時間が経過している。通路内では日光での時間経過が分からないばかりか時計の動作もアテにならないため、歩数などから割り出した体感時間と食事や睡眠の回数で時間を計るしかなかった。
(携帯食料が、あと4回分。や、今食べるから3回分。となると時間はあと1日……半? くらいか。うーん……分かってたけどギリギリだな)
それぞれが壁に寄りかかり、思い思いの体勢で携帯食料を口にする。その石の空間は不気味な程に静かで、自分たちが立てる音しか響いていなかった。
青白い魔力光の照らす空間で、味気のない携帯食料を無言で口に運びながら一葉は考えを巡らせる。
(経過時間は約2日。皆、できるだけ考えないようにしてるみたいだけど……床も壁も天井も石じゃ圧迫感しかないし。いつでも警戒してなきゃいけないし、ご飯はコレだし。交代要員がいないのも効いてる。光があるのは助かるけど妙な仕掛けで信用できないし、大体このまま光り続けてくれるのかどうか。
……モチベーションが落ちてる分も上乗せして疲れはしっかり溜まってるかな)
一葉はチラリと視線を流す。
それぞれに意識はしていないのだろうが、レイラやジョシュアは不自然な物音や影の揺らぎに対して敏感に反応している。逆にウィンは魔力の流れや明かりの明滅具合に過敏に反応しており、サーシャなどはその両方を感知して身構えている。
それは奇襲を防ぐには必要な反応であろうが、それが2日も続けば心身ともに疲れ切ってしまう。何しろここには温かい食事も、心地が良く安全に眠れるベッドも無いのだ。そんな事を考えている一葉自身も疲れやストレスを自覚しており、限界が近いことが分かっていた。
また、それ以上に。
(今までは思い出したように召喚獣が出るくらいだったけど、これからもそうとは限らない。何か突発的な事故が起きるかもしれない。何が起きるか、分からない。
……忘れちゃいけない。こっちの状況は全部見られてると思わなきゃ)
遠見の術は一葉ですらある程度は行使できるのだ。しかもここは“ヒト”としての枠を捨てた敵の手の内である。一葉の直感が、これ以上の“何か”があると叫んでいた。無視をしたい程に嫌な予感ではあるが、悲しい事に一葉はこの手の直感をこの2年の間で外した事がないのだ。
再び探索を開始し、ある1点で彼らは足を止めた。
「やっぱりココが一番怪しい、んですけど……」
「どう見ても壁しかありませんね」
疲れの滲んだウィンへ眉を顰めた一葉が頷く。一葉の蛍光インクが付着した曲がり角の先。このまま真っすぐに進めば明らかに中央部分へ進めるのだが、そこは取って付けたように壁で塞がれているのだ。
王宮が侵入者を迷わせるための構造をしているという情報は有名である。その構造に慣れ親しんだ一葉以外の全員にとってこの程度は違和感を覚える対象ではないのだが、一葉だけが違っていた。
「んー……本当は道があったけど慌てて塞いだような、そんな感じがするんですよね、ここ」
「言われてみれば、そのような気もしますが……」
「しかし本当にそうであったところで、破壊する手段がありません」
戸惑うレイラの隣ではジョシュアが眉を寄せている。反論ができない一葉はただ頷くことしかできない。
「手掛かりと思ったんだけどなぁ……」
「確かに、ここ以外にはしっかりとした手掛かりは無いでしょうね」
眼鏡を押し上げ、ウィンが言う。
「ではこの場所を少し調べ、っ――!?」
「壁が!」
息をつめたウィンを強引に背後へ押しやりながら、進み出たサーシャがナイフを構えた。レイラとジョシュアは既に戦闘態勢を取っており、一葉もまた『狛犬』を抜いている。
5人が見ていた壁。その空間が歪んだかと思うと“何か”が召喚され始めたのだ。歪みを通した青白い光が床に微妙な揺らぎを描くという光景は、見た回数が5回を超えた時点で数えることを止めてしまった。
しかし今5人が見つめていたのは“ソレ”ではなかった。
「やっぱり、壁の向こうには!」
「はい……アタリです!」
召喚のために宙が歪んだと同時に壁が揺らぎ、向こう側が透けて見えたのだ。やはり同じように通路が繋がっていたが、こちら側とはまた違う材質の通路だということが見ただけで分かった。
そうしているうちに壁は元に戻り、後に残されたのは完全に姿を現した敵のみである。
「うわぁ……グロい……」
そんな軽口を叩く事ができたのは一葉だけだった。
大人の胸辺りまでの大きさを持つ4本足の獣。それだけならば彼らにとって絶句する程の事でもない。その猫を大きくした獣の目が虫――蝿のような、複眼だったのだ。基本的に魔獣と呼ばれている生物は、家畜などの動物とそう変りの無い外見をしている。その中で魔術のような異能を操るものを魔獣と称しているのだ。
“入り口”の内外を問わず彼らが今まで見てきた召喚獣は、どうしても知感してしまう魔力こそ醜悪であっても見た目だけは魔獣とそう変わりがなかった。しかし今度の召喚獣は視覚からも忌避感を叩きつけており、本能が訴える恐怖と理性がせめぎ合ったことで4人は体の動きを止めてしまっている。
『結界・創――っ!!』
悲鳴のような一葉の声に4人はビクリと肩を揺らした。ひと呼吸の後に弾かれたような動作でそれぞれの武器を構えたときには、既に透明な壁が何らかの攻撃を防いでいるところであった。
「ちょっと、目に見えない攻撃を受けているので……壁の解除はもうちょっと待ってくださいね」
後ろからの一葉の声へレイラ、サーシャ、ジョシュアの3人はしっかりと頷いた。一葉からは見えないが背後にいるウィンもしっかりと頷き、魔術の準備を始めている。
結界を維持しながら一葉は内心で息をそっと吐きだした。
(良かった……何とか、持ち直してくれたみたい)
4人を守りながら戦う事は、今の一葉には難しい。彼女とて最初に召喚されてからの経験で“こういった”存在を見ていたからこそ対応できただけで、本音を言えば今すぐ目を逸らしたいのだ。そんなマイナス要素を持ちながら戦えるほど、この召喚獣の攻撃は優しくなどない。
(まさか、超音波なんて)
この世界にはその概念がない。だからこそ、風とはまた違った媒体である“音”という攻撃を簡単には防ぐ事も出来ない。高い音を響かせながらビリビリと震える結界を見据え、一葉は口を開いた。
「詳しい説明は省きますが……あの気持ち悪い目で、見えない攻撃を把握して制御してるんだと思います」
「では、そこを!」
レイラへ頷き、一葉はタイミングを計る。
「いきますよ……5、4、3、2、1……解除します!」
結界が消失すると同時に前衛2人が走り出す。レイラ、ジョシュアへ噛みつこうとした召喚獣へサーシャが牽制の氷を放つ事で足止めをするが、それも本当に僅かな足止めにしかならなかった。
召喚獣は爪、尾、牙を回転させるようにしてレイラとジョシュアを相手取り、位置を変えた背後からの攻撃も難なく捌いていく。
激しく位置を変える2人と1匹へ、魔術を主体とするウィンだけではなく基本的にナイフや魔術という飛び道具を得手とするサーシャもまた、容易には手が出せなかった。
「これは、どうしたものでしょうか」
苦々しげに、しかし視線は移さないまま呟いたウィンへ、それを耳にした一葉もまた視線を投げずに声だけをかける。
「あの目で広い範囲を同時に見てるんだよね……同時攻撃をするにも物理的に捌ききれない程の攻撃量が無いと」
「なるほど……それは中々、骨が折れます」
「ホントにね。どうし……っ!」
苦笑いしているウィンへ何かを言おうとしたところで、一葉は慌てて別の言葉を絞り出した。レイラの位置が召喚獣のこちら側。ジョシュアの位置が、召喚獣のあちら側。
「戻ってください! すぐに、こっち側へ!」
レイラが自分の体で隠した細剣を召喚獣へ見舞う。それを避けようと体をひねった隙にジョシュアがこちら側へ移動し、2人はそろって大きく後退した。
――轟っ!
『結界・創!』
一葉が結界を創り出したのと召喚獣が吼えたのはほぼ同時であった。召喚獣の攻撃が実体化する方が僅かに遅かったおかげで、どうにか一葉の壁が不可視の刃を防ぎきる。壁と召喚獣の間では先ほどサーシャが転がしていたままの氷がボロボロと崩壊していた。
「これは、かなり厄介かも……」
「イチハ様」
黙りこんでいたサーシャが突然声を上げる。『狛犬』を構えて結界を維持したままチラリと視線だけを向けると、彼女の侍女はそっと召喚獣を示した。
「アレは、どうやら一定の間隔を置かないとこの妙な術を使えないようですね」
「そう、みたいですね」
結界を維持することで精いっぱいの一葉にはそれだけしか分からない。攻撃に収集しているレイラ、ジョシュアや、最後の一手を担うウィンもまたそんな余裕など持っていない。
全体を見る事を自らに課したサーシャだけが、気付いたことへ頷くと僅かに眉を顰めた。
「まだ2回しか見ていないので確証はありませんが……術を使った直前と直後は、動く事ができないようです」
「え?」
再び、今度はしっかりとサーシャは頷く。
「あの召喚獣は視界でこの術を制御するのでしたね。そのためか、術の直前には動きを制限して視界の把握に努めているようです。それから、一度発動させた術は一定時間しか持続しないようにも見えました」
「そういえば……急にこちらの攻撃が入るようになった直後に、イチハ殿から声がかかりました」
レイラの捕捉へ、一葉もまた頷いて見せた。
「なら。何度か試してタイミング……機会を掴んで、それから」
レイラ、ジョシュア、サーシャから否定の声は上がらない。しかしウィンだけはそこはかとない不安を覚え、そのままそっと心に沈めたのだった。
「そろそろ行けます」
「はい。じゃ、同時に」
何回か攻撃と退避を繰り返した後にレイラとジョシュアが居ずまいを正した。一葉は頷き、召喚獣と結界の様子を探る。
「解除します……3、2、1、はいっ!」
彼女は宣言どおり、術の終了と結界の消去をピタリと合わせた。それに合わせてレイラたちが走り出す。前衛2人の他に、サーシャも共に駆け寄っていた。サーシャが見破った通り、僅かな淀みの後に召喚獣は体を振り回す様に3人へ攻撃を仕掛け、または攻撃を捌きはじめる。
しかし。
「次は先ほどまでとは違いますよ」
召喚獣が生んだ隙で魔力をかき集め、サーシャが上下左右、全方位から氷を叩きこむ。視覚情報の処理にラグが生まれたところを、今度は3人の武器が襲いかかった。その中でも1番複眼に近い武器――ナイフの持ち主、サーシャへ召喚獣が牙をむける。
「させません」
一葉の後ろから小さな呟きが聞こえ、それと同時に複眼とサーシャの間で小さな雷が生まれた。
その眩い光は召喚獣の視覚を灼く。真白の視界と神経を焼く痛みで吼えた召喚獣の複眼を、ウィンからは何の掛け声も無かった割にしっかりと目を瞑っていたサーシャのナイフが貫いた。少し遅れた2本の剣もまた、複眼に深く刺さる。
「凍れ」
低く小さく、艶やかなアルトがそっと呟く。時間すら止まるような錯覚をもたらしたサーシャの術は彼女のナイフを通じて召喚獣を内側から凍りつかせ、霜が広がった後は全身が氷と共に砕け散り虚空へと消える。
「――はぁ」
それは誰が吐いた溜め息だったのだろうか。とにかくそれにより空気が解け、武器はそれぞれの鞘へと戻された。
(おや?)
武器を出していなかったウィンはほぅっと息を吐きながらも何かに気を取られる。視界の隅でチラリと何かが光ったような気がしたのだ。
彼が体ごと振り向いたのは、サーシャとほぼ同時であった。
「あ、れ……」
目を見開くウィンと、血の気が引いているサーシャ。2人が言葉を失いながらも見つめる先で、一葉が自分の手をじっと見下ろしていた。
「イチハ殿!?」
「キサラギ殿!?」
2人に遅れてレイラとジョシュアもまた一葉の異変に気づき、悲鳴のような声を上げる。彼女が見下ろす掌――だけではなく全身が僅かに光を放ち、その周りを小さな光が舞っていたのだ。
(やっぱ魔力の光って、蛍灯に似てるよね)
やけに現実感の薄れた頭でそんな事を考えた一葉の膝から力が抜けた。
「ぁ……」
「危ない!」
崩れ落ちそうになる寸前でウィンが抱きとめるが、既に彼の義妹の意識は失われている。苛立たしげに閉じた瞼へギュッと力を入れ、再び目を開いたウィンはジョシュアへと声をかけた。
「イチハをお願いします。背後の警戒は私とサーシャが請け負いましょう」
「わかりました」
次にウィンは一葉が持っていた帳面を広げてザッと周囲を確認すると、レイラへと声をかける。じっとこちらを見て指示を待つ灰金の騎士へ、銀髪の魔術士は帳面にある1点を示して見せた。
それは一葉により詳細に書き込まれた地図のうち、中央の未踏破空間沿いにある安全地帯を示す場所だった。
「レイラ殿、一番近くの安全地帯……ここを目指してください。最前で誘導を」
「はい」
一方、サーシャの手を借りて一葉を背負ったジョシュアは僅かに驚く。彼が思っていたよりも一葉は軽かったのだ。
一葉の事情は、彼女へ言った通りジョシュアもある程度知っている。しかしこの軽さが単に魔力で重さまでを再現できていないからこそなのか、それとも彼女が“死なない”と思っていたからこその精神的なものであるのかは、ジョシュア自身にも分からなかった。
(だがそれは、今は関係のない事だ)
ジョシュアは黙って、早足で歩きだすレイラの背を追った。そのすぐ後ろでサーシャとウィンが背後の警戒を担当する。先ほどまでの探索から考える限りでは、一度召喚獣が出現した後は四半刻ほど敵が出現しない。つまり次の戦闘までは時間の余裕があるのだ。
予想通り戦闘が無いおかげで目的の安全地帯へ何事も起こらず辿り着けたが、それを喜ぶ余裕など誰にも無かった。
一言も話さず無言の内にそれぞれが周囲の警戒へ当たり、サーシャが横になった一葉の世話を引き受けている。全員分の上衣をかき集めたものが即席枕となっていた。
「ごめん……」
幸いにして安全地帯に到着してすぐに一葉の意識が戻り、まずは全員が小さく安堵の息を吐く。その第一声は申し訳なさに満ちた小さな謝罪であった。
「構いません。しかし何が……いえ。どうしてこのような状態に?」
起き上がろうとする彼女をサーシャが無理やり押しとどめ、ウィンは横になったままの一葉へ声をかける。
「心当たりはありますか?」
レイラやジョシュアは取り乱しこそしないものの、この異常事態で動揺を隠し切れていない。サーシャもまた一葉に関しては過保護になりがちである。
(まぁ、一度目の前で命が失われかけたのですからね。デリラの者でこの程度であるならばむしろ良い方でしょうか)
結局、比較的冷静なウィンしか一葉へ質問するための適任者はいないのだ。しかし彼はそれを惰弱だと言うつもりなど無い。
(“ここ”に来て、既に……通常であれば2日か3日ですか。異常な魔力の流れにさらされて、日の光りにも当たらず……。他人がいるとは言え、全員が正気を保っている方が驚くべき事かもしれませんが)
ウィン自身でも、出来るならば思い切り叫びたい。術を使いたい。そんな欲求を抑えつけているのだから。まさか一葉の言う“ダンジョン”という環境がここまで精神に対して劣悪だとは思っていなかった。彼は自分の見通しの甘さを痛感する。
(自分たちの事は自分たちでどうにかします、などと。今の私たちに言える言葉ではありませんでしたね。現に、イチハが崩れただけでこんなにも脆いのですから)
そんな内心を隠し、ウィンはただ一葉の言葉を待つのだった。
一方、尋ねられた側である一葉はどう言ったものか迷うように視線を彷徨わせ、唇を幾度か開閉した。前髪を払い、目を覆ったその小さな右手が燐光を纏っている。いや、光を纏うと言うよりもむしろ、右手の向こう側の色が透けて見えるのだ。
――サーシャの脳裏に、あの雨の森が過る。仕えると誓ったはずの華奢な背中が傷つく過程を、何もできずにただ見ることしかできなかった……あの雨の森が。
「や……あの模様なんだけどね……」
サーシャの心情を知ってか知らずか。手を額へずらしてウィンと目を合わせた一葉が、苦笑を浮かべている。
「模様? コレの事ですか?」
「うん」
ウィンが指し示したのは、石に刻まれている奇妙な黒い模様の事であった。床や壁、天井に刻まれているソレはこの“入り口”に入る前から危険視していたものである。結局は効果が分からず考察を後回しにしていたことをウィンは悔やんだが、それを今は置いておく。
一葉はそんなウィンへ、ゆっくりと語り始めた。
「最初は、ただ魔力が乱されるだけだと思ったんだけど。けど時間が経つにつれて、どうにもおかしいな、って。で、少しずつ効果を確かめてたんだけど……なんか、私の魔力が少しずつ吸われてるみたい」
そこで微かに首を傾げ、一葉は言いなおす。
「ん、吸われる……っていうのとは違うのかなぁ。なんか、私の魔力とこの場所の魔力が混じって……それで濃度と量が自動的に平均になろうとして、相対的に“私”の魔力が少なくなったような……。あとは、流れがめちゃくちゃにされる事で私自体に問題を起こさせるっていうか……っと、ごめん。分かんないよね」
「詳しくは理解できませんが。それはつまり、最初から貴女だけを計画的に狙った罠だった、ということでしょうか?」
「多分。それが目的なのか、吸い出した魔力が目的なのかは分からないけど」
ウィンへ向けてこくりと頷き、一葉は疲れたように息を吐き出した。
「私は召喚されてこの世界に来た。つまり、召喚獣と同じような存在なんだ。ただ魔力を動力にして体を動かしてるだけの皆とは違って、体全部を魔力で作ることでこの世界に存在を定着させてるから……」
「貴女の存在自体に向かって、じわじわと攻撃をしているのですか」
「うん、まぁそんな感じ」
「では体が“そう”なっているのはどういう事ですか」
ウィンと代わるようにしてサーシャが一葉の顔を覗き込む。一葉は困ったように、サーシャへ笑った。
「コレは、この模様の影響とはまた別のものですよ。サーシャさんは覚えてますよね。私は慈雨の谷で一度、体を魔力に還元したでしょう」
「はい」
あれは失敗だった、と一葉は頭を掻く。
「あの時にはあの手段しか思いつかなかったんだけどさ。でも無茶をしたせいで、体を魔力に還元しちゃう癖がついたみたいで」
「ちなみに全身が魔力に還元されきった場合は」
努めて平静に尋ねたウィンへ、一葉はむしろ何のためらいもなく口を開いた。
「あの感じじゃ多分、自力じゃ戻って来れないかな」
ウィンやレイラの顔は目に見えて強張る。サーシャに至っては実際に見ただけあって、青を通り越して顔色が白くなった。一葉の事情を知っているとはいえ細かい事までは知らないジョシュアにしても、今の一葉が非常に危うい状態である事が理解できている。
「さっき『コトダマ』を乱発したのが原因みたいですねぇ。でもまぁ、無理しないで休めば……ほら」
軽く振られた右手には既に光が無く、普段通り、まるで剣など全く持った事が無い様な奇麗な手へと戻っていた。
同じ長さまでしか伸びない髪の毛に、小さな傷ならばすぐに治ってしまう体。戦う術を持っているにしては奇麗な――奇麗すぎる体。それらはすべて、一葉が魔力によって“創られた”体である事を示していた。
だからこそミュゼルの医師トレス=ディチは一葉にとってマイナスとなるような情報を最大限抑えられるように、または魔力の異常で一葉の体へ余計な問題が起きないように、何かが起きた際には常に自分が診察するように手配していたのだ。
「何かが起きるような予感は確かにあったんですよ。でも……まさか、こんな方向で予感が当たるとは思ってませんでした」
困ったような色を瞳に混ぜる一葉へ、サーシャやウィンは何も言う事ができない。ジョシュアは自分が口を挟むべきではないと考えているのか、壁へ寄りかかったまま無言を保っている。
そこで、ふと何かに気づいたようにレイラが声をかけた。
「イチハ殿……あの」
「何でしょう?」
小首を傾げて自分を見る一葉へ、同じように首を傾げながらレイラは視線を合わせる。
「何か、他に発見でもありましたか? 随分とすっきりしたような……」
「あれ」
一葉は黒の瞳を驚きで丸くし、数度の瞬きの後に眩しいものを見るかのように目を細める。それは以前にミュゼル王城で、トレスから投げられたものと同じ質問だったのだ。
(分かってくれる人、ここにもいた)
浮かべられた表情は変わらない。しかしその黒い瞳に映った色は、どこか嬉しげに見えた。
「あぁ……はい」
「差支えなければ、お聞きしても?」
「あぁ……はい……」
目を僅かに伏せて一葉は唇を開く。
「この“入り口”に入ってから、ずっと苛々してたんです。ここに入る前も“召喚士”と会った時には必ず」
それは多かれ少なかれ全員に思い当たる光景がある。皆がすぐに思い出せるほどには、あの“異界渡り”と会った時の一葉は普段と全く違う反応を見せるのだ。一葉自身にとってはそれが非常に恥ずかしく、気まずい。
「それ、魔力のせいもあったんだろうなぁって。気持ちに引きずられて魔力が暴走するなんて、よくある話でしょう?」
程度の差はあれ魔力を扱う者として、それは全員に思い当たる事でもある。幼少期の暴走は誰もが通る道であった。
「魔力で体を構成してる私にはその逆もあり得るみたいです。つまり、荒れの気配で荒れた魔力につられて気持ちが苛々する、とか。
まぁ、そんなわけでイライラの理由が分かったらなんかどうでもよくなって、気持ちが少し楽になりました」
「なるほど」
頷いたレイラへ一葉は目元を緩める。
「まぁ」
一葉の白い指が、自分が横たわる床を――床に刻まれた黒い模様をトントンと叩く。
「コレのせいで割と散々ですが……それでも悪い事だけじゃ無かったみたいです」
「と、言いますと?」
「相手の考えがボンヤリと分かります」
疑問から落ちた無言へ一葉は唇の端を吊り上げた。
「自分でも不思議だったんですよ。回数にしても2回? とか。それくらいしか見てない“召喚士”の性格に、いくら同じ体験をしてたとしても何で私が確信を持てたのか」
「あぁ、言われてみればそうですね」
“入り口”の扉を開けた時から、レイラは疑問に思っていたのだ。
――4日以上かかるなら多分アレが飽きて失敗でしょうから
――ただでさえ作ったヤツがアレな性格なんで
なぜそれを断言できたのか、その時のレイラには分からなかった。少し前までの一葉にも分からなかったのだろう。全員が続きの言葉を無言で促した。
「多分……慈雨の谷で魔力をいじられた時、ほんの少しだけ私の中にも向こうの魔力が残ったんでしょう。またアレに会ったりこの場所に来たりで、残りカスが活性化して本格的に私に根付いた。
今の私には何となくですが、アレならこう考えるかも、っていうのが分かるんです。本当に“何となく”程度ですが。でも」
よいしょ、と声をかけながら一葉は身を起こした。サーシャの支えを得て、未だふらつく体を壁――未踏破区域へ面した壁へと向ける。
「魔力が混じったおかげで、どこの守りが薄いのかも何となく分かる。行きますよ……『ベクトル・プラス』!」
そして大きく右手を振りかぶると、思い切り白い拳を叩きつけた。
「っし!」
ウィンだけではない。
一葉を支えていたサーシャや見るともなしに見ていたレイラ、ジョシュアもまた、目の前の光景に驚きで目を見開いた。