第35話 イノチの在り処
一葉は重い瞼をゆっくりと上げた。
(これで何回目になるんだっけ)
一から数えようかとも思ったが、異界を渡った数を数えるなど今更億劫でしかないため断念する。
吐き気がひどい。体の中でぐるぐると渦をまく魔力に意識が引きずられそうになり、寸前でどうにか留まった。ぽつりと、もう当たり前のように慣れてしまった“友人”の魔力を見つけたのだ。
(そっか)
一葉は分かっているようで分かっていなかった。ずっと、彼女の友人もまた彼女を守り続けてくれていたのだ。彼女が“勇者”だったころに受けた暗示は、精神だけに傷をつけているわけではなかった。まだ物馴れない彼女の中に何らかの方法で魔力を紛れ込ませ、それにより精神を不安定にさせることで暗示を強化していたのだ。
それを“魔王”のかけらは包み込んでいた。レイラとの手合せで『狛犬』を握ったとき、何も異常が無かったのは“魔王”のかけらが協力していたからとも言えた。
(ありがとう。ずっと、一緒にいてくれて)
如月一葉という存在に刻まれた縁の力だけではなく、あとから紛れ込んだ縁の力にもまた、一葉は助けられ続けていた。
空回る思考と思うように動かない身体をふわふわと感じながら、一葉は何とか右腕を目の前まで上げた。見上げたそれは、ぼやけている視界ながら透けているようには見えなかった。
(あー……無事に帰ってきた、か?)
腕で目を覆った一葉は深く息を吐き出す。気持ちが悪い。彼女の中では存在の再変換で新たに植えつけられた魔力が、元の魔力と混ざり合いながら反発をしているのだ。お世辞にも良い体調とは言えなかった。
「でも絶対に、無事に帰るんだ……」
「どこへ? それとも誰の元へ、でしょうか?」
真横から聞こえた自分以外の声に一葉はビクリと身体を揺らす。彼女の視界の外にいたウィンが窓際の椅子から立ち上がり、そこへ読みかけの本を置いたところであった。
「い、いた、んだ……」
「えぇ。流石に貴女を放置するわけにもいきませんからね」
そう言いながら肩を竦めた彼は、一葉を覗き込むように枕元へ腰かける。
「まずは無事に目が覚めて何よりです」
「あー……ありがとう。私、結構寝てた?」
「そうですね、ひと月と言ったところでしょうか。体調については後ほどトレス医師に伝えてください。しばらくすれば診察に来るはずです」
いつものように眼鏡を上げてウィンは微笑んだ。
「わかった」
そこで一葉は、普段とは違うベッドや部屋の様子へようやく違和感を覚える。少しずつ明瞭になる視界、そこに映った広い部屋には本棚らしきものが並び、どうやら床にも大量の本が積まれているようだった。どう見てもこの部屋は医務室でも自室でもない。
「ここって……」
「えぇ。私の部屋ですよ。少々事情がありましてね」
「ふーん……」
にこやかだが突き放すような口調でウィンは話す。どことなく初めて会った時のような硬質の雰囲気に、一葉は息苦しさを覚えた。
ふっと立ち上がり窓際へ歩み寄ったウィンを視線で追う。彼が右手を外へ差し出せばその手へ白く光る鳥がふわりと近づき、触れた途端に白い光へと弾けて消えてしまった。
「おや、予定より早かったですね」
呟いたきり何の説明をするつもりもない彼へ戸惑う。しかし一葉は努めて明るい声で語りかけた。
「え……っと、サーシャさんは?」
「彼女にはお遣いを頼んでいるので、ここにはいませんよ。もっとも、もう少しすれば来るでしょうが」
ウィンはその言葉と共にゆるりと動く。近い距離で2人の視線が絡む。
「……何のつもり?」
「見て分かりませんか?」
一葉の真上には覆い被さるようにして見下ろしてくる紫眼。そして頭の右側には伸ばされた腕がある。
軽く仰け反った顎には、逆手に構えた短剣が隙も無く宛がわれていた。
「この物騒な物さえなければねぇ。もったいない」
「何を面白いことを言ってるのです? 貴女にとって顔など、一瞬心が動く程度の価値でしかないでしょう」
冗談へ冗談を返したウィンに向けて、僅かに表情を引き締めた一葉は警告をする。
「今の私はちょっと加減が利かないよ」
「それでもこの剣を使う理由があると言えばどうしますか?」
綺麗な紫眼は、にこやかな表情とは真逆の温度を一葉へ伝えていた。結局何もせず眉を顰めるに留めた一葉へ、ウィンは満足そうに唇の端を吊り上げる。
「さて、何のつもりかでしたね。大まかに言えば、貴女をサーシャと会わせたくないと言うだけの話です」
「……聞こうか」
真上から降る視線は何処までも凍えたもので、今の彼に比べたとしたら最後の時のロットリア卿の方がむしろ優しい色だったかもしれないと一葉は思った。
「貴女はあの円形会議場で、私に向かって『怒っているのか』と聞きましたね」
「うん」
何の表情も浮かべていないウィンへ向けてそう訊ねたことを、確かに一葉は覚えている。
今、一葉の真上から覗き込む彼の笑顔は見たことも無い程に柔らかなもので、それだけに瞳との温度差を浮き彫りにさせていた。
「まさにその通りですよ。あの貴族としてあり得ない伯爵だけではありません。貴女に対しても、あの時の私は確かに怒り狂っていました。何度繰り返しても貴女は自分の身体を傷つける。普段は死にたくない、傷つきたくないと言う癖に、いざという時には自分自身すら駒として数えてしまうのですから。
貴女は私たちを信用できないと言いますね。しかしそれは私たちこそが貴女へ言いたい言葉です」
ウィンの笑顔がはっきりと皮肉気なものへ変化する。
「どこの誰が、いざという時に自分を捨てるような人間を信用できるのですか? 死に急ぐ人間はいつ『その気』になるか分からない。そして『その気』になってしまえば、悪い意味でこちらの予定外の動きをする。そのような者を最後まで信用しろなどと、そんな事は不可能に決まっています。
――ならば最初から信用しなければいい。信用と信頼が別物であるとは貴女もよく理解していることでしょう?」
「それ、は……」
一葉は反論を挟んだものの、その後の言葉が出ることは無かった。彼女は気付いてしまったのだ。自分自身が無意識に飼っていた『幻想』に。いくら『今は違う』と宣言したところで、信じてもらえるはずなど無いことに。
――命を落とした召喚獣は、一体どこへ還るのだろう?
ぽつりと落ちた疑問であり希望でもあったそれは、一葉の心を確かに掴んで離さなかった。
――もしかして。かもしれない。
一度でもそう思ってしまったのは彼女の弱さ。だからこそ無意識の行動で出てしまったのだ。ギリギリになったなら体で攻撃を受け止めるように。そしてその傷が元で、命を落とすことができるように。命の危険に対して魔力を暴走させるのも一葉の無意識下での行動だが、命を投げ出すこともまた天秤の片側に乗った重りで。
『コトダマ』を扱う一葉とて決して無敵ではない。怪我をすれば血が流れ、血が流れ過ぎれば当然のように命を落とす。突然の攻撃は防ぐことが出来ても、じわりじわりと忍び寄る死の足音を掻き消すことはできないのだ。
――いつか、その時がきたら。
『寄る辺』のないここにいるよりは、賭けであっても『その選択』をしてみたいと思っていた。彼女の見つめる先を、周囲はそれぞれに感じ取っていたのだろう。
――あなたの眼には、この世界に『色』がついていますか?
だからこそあの夕暮れに投げかけられた問いが今、心に刺さった。
「ぁ……」
口を開いたものの事実は彼の言う通りでしかない。キュッと唇を噛みしめ、一葉は言葉を呑み込んだ。
「正直に言えば、イチハを戦力から外してしまうことはできません。貴女自身が望まなくとも貴女が重要な位置にいることは確かですからね。ならば、外さざるを得ない状況にすればいい。その為の手段は大まかに2つ。ひとつは追放ですが……そうしたところでサーシャならばどのような手段を使ってでも貴女を探し出すでしょう。
――たとえ、私やミュゼルという国を捨てたとしても」
押し上げられた眼鏡が光を反射して、ウィンの瞳を隠してしまう。
「サーシャは優秀です。貴女が居なければ恐らく貴女の位置はサーシャが務めていたでしょう。理由さえあれば私たちへ従ってくれる柔軟さもありますからね。ですから、そのような事で彼女まで欠いては大きな痛手となります」
「……だから、私を殺すの?」
何の感情も込められていない一葉の言葉はまるで世間話でもするかのように、普段どおりで。
対するウィンの紫眼にも、そこには痛みどころか罪悪感すらも含まれておらず。
「そうですね」
ゆらりとウィンの腕が動く。大きく振りかぶり、その手にある短剣が真っ直ぐに落とされた。
一葉は目を逸らしはしない。輝く軌跡を目に焼き付けている。
「なんて、ね」
刃が刺さったのは一葉の頭のすぐ傍、枕の上だった。その距離は僅か5センチ。
「本気にしましたか?」
「――は?」
目を白黒とさせる一葉を余所に、ウィンは短剣――『狛犬』を鞘へ納めてベッドへ置き、肩を竦めた。問いかけの言葉も見つからない黒い瞳へウィンは普段とは違う不思議な笑顔を向けている。
「全て冗談に決まっているでしょう? 今この状況で貴女を失う事こそ得策ではないのですから。望むも望まないもありません。間違い様も無くミュゼルの最大戦力なのですよ?」
「は……あ……」
視線をウロウロとさまよわせている一葉へ再び小さな笑顔を向け、ウィンは窓から外を見下ろした。
「貴女は、サーシャの……デリラ家の特異性を理解できるでしょうか」
「特異性、っていうと……?」
質問の意図がつかめない一葉は眉を顰めてウィンの横顔を見る。しかしそこからは何も読み取ることなどできなかった。
「自分で自分の主を決められ、しかも『貴族』というだけでは頭を下げない彼らは、貴族社会では異常なのです。以前に言ったでしょう? 貴族たちの見栄は面倒だと」
「うん」
その見栄のために謁見の間やアーサー王の執務室が高い階層にあるとは、その時に聞いたことであった。
「ですが、強制的に従わせようとしたところで無駄なのです。彼らには兵士としては重大な『欠陥』がありますからね」
「欠陥、って……」
戸惑う一葉へ振り返ったウィンは一瞬だけ言葉を探すように視線を彷徨わせたが、すぐに視線を合わせる。
「我がヴァル家の親戚と言う事実から、基本的に彼らが大きな魔力を持って生まれてくることは分かるでしょう。それと同じように、彼ら独特の病も受け継いでしまうのです」
「病……?」
「えぇ。敢えて言葉にするならば『孤独感』といったところでしょうか。それはある日突然大きく膨らみ、それに負けてしまったデリラ家の魔術士は魔力を暴走させてしまうのです。不思議なことに、力の強い者ほどその傾向も強い」
何代も続いた事例を見て、聞いて、または自分たちがそういうモノだと思い込んで育ったための環境要因。受け継がれた遺伝子へ実際に何らかの情報が組み込まれている故の遺伝要因。一葉自身も自分に流れる魔力へ血筋の縁を見つけたため、どちらの土壌も否定することはできなかった。
ウィンは一葉の表情へ理解を読み取り、話を先へと進める。
「そこで考えられたものが教育方法です。いつか出会う主のためにと、幼き頃から徹底的にあらゆる事柄を学ばせることで考える暇を奪う。それだけで暴走の確率は驚くほど低くなりますからね。そうして大人になったデリラ家の人間は自力で主と仰げる相手を見つけるか、そうでなくても自らを律する理性を育て終わっているはずなのです」
一葉はレインドルクの次期当主が襲撃してきた夜を思い出していた。確かに彼女は一葉には無い知識を、しかも深く理解していた。あの効率の良い尋問方法はサーシャが提案したものである上、加減をして傷を負わせる偽装方法など一般常識ではありえない。ある種の教育が窺えた。
幼い頃のサーシャはウィンの亡き母へ仕えていたと言うが、それも恐らくは単なる行儀見習いなどではなかったのだろう。
「主のために動く。それを誇りとして育った彼らは頑ななまでに、他人に従う事はありません。基本的には騎士に匹敵するほどの戦闘能力を持っていますが……無理矢理従わせて何らかの原因で万が一暴走など引き起こしてしまえば、彼らデリラ家の人間か、あとはコンラット殿やノーラ殿程の力が無くては抑えることも出来ませんし」
「だからさっき、サーシャさんを『柔軟』って……」
ウィンの指示へ従うサーシャを何度も見ていた一葉は、それがどれ程珍しい事例であるかをようやく理解できた。ウィンはひとつ頷く。
「そういう事です。力が強く、しかし我々の言葉も聞き入れる柔軟さを彼女は持っています。これは驚くべきことなのですよ。なにせ彼女以外のデリラ出身者は、主家であるヴァル家にすら素直に従おうとはしませんからね」
一葉は心に呟きを落とした。
(それって単に『主』に依存させてるだけなんじゃ……。そりゃ何もしないで暴走されるよりは良いけど、主人役の人が死んだり拒否したら結果は同じだったりしないのかな)
一度見たデリラ家の人々や、誰よりもあのサーシャが誰かへ依存しているなどとは思えなかった。しかし一方では『依存』がもたらすかもしれない別の危険も、脳裏に過っては消える。
一葉の内心に気付かないウィンは、そんな彼らですが、と息を吐き出した。
「一応はミュゼルの貴族であるため王には頭を下げますし、我がヴァル家の親戚という建前もあるので、彼らは自由を認められているのです。実力が高いので功績もたくさん上げていますしね」
窓際に立っていたウィンは、ベッドまでの5歩程の距離を詰める。
「なぜこのような話をしたかと言うと」
「うわっ!?」
ウィンは屈んだかと思えば、おもむろに一葉を子供にするように抱き上げた。突然の事で反射的に腕を振って逃げようとした一葉へ、彼女を支える腕の主はただ一言だけ告げる。
「落としますよ?」
渋々ながらに大人しくなった一葉は、悔し紛れにウィンを睨み付けた。
「少し事情がありまして、隠れていただきます。あぁそうでした。コマイヌを少しの間、お借りしますね」
「まぁ……それはいいけどさぁ。運び方、他にないの? これじゃまるっきり子供じゃん」
無言のままでは気詰まりで。向かい合うように抱き上げられた一葉が冗談めかして不満を言えば、ウィンが呆れたような表情を向ける。
「まさか横抱きをご所望でしたか? あんなもの、腰に負担がかかるだけではありませんか」
「わぁ、現実的」
身も蓋も無い言い方だなぁ、と苦笑した一葉はその時、背筋が凍りつくほど強烈な殺気を感じ取った。ビクリと身体を震わせて自らの内で荒れ狂う魔力を反射的に掴む。
「大丈夫ですよ」
まるで幼児をあやすように揺すり上げ、ウィンは一葉が無意識に行使しようとした『コトダマ』を取りやめさせた。そうして静かになった一葉を壁際に置かれた棚の下部、大きな引き戸の内側へと下ろす。棚にしては思いのほか広くはあったが、しかし足を伸ばせるほどの広さではなかった。
「しばらくの間はここにいてください」
「ちょっと!」
重い戸を閉められてしまえば、思うように動かない腕ではそれを開けることなどできはしない。闇に閉ざされた視覚だけではない圧迫感へ一葉が抗議の声を上げると、すぐ近くからウィンの声が聞こえた。
「貴女に今から1つ、知っていただかなくてはならない事があるのですよ。……その戸は緊急時のために内側から外側を窺えるようになっています。今から言う手順で内側の壁をずらしてください」
その言葉へ首を傾げつつ探るように手を伸ばせば、指先には微かな凹凸が触れる。それらを言われたままに操作することですぐに光が射し込んだ。
全てではないが室内のほとんどが視界に収まっている。指示を出していたウィンはいつの間にか棚から離れ、部屋の中央に立っていた。
「念のために言っておきますが。その戸の内側には紋章が刻んであります。未完成品なので予定外の魔力を感知すれば恐らく暴走するでしょう。
……先ほどコマイヌを押し付けた時にも思いましたが、貴女は今いつも通りには術を使えないのでしょう? トレス医師ほど詳細には視えませんが、魔力の流れが普段とは違うようでした。怪我をしたくなければ気配でも消して大人しくしていてください」
「分かった」
一葉へ押し寄せる圧迫感はそのまま彼女の魔力を封じ込める作用なのであろう。魔力を操作することは何とか可能ではある。しかし紋章魔術が暴走してしまった時に、今の状態では上手く結界を作れる自信など無かった。
(未完成って言っても、まさかこんなに短時間で『使える』状態にするなんてね……)
ウィンの能力や集中力を過小評価していたことを思い知った一葉は、皮肉気に唇を歪める。その内心を伝えてしまうことだけは防がねばならない。
今のウィンに弱みを見せることだけは一葉のプライドが許さない。それがどの様な種類であっても、弱さを利用してウィンの心を絆すことはフェアではないと一葉には分かっているのだから。
体の奥からこみ上げる不快感を誤魔化しつつ、彼女は努めて平坦な声を投げかけた。
「それで、知らなきゃいけない事って」
「あぁ、それは」
ピタリとウィンが口を閉ざす。扉の前で足を止めた何者かが、溢れる殺気を部屋の主であるウィンへ向けて叩き付けているのだ。
「……思ったよりも早かったですね」
その呼びかけに対する返事は言葉ではなかった。
勢いよく開いた扉が壁とぶつかる音に紛れて甲高い金属音が鳴る。ウィンの振るう『狛犬』に叩き落とされたそれは、細身の投擲用ナイフであった。
「扉を蹴り開けるのはいかがかと思いますよ」
「そんなもの、貴方の前では今さらでしょう?」
荒れ狂う空気の流れに捲られた本がバラバラと音を立てる。未だ夏と呼べるミュゼル。季節外れの凍てつく冷気と共に歩を進めたのは、一葉の記憶と変わらず動きやすい服を纏ったサーシャだった。
「もう少し時間がかかると思っていました」
「何となく胸騒ぎがしましたからね。出来る限りの速度で帰ってきましたが……正解だったようです」
戸の内側で一葉は目を疑った。出会ってから穏やかな表情を欠かさなかった侍女。壁一枚越しの女性は記憶の中の彼女と同一人物のはずだが、まるで別の人間であると錯覚してしまうほどに何の表情も浮かべていないのだ。温度を感じさせない音声と人形じみて見える程に整った容貌が合わさり、サーシャの『生きている』気配は希薄である。一葉の背がゾクリと震えた。
(なんか、ウィンの事ですらどうでもいいよう、な……?)
戸惑う一葉を置いて銀の髪を持つ2人は言葉を交わしている。
「イチハ様をどこへ?」
「さて、どこでしょうね」
凍りついた水色の瞳がウィンの手元を掠めた。それと同時に再び銀が舞う。
「くっ……!」
その鋭い攻撃を避けずに叩き落とし、距離を詰めたサーシャの短剣もウィンは膝を着きながらも何とか押し留めた。もしも横へ避けたならば投擲ナイフと同時に射出された氷弾や、サーシャが振るった剣の餌食になっていただろう。
「今のを処理しますか」
女性であるサーシャと魔術士とは言え男性であるウィンの剣がギリギリと拮抗しているのは、サーシャが上から体重を乗せており、ウィンが彼女ほど接近戦に慣れていないためであろう。
しかしウィンが不利であることは明らかである。サーシャは普段力ではなく技術を複雑に用いた戦闘を得意としているのだ。ウィンへ合わせるように単純な戦闘をしているという事は、それだけ彼女に余裕があることを示している。
「これで……っ!」
バチンと音がした。一葉の視界でサーシャの背が跳ねる。その隙で距離を置いたウィンをサーシャは追わなかった。否、すぐには追えなかったのだろう。ウィンの眉が顰められる。
「貴女、まさか痛覚まで切りましたか?」
ふわりと動いたそれはただの表情であるが、人形のような寒々しさと花街の女王のような艶やかさを同時に振りまいている。
唇の端を吊り上げた表情こそが彼女の答えであった。ウィンの雷が威力を持つより前に身体を接触させて、電力を床へ流したのだ。当然痛みはあるだろうがサーシャは何らかの方法で痛覚を操作しているらしく、汗も浮いていない表情は涼し気ですらある。
原理と実際の間に横たわる高い壁を軽々と越えたサーシャへ、一葉は絶句した。
(いくら私だって、まさかそんな手は使わないよ……!)
日常的に戦闘が発生するこの世界でも一般的な手段ではない事は、ウィンの苦い顔から判断ができる。これもまた、サーシャやデリラ家の特異点なのだ。そこまでして一葉の行方を追うサーシャの姿に、一葉の脳裏では『依存』や『執着』という言葉が再び浮かぶ。
「答えてください。イチハ様をどこへ? 警備の衛士を残したまま移動させたのはあなたでしょう。その手にその剣があるのですから」
既に体の痺れも解消されているのだろう。サッと距離を詰めたかと思えばくるりくるりと目まぐるしく位置を入れ替えながら、サーシャは流れるように空気を斬り、ウィンの剣を払う。しかしその攻撃を受けながら質問を投げかけられたウィンは、ただ微笑むのみ。
相手に大怪我をさせてしまえば目的を果たせないのはサーシャであり、その事実に加えてここが自室だからこそ、魔術士である筈のウィンはほぼ対等に立ち回れているのだ。
(でも……そろそろ、限界かな。肩で息してる)
相変わらず手数を増やさないこと、そしてウィンが大切にしているだろう本に手を出さないことから、サーシャには余裕の程が窺えた。しかしウィンの方は誰が見ても限界が近づいていると分かるだろう。
「……っは」
「正直に申し上げますと、あなたがここまで動けるとは思っておりませんでした。城内の衛士たちより余程剣を扱えるのではありませんか?」
無表情ながら賞賛の言葉を投げるサーシャへウィンは苦笑する。その息は隠しきれない程に弾み、苦し気である。
「昔、貴女に……散々、鍛えられ、ましたから、ねっ! 飛んでくるナイフを、必死で避けたのはっ! 今となれば、いい、思い出、です! また、受けようとは、思いません、がっ!」
「……私はあなたを気に入っていましたから。下手な襲撃者の手で死んでほしくなかったのですよ」
「それは……お互い様、でしょう」
ぽつりと零れた声に含められたのはひと匙の本音。それらはすぐに空気へ溶けて、跡形も無くなってしまった。
「いいえ、やはり魔術士のあなたに剣は……特にその剣は似合いません。これで最後です。イチハ様は、どこですか?」
肩で息をするウィンから、声は上がらない。
サーシャの右手がゆっくりと上がる。ふわりと、どこからか氷が浮かび上がる。
「では」
サーシャの足がぐっと床を踏みしめ、そして一気に弾く。
氷弾がウィンへ殺到した。
そこへ。
「 イ チ ハ !!」
思いもかけない大声に、戸の内側にいる一葉と剣を握るサーシャの肩が同時に揺れる。
「な……にを、言って……!」
軌跡を全く目では追えなかったため殆ど勘で剣を動かしたウィンは、サーシャのその動揺のお蔭で一命を取り留めた。ごく僅かに剣速が落ちたからこそ何とか剣をかみ合わせることが出来、それで生まれた隙に襲い来る氷弾を雷で消し飛ばすことが出来たのだ。
しかしその安堵を表には出さず覆い隠す。戸惑いながらも剣へ力を込めるサーシャを尻目に、彼はどうにか息を整えて言を継いだ。
「小細工は要りません。大量の魔力をぶつければその程度の術、貴女ならば簡単に壊せるでしょう」
「――っ!」
サーシャは息を呑む。
ウィンへ応えるように。息も止まるほど圧倒的な濃度の魔力がある場所で渦巻いているのだ。あまりの強大さに、他人であれば本能的な恐怖から忌避感を覚えたことだろう。
どこからかピシリ、と何かの割れる音がした。
「……本当に、力の加減ができていませんね」
普段の一葉であればこれほど無駄に魔力を使うことは無いだろうとウィンは眉を寄せる。空気が歪むような錯覚を起こさせるそれは、サーシャの記憶にあるよりも強く大きくはなっていたが覚えのある力で。
『狛犬』から剣を引き身を翻したサーシャは、凍りついたように目を見開きながら渦の発生源である壁際の棚へ歩み寄る。一呼吸だけ置いてから1番下にある大きな戸へ手をかけ強く引いた。
ふわり。仄かな光が視線の端に漂い、すぐに消え失せる。
遮蔽物が消え、魔力の濃度がさらに増したことでサーシャもウィンも息苦しさを覚えた。
「あぁ……最初から、ここに……いらしたのですね」
目元を緩ませたサーシャは膝を着き、魔力に引きずられ肩で息をしている一葉と目線を合わせる。
「良かった……」
剣を置いて両手を伸ばした。一葉の両頬へ触れたサーシャの手は微かに震えている。
「無事で、良かった……!」
サーシャはそのまま無言で一葉を引き寄せて額を合わせた。一葉の瞳からボロリと雫が落ちる。
触れたそれは、まるでルクレツィアとアリエラのような――姉が妹を心配するような態度で。ウィンが言う『知らなくてはならない事』が何だったのかを悟った。
――依存などではなかった。
サーシャは一葉を妹のように、娘のように想ってくれていたのだ。
「さーしゃ、さん……」
「はい」
「ごめん、なさい、心配、かけて……ごめ、なさいぃ!」
「……はい」
止まらない嗚咽にサーシャはじっと付き合う。
普通であれば痛みを感じるまでに、サーシャの心の奥底を見ることは無いだろう。だからこそウィンはサーシャをギリギリまで追い詰めて、彼女の本心を暴いて一葉へ見せつけた。死を望むという事はこんなサーシャを裏切ることだと。
ウィンは何も知ろうとしない一葉を許せなかったのだと思い知る。真上から『狛犬』を振り下ろしたウィンは間違いなく本気だったのだ。
「さて」
しばらくの後、ウィンが静かに声をかけた。
「まずは少し、落ち着きましょう。イチハ。魔力を抑えてください」
「……ん」
普段とは比べ物にならない程時間をかけて魔力を均す。どうにか魔力を収めたところで、銀髪の術士たちはそっと息を吐き出した。
「今の魔力のお蔭で、トレス医師には貴女が目を覚ましたと伝わったでしょう。すぐに診察に来るでしょうからまずはベッドへ」
歩み寄ってきたウィンは言うが早いか一葉を抱え上げ、サーシャが整えたベッドへ下ろす。未だ上手く動かない手をどうにか動かし、彼らが離れる寸前に2人の服の裾を掴んだ。
「どうしましたか?」
「どこか、お身体の調子が悪いのですか?」
平静な表情と慌てたような表情。真逆のようで同じような表情を浮かべている幼馴染同士へ、一葉は首を振った。
「ううん。あの、まだ言ってなかったから」
不思議そうな彼らへ彼女としては珍しく満面の笑みを浮かべ。
「ただいま」
一葉はそう言った。