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流界の魔女  作者: blazeblue
歪な真珠
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第34話 想いは空を越えて




 ――揺らぐ、揺らぐ。



 昼であり夜でもあるその空間で。何かがそっと触れては離れる。

 何度も、何度でも。慈しむように、そっと。



 その優しい気配により、波間へ沈んでいた意識が掬い上げられた。



 ――ねむ、い……



 視認こそできないものの、大きな力の流れから分離したことで彼女は確かにカタチを得る。そして自らを護るような気配へ甘えるように擦り寄った。



 ――…………――



 大丈夫だと、まるで幼子をあやすように。聴覚には届かない『音』で気配は彼女を慈しむ。

 どこまでも優しいその気配へ彼女は微笑んだ。





 彼女は知らない。

 それが、生を受けて初めて与えられるものだという事を。

 それは、数えきれない年月を経て彼女を守る、血に溶け込んだ縁であることを。





 白く光る魔力となり、一度は世界へ還元された彼女の意識は、もっとも強い縁に導かれてゆるりと流れていく。



 既に世界へ還った筈の縁たちを次々と伝い、ただ一点をめざして。



 ――あったかい……



 触れるだけで嬉しくなる気配を伝うと同時に、彼女は背に残してきた人々を想う。



 ――なぜ振り返らなかったのだろうか。振り返れば、いつもと同じように柔らかい水色が見えたかもしれないのに。



 信じていたからこそ、自分自身がその想いを裏切ったことへ後悔する。

 しかし信じていたからこそ、万が一にでもあの水色からは『異物』への視線を向けられたくなかったのだ。



 落ち込んだ空気を気遣うような気配。

 その大きな優しさに彼女は泣きたいような、笑いたいような、複雑な心境を抱いた。



 ――え……?



 やがて、最後の縁が一抹の懐かしさと共に彼女の背を優しく撫でた。彼女が記憶を探るよりも早く、微笑むような空気を残して気配が遠ざかる。

 反射的に彼女は『腕』を伸ばしたが、僅かに間に合わず気配は『指先』をすり抜けた。



 ――待って……!



 そして、彼女を取り巻く空間もまた変化する。



 まずは触覚。空気の、風の流れを魔力の化身である筈の『身』に感じた。

 次に視覚。柔らかい照明に照らされた、白や焦げ茶で統一された内装。

 さらには嗅覚。夕食前であったのか、料理の温かさだけでなく感情としての暖かさを感じさせるような匂い。



 最後に、聴覚。決してにぎやかではない話し声。それは、とても『生きている』音。

 それらが凍りつき、カチンと食器同士のぶつかり合う音がした。



 あぁ。




 ――やっと、会えた。




 一葉は額を手のひらで覆いながら天井を仰ぎ見る。

 愛しくてたまらない、彼女がずっと求めていた家族の姿がそこにはあった。








「いちは……?」



 娘と同じように言葉数は少ないものの、常に子供たちの味方でいてくれた女性が、椅子から中途半端に立ち上がっている。



『うん……うん、私。ただいま、母さん』



 鼓膜が震えるような、それとも頭に直接響くような、どこか不思議な音で一葉の声が響いた。しかしそれは些細なことである。一葉にとても彼女の母親にとっても、それは2年の間待ち望んだ会話だったのだから。



 目元が引き攣れた感覚。くしゃりと表情を歪ませて、一葉は涙ぐみながら満面の笑みを浮かべる。

 記憶にあるよりも細くはなっているが、そんな娘の姿に母――葉月もまた、堪えきれずに涙を浮かべていた。



『泣かないで。心配かけて、ゴメン』

「そんな、こと言っても……」

「…………ホントだよ」



 困ったように笑う一葉へと真横から低い呟きが届く。

 静かなそれは次第に熱を持ち、やがて激流となって一葉へと押し寄せた。



「2年だぞ、2年っ! どれだけ俺たちが心配したと……っ、何のためのケータイだよ!」

「慎二」

『慎二にも、心配かけたね』



 横に立ち厳しい表情を一葉へ向けているのは、3歳離れた弟の慎二。姉弟で良く似ていると言われていた容姿は記憶よりも大人びており、2年前は平均よりも目線が低かったはずの、今や長身となった弟を見上げて眩しそうに目を細めた。

 平時には感情の表現がはっきりとしない所も一葉と良く似ているのだが、流石の彼も今回ばかりは姉へと激しく詰め寄った。



「今まで何してたんだよ! そんなボロボロのカッコで、血まみれで! 大怪我したんじゃないだろうな?」

『あ、怪我はしてないよ……うわぁ、確かにすごいカッコ』



 雨に濡れ、泥にまみれた一葉は、血だまりの中を転げまわっていたため大量の血液もまた服に吸わせていた。服の裾から落ちる雫は床へ落ちる前に光となり、空間の隙間へと消えていく。



(この世界の『物質』じゃないから、床の水滴として実体化する前に前の世界に還った? まぁ……今はどうでもいいか。とにかく綺麗にしないと)



 体を見下ろして眉を顰めた一葉は、ふと唇を開いたかと思えば僅かに固まり、そしておもむろに両手を広げた。



 ――高らかな柏手を、ひとつ。



 ただ一度の拍手。たったそれだけの行動。しかし目に見えない不思議な何かが渦を巻いていることを、慎二たちはハッキリと感じ取っていた。しかし変化はそれだけに留まらない。



 彼らにとっては信じられない程に汚れを纏っていた一葉が、一瞬でその汚れを払ったのだ。瞬きの後に残ったのは、汚れを落としたことでようやく『自分たちのものとは違う』と分かる服を着た一葉のみである。



『これで大丈夫かな。あ、ごめん土足だった。ダメだね、久々だからちょっと習慣を忘れかけてたよ』



 気まずそうに笑った一葉は靴を脱ぐ。手に持ったそれをどうしたものかと見回したところで、彼女はようやく周囲の空気に気付いたのだった。



『……あ…………』

「な……んだよ、それ……」



 呆然としたような慎二に一葉は表情を引きつらせた。

 思わず『コトダマ』で身を清めてしまったのだが、彼女が生まれ育った世界には『コトダマ』はおろか、一般的な魔術すらも存在などしていないのだ。



「一葉」



 家族の中でも一番低く落ち着いた声で名を呼ばれ、固まっていた一葉の背が跳ねた。



『た……ただい、ま……』



 自分を窺うような娘へ父・慎が頷く。娘と同じように薄い表情で、しかし瞳には真剣な光を宿して彼は一葉へ声をかける。



「とにかく、よく帰ってきた。……なぜ体が透けて見えるのか、今まで何をしていたのか。話してもらえるな?」

『……はい』



 時刻は既に22時を過ぎていたが、この夜は長くなりそうだと一葉はため息を吐き出した。








 夜も深まり、先ほど日付が変わった。近所でも明かりが減り、ほとんどの家庭で既に眠りについていることだろう。



 如月家の居間ではソファに慎と葉月が座り、慎二と一葉は立ったまま話を続けていた。



「まとめると、飲みから帰ってくるときに召喚されて、魔王を倒して、帰ってくる途中にまた召喚されて、今は何だか王女様の護衛をしてる、と。一体どこのロープレかラノベだよ、って感じだよな」

『遺憾ながら』



 姉弟がそろってため息を吐き出す。



「……肝心の姉ちゃんがソレじゃ、疑うのもバカバカしいし」



 実際に身体が透けている姉の姿に、現実主義者を自称する慎二も納得せざるを得ないようだった。



「しっかし……他力本願もいいところだよな。自分たちに何とも出来ないからって他の世界の人間を召喚するとか。それって、ラノベ的に言うとラスボス倒した後が一番面倒じゃね? あぁ、詳しく知りたくないから言わなくていい」



 やれやれ、と頭を掻く弟だけではなく、姉弟の様子を見守っている両親にもまた、一葉の遭遇した『面倒』についての予想が着いていた。

 語って愉快ではない情報を聞き出さないでいてくれた家族へ有難さを感じつつ、一葉は努めて明るい声を返す。



『ねぇ、慎二。確か刀剣類好きだったよね』

「あ? あぁ、まぁ確かに好きだけど……」



 腰からベルトを外した一葉は、訝し気な表情の弟へと手にした『相棒』を差し出した。



『これ、ずっと見せてあげたかったんだ。見たくない?』

「え、嬉しいけど……良いのか? 日本じゃピンとこないけど、自分の武器って大事なもんだろ。あんまり他人が触るのって気分良くないんじゃ……」

『いや、良いから。そう言ってくれる慎二なら心配いらないだろうしね。まぁ、持てるかどうかはこの状態だから分からないけど』



 それなら、と言いながらも嬉しそうな慎二が手を伸ばす。理屈をつけていたところで彼も男子の例に漏れず、武器や刀剣類の魅力にはまり込んだ1人である。一葉は笑いながら弟の手に『狛犬』の柄と鞘を挟んだベルトを渡した。

 一葉の手の中にあった時には透けていた一対の短剣。それは慎二の手が触れた途端に実体化し、想像以上の重量に慎二の方がバランスを崩していた。



『あら、普通に持てたか』

「うぉっ……意外と重いのな、短剣でも」

『そりゃそうだよ。軽けりゃ斬れないし、すぐに折れちゃうし』

「姉ちゃん、こんなの振り回してたのかよ……」

『結構、筋力ついたんだよー』

「うわー、結構ドロドロだな。確かどっかで手入れの方法を見たような気がしたけど」



 自室から色々と持ち込み、床に座り込んで細々と『狛犬』を見回している慎二。弟を微笑みながら眺めている一葉。

 暫く時間が経った後、娘へと初めて葉月から声をかけた。



「ねぇ、一葉」

『何?』



 微笑みながら母を振り返った一葉だったが、すぐに笑顔が凍りつくことになる。



「ねぇ、一葉。あなた、いつになったら私たちに近寄ってくれるのかしら?」

『母さんったら冗談が好きだなぁ。もうこんなに近くにいるのに』



 葉月と一葉の距離は5歩も無いだろう。それを指して笑う一葉へ、葉月は1歩だけ距離を詰めた。慎二の様子を見ようと、一葉は体ごと振り向く。



「それは家の中にいるからこその距離でしょう。気付いていたかしら? あなた、帰ってきてから今まで、私たちが近づこうとしても同じだけ離れてるのよ」

『そ、んな、事……』

「私が、私たちが気付いてないとでも思ってた? そんなに『表情を出そう』としてたのに? 慎二にその剣を渡す時ですら、触らないようにしていたでしょう」



 葉月からは背中しか見えない。座り込んでいる慎二にしても凍りついた表情しか見えず、姉が何をどう考えているのかは量れない。しかし、それは些細なことだった。



 いくら演技を嗜んでいるからとはいえ、『一葉』が形作られる過程を葉月はずっとそばで見続けてきたのだ。そしてそれは、慎や慎二も同じこと。彼らにとって、一葉の表情が何かを隠していると気付くことは造作もないことであった。



「それとも私たちに触りたくないの? あなたの態度からはそうは見えないけれど。むしろ触るのを躊躇ってる感じかしら。あなたは一体、何を『斬らされて』きたの?」



 それは一葉の根幹に関わる質問である。

 隠さなくてはならない。しかし、家族を失うことなどは出来ない。そのような中途半端な状態では母の目を誤魔化すことなどできないのだと一葉は実感した。



『あんまり、聞かせたくなかったんだけどな』



 一葉は、血生臭い内容を殆ど語ってはいなかったのだ。楽しかった話、苦労した話はしたが、命を奪った話は最低限しか話していない。

 しかしそれでも、家族には分かってしまったのだ。



「話したくない事、話せない事ならいいの。無理にとは言わない。でも話して誰かに理解してほしいことだとしたら……私たちを選んでくれない事は、少しだけ寂しく思うわ」



 一葉は、今となっては生物を斬ることなど何とも思ってはいない。自分の手が血に塗れているなどと言うつもりも無い。生きている限り、何かを食べている限りそれは何処の誰であれ同じなのだから。

 もちろん自分から攻撃を仕掛けようとは思わないものの、自分と相手のどちらかしか生き残れない時に罪悪感など持っても邪魔なだけなのだと彼女は知っていた。



(でも、ここは違う)



 日本という国では、人間はもとより犬や猫ですらいたずらに命を奪うことを禁じている。それは法治国家としての制度の土台を成すルールであり、国という人の集まりを保つためのルールでもあった。



 一葉さえ口を閉じていれば分からない。

 しかし、それでも一葉自身は自分が何をしてきたのかを知っている。



『敵わないな』



 確かに一葉は、受け入れて欲しいと思っていたのだ。



 命のやり取りを禁忌としながらも奪わなければならなかった葛藤を、その葛藤を覚えなくなるまでの環境を。歪んでしまった自分を。

 同じルールに基づいて生まれて生きる、一葉にとって大事な人たちに。



(だから、『狛犬』を渡したのかもしれないな。命を奪った道具を。何も言わないで、さ)



 俯いたまま小さく息を吐き、一葉は両親へ振り返った。



『最初は、事故だった。襲われて死にそうな目に遭って、攻撃用の魔術が暴走した。それからは、出来損ないとして排除されないために。ここに帰るために。その後は……私と、私が大事だと思ったひと達のために。私はたくさん殺した。お蔭で、ほとんど誰にも負けないくらい強くなった』



 慎二の手にあった『狛犬』の刃を指先でそっと撫で、この剣でイキモノを殺したと一葉は言う。



 一葉が落ち込むことは何度もあった。しかし今の一葉の声は、これまでに聞いたどの声よりも虚ろな声だった。聞きたいこと、言いたいことはそれぞれの胸にあるが、慎や葉月だけではなく慎二もまた、口を挟みはしない。



『人間も害獣も、たくさんね。隠してたのは、殺したことそれ自体じゃないんだ。そんな事を気にしてたら私は生き残れなかった。今さら後悔はしてない』



 でも、と奥歯を噛みしめ、一葉は叫ぶ。



『……違うんだ。怖かったんだよ、母さんたちにバレちゃうんじゃないかって。日本じゃ許されないことをしてきた私を、どう思われるのかが怖かったんだ。命を奪った事を気にもしてないくせに、そんな小さなことを気にしてる『異常な』私を皆に見せたくなかった……!!』



 どこか歪んだ笑顔を浮かべ、一葉は涙をひとつ落とした。右の掌で顔の右側を覆い、それでも一葉は笑う。

 いや、その笑いは自分に対する『哂い』へと変わっていた。



『でもそれじゃダメなんだ。母さんが言ったとおり。やっぱり、分かってほしかったんだ。それでも私が帰ってきて良かったって言われたかったんだ。全部、全部含めての私が帰ってきて良かったって! なのに私は触れなかった』



 両親は静かに聞いている。慎二もまた、何を思っているのか神妙な表情を浮かべていた。

 一葉は哂いながら、泣きながら、左手を両親へと差し伸べる。



『この手が血に塗れてるなんて言うつもりなんかないんだ。そんな事よりも、こんな風に『変わった』私を見せたくなかった。言い訳を言ったところで今の私が全部だって、分かってる。どう言ったって、私が『こう』なのはもう取り返しがつかないんだよ』



 そして彼女は両手で顔を覆い、柔らかい色をしたフローリングへ両膝を着いた。外敵の攻撃から身を守るように、体を丸め、背を震わせている。



『手が触って、私のしてきたことがもし母さんたちに見えたらと思ったら……もう……どうしたら良いのか分かんないんだ。そんな身勝手な理由なんて、言えなかった!

 父さん、母さん。ゴメンね。我儘で、卑怯なんだよ……私は』



 一葉の心には、敵対した少年が放った『バケモノ』という棘が刺さったままだったのだ。投げかけられただけであればここまで深くは刺さらなかっただろう。しかし、一瞬でも一葉自身が『バケモノ』である自分を認めてしまったからこそ、余計に深い傷となってしまったのだ。



「一葉」



 異世界へ渡ってはいない家族たちには、一葉の本当の葛藤などは分からない。しかし一葉の家族として、彼女に向けて言えることは確かにあった。



「それでも一葉。あなたが生きていて、こうして帰ってきてくれて良かったと思うわ」



 優しい碧が脳裏をかすめる。葉月や、頷いている慎が嘘をついていないことは、魔力に伝えられるまでも無く分かっていた。



 頭上からの声に一葉は俯いたまま瞬く。確かに彼女の中では決着をつけたが、この日本に生きている両親が受け入れてくれるとは思わなかったのだ。受け入れてくれるとは思えない。しかし受け入れて欲しい。その二律背反を持ちながら、一葉はずっと話していたのだから。



「酷いことを言うようだけどさ。姉ちゃんが何してたかとか、俺には関係ねぇし。今ここで元気に話せてるってだけでさ。その時の姉ちゃんには大事なことだったんだろ。必要な時に必要なことが出来ないより、必要じゃない時に力を隠してるくらいの方が便利なんじゃねぇの? 特に姉ちゃん、そういうの必要な仕事してんだろ」



 一葉の傍に『狛犬』を置きながら慎二が言う。彼の手により水滴を拭われ、汚れを払われていたそれは、普段のように柔らかな色合いを見せていた。



 家族の普段通りに何気ない、しかし優しい言葉に一葉は俯いたままながらも泣き笑いの表情を浮かべる。ミュゼルで知り合った人間を大事に思っている。しかし違うのだ。彼らとここではやはり、決定的に。



「一葉。まだ『向こう』で、やり残したことがあるんじゃないかしら?」



 母の言葉に一葉は今度こそ顔を上げ、頷いた。

 その目には涙が残っているものの昏い色は無く、柔らかな苦笑を浮かべているのみである。



『そう、だね。まだまだ、やらなきゃいけない事がある』



 家族や、親友たちが一番大切。それはどこにいても、どんな時でも一葉にとっての『ほんとう』のこと。

 しかしそれでも、ミュゼルがどうでもいい訳ではないのだ。既に彼らも一葉にとっては『たいせつなひと』となったのだから。



 家族は、日本は『帰る場所』であり、ミュゼルは『大事な場所』。それが一葉にとっての決定的な違いであった。

 納得して還ってきたわけではない。きちんとした手続きでの帰還でもない。いわば偶然の産物である。一葉がこうして存在している以上、『敵』もまた消滅などしていないのだろう。心は未だミュゼルに残り、そのために身体も中途半端に世界を渡ったのだと彼女は理解した。



「まぁ、サクッとやることやって帰ってこいよ」

「やると言ったなら、最後までやり遂げろ。家は心配しなくていい」



 慎二だけではなく、今までは黙って話を聞いていた慎までもが一葉の背を押すように声をかけた。一葉は頷き、そして思い立ったように懐を探り出す。



「どうした?」

『んー、ちょっと……あった』



 一葉が引きだした小袋には、もしもの時のためにとサーシャが宝貨を入れてくれていた。彼女は4枚入っていた紅貨のうち1枚を取り出す。

 日本円にすれば10万という価値にはなるが、母に受け取ってもらうには言わない方がいいだろうと一葉は判断を下し宝貨を握りしめた。



『想いは空を越えて』



 そっと呟き、立ち上がった一葉は母へとコインを渡す。



『ちょっとしたお守り。私に近い場所の方がいいんだよね……あの、私の部屋に置いておいて。病気とか事故とかから守ってくれるはずだから。私が帰ってくるまで、皆元気で』

「分かったわ。ありがとう」



 葉月が手にした素材のよく分からないコインは、恐らく本当に家族を護るのだろうと納得できるような空気が感じられた。母から父へとそれが手渡される傍で、慎二は一葉へニヤリと笑いかけた。



「何、あれ。呪文? 随分……廚二っていうか」

『……うるさい。仕方ないでしょ、あの方がしっかり効果が出るんだし。だから家で術を使うの嫌だったんだよ』



 渋い表情を浮かべたところで後の祭りである。これは暫くの間、恥ずかしさと付き合わねばなるまいと一葉は覚悟を決めた。



「あぁ、そうだったわ。一葉、帰ってきたら亜希子ちゃんと秋山君にきちんと挨拶しなさいね。あの子たち……かなり、落ち込んでるのよ」



 葉月の言葉に一葉は深く頷いた。



『秋山なんか、途中まで送ってくれただけに……悪いことしたな。うん。今、戻る前にちょっと行ってくる。長月なら……多分、大丈夫。あ。母さん、長月たちの連絡先知ってたりする? アドレスとか』

「まぁ、あなたの関係で教えてもらったけど……」



 戸惑う葉月を一葉は拝む。



『一応簡単に説明しておいてくれると助かるかなぁ、なんて。ちょっともう、『向こう』に戻りそうだから時間的に間に合うか微妙だし』

「仕方ないわね。……わかったわ」

「しっかり体を拾ってこいよな……くくくっ」

「慎二」



 未だ呪文を引きずる弟とそれを嗜める父、笑顔の母を見回して一葉は軽く手を上げた。



『慎二』

「何?」



 驚くほどしっかりと大人びた弟へ、一葉は強い視線を向ける。



『悪いけど、もう少しだけ。父さんと母さんをよろしく』

「……分かってるよ。姉ちゃんこそ、しっかりな」



 頷いた一葉は、慎二から慎へ視線を移した。



『父さん、行ってきます』

「あぁ」



 止めるでもなく、過剰に心配をするでもない父親に一葉は感謝と共に頭を下げた。最後の葉月へは何も言わず、葉月からも言葉は無い。

 周りを取り巻く魔力が段々と強くなり、それは魔力に触れたことが無いはずの如月家の面々にすら感じられる程までとなった。



(あ、これって……)



 魔力と同時に、日本へ還ってくる際に寄り添ってくれていた気配をも感じる。一葉はようやくその正体に気付いた。



(あぁ、お祖母ちゃんたちだったんだ)



 世界を越え、魔力へ変換された彼らの気配は、今も未だ一葉を見守っていたのだ。一葉が怪我をした時も、膝を抱えて俯いていた時でも、彼らは魔力として一葉と共にいた。



『行ってきます』



 目を細め、力強く放たれた声と共に、彼女は如月家から姿を消したのだった。



「……無事に帰ってこいよ、姉ちゃん」



 ぼそりと呟いた慎二の言葉は、既に姿の消えた一葉へと届くことは無かった。



「亜希子ちゃんには、すぐ連絡しておきましょう」

「そうだな、頼んだ」

「……寝るか」



 父や母の嬉しげな表情を目にし、慎二はあくびを1つ漏らしてから自室へ引き上げた。








「あら……珍しい」



 朝8時。夜中の内に来ていたメールを確認し、寝起きのぼんやりとした頭で長月は呟いた。送り主は親友たる如月一葉の母・葉月からである。



 小柄な親友が行方不明になってから約2年が経つが、その間に何かと連絡を取り合うためにアドレスや携帯の番号を交換していたのだった。



「何かしら……」



 弟である慎二が同じ大学、同じ部活という事もあり、あの家族とは頻繁に会っているのだが、真夜中にメールを送りつけてくるような人物ではなかったはずだ。



「えー……えっ!?」



 本文を確認した長月はベッドから跳ね起きた。深夜のメールへの詫びとともに、行方不明であったはずの親友・如月一葉が帰ってきたと書いてあるのだ。

 そこには簡単な事情が書いてあったが、すぐには信じられないような内容でもあった。



「どういう……ん?」



 眉を顰めながら携帯を見つめていた長月だったが、その視界の端に何かが引っかかる。それは、テーブルの上に置かれた2枚の紅いコインだった。



「こんなもの、私……あぁ、なるほど」



 葉月からのメールを思い出し、送り主はあの小柄な親友だろうと確信した。ご丁寧にも懐かしい筆跡で『お守り』というメモまで残してあったのだ。



「しかも2枚。あーあ、秋山からそろそろ鍵返してもらおうかなぁ。虫よけだとしても、噂になったら詰まんないし」



 一葉が行方不明になって以来、常に一緒にいた彼女と秋山にとって大学は居心地の良い場所ではなくなった。余計な噂や干渉を防ぐために2人は『付き合っている』という偽装をしているのだ。

 お守りを2つという事は、もう一つは明らかに秋山のものであろう。彼の事を具体的にどう思っているかは分からないが、憎からず思い合っていることは長月には分かっていた。そこにどういう形であれ恋愛というカテゴリーで長月が絡むことは宜しくは無いだろう、と彼女は考えている。



「あぁ、メンドくさそうねぇ」



 予測される秋山の反応にうんざりした表情の長月は、やれやれと言いながらベッドを抜け出した。思ったより冷えている室温に身体を震わせてヒーターのリモコンを手に取る。



「何にせよ」



 まずは葉月から話を聞かねばならない。長月は葉月へ返信のメールを打ち、外出のための服を選び始めるのであった。




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