第33話 堕ちた『勇者』
――僕に全部ちょうだい?
場所と場合と相手さえ違えれば、それはこの上なく魅力的な提案になったことであろう。残念ではあるが要は全てが間違っているのだ。
それ故に一葉が頷くことはない。
「ねぇ、黒のお姉さん」
手に纏わせていた靄は消えたものの、無邪気な笑顔が靄以上に背筋を薄ら寒くさせた。
「気付いてるんでしょ? 僕が触媒を作ったって。……僕たちにしか作れないって」
事実への不快感と体への苦痛に一葉は無言で眉を顰め、サーシャは握った拳を白くさせている。
「そろそろ新しい『異界渡り』が欲しくてね。黒のお姉さんもホントは僕の方が先に目をつけてたんだけど。空気読めないバカが無理矢理引っ張っていっちゃったから、見失っちゃった」
「『異界渡り』が、必要……? どういうことです?」
訝し気なサーシャの問いに少年は大きく肩を竦めた。
「うーん……僕の方も少し時間がかかりそうだし、いいよ。教えてあげる」
そして少年が差し出した右手が透け、黒い何かへと変わっていく。
「僕ら『異界渡り』はね、召喚術に注がれた魔力でその世界に現れるんだよ」
「……えぇ」
一葉と少年を『同類』として扱いたくはないのだが、渋々ながらサーシャは頷きを返した。
「その場で実体化しない場合は、世界に干渉する力が強くない。でもその代わりに、反抗されたところで楽に術を壊すことが出来るんだ。簡単に言えば、術士か触媒を壊しちゃえば召喚獣なんて……ねぇ?」
ぱーん、と、握った手を上へと軽く開きながら彼は笑む。
「で、実体化した場合。術士に何かあっても触媒が壊されても、完全に実体化しちゃえば問題ないってわけだよ。そう、術士に『何かあっても』ね。後は召喚術士なんていう指図だけは立派なだけの邪魔な存在、僕たちみたいに実体化した『異界渡り』には必要ないんだ」
「……まさか」
彼は、自らを呼び寄せた術士の末路については何も答えずに笑ったまま。
「そんな感じで無敵に見える僕だけど、やっぱりお腹がすいたりもするんだよね。だからある時、食べてみたんだ。美味しそうなモノ……たくさんの魔力をね。幸い周りにはたくさんいたから」
だから気づいたんだ、と彼は言う。
「魔力を食べれば自分の力が回復する。僕と言う存在を作り上げてるのも魔力だからね。力があればある程、僕には長い時間が用意されるってことにさ」
一葉たちの頭を過りながらも必死で否定したソレは、決して良い映像ではない。
それは悲しいことに間違ってはいなかった。
「いーっぱい、食べきれない程に食べたよ。でも、雑魚はダメだね。いくら食べても全然お腹に溜まらない」
「そんな……」
自分たちが召喚したモノが自分たちへ牙を剥き、次々と魔術士たちを『喰らう』その姿は、彼女たちの背筋へ冷たいものを奔らせた。
「だから自分で食糧を作ろうと思った。
『異界渡り』は黒のお姉さんみたいにありえない程の魔力を持ってるんだよ。それはこの世界で実体化するとき魔力を過剰に集めるせいでもあるし、その存在が持ってる情報を吸い出して、この世界に合うように『変換』したときに魔力で誤差を埋めてるせいでもある。この辺りの考え方は黒のお姉さんの方が詳しいかな? ジョウホウショリ、だっけ?」
一葉が持つ知識の、大まかな内容まで知っているような少年の口ぶり。恐らく自分の前にも似たような知識を持つ『異界渡り』が存在したのだろうと一葉は考えた。
不快感を覚えた彼女は唇を歪めるが、しかし少年の方はそんな彼女に構わなかった。
「ま、それっぽいことを言ったけど理由なんか良くは分からないんだよね。
……で、そうして『変換』された存在は、さ。少なくてもこの世界の魔術士100人や200人でも足りないくらいの力を設定されるんだよ。ひとり食べるだけで、すごく力が出るんだ。3、4人くらいの力が100人に化けるんだよ?」
まるで極上の食事を口にしたように、うっとりとした表情を浮かべている少年。
「太古の王が召喚術を禁じたはず、です。そのような事件があれば、記録には無くとも民間の伝承くらいには……!」
サーシャの反論にも彼は見下したような表情を崩しはしない。
「そんなこと、簡単でしょ? 召喚術を制限させたのは僕だよ。僕が、僕のために、『処分』したんだ。だって邪魔だったし、僕の知らないところで僕を倒すために召喚された『異界渡り』たちの正義ヅラが面倒くさかったから。あの頃の王は自分たちのために術を残しておきたかったみたいだけど、そっちもメンドくさいし生意気だったから一緒に殺しちゃった」
「王は、召喚術を破棄した後も王は生きていたと……!」
「そんなの、普段から人前に出ないのが王様でしょ。周りの『人間』を操れば簡単に騙せるよ。周りの『人間』たちも、自分たちの身が可愛かったみたいだし。お蔭で『勇者』と『賢き王』の出来上がり、ってわけ」
あまりと言えばあまりの真実に2人は言葉を継ぐことが出来なかった。特にサーシャはこの世界の住人である。常に冷静であることを自らに架している彼女であっても、足元が崩れるような感覚を覚えていた。
「そういう事だから『異界渡り』が欲しかったんだ。ちょうどよく世界を渡ってる存在があったから引き寄せようと思ったら、ってわけ。何かの時に作った触媒がどこかから流れてたみたいだね。全部僕に返してって、殺す前に言ったのに。案外、使えない人たちだったな」
残念そうな言葉とは裏腹に、少年は相変わらず愉快そうな表情を浮かべている。誰かを馬鹿にしたように肩を竦めた彼。その空気に呑まれないよう、一葉もまた微笑んだ。
「それは、ご愁傷、サマ」
しかしその身には力が入らず、降りしきる雨の中でも脂汗が噴出し続けている。額に貼りつく前髪が気に障った。
喪失感に押しつぶされそうにはなるが、それでも彼女は負ける訳にはいかなかった。
「ホントにねぇ。まぁでも、この世界にも大きな力がいくつかあるし。黒のお姉さんを探す前にまずは手近なミュゼルに潜りこんで軽く魔力を食べておこうかと思って、おバカさんたちを利用したんだけどさ。僕から黒のお姉さんを取ったヤツは死んでるし、自分を売りに来たヤツも使えないくせに態度が大きいし、どうしようかと思ったよ。後で処分しておかなきゃ。
お姉さんたち知ってる? 灰色の目に金色っぽい茶色の髪の、妙に細っこいオジサン。口ばっかり達者なんだけど」
呆れたような少年が言った人物像は、一葉たちが聞かされていた『黒幕』の容姿と一致していた。アーサー王たちの予測通り、彼は既に国外へ出ていたらしい。
捕縛できなかったことは残念に思うが、今はそれ所でないと一葉は頭を振る。
「まぁ、お姉さんたちには真っ先に会えたし、色々と手間が省けちゃって今はいい気分なんだけどね」
「とりあえず、で、随分なことを、するねぇ……?」
「それの何が悪いの?」
少年は嘲るような笑みを浮かべた。
「食べるために『人間』を狩る僕と、娯楽のために動物を狩る『人間』の、やってる事はどっちも同じじゃない。一体僕の何が悪いの?」
一葉もサーシャも、少年へ反論することが出来ない。
『人間の命は尊いもの』という偽善を言うには彼女たちは争いの場に立ちすぎており、人間が持つ醜い部分を見過ぎてしまったのだ。
一葉は苦し紛れに声を投げた。
「そんな事、今、ベラベラ話して、いいの?」
「別に。逆に聞くけどさ。お姉さんこそ裏側を知ったところで、今更どうにかできると思ってるの? もうほとんどの魔力が僕のところにあるのに。僕のモノにもなってないけど、お姉さんにはもう操作できないでしょ」
少年が言うとおり一葉の魔力は今や殆どが少年の下にある。完全に少年のものに変換された訳ではないが、一葉が自由に使える力も残り滓ほどしか無い。それは一般的な魔術士の攻撃を、たった一度防ぐ程度の結界しか張ることができない程の力。
一葉が持つ手段は限りなくゼロに等しく、取れる手段にしても有効とは程遠いのだ。
「僕とお姉さん、こんなに魔力の量に差があれば、銀のお姉さんを自由にしてあげることも難しいでしょ? 自由にしたところで今度は自分が動けなくなっちゃ、同じことの繰り返しだもんねぇ。あーあ。僕の他には黒のお姉さんにしか、銀のお姉さんを助けてあげられないのにねぇ?」
少年が示しているのは体内魔力の操作についてである。流れている魔力を自由に扱うためには莫大な魔力の他、詳細に魔力を見るための『目』が必要となるのだ。魔力を握られた今の一葉では、サーシャを解放することは出来ない。
また万に一つサーシャを解放できたところで、少年の言うとおり一葉自身の自由を奪われては元も子もないのだ。
「うん、そろそろ良いかな? あとは黒のお姉さんの魔力を全部貰って、帰ってからゆっくりと慣らすことにするよ」
ニッコリと、一葉へ向けて満面の笑みを浮かべた。
気付けば戦の音も聞こえず、この空間には彼らの声や音しか聞こえはしない。ウィンの方は上手く事が運んだのだろうと、一葉はぼんやりした頭で考えていた。
「すぐに銀のお姉さんも追い付くし、僕たちずっと一緒にいようね、黒のお姉さん……いや、イチハお姉さん?」
「うあぁぁぁぁぁぁっ!!」
少年が一葉へ差し伸べた指で宙を薙ぐ。すると今までとは比べ物にならない程の喪失感と、魔力により体内を蹂躙され喰らい尽くされる痛みが一葉を襲った。
膝を着いた状態から転げ回れば、いくらか痛みもマシになろうと考えるが。
「あぁ、そうそう。下手に動いたら銀のお姉さんが死んじゃうからね。でも声は我慢しなくていいよ。綺麗な声だからもっと謡って?」
「こ、の……変態……!」
釘を刺されてしまえば下手には動けない。彼女が許されていることは、悲鳴を上げることと悪態をつくことのみであった。
しかしそれも、少年が浮かべた余裕の笑みの前では意味を為すことは無い。
「イチハ様!」
サーシャの緊迫した声がかかるが、一葉が振り返ることは無かった。
(何か、反撃できる手段は……?)
餌として興味を持たれている一葉。彼女が逃げてしまえば現在動けないサーシャはもとより、近くにいるウィンやゼスト、フォレイン領の魔術士たち、ひいてはミュゼルがどうなるかなど簡単に想像が出来る。既に魔力を多く持っている人間たちは少年に存在を感知されているのだから。
――そして、ふっ、と唇の端が上がる。
敵国の主に少年は従ってなどいないだろうが、ウィンやその他の魔術士という目下の餌がある以上、彼がミュゼルを見逃すとは一葉には思えなかった。そしてその『少年』が味方をするのは昔からミュゼル王国と対立しているグランツ皇国。
今ここで一葉が負けてしまえば少年を阻む者は無く、ウィンたちが少年の前に倒れたならばそれはミュゼルがグランツ皇国に敗北することをも意味してしまう。
そうなれば一葉が守ると約束した碧の少女は。何も知らない灰金の騎士は。
(ホント、ここまで利用されればいっそのこと清々しい)
信用などしていなくとも、信用などされていなくとも、結果が同じであればそれで『彼ら』は満足なのであろう。恐らく一葉がそこまで読んだことも織り込んでいるのだから。
「何を考えてるの? ダメだよ、お姉さん。余計なことをしたら」
笑う少年がさらに加えた力により一葉の精神は崩れそうになる。どうにか踏みとどまった彼女は今、膝を着きながらもはっきりと笑った。
「知ってた? ……私は、我儘なんだよ」
「何」
少年の返事を聞かないうちに、一葉は自分の持てる魔力を一気に握りしめる。
「……賭けるのは、私の命、って、ね?」
そうして不敵に笑う彼女は。
――何があってもこの線を踏み越えさせはしない。
視線が一瞬だけ揺れ、その後に柔らかくなる。しかしそれも瞬きの間で消え失せた。
(ごめんなさい)
その手が、足が、髪が白く淡い光を放つ。
「お止めください! お身体が……!!」
珍しく上がったサーシャの悲鳴に両手を見下ろせば、白い光の向こう側に地面が透けて見えていた。彼女が見る傍から透ける範囲が広がっていく。
しかし目を閉じ、小さく息を吐きながら彼女は微笑みを消しはしない。
「させるか!」
一葉とは逆に、初めて焦った様子を見せた少年が一葉の魔力へと襲い掛かった。
「無駄、だよ。私の魔力……の、ままなら……意味が無い」
一葉は自らもまた『異界渡り』という事実を利用した。彼女も少年と同じく魔力を多く持ち、魔力に近い体質を持つ。体内をめぐる魔力をも術へ変換したならば、彼女の目的は充分に果たすことが出来るのだ。
「く……大人しく地を這いずり回って、許しを乞っていれば良いものを……!」
圧倒的に優位に立つはずの少年は、言葉遣いを装う余裕を失っている。
「馬鹿に、しないで……例え、地に這っても……アンタに、許しをもらう、ほど……っ! 私のプライドは、低くないっ!」
少年とは逆に。発する言葉は途切れがちではあるものの、劣勢である筈の一葉には余裕すらあった。
既に彼女の身体は半分ほどが光に変わり、手足の先などは消えかけている。それほどまでに危機的な状態にあっても、まるで彼女こそが世界の主であるかのように誇り高く、地に膝を着いた体勢から一葉は少年を見下していた。
「さぁ、勝負に、付き合ってもらうよ。紅か黒か……『レイズ』!」
「小娘が……!!」
少年が一葉の魔力を全て喰らい尽くすのと、一葉による『コトダマ』が発動したのはほぼ同時であった。
一葉の魔力が爆発し、それは彼女の力を内包する『異界渡り』をも巻き込んだ。
それはとても長い時間の事だったのか、それとも一瞬の事だったのかは、魔力による暴力的な渦で感覚を狂わされたサーシャには分からない。
「魔力、が……」
いつの間にか自由になっていた体を起こしてサーシャは呟く。その体は視覚を含めた末端の感覚を一時的に失い、すぐに動き回ることはできそうになかった。
周囲を探れば、爆発による影響か見事なまでに魔力の流れが感じられない。
(衝撃で全て吹き飛ばされてしまいましたか)
内心で呟く。サーシャ自身も爆心地にいたため、周囲の空間と同じように、体内を巡る魔力の流れが破壊し尽くされるはずであった。その結果に命を落としても何ら不思議は無いのだ。
一時的に視界に靄がかかる程度、命に比べたならばどうという事も無い。
(護ってくださったのですね……)
彼女が今生きていられるのは、爆発の瞬間に一葉が何らかの手段を以てサーシャを護ったからに他ならない。その事実に嬉しさを感じ、同時に彼女は無力感を覚えた。
黒の瞳の魔術士は気付いていたのだろうか。一度もサーシャを振り返らず、その黒い瞳で見もしなかったことを。
――お姉さんが『バケモノ』だって。僕と同じ『異物』だってこと!
一見飄々としているように見えて、本当は酷く臆病な彼女をサーシャは支えたいと思っていたのに。
――雨が弱まる。流れ落ちる雨が冷たい。
生き物たちの気配が戻り、聴覚以上に騒がしいものを感じる。サーシャは木を利用してどうにか立ち上がった。霞みがかかる視界で彼女はぐるりと辺りを見回す。未だ良くは見えないが何らかの物体……大量の死体は相も変わらず残っているようで、感覚が回復した際には鉄の臭いが鼻を衝くことだろう。
しかし今の彼女にとって、それはどうでも良いこと。
忌々しい敵の気配は消えていた。
「イチハ、様……?」
銀の侍女の主たる、臆病な少女の姿と気配を水色の瞳が探したが――。
――ミュゼル王城、王女の私室にて。
「あら? 何か、今……」
ゼストの代わりとなる教師が帰った後、アリエラはふと心臓の上を押さえた。何かが弾けたような、跳ねたような、無視の出来ない感覚が彼女へ押し寄せたのだ。
動悸が治まらず、知らぬ内に普段は明るい表情を生み出す眉根が今は厳しく顰められている。
「レイラ、何でしょう。何か良くないことが起こりそうな気がするのです。もしかして……これがイチハの言っていた『嫌な予感』というものでしょうか?」
同じ部屋に控えていた灰金の髪を持つ女性騎士が、生真面目さが表れる視線を微かに揺るがせた。しかし即座に打ち消されたそれを、彼女の主が見ることは無い。
「いえ、この後にノーラ殿の授業があります。それについての不安では?」
「そうでしょうか? うーん……そう、かもしれませんね……。ノーラは少し、厳しすぎると思うのです……」
度重なる緊急事態のため、最近のアリエラは近衛騎士の副団長たるノーラ=ラジーオ=リトローアより緊急時の行動を教わっているのだ。
それまでの不真面目な授業態度と相まり、小柄な騎士による授業は中々厳しいものとなっている。
「……休みたいです」
「イチハ殿が戻るまでに修業を積むと仰っていたのは、その場の勢いでしたか?」
「そんなことはありません!」
からかうようなレイラの言葉にアリエラがいきり立ち、そして勢いよく侍女を呼んだ。体を動かすこともあるために動きやすい服装へ着替える必要があるのだ。
(何とかなりましたか)
鼻息の荒いアリエラを横目で見て、レイラは内心でため息を吐き出す。あの分では既に先ほどの胸騒ぎなど記憶から消し飛んでいることであろう。
(何事も無ければ良いのですが)
レイラもまた、アリエラと同じ頃から落ち着かない心持ちを抱いていた。それは時間が経てば経つほどに大きな予感となっている。
(どうか、ご無事で……)
――ミュゼル王城、医務室にて。
灰色の髪の医師は手元の書物から顔を上げ、窓の外を眺めた。
(……また、大けがをしていなければ良いのですが)
彼が見た限りでは一番と言っていいほどに手がかかる患者であるキサラギ=イチハ。焦げ茶の髪の少女がチラリと脳裏を過り、トレスは窓際の自席を立ち上がる。
(大怪我ならばむしろ薬は要りませんね……包帯を多めに用意しておきましょう。それからフォレイン領へ手紙を出しておかなくては)
何しろイチハと言う少女は、その特殊な来歴に見合った特殊な体質をしているのだ。もしも他の医師が診察すれば驚かれてしまうことは想像に難くない。外傷への応急処置だけを任せて、速やかに自分の下へ運んでもらった方が良いだろうとトレスは考えている。
「トレス様?」
「あぁ、申し訳ありませんが少しだけ席を外します。あなた達は続けて過去の事例を見ておいてください。いざというときには気が動転してしまうでしょうが、知識に有るのと無いのでは違いますからね」
「はい」
彼が指導している新人たちは皆優秀ではあるが、それに溺れない素直さが一番の良さである。そして今はその素直さに甘えることにした。
にこやかに指示を出した彼は新人たちの頷きを確認した後、薬剤などの保管庫へ足を運ぶのであった。
――フォレイン領、慈雨の谷にて。
「魔力の、爆発……?」
紫電の瞳を眼鏡で隠し、各隊からの伝令を待つウィンは森の奥を見るように目を眇めた。突然魔力による爆発が起きたその方向には、随分前からサーシャを伴い、義妹たるイチハが間者を探すと言って探索に出ているはずであった。
「ウィン」
「父上……荒れた魔力が、無くなりました」
爆発の前には精神をささくれさせる魔力を感じていたのだが、それも綺麗に消えていた。爆発を起こしたのは、その規模や清廉な印象から、9割方で義妹の魔力である。
「何らかの危険人物と接触したのでしょう」
「予感が当たってしまったかのぅ……」
良く似た親子はその知に秀でた容貌を顰めて同じ方向を見つめたが、それも僅かなこと。
「……その内帰ってくるでしょう」
「まずは兵たちの混乱を収めなくてはならぬかの」
侵略者たちとの闘争が終了し、気が緩んだところでの爆発であった。現在兵たちは原因不明の衝撃により恐慌状態寸前に陥っている。
「そう、ですね……将たちを呼びましょう」
森の奥が気にはかかるものの、兵たちを落ち着かせる事の方が急務である。
ウィンは引かれる後ろ髪を振り払い、自らの仕事へ戻るのであった。
川面には無数の小舟が浮かび、その小舟には大小様々な炎が浮かんでいる。
小舟に灯る炎は必ずひとつ。炎を持たない小舟はあるが、ふたつ以上の炎を抱く小舟は存在していない。
それは時に沈み、時に移ろい流れ、時に光を失いながら数を保っている。
――小舟に乗るその炎は今、またひとつ新たに灯った。
迷うようにフラフラと流れていたそれは勢いを弱めたかと思えば芯を激しく燃やし、また落ち着いた熱量へ戻りゆく。
そして小舟が朽ち、沈むと思われたその炎は寸前で――
虚空へと、その光を消した。
後に残ったのは朽ちた小舟と、消えた炎が残した赤々と輝く燐光のみ。
――その燐光もまた、他の炎の光に紛れ、主たる炎の存在を掻き消すのであった。