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流界の魔女  作者: blazeblue
歪な真珠
37/61

第32話 水煙の向こう側



 見渡す限りに生い茂る緑、色とりどりに咲く花々、そして大地を潤す小川。高台にある森の端から谷を見下ろした一葉の表情には、素晴らしい自然を前にしても何の感情も浮かんではいなかった。



(今は、五分五分)



 谷を挟んで遥か彼方には高くそびえる山々が連なっている。その頂には温暖なミュゼルの、しかも現在は夏であるにも拘らず、白い冠が被さっていた。

 険しい頂から少しばかり目を移せば、他よりも目に見えて標高の低い部分。山と山が重なり合うそこは僅かだが傾斜が緩やかになっているのだ。何代も前のフォレイン領主はそこを街道として整備しており、現在の領主であるゼストも整備や警備に余念がない。



 旅をする者たちは少しでも体力を温存できるような道を選ぶ。そしてそれは今回の事態でも同じであった。

 山を越えて隣の領へと続く街道は現在、侵略者たちにより占領されているのだ。



(何かのきっかけで大きく動く、かな……?)



 遠くから見れば蟻のような侵略者たちから、手前へと視線を動かした。広大な谷の底ではここ数日間、幾度となく変わらない光景が繰り広げられている。



 フォレイン領最北部、慈雨の谷。雨が多く国が渇水に見舞われた時でも水に困らないという理由からその名が付けられたと言われている。その優しげな呼称に反するように、ここでは侵略する者たちと侵略される者たちとの間で戦が行われているのだ。



 ――兵糧の心配がなく地の利もあるが、人数が少ないフォレイン軍

 ――地の利がなく兵糧の限りもあるが、圧倒的な人数を誇るグランツ皇国軍



 その戦力差はおよそ3倍弱。下手に手を出した方がその隙を突かれて敗北するだろう。決定打が無いままに、あまり両軍に被害の出ない探り合いのような戦闘が続いていた。



「まさか、あの人数差で五分に持ち込むとは思いませんでした。やっぱ、強いですねぇ」

「ヴァル家はその性質上、敵が多く存在しますので。有事に備えてフォレインの兵たちには厳しい訓練が課せられております。訓練の内容が防衛一辺倒のため、我が領の兵は侵攻には全く役に立たないのですが」



 苦笑が混じった声に一葉は振り返る。そこには城での姿とは違い、シャツに細身のパンツ、さらに薄い皮の鎧を身に纏ったサーシャがいた。左右の太腿にはナイフのホルダーを着け、腰には長めのナイフを2本ほど下げている。

 苦笑いを浮かべたまま、雰囲気を全く変えずに彼女は主と仰ぐ焦げ茶の髪の魔術士へと小さな声を出した。



「イチハ様、周囲に間者の潜んでいる可能性が高いそうです」



 小首を傾げた一葉は空を見る。そこには今にも泣き出しそうな程に重苦しい雲が広がっていた。何事かを考えてから頷きを返す。



「分りました。行きましょうか」

「かしこまりました」



 一葉の前に立ち、彼女を先導するようにサーシャが森へ足を踏み入れる。数分間の無言の後、サーシャは一葉へ疑問を投げかけた。



「……何か、気になることでもあるのですか?」

「気になること、です?」

「はい。ここに到着してから、どこか浮かないご様子でしたので……差支えなければ」



 サーシャの観察眼に驚き、そしてどこか困ったように一葉は苦笑を浮かべる。悩むような無言を埋めるように草を分ける音だけが響いていたのは、1分程のことであった。



「本当なら私、城にいた方が役に立つんですよね」



 やがて困ったような声で、ポツリと呟きが漏れた。



「サーシャさんも知ってるとおり、私が攻撃用に術を使ったら味方まで怯えさせちゃいますし。っていうかまず、敵味方の区別つきませんし。乱戦になったら今までの癖で全部を吹っ飛ばしたりとか、マズいじゃないですか。だからいつも出来るだけ1対1に持ち込むか、いっそのこと防御に専念してるんですけど」



 サーシャはそっと先を促す。



「攻撃が出来ないからと言っても、人を率いるのもこの外見だから時間がかかりますし。そもそも経験がありませんし。なら治療はどうか? ってなっても、怪我で朦朧としてる人に私が魔術なんか使ったら多分恐慌状態になりますし」



 それほどまでに、この世界の『色』にまつわる理は絶対的である。



「私がゼストさんとかウィンを護衛するのも、多分いろんな理由から士気に関わりますし。いやほら、『女子供』じゃないですか。そりゃ戦う女の人もいますけど、やっぱり、ちょっと……」



 それまでのどこか冗談めかしたような雰囲気を、ため息ひとつで全て消し去った。



「……けど、私は今ここにいるんです。王都に帰る訳にはいかないんです」

「それは、何か理由が?」



 思い詰めたような表情で一葉は頷いた。不安に震えるような青、誰かを想うような橙、諦めのような灰、決意を抱いた黒。様々な『色』がその瞳に見えた気がしたが、それらはサーシャの見間違いだったように一瞬で紛れて消えた。



「えぇ、サーシャさんの言うとおり気になることっていうか、予感がしたんです。どうしても着いていかなきゃいけない、って。多分ゼストさんも同じものを感じたから、私を連れてきたんだと思うんですけど」



 ため息を吐き出す。



「多分……いえ、確実に、すぐに問題が起きます。国と国との闘いとか、そういう種類じゃない問題です。事が急すぎますし……7割くらいの確率で触媒の製作者が絡んでくるはずです。

 ゼストさんも『それ』を知っているから、私を連れてきたんだと思いますよ」

「そうですね。確かに、その確率は高いでしょう」



 今までの落ち着かない精神状態の理由を、サーシャは一葉の言葉により納得した。どこかで予想していただけに自分でも驚くほど確かな形となって心に落ちてきたのだ。

 ひとつ頷いた戦う侍女へ、一葉は逆に問いかけた。



「サーシャさんこそ、いいんです?」

「良いのか、とは?」

「その、仕事をするでもなくフラフラしてる私に着いてきてもらっちゃって……」



 申し訳なさそうに自分を窺う一葉へサーシャは微笑みを浮かべる。



「そのことですか。問題などございませんよ」

「えっと、サーシャさんが私を選んでくれたからですよね。でも今、一応戦争中ですけど……」



 未だ眉尻を下げる少女。『デリラ』の家を知らない人間に会ったのは久方ぶりであるため、サーシャは新鮮な気分を味わった。



「それでも問題はございません。私の生家が心に決めた相手以外には従わないことはご存知の通りです。その無理を通し続けたため、今では何があっても『デリラ家』というだけで納得されるようになってしまいました」



 そして柔らかく、誇らしげに微笑む。



「私1人がいなかったところで戦況など変わりません。そのような些末なことにフォレインの兵たちは影響されませんよ」



 自らの故郷を、仲間を、そして彼らを束ねるヴァル家への信頼を笑顔に乗せ、サーシャは言を継いだ。



「ですので、イチハ様の『お役目』までは私がお守りします」



 何の気負いもないサーシャの声に、一葉はどこか堅かった表情を緩める。



「……ありがとうございます。頼りにしてます」



 ふわりと、それは嬉しそうに微笑んだ。








 それから、会話も無く歩き回ること1刻と少し。未だ昼間と言える時間ではあるが、宵の口ほどに陽光を失っていた。



「あー、暗くなってきた……」



 低く黒く空を占める雲を、一葉は眉を顰めて見上げた。サーシャは周りを見回してから一葉へ問いかける。



「そろそろ戻られますか?」

「そうで……」



 頷こうとした一葉の動きが突然止まり、その視線は1点に固定されている。サーシャは悟った。



「……標的ですか。どちらに?」

「何か『ゆらぐ』様な空気が、向こうの方に」



 一葉が方角と距離を示すことでサーシャもようやく相手を認識することが出来たことが、相手の優れた力量を示していた。



「風で匂いを、光と水で視界を誤魔化していますね。気配を殺すのも上手い……防御系や補助系に長けているのかと。もし火力まで持っているならば主戦場にいる筈の人材ですが、ここにいるという事は主力になるほどの攻撃力ではないのでしょう」

「それなら好都合ですねぇ」



 一葉はサーシャに頷いた。

 彼女自身のように、攻守ともに万遍なくこなす人間がたまたま奇襲組として編成されている可能性もある。しかしどちらにしても彼女にとって、神経質なほど術に気を遣うということをしなくてもいい相手ではあった。



「ここから狙撃を?」

「はい。下手に近づくよりは良いと思いますし。……行きますね」



 そっと息を吸った。



『ラピッドファイア』



 一葉の呟きが放たれた瞬間、何も無かった空間から何も無い空間へ雷弾が降り注ぐ。歪みの中心1点へ集中した雷の威力は驚くほど高く、やがて風の膜を破壊してしまった。



 ――何っ……!?



 焦ったような悲鳴が聞こえたのも僅かな間であり、すぐに雷の音によりそれらは掻き消された。



「もう、いいですかね」



 一葉が掃射をやめてみれば、そこには痙攣しつつ倒れ伏した小隊の姿があった。その人数は小隊としては通常の8人。発見から相手の無力化までは時間にして2分以内の事である。



「……手加減が不得手など、ご冗談を」



 珍しく呆れたような表情でサーシャが呟いたが、未だ雷の鳴く音が残っていたため一葉の耳には届いていない。緩く頭を振った彼女は、術のために1歩分だけ前へ出ていた一葉を追い越した。



「イチハ様は少し後ろへ。身元を確かめ、捕縛の手を呼ぶまでは逃走ができないように処置をします」

「はい。お願いしますね」



 相変わらずの一葉の口調を嗜めようとしたが、サーシャは苦笑しただけで何も言わなかった。

 そんなサーシャの行動を何気なく見ていると、鼻の頭にポツリと何かを感じる。



「あ」



 それは数を増し、やがて森の木々をすり抜けて一葉たちを濡らし始めた。



(……ウィンたちも始めたみたいだな)



 振り返った先の遠くから聞こえた鬨の声。今まで防戦に徹していたフォレイン侯爵軍が一気に反撃へと転じれば、敵もさぞ混乱するだろうとサーシャから聞いていた。

 そしてその混乱を逃すほど、一葉の養父たちは優しくなどない。程なくして戦は終結することであろうと彼女は確信している。



「これで良いでしょう」



 サーシャの声に改めて振り返れば、そこにはロープと氷で自由を奪われた敵たちの姿があった。魔力を探っても動く様子は無いため、安心して放置することができる。

 いつの間にかすっかり土砂降りとなった雨は、森の中をも激しく濡らしていた。



「一度帰投し、戦況が落ち着いた頃に手を寄越しましょう」

「そうですね。早くしないと風邪ひいちゃいますし、急いで帰りましょう……ふぁ……」



 ――くしゅん!



「あー、すっきり……」

「冷えてしまいましたね。早く暖まらなければ」



 そして、無事に戦を終えたウィンたちと共に城へ戻る。





 ――はず、だった。





 前触れは何も無かった。

 ただ何となく動きサーシャを突き飛ばした後で、ようやく予感が追い付いたのだ。



「な……っ!?」



 サーシャの驚いたような声にも反応する余裕など一葉には無かった。



 怖気が走るほどの『ナニカ』が来る。その腕を伸ばし、まるで一葉たちを握りこんだまま潰してしまおうとするように。



 せめて『ソレ』に対抗するように一葉は身を硬くした。





 ――リィン……





 それもやはり突然の事だった。



 彼女の視界が純白に塗りつぶされ、自分以外の何者も居ないその白い世界からは鈴の音以外が消えた。

 対応しきれない異常に一葉は怯える。





 ――リィン……





 怯えはいつしか収まり、代わりに穏やかさが心を占める。時間という概念が消えたように静謐なその『時』に一葉は酔いしれ、そして上も下も無いその空間に身を任せた。

 心と体が溶け合い、白い世界へ『一葉』が流れ出す。どこまでが『一葉』で、どこまでが『白い世界』なのか、今の彼女には分からなかった。





 ――リィン……





 どれくらいの間、彼女はそこに揺蕩っていたのだろうか。



(誰かの、悲鳴)



 いつからか高い鈴の音だけではなく痛みを伴ったような声も一葉へ届くようになっていた。



(誰かが、泣いてる……?)



 まるで消えていく命を諦められず、大切な誰かを引き留めるように。

 まるで去りゆく誰かに、行かないでと縋りつくように。



(大丈夫、泣かないで)



 その『声』を抱きしめようとしたところで、ズキリとどこかが痛む。



(あ、れ……?)



 白い世界だけではなく、一葉の身にもまた異変が起こっていた。



(痛……い……?)



 心と体が混ざり合うその世界では、その痛みが身と心、どちらのものなのかを探ることが難しい。





 ――リィン……





 鈴の音と共に波紋が広がる。

 波紋に合わせて知覚を広げる。



 やがて世界と自分、その境界を認識したところで一葉へと違和感が押し寄せた。



(私は、今、何をして……っ!?)



 急激な覚醒。

 ガラスが割れるような甲高い音と共に、その白い世界が砕けた。








「あ……あぁ……あぁぁぁっ……!!」



 唐突に戻った音や色。それらの処理へ追いつかない一葉の脳は、一番近くから聞こえた、一番聞きなれた声の悲鳴を真っ先に拾った。



(これは……この声は、私か……?)



 痛みで叫び声を上げ獣のように暴れる身体とは逆に、一葉の精神はどこまでも冷静である。

 彼女の変化に気付いたのか、サーシャが慌てて一葉の無事を問いかけた。



「イチハ様! 意識が戻られましたか!?」



 一葉は叫びを呻きに変えて暴れる体を収めた。すぐ傍には彼女を抱きかかえて地面へ膝を着いたサーシャ。周囲に無数の氷弾を浮かせ、鋭い視線を白く煙る森の奥へと向けている。

 いつの間にか雨足が強まり、雨が葉を打つ音が耳についた。



「あーあ、もう少しで銀のお姉さんに当てられたのに。邪魔しないでよ」



 軽い口調で言うのは子供特有の高い声。この場所には存在しない筈の姿で、彼は水煙の向こう側から浮かび上がるように姿を現した。



 黒い瞳、焦げ茶の髪の少年がいた。6、7歳ほどだろうか。細すぎる手足の様子から見て、もしかするともう少し上の年齢かもしれない。それだけの事であるが“戦場”という場所にこの年頃の少年がいること自体が異常であり、2人にとっては今までの何よりも危険だと思えた。

 少年が見た目通りの存在ではない事、それどころか『生きている人間』であるかどうかも疑わしいことを強制的に理解させられたのだ。ソレは存外整った貌に、無邪気で歪んだ笑みを浮かべていた。



「ま、いっか。要らないオモチャを捨てられたし、新しいオモチャも見つかったし」



 サーシャの奥歯がギリリと鳴る。鉄錆のような生臭さに一葉はようやく気付いた。霞む目をそっと周囲に向ければ、彼女たち以外の人間が、まるで内側から破裂したように中身をぶちまけていた。周囲に流れる血臭と合わせても命があるとは思えない無惨な状態である。

 『彼ら』を取り巻く魔力から、一葉やサーシャを襲った攻撃と同じものを受けたことが推測できた。



 ――すなわち、目の前の『少年』によるものである。



 自分へ向けられる一葉の視線に気づいたサーシャは、視線を動かさないまでも唇に笑みを乗せる。



「イチハ様がお護りくださったお蔭で、私は何ともございません」



 そしてその笑みを収め、厳しい表情を作った。



「何者ですか」

「んー、そっちの黒いお姉さんをくれたら答えてあげてもいいよ?」



 探るようなサーシャの声に返ってきたのは、悪意と好奇心を無邪気さで包んだ声。彼女は腕の中にいる一葉を一層強く抱きしめた。その腕が細かく震えていることが一葉の気にかかる。



「お断りいたします」

「えー? 本当は銀のお姉さんとお兄さんが欲しかったのに、もっと面白いのが見つかったから見逃してあげる、って言ってるんだよ? 大人しく従った方がお互いに満足できるんじゃないかなぁ」



 サーシャだけではなくウィンの存在までをも匂わせる少年に、サーシャの視線は既に絶対零度まで温度を下げていた。



「主を身代りにするなど願い下げでございます。それに、気まぐれな者の言葉を信用しないようにと躾られておりますので。……雨に当たり続けては主が風邪をひいてしまいますので、そろそろお引き取りを」

「えー、良い考えだと思ったんだけどなぁ……」



 サーシャは自分の提案を受け入れることなど無い。

 そう悟った少年はしばし悩んだ様子を見せた後、晴れやかに笑った。



「なーんだ、うん。簡単なことだね。全部貰っちゃえばガマンしなくていいんだから」

「何を……」

「抵抗しても無駄だよ?」



 サーシャへ少年は笑いかける。



「だってお姉さん、動けもしないでしょ。僕、動けないようにしたもんねぇ。黒のお姉さんを抱っこしたのは頑張ったと思うけど、それで限界なのにどうやって僕から黒のお姉さんを護るの? お姉さんを抱っこするだけで、腕が振るえるほど力を入れてるのに」

「くっ……体が動かずとも……!」



 少年の言ったように、サーシャは自由を奪われていた。体内を巡る魔力の流れが体を動かしているのだが、その流れを少年が弄ってしまったのだろう。



「あぁ、氷? 確かにそれは体が動かなくても大丈夫だけど、でも危ないから仕舞ってね」



 サーシャの指揮下にあったはずの氷が全て虚空へ消滅する。少年の手によるものだとは理解していたが、それはどういう手段でということまではサーシャの理解が及ばない。

 魔術士にとってこの上ない恐ろしさを見せつけた少年の笑顔の裏側にあるのは、無邪気さと背中合わせになった残酷さ。それは生きたまま虫の翅を毟るように、無邪気だからこそ持ちうる残酷さを濃厚にした笑顔である。



「じゃ、お姉さんたち。ちょっと神経が死んじゃうくらい痛いかもしれないけど頑張って? 僕の楽しみのために」



 嗤う彼の身体からどす黒い何かが発生し、それは一葉とサーシャ、2人へと雪崩をうった。



(だめ)



 自由にならない身体で、それでも固い意志の下に強く抱きしめられた一葉はヒュッと小さく息を吸う。

 その『黒』に触れれば無事では済まないという事を、一葉は『何となく』理解していた。



(守らなきゃ)



 閃光のように閃いたその言葉に従い、一葉は彼女を抱きしめているサーシャを、身を捩った勢いで逆に地面へと押し倒す。



「あれ、動けるんだ」

「イチハ様……!?」



 暢気な少年の声を余所に、碌に受け身も取れずに地面へ倒れたサーシャ。彼女が声を上げると同時、覆いかぶさった一葉の背を『黒』が叩く。

 その途端に神経が灼き切れそうな程の痛みが一葉を苛んだ。



「あ……ぐぅっ……!」



 恐怖と苦痛が混じりあったような悲鳴を、一葉は唇を噛みしめて堪える。背中を通して何かが入り込み一葉の中を蹂躙していた。痛みを与えるそれは、同時に一葉の力を強制的にどこかへと吸い出していく。

 起き上がった一葉は背後へサーシャを庇うようにしていたが、それでも膝は力を失い体の高度を下げていた。



「んー、最初のより濃い力なんだけど。あんまり声も上げないでよく我慢できたねぇ。偉いね、黒のお姉さんは魔力の耐性が高いみたい。僕のものになるまで、もうちょっと時間がかかりそうかな?」



 自分という存在を侵略されているにも関わらずそれでも許しを乞わない一葉と、その一葉が庇ったサーシャ。サーシャの方は体の自由を奪っているのみだが、それが無ければ今すぐにでも少年へ飛びかかり命を刈り取るつもりであろう。不可能か可能かは彼女にとって関係が無いのだ。

 肘で上体を支えているだけのサーシャ。現に彼女は少年へ射殺さんばかりの視線を送っている。



「ねぇ、黒のお姉さん」



 少年は一葉へ問いかける。



「痛い? 苦しい? やめて、って言えば、もしかしたら助けてあげるかもしれないのに」



 クスクスと笑う少年へ、一葉もまた唇を歪めた。



「そんなこと言って、見逃すつもりなんか、無い癖に。……や、もっと酷いかも、ね。

 サーシャさんを、私の目の前で殺すんでしょう……?」



 脂汗を流しつつも黒い瞳の魔女は唇の端で笑みを作り上げる。



「くそくらえ……!」

「えー、酷いなぁ!」



 一葉による精一杯の抵抗は、しかし少年の元では意味など無い。



「何でそんなに嫌がるのかなぁ。僕たち、『仲間』なのに」

「仲間……?」



 サーシャは訝し気な表情を浮かべた。



「あぁ、銀のお姉さんには言ってなかったんだ? お姉さん、知らないみたいだから教えてあげる」

「や、ちょっ……」



 少年を止めるように、弱々しく手を伸ばしたところで『彼』には届かない。



「僕も黒のお姉さんの『仲間』だよ」

「何……ですって……? そんなはずは……」



 流石に混乱して少年と一葉を見比べる銀の髪の女。彼女を可笑しそうに、どす黒いほどに邪悪な表情を浮かべて、少年は語りかけた。



「ねぇ、黒のお姉さんの術はおかしいと思わない? この世界とは全然違う力をさぁ。魔力をそのまま扱うなんて、この世界の人間には出来ないでしょ? 色の『理』なんて詰まんないモノに縛られないなんて、異質だよねぇ。でもそれ、僕のこの靄と何の違いがあるの?」



 伸ばした右手に黒い靄を纏わせて、少年は満面の笑みをサーシャへ向ける。



「銀のお姉さんも今、思ったでしょ? 僕の力と似てるってさぁ!」

「それは……っ!」

「僕もお姉さんと同じ『異界渡り』だよ。同じ『バケモノ』の1人なんだよっ!」



 満足に反論の言葉が浮かばないサーシャを笑う少年。彼は次に、一葉へと優しげな声で語りかけた。



「ゴメンね、お姉さん。僕、我慢できなくてバラしちゃった。お姉さんが『バケモノ』だって。僕と同じ『異物』だってこと!」



 あはははは、と無邪気な笑い声が、強い雨の音にも負けずに響き渡る。



「でも心配しなくていいよ。僕がお姉さんの力を貰ってあげる。1人じゃないよ。僕が側にいてあげるから。だから黒のお姉さん、僕に全部ちょうだい?」



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