第27話 踏み出す、小さな1歩
紅の節、黒の月20日。ルクレツィアは猛暑が襲うミュゼル王国の謁見の間へと姿を現していた。元の滞在予定より1日伸びてはいたが、交通事情などにより1月も予定が前後することも珍しくない世界であるために特に目立った問題などは起きていなかった。
「11日間、大変お世話になりました。皆様方も次はぜひアーシアへと遊びに来ていただきたく思いまする」
「うむ。アーシアは森の多い国、良い土地だ。機会があればこちらこそよろしく頼もう。夏などは涼しく過ごせて良いだろう」
玉座の前に立つルクレツィアも、玉座に座るアーサー王も、そして周囲に連なる貴族や騎士たちも、10日前と同じように正装に身を包んでいる。気に入らないはずの『暑苦しい』正装ではあるが、ルクレツィアの表情から一葉がそれを読み取ることは出来なかった。
「滞在中に対応にあたった騎士たちを、我らミュゼル王族の名代として貴族領に入るまで同行させよう。アーシアまでの道中、くれぐれも気をつけられよ」
貴族領とは、国から土地を拝領した貴族が治める土地の事。そのままでは細かい統治まで手が回らないため、領地を細かく分け、その各地に統治者を置いているのだ。
そして領主である貴族はもちろんのこと、各地の統治者たちも他領の兵が自領へ足を踏み入れることを良しとはしない。それは王家に準ずる騎士や衛士も例外ではなかった。
その反面、領地内で問題が起きればそれは全ての責任をも負わされるということでもある。それが国家間の問題であれば当然、普通とは比べ物にならない程の規模となる。
そのような事情から各人の思惑が複雑に絡み合うため、王城のある中央直轄地や国の東西南北におかれた国王直轄地などよりも、余程安全だと言えるのだ。
一葉やレイラ、護衛の衛士たちが付けられるのは、むしろ中央直轄地を安全に出るためにとの配慮からである。
「お気づかいに感謝いたしまする。それでは、妾はこれにて……」
「いいえ、お待ちください!」
礼を取り退出しようとしたルクレツィアの艶やかなアルトを遮る、明るく澄んだソプラノ。謁見に同席していたアリエラが突然立ち上がったのだった。
娘の突然の行動には驚いたものの、アーサー王はアリエラへと冷静な視線を向ける。
「アリエラ。未だ謁見の最中であり、ここに居るは国賓だ。このような場で大声を上げるとは何事か?」
「……失礼いたしました、父上。ですがルクレツィア様に関わることについて、私からひとつお願いがございます」
「申してみよ」
アーサー王を私的に『父様』と呼ぶのではなく、公的に『父上』と呼びかけたアリエラ。彼女に細めた視線を送りつつ、王は先を促した。
アリエラが放つ普段とは違う硬質な雰囲気に、居並ぶ貴族たちは訝しげな視線を彼女へと送っている。しかしアーサー王や、王の反対側に座っているアイリアナから貴族たちのような表情、雰囲気などの変化は見られなかった。
「私の騎士たちだけでなく、私自身もルクレツィア様をお見送りしたく思います」
「失礼かと存じまするが」
アリエラの申し出を聞き、確かに驚いていたルクレツィア。しかしそれも僅かな時間だけの事で、彼女は微笑みながら口を挟んだ。
「騎士や衛士の皆様方にお見送りをしていただく以上、過ぎたるお気遣いは無用にお願いいたしまする」
王城から貴族領までは、急ぎの道中でもないため大よそ1日と少しを必要とする。夕日が見える前に城を出るため、恐らく貴族領との領境に辿りつくのは翌日の夕方になるだろう。言いかえればこれから3日も城を空けるとアリエラは宣言しているのだ。
「王家を狙うた襲撃も数日前にあったばかり。大切な『妹』であるアリエラ殿を侍女も護衛も少ない城外へ連れ出すは、お気持ちは嬉しく思いまするが妾としてはあまり望みませぬ」
遠慮するような心配するような、そんな柔らかな口調とは逆に、ルクレツィアの視線は限りなく冷たい。その視線が示すものは『立場を弁えろ』というただ一言のみ。
アリエラがルクレツィアの前から逃げ出してから、この日までで4日が経っている。その間会話はおろか顔すらも合わせていなかった。同じ場所にはいるものの、アリエラは顔を俯けてじっとしていたのだ。そのような状況では彼女がルクレツィアへ抱いた劣等感を回復させるような機会など、あろうはずも無い。
しかし現在、アリエラはルクレツィアの強い視線に負けてなどいなかった。
「もちろん、今は特に身の回りが騒々しくなっています。騎士や衛士たちには苦労をかけてしまいますし、侍女がいなければ身の回りの事も満足には手が届かないでしょう。私1人が動くことで迷惑がかかるばかりということも分かっております。
しかしルクレツィア様を騎士だけでお見送りするのは失礼に値するとも思うのです。長年友として手を携えてきたアーシアの方々にミュゼルの王家がそのような礼儀知らずだと思われてしまうのは哀しいことです。それに今が大変だからこそ、考えが浅いと思われるかもしれませんが、その一筋の翳りも除いておくべきだと考えたのです。
それならば私の『姉上』となられた方です。ミュゼル王家を代表し、私がお見送りしてはならない道理はありますか?」
ルクレツィア以外を目に入れずアリエラは言いきった。
(怖い。私は、また何かを失敗してしまうのではないでしょうか。この意見は本当に『正解』ですか? 私はまた、自分から争いの種を蒔いているのではないですか……?
もしかしたらレイラたちも、何かを決めなくてはいけない時にはこのような怖さと闘っていたのかもしれませんね)
力が入り過ぎているためかアリエラには既に爪先の感覚は鈍く、今歩けば間違いなく膝が動かずに転んでしまうだろう。不安と後悔と再び否定される恐怖の前で彼女の自信などとうに沈んでしまっているのだが、それでもアリエラは発言を撤回し席に戻ることを考えすらしなかった。
(普段ならばこのような状態になる前に『逃げ』るのでしょうけれど。今の私には許されないことです)
アリエラの視線の先で、ルクレツィアの表情がスッと抜け落ちる。その事に一層の恐怖を抱いたが、彼女は唇を結んだまま動かなかった。
「気持ちだけで申し上げるならば、妾はアリエラ殿のお気遣いを嬉しゅう思いまするが。……王はいかがお考えか?」
眉の一筋も動かさずにルクレツィアはアーサー王へと問いかける。少しだけ考えた末にアーサー王は彼の娘へと視線を移した。
「確かにアリエラの言う通り、今だからこそ我らがルクレツィア殿の見送りに行かねばアーシアだけでなくミュゼルの国民すらも裏切る形となろう。しかしそれを見越した何者かの襲撃が合った場合、ルクレツィア殿はもとよりアリエラにも被害があれば……我らの進む道に大きく変動があろう。難しい選択ではある。
……アリエラ。危険や、自分の身分を考えた上での考えか?」
「危険に関してはもちろんです。軽々しく出歩いたりは致しません。きちんと護衛の騎士たちに従います。何よりもルクレツィア様と私自身の安全に配慮いたします。もう、以前のような醜態は晒しません。それ以外については、全ての事態を予測した上での発言だとは言い切れませんが……」
「これまでの行いから、今のお前をあまり信用できないことも承知の上か?」
「……それも、もちろんです」
じっと見つめる父と『姉』、そして貴族たちの視線にも負けず、アリエラは視線を下げないように努めながら許可を待つ。
「……安全面を考えれば移動というものに少々難はあるが、騎士や、普段より大人数の衛士がお前たちだけをみて警護にあたっている分、むしろ普段よりも安全かもしれぬか」
「では……!」
「いいだろう。……ルクレツィア殿、よろしいだろうか?」
アーサー王が何を考えて許可を出したのを外からは判断できない。しかし許可が出てしまえば、ルクレツィアがアリエラを拒む理由もまた無いのだ。ルクレツィアは先ほどまでと同じように柔らかく微笑み、アリエラへ軽く頭を下げた。
「わかりました。それではアリエラ殿、貴族領までのあと1日。しばしの別れを惜しみながら行きましょうや?」
「はい、よろしくお願いいたします」
ホッと息を吐きながらアリエラはルクレツィアへと礼を返す。
(これはまず最初の一歩です。私の失敗は、私の手で解決しなければ。こんなに小さなことでも将来的にリオの治世の妨げになるかもしれない。考えすぎるほどに考えろ、とレティ様は教えてくださいました。
何より、『役立たずのアリエラ王女』のままでは、ルクレツィア様が私を認めてくださる機会が無くなってしまう。私の価値は私自身が示さなくては。泣いて逃げ帰ったまま別れるなど我慢ができません!)
周囲からの評価とは反して実は負けん気の強いアリエラ。彼女はルクレツィアへの劣等感から強張る頬を感じつつも、決意で強く手を握るのだった。
馬車の中に、傾き始めた陽の光が射し込んでいる。
「もうすぐ貴族領へと入ります」
「そうか。早いものじゃの。この涼しい馬車とも早々、別れることになるか」
残念そうにため息を吐き出すルクレツィア。
アリエラ、一葉、レイラだけでなく、なぜかルクレツィアも乗り合わせているこの馬車は、ミュゼル王家所属の馬車である。手触りの良い布や香りの良い木材などを使用したこの馬車は、下手な貴族などでは入手するにも家を傾ける程の価値を持っている。
4人が乗ってもなお余裕があるこの馬車には今、アリエラの侍女はいない。騎士の2人やルクレツィアが乗り合わせているため、狭く不快な思いをさせるよりはと侍女たちは別の馬車で待機しているのだ。
(揺れが少ないのは何か仕掛けがあるとか? 車輪自体も綺麗なものだし。魔術の補助もあるんだろうけど……。この世界の技術バランス、やっぱり分からん)
騎士団の馬車よりも格段に快適であり、感心すると同時にいくつもの疑問が馬車を見た瞬間から一葉の頭を過った。そしてその疑問は未だ彼女の頭から離れない。地球よりも2、3回りほど大きな癖に、どこか馬に似た3頭の獣。車輪のように、文化が全く違うにも拘らず地球と同じような結論で細工をしてある技術。
この世界は依然として、一葉の好奇心を刺激し続けているのだった。
(『技術オタク国家』の日本に生まれた人間として、これを見過ごすわけには……! とか言って、追求したいけど。そんな場合でもないしなぁ)
『そんな場合でもない』理由を思い出して一葉は軽く眉を顰めた。
馬車の主ではない一葉には、この場で『するべきこと』と『しておいた方が良いこと』がある。自身の好奇心は『置いておくべき』だということは普段から不真面目を自覚している彼女とて充分に理解しているのだ。その上で馬車内に流れる気まずい空気から逃れるように、一葉は『しておいた方が良いこと』である空調作業へと没頭するのだった。
そんな一葉へ向け、未だ残念そうなルクレツィアは軽い声をかける。
「うぅむ、ついにこの技術を盗むことが出来なんだ。……のうイチハ、この術をもう少し効率化した暁には真っ先に妾へと知らせやれ?」
「はは……ずいぶん堂々と言いますね……」
「別に何かを吹き飛ばす術でもなし、空気を抜き窒息させる訳でもないのじゃ。問題はあるまい?」
「や、まぁ、そうと言えばそうですけど……」
一葉の空調術目当てに態々ミュゼルの馬車へ乗り込んできたと言っても過言ではないルクレツィアは、一葉が暇を見つけては術を改良していることも知っている。
本来、術の研究を専門とする術士ならば研究成果を簡単に教えたりはしない。それを承知の上でしれっと言い放つルクレツィアに、一葉だけでなくレイラもまた苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
「あー……『もし』成功したら、そのときにでも」
一葉は投げやりとも取れるような口調で返事をした。一葉のそれが『肩をすくめたい気分』からの声だと分かったアリエラは彼女の隣で『クスッ』と声を漏らすが、それも僅かなこと。視線を動かすことでルクレツィアが見えるなり、すぐにアリエラの表情が強張ったのだ。
確かにアリエラの変化を目にしたはずではあったが、ルクレツィア本人だけでなく2人の騎士たちもそれに触れることは無かった。
(さて、どうしたもんかねぇ。私こういうの苦手なのに)
一葉は外を眺めながら、内心で愚痴と共にため息を吐く。
アーサー王へ無理を言って同行したにも拘らず、アリエラはルクレツィアと直接話せないままに翌日である今を迎えていた。そしてアリエラの狙いを知っているだろうルクレツィアだが、彼女から何かを起こすことは無かった。
(小さい子がケンカの後に、友達とどう話していいのか分からなくなってるような感じだと思うんだけど。下手に手は出せないし……ホント、どうしたものか)
今でこそ誤解と偶然とは言えサバを読んではいるが、一葉にも22年の人生経験がある。このような時に外から余計な手を出せば話がこじれることを彼女は身を以て知っていた。
(このまんまだと何も話さないうちにバイバイ、ってなりそうだけど。時間を延ばすための交渉を頑張ったところで、レティさんと話をしないとそれが全部無駄になっちゃうんだよ、アリア。
……っていうか、この空気だよ。なにこれ。なにこれ! 気まずい。余計なことを言ったらそれだけで凍りそうなこの空気、リアルに重いっ! 侍女さんに馬車を任せて、馬に乗れば良かったかもー。乗馬したことないけど)
まさか内心の荒れ様を表に出せるわけも無く。現実逃避も込めて馬車の窓から外を見やれば、遠くまで見晴らしの良い景色があった。丁寧に砂利を除かれて踏み固められた街道、とても見晴らしの良い草原。前方には小さな森もある。馬に乗ったとしても暴走の危険こそあれ、衝突しそうな危険物などは見当たらなかった。
空はどこまでも青い。この馬車の中の空気とは反対に、明るい光に満ちてとても良い天気である。
(あー、外に出たい。誰か何とかしてくれないかなー)
外を見つめ続けていると、相棒であるレイラが微かに身じろぎした。
「イチハ殿」
「……あぁ、はい。分かりました」
低めだが芯の通った声はレイラの性格そのままを映している。気配に聡い彼女の様子から、一葉は外に流れる異常な空気に気付いたのだった。アリエラとルクレツィアもそれぞれにレイラを見ている。
(もうすぐ貴族領。それなら、このギリギリの位置で襲って被害を出すのが一番確実。
警戒されてることは向こうも知ってるだろうけど、ドサクサに紛れてでもとにかくレティさんに被害があればそれで良いんだし。王都から結構距離もあるから、こっちも準備してたとしても限度はあるし。貴族領に援軍を頼もうにも距離があるから駆け込みも難しいし。突破の可能性があるんだから、多分罠の1つや2つくらい仕掛けてそう。
応戦する場合の問題は、どのくらいの戦力差があるか。それから、どんな戦法で来るか)
一葉が顎に手を当てて考えているうちに馬車は動きを止めた。先ほどは200メートル程離れていた森も、今では50メートル程しか離れていないだろう。
貴族領はまだまだ遠い。馬車が全速力を出したところで、1刻から2刻はかかってしまうだろう。
(この先の道の状態が分からないから馬車を飛ばせとも言えないし。やっぱ罠がね。
っていうか、車体とか装備とかの違いがあるし。全部が全部同じスピード出せる馬車でもないだろうし。この馬車は一番手がかかってる分逃げ切りには向いてるだろうけど。それって全然意味ないし。
それなら何かあってもこの場で何とかするのが一番、かな?)
納得してひとつ頷いた一葉を見て、レイラが出口の扉へ手をかける。
「私が様子を見てきます」
「私は備えてますね」
それぞれに声を出して配置を確認し、頷いたレイラは外を見回る兵士たちに紛れてそっと馬車を降りた。馬車の中では一葉がルクレツィアへと声をかける。
「レティさん、今回は大人しくしておいてくださいね」
「妾がそう簡単にやられると思うたか! と、言いたいところではあるが、仕方があるまい。妾が一筋でも傷を負うたら、今は特に大事になろうからな」
ルクレツィアの返答に一葉は肩を竦めて答える。
(実際、ホントに大体の事はどうとでもするだろうけど。ギリギリの状態まではある程度守られて欲しいよね。護る側にしたら落ち着かないことこの上ないわ。護衛のおにーさん、ホント気の毒)
普段はサーシャから同じように思われているとは露程も考えていない一葉。そんな彼女の耳に馬車の側面を叩く音が届いた。一葉が確認のためにアリエラへと視線を向ける。アリエラは緊張からか声こそ出せないものの、ひとつ頷き手のひらで出口を示した。
(側にいなくても平気そうかな。レティさんに意地を張ってそうだけど今はお言葉に甘えとこう)
アリエラの状態を判断した一葉は、ノックの相手がレイラであることを確認してから馬車をするりと抜け出す。そしていくつかの馬車の裏を経由し、アリエラとルクレツィアの乗る馬車が見える範囲で表側……森や街道の先が視界に入る位置へと進み出た。
「んっ……? えっと、レイラさん。一応ですけど、カモフラージュ……偽装? しておきましょうか。どの馬車に誰が乗ってるか……まぁアリアは馬車から分かっちゃうだろうけど、レティさんの位置が分からないように全部の馬車に盾を張って。偽物の馬車にだけ張ってもいいけど、それだとアリアたちの護りが手薄になりますし」
「そうですね。お願いできますか?」
レイラの言葉に一葉は頷き、息を吸い込む。
『結界・創』
一葉のささやかな声とともに、透明な半球状の壁が全ての馬車を包み込む。
城勤めのため、ミュゼルの衛士たちは元々一葉の術を多かれ少なかれ見聞きしている。一葉が同行していると知っている故に彼らには特に混乱などは見られなかった。
しかしアーシアの兵たちからは、一葉による見たことも無い術への混乱の声が上がる。説明を受けたところで唐突には思い出せないのだろう。急に出現した得体の知れない現象に浮足立つばかりであった。
そんな兵たちの声を聞くことで全ての馬車に結界が張られたと判断したレイラは、前方の一点……緑の茂る森を示した。
「予測どおりです」
ジョシュア=ルイズは連日、頭痛に悩まされていた。
原因は考えるまでも無く彼が仕えている主である。彼の故郷であるアーシアだけでなく近隣に名だたる霊国の王女、ルクレツィア=ファルス=アーシア。彼女を護衛する護衛団責任者の補佐としてジョシュアも現在、ルクレツィアのミュゼル王国訪問に随行していた。
護衛責任者とは護衛団の動きすべてを把握していなければならない役職であり、王女1人にだけ目を向けている訳にもいかない。そのため、補佐であるジョシュアが主にルクレツィアの護衛に就いているのだ。
(まったく……また、問題が起きた)
ジョシュアは今年で26歳になる。アーシア貴族ルイズ家の次男である彼は、次男であるために領地を継ぐことは無い。しかし彼は少しでも尊敬する父や敬愛する兄の役に立とうと思ったために兄とは違う武の道を選んだのだ。
彼は恐らく領地を治めるより剣を握る方が向いていたのだろう。元々それなりに力があった彼のこと。アーシアの成人である18歳で仕官をしてから、彼はさらに周囲が目を見張るような成長を見せた。そして気付けば王女の護衛兵に含まれる程となっていたのだ。
しかし、今回の随行役が名誉なことだと彼は思っていない。
彼の出世を喜ぶ親族は知らないのだ。ルクレツィアの、華やかで偉大な姿しか。
(なぜ、あの方が行く先々で面倒事が起こるのか。……いや、分かっている。態々問題を起こし、起こさせ、後の禍の芽を摘んでいることくらい、な)
何しろルクレツィア王女である。他国でこそ多少は淑やかになるものの、自国では常に歯に衣着せぬ物言いをすることも少なくはない。そして自分へと送られた曲者を自ら率先して撃退し、次の日には送り主を更迭するほどの手腕を持った次期女王なのだ。
国の害になると判断すればいくら重鎮であろうとも、顔色ひとつ変えずに処分を下す王女殿下。統治の才が無いと自覚しているジョシュアなどから見れば、その姿は氷の心臓を持っているとしか思えないものだった。
次期領主として見聞を広げる兄や実際に登城している父。彼らは王女の護衛兵へ出世した時だけでなく今回の任命を聞いた瞬間にも、微妙な表情でジョシュアをねぎらった。
有能であり賢明で偉大な彼らには話を聞いただけで、これからのジョシュアの苦労を嫌と言うほどに予想が出来たのだろう。
ジョシュアが王宮へ上がるようになってからそろそろ8年が経つ。護衛のひとりに名を連ねてからもそれなりに長い時間が経っている。必然的に彼もルクレツィアの人となりを見てきた。
いや、人となりだけではない。彼女に迫る危険の多さもまたその目に収めてきたのだ。
この数日は平穏な日々が続いていたので、多少気が緩んでいたのだろう。何と言ってもルクレツィアの護衛をミュゼル王女やその騎士たちが受け持っているため、普段の忙しさを考えればジョシュアたち随行人はほぼ休暇を貰っているようなものであった。ジョシュアとてルクレツィア王女の後をついて歩くのみ。その危険度はアーシア国内にいるときと比べ、雲泥の差であった。
1度だけ侍女に紛れた曲者たちの襲撃はあったが、それも王女がミュゼル側に話を通していたようで被害らしい被害も無くことが収まった。
アーシアの護衛兵としては、自分たちに話が回ってこなかったことは面白くない。しかし自分たちを使えない理由も彼は分かっているつもりだった。誰が裏切り者かが分からない。どこから話が漏れるかも分からないのだ。迂闊に信用し話をするなど不可能だったのであろう。
確かに面白くはない。しかしあの襲撃の時にルクレツィアの傍に控えさせられていたことから、彼自身は疑われてなどいなかったと理解することで僅かばかり気を紛らわせていた。
(そういえば、ミュゼルの王女の護衛は女性だったか)
ジョシュアは襲撃を思い出し、さらに襲撃のときに見た2人の女性の動きを思い出す。アーシアでも女性兵士はそう珍しい存在でもないが、しかしそれを見慣れている彼でも2人の騎士は目を惹く存在だった。
灰金の髪を持つ女性は明らかなる騎士。その所作はとても洗練されていたが、明らかに綺麗なだけではない何かも含まれていた。良く斬れる剣は、美麗な装飾が施されていた所で装飾用の宝剣とは異なる空気を放つ。彼女はその良く斬れる剣に似た空気を放っているのだ。
何より気配に対する感覚の鋭さにも驚かされた。遠くからチラリと視線を流しただけですら捕捉され、一瞬ではあったが目が合った。まさか気付かれているとは思わなかったジョシュアは、後から背中の冷汗に気付き愕然としたのだった。
そしてその片割れである騎士にも彼は驚いた。ミュゼルより成人が早いアーシアですら未成年であろうが、しかしその雰囲気からは、同年代の少女たちからは見られない落ち着きを感じた。
強いか弱いかなどは分からない。しかし何がとは言えないが、とにかく『異質』なのだ。訓練場で合った視線を彼は忘れない。あの底の見えない黒い瞳は、恐るべきことに術を使うことが出来たのだ。だがそれもジョシュアは受け入れる。何事にも『例外』があることは、ルクレツィアに付き従うようになってから嫌というほどに見てきたのだから。
1人ずつ別々に会っていたとしたらここまで気になることは無かっただろう。2人一緒に行動していたからこそ、ジョシュアは彼女たちに目を惹かれた。
訓練場での襲撃で女性騎士2人の連携を目にしたとき、ジョシュアは目が醒めるような思いがした。言葉に出さずとも各人の僅かな動きから相手の望む事を汲み取り実行していたのだ。簡単な指示や簡単な連携などは当然存在するが、自国ではあまり他人との連携を重んじられない。また連携が存在すると言ったところで所詮口頭での話でもある。
ジョシュア自身も他人と共闘するよりは彼自身で対応する方が得意だと考えている人間であった。そんな彼だが術士と剣士……いや、兵士との連携がうまくいけば、格上の相手すら倒すことが可能なのだと朧気ながらも想像してしまうほどの衝撃を彼女たちから受けたのだ。
強い敵が複数いたところで、どうにかして1人、もしくは1体ずつ戦うように出来れば問題など無い。それはアーシアの兵たちにも言えることなのだ。どれ程強くとも方法を選ばれなければ負けてしまう。
ミュゼルの兵士よりも平均値は高いものの、アーシアの兵では団体で戦えば負けてしまうだろうと言っていたルクレツィア。その意味を、あの2人を見たことでようやく納得できたのだった。
(ミュゼルには良い人材が多いようだ)
あの多分に甘さの残るミュゼルの王女に付けるには、彼女たちは少々もったいないのではないかとも頭をよぎる。しかし彼はすぐに振り払った。素直さが目立つミュゼルのアリエラ王女。あの甘さが無くなったときには彼の主とは別の方向に、しかし同じくらい有能な為政者になるかもしれないのだ。
何よりルクレツィアが、素直な言葉ではないとはいえ彼女の頭の回転を褒めていたではないか。多少見込みがある程度では鼻にもかけないルクレツィアが、である。それならば彼女は未だ成長途中なのであろう。他国の兵士でしかないジョシュアが何かを思うことなど許されてはいなかった。
世界は広い。ひとも多い。ジョシュアは国で、さらに鍛錬を積もうと思った。ミュゼルの騎士たちに自分が劣るとは思っていない。しかしこの先、今の自分が勝てない相手と対峙することになってからでは遅いのだ。
(そろそろ襲撃があってもおかしくは無い筈だとは思っていたが、本当にあるとはな)
ミュゼル王国の王都を出発してから1日が過ぎた現在、中央直轄地と貴族領との境は目と鼻の先に迫っている。襲撃があるならばこのあたりだろうと、出発前の打ち合わせの場でも意見が出ていた。
(全く、恨めしい)
馬上からジョシュアが向けた視線の先には、ただならぬ気配を纏った一団が街道を塞いでいるのだった。打ち合わせでは意見として上がらなかったが、諸々の事情を考えればここで迎え撃つしか選択肢は無いだろう。
街道を塞ぐ集団を視認してから僅かの後、行軍する全ての馬車が突然透明な何かに覆われた。悲鳴を上げるアーシア兵たちもおりジョシュア自身も何事かと身構えたが、ミュゼルの衛士たちが全く動揺していないことから害のないものであると確信する。
(あぁ、あの黒い髪の騎士か)
落ち着いたと同時に彼の脳裏に映像が閃いた。この透明な何かは、ミュゼル王城での襲撃時にあの小柄な黒い瞳の騎士が守護用の盾として創りだしていたものであったのだ。
ここで捨てても良い馬車だけではなく全ての馬車に張られた盾を見て、ジョシュアはすぐに頭を切り替える。今するべきことは1つ。
「まずはあの邪魔者どもを退かさねばならない、か」
頭痛が響く重い頭を振り、ジョシュア=ルイズは付近へ指示を出すために息を大きく吸い込んだのだった。