第24話 嵐の襲来
「のぅイチハや。妾の騎士にならぬかー? アーシアに来た暁には給料に色を付けよう。仕事も選びたいだけ選ばせてやるぞ」
「いやいや、お金も働き口も今のところ間に合ってるので結構です」
愉快そうに笑う声を一葉はにこやかに断った。僅かに思案したルクレツィアは口の端を釣り上げ、もうひとりの騎士へと視線を移す。
「ならばレイラはどうじゃ? ぬしは妾を嫌いか?」
「嫌いではありませんが、申し訳ございません。私も辞退いたします」
「そうか、仕方がないな」
ルクレツィアは間に置かれた小机を指先で叩いた。そして向かい側に座るアリエラへと意地悪く笑いかける。それは誰から見ても挑発的な笑みであった。
「じゃがな。妾は諦めんぞ? ミュゼルにいる間ならば時間などいくらでもある」
一葉とレイラへ向けた言葉に見えるが、その実アリエラをからかうためのもの。しかし本人だけがそれに気づかず不安に肩を揺らしているのだ。
アリエラが気兼ねなくルクレツィアと話せるようになるには暫く時間がかかるようだった。
始まりは20日ほど前のことだった。
「一体、何でしょうか。最近は真面目を心掛けているので、叱られるようなことはしていない筈ですが」
「そうかなー」
アーサー王の執務室へ向かう途中、流石に私室ではないため一葉は小声でアリエラへと呟いた。
「この前ゼストさんの授業中、興味のあることしか真面目に聞いてなかった気がするけど」
「仕方がないではありませんか! 分かっていて話に出したゼストが悪いのです!」
焦げ茶の髪の騎士は何の屈託もなく言い放つ王女へ肩を竦めて歩を進め、国王の執務室へと入っていった。
碧の節白金の月半ば。一葉誘拐の後始末が付いた暑い日に、アリエラとその騎士たちはアーサー王から呼び出しを受けたのだった。
「来月の10日前後になるのだがな。アーシアからルクレツィア王女がミュゼルを訪問することになった。宮廷魔術士の視察だ」
アーシアとは、ミュゼル王国の東に位置するアーシア霊国のことである。海と川、森と山など豊富な資源を持つミュゼルは王都を中央に配し、東西に少々広がった楕円のような国土を持っている。対してアーシアは、南北が長いひし形に近い形をした国土の7割以上が森に覆われているという森の国。その土地に何かの力が加わっているのか魔力を多く持つ者が多く生まれ、大陸随一の魔術大国という面も持つ。
余談ではあるが、平均的に魔力が低いミュゼルは兵全体の練度においてはアーシアに勝っている。アーシアの兵は平均的な個人の力は強いものの纏まりに欠ける傾向があり、その時の雰囲気で実力が大きく上下するのだ。
親しい関係を持ち弱点を補い合うことで、共通の敵へと備えてきたのだ。
「滞在期間は約10日だ。今回は正式訪問ではないため夜会などは予定していない。今までは国内の政務を担っていたが、20歳を機に外交にも少しずつ力を入れるとのことだ」
「昔、小さいときには一緒に遊んでいただいたと聞いておりますが……残念なことにあまり良くは覚えていません」
首を傾げながらのアリエラへ、アーサー王は頷いた。
「国の中が色々と忙しかった故、あまり外には出さないようにしていたらしいからな。まぁ、非公式だが訪問は訪問だ。そこでアリアにはルクレツィア王女の滞在に関わる雑事を取り計らってもらう」
「分りました、父様」
「ルクレツィア王女は次代の女王として色々なことを学ばれているそうだ。アリアも王女に接することで何かと得るものはあるだろう」
「はい。今から楽しみです」
それからひと月弱の後、紅の節黒の月の10日。
暑さ極めるミュゼル王国の王都へと予定通りに足を踏み入れた、アーシア霊国王女ルクレツィア=ファルス=アーシア。招き入れられた謁見の間に気後れすることなくアーサー王、アイリアナ王妃、アリエラ王女が座る玉座の前に立ち、豪奢な衣装に身を包んだその女性は優雅に一礼をしていた。その後ろには彼女に随行してきた中でも高位の者が数人正装を纏い、礼を取っている。
着飾っているのはアーシアの人間だけではない。
一葉やレイラなどの騎士たちは純白のマントを羽織り、ウィンをはじめとした貴族たちはいつもよりも着飾っている。この日の謁見の間には貴族たちがいつもより整然と並び、そしていつもより煌びやかな空気を醸し出していた。
「ルクレツィア=ファルス=アーシア、ただいま到着いたしました。アーサー王、アイリアナ王妃。お久しぶりでございまする」
「ルクレツィア殿も随行の者も楽にしてほしい。……しかし、見違えるように成長したな。立派な娘を持ち、女王はさぞ自慢に思っていることであろう」
「本当に。綺麗になりましたね」
アーサー王とアイリアナの言葉にルクレツィアは緩く首を振った。
「ありがとうございまする。ですが妾はまだまだ。至らぬところばかりゆえ女王たる母上からは常々叱責を受けてばかりです」
うんざりした表情を浮かべ正直に愚痴を吐き出すルクレツィアに、貴族たちから薄く笑いの気配が漏れる。アーサー王もまた頷きつつも苦笑している。
「このミュゼルにいる間は少し羽を伸ばしてほしい。アリエラ」
「はい」
アリエラが玉座から立ち上がり、ルクレツィアの前へと進み出る。
「年の近い同性がいないのは何かと不便であろう。滞在中は何かあればこのアリエラへと話してほしい」
「お久しぶりでございますルクレツィア様。アリエラです」
「アリエラ殿……アリエラ殿か! なんとも……別の方かと思いました。最後に会ったのはアリエラ殿が4つか5つの時でありましたかや?」
「えぇ、そうです」
「あの頃はレティ姉様、と妾の真似をしたがったものでしたが……大きくなられて」
「ふふふ。体は大きくなっても、まだまだ未熟のままです。そうですか、私はルクレツィア様の後を……」
アリエラはそう言うと、僅かに申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「あまりに幼かったので記憶が薄れてしまったのが残念でなりません」
「仕方がありませぬ。『レティ姉様』と呼ばれぬは寂しく思いますが、今までは今まででこれからはこれから。折角またお会いできたのです。この10日は妾と、また姉妹のように暮らしましょうや?」
ニコリと微笑む彼女はその控えめの表情と容姿や服装などが相まって、ミュゼルの住人達の眼には非常に神秘的に映った。
真っ直ぐに流れた濃紺の髪を顔の両側にひと房ずつ残し、上部の髪を複雑な形へ結い上げているルクレツィア。一葉の目算で165センチほどの細身の身体には振袖のようなものを重ねて纏っており、つり気味の目尻には朱を刷いている。
優雅に微笑んだその姿には誰が見ても次期女王としての貫録がある。彼女が将来『アーシア霊国』という不思議な響きの国を背負って立つことに対して、ミュゼルの人間は心から納得し、アーシアの人間は誇らしげな顔をしていた。
アリエラもまた憧れの視線を彼女へと送っている。
「嬉しいです。私には姉がおりませんので、常々姉というものに憧れておりました。出来ましたら暫くはここを我が家と思ってお過ごしください」
その時ルクレツィアの濃紺と深緑の瞳がアリエラの言葉と共に揺れたが、眉を顰めたのも一瞬だった。アリエラへは笑顔を向けたままである。
(音……2回? 何かに紛れたかの)
集中しなければ気づきもしない程小さな音。それは確かに彼女の耳へ届いた。そして周囲の人間からは僅かばかり動揺した気配も感じられる。現にルクレツィアの視界の片隅で、銀髪の男が眼鏡を押し上げた仕草で明らかに何かを隠していた。僅かだが芯のある魔力の持ち主は、王族の後ろへ控えている焦げ茶色の髪の少女のものだろう。
彼女だけが周りと異質の雰囲気を抱いているため、ルクレツィアにとって特定はそう難しくはなかった。
「さて。ルクレツィア殿も長旅で疲れていよう。部屋に戻ってゆっくりと休まれよ」
「アーサー王、並びにアイリアナ様のご退出でございます」
魔術で響かせたゲンツァの声と共に、アリエラを残して王と王妃は謁見の間を後にした。アーシアの随行者たちも先に退出していく。そして居並んだ貴族たちもまたルクレツィアを窺いつつ、躊躇いながらも順に退出していった。
あらかたの人間がいなくなるまで要人を残しているのは、この国なりの警備上の理由からである。ひと気のなくなった謁見の間にて漸くアリエラたちは動くことを許されたのだった。
「ルクレツィア様、お部屋へお戻りになりますか? 父から許可を得ているので希望されるならば屋上庭園への案内もできますけれど」
アリエラが尋ねるとほぼ同時、神秘の王女は今まで被っていた仮面を脱ぎ捨てた。
「妾は外の空気を吸いたい。馬車は確かに豪華で結構だったがの、始終侍女たちが傍にいては辛気臭くて敵わん。許可があるならば遠慮はせぬぞ。アリエラ殿、今すぐ屋上庭園へ連れて行ってもらえるかや? 全く……これだから堅苦しい場所は嫌なのじゃ」
ぶつぶつと不平をこぼすルクレツィア。彼女は私室でもないのに襟を寛げ始めており、そんな彼女をアリエラは慌てて制止した。
「ル、ルクレツィア様! このような場所で!」
「レティ」
「え?」
アリエラの言葉を遮ったルクレツィアに、アリエラだけでなく彼女の傍で控えている一葉とレイラも首を傾げる。
「妾の事は昔と同じようにレティと呼んでくれぬかや。ルクレツィアなどと呼ばれるのは嫌いな相手と公の場だけで充分じゃ。妾の侍女たちもレティ様と呼んでおることじゃしの。何より、アリエラ殿から『ルクレツィア』と呼ばれるのはやはり寂しいのじゃ」
「いえ、でも……」
「ふむ……まぁ、妾もアリア殿と呼ばせてもらうからの。それならばお互い様じゃ。それとも何か? ここを我が家と思えとは口先だけの方便かの? 妾たちは姉妹ではなかったのかや? なんと寒々しい関係じゃな!」
「い、いえ、そんなことは……」
「妾は悲しい。妹を愛称で呼べぬ。妹からは他人行儀に呼ばれる。そんな冷えた家庭で10日を過ごさなくてはならぬとは……!」
額に手を当てつつ仰け反り、大仰に嘆く彼女。そのお蔭で先ほどまで漂っていた神秘的な雰囲気が霧散した。この何とも言えない押しの強さや奔放さこそがこの王女の『本質』であると、ミュゼルの3人は今まさにその精神へと叩き込まれたのだ。
やがてアリエラは諦めたように、もしくは意を決したように唇を開く。
「レ、レティ……様……」
「ん? なんじゃ?」
ようやく愛称を呼ばせたことで心底から楽しそうなルクレツィア。視線を逸らし頬を染めてもじもじとしているアリエラは、そんな彼女へ向けて一言だけ呟いた。
「お願いですから、襟を正してください……」
「暑苦しいことじゃのぅ……」
嫌そうな表情を隠そうともせずルクレツィアは乱れていた胸元を直した。
どうやら奔放な王女殿下は、堅苦しい服装を好まないようである。
「おぉ、ここがミュゼル王城の誇る屋上庭園か!」
ルクレツィアは屋上へ着くなり空を見、植物に触れ、水を掬いながら歓声を上げた。ルクレツィアの隣にはアリエラがおり、一葉とレイラは数歩下がって控えている。
「レティ様、お気に召しましたか?」
「うむ。妾の母上も度々ミュゼルに訪れておるのじゃがな。この屋上庭園の話を常々聞いておったのじゃ。母上は何につけてミュゼル王城の屋上庭園は美しいと言っておられる。妾の幼い時は好奇心を抑えられぬ子供での、転げ落ちる危険があったゆえ庭園には入れてもらえなかったのじゃ」
庭園の内部にある長椅子へと腰かけ、ルクレツィアは満足そうに微笑んだ。その2色の瞳で辺りの植物を愛おしげに眺め、その右手は籐に似た材質の長椅子を撫でている。
彼女の位置からはミュゼルの空と植物たち、華麗な噴水、遠くに見える山々、活気のある城下が同じように見えた。
「我がアーシアは森の国。それはそれで美しいが、だからこそ水や空と一緒に楽しもうとは思わん。樹には樹の、水には水の良さがあり、それぞれの良さを主に見ているのじゃ。
しかし国にはそれぞれ良さがある。ミュゼルの良さは、山や川、空や大地がそれぞれ混ざり合って『生きて』いる逞しさだと妾は思っておる。それが国の空気にも影響するのじゃろ」
「……私も、そう思います」
ルクレツィアは別段褒める気も貶す気もなく言ったのだが、だからこそその言葉はミュゼルを愛するアリエラの心に響いたのだった。
「して、アリア殿」
「何でしょうか?」
ルクレツィアはアリエラへ向けて居住まいを正した。
「妾はアリア殿にひとつ、お願いが出来たのじゃが」
「私に出来ることでしたら何なりと」
改まった『姉』の言葉に、アリエラは非常に緊張しながら続きを待った。濃紺と深緑の瞳は思い詰めたような表情で固められている。
(一体、何を言いだされるのでしょう。予想がつきませ――)
「妾にそこな騎士をくれ」
「はい?」
アリエラは自らの耳を疑った。そして慎重に、そして恐る恐ると言った体で尋ね返す
「申し訳ございませんが、上手く聞き取れませんでした。もう一度、ゆっくりと言っていただいても、よろしいですか……?」
アリエラの唇が引き攣る。しかしルクレツィアの表情は髪の一筋ほども変わらなかった。
「妾に、そこな騎士を、くれ」
二度目の要求。アリエラの空気が固まった。彼女の世話を焼く一葉が目配せを送れば、レイラはゆっくりとした動作で前へと出る。
「失礼ながらルクレツィア様。ミュゼルの、しかも王女の護衛騎士であるイチハ殿を望むその理由をお伺いしてもよろしいですか?」
レイラの言葉にルクレツィアは笑った。
ニヤリと、嫋やかな外見からは想像もつかない種類の笑みを浮かべて。
「そうか、そこの騎士はイチハと申すか。して、ぬしの名は?」
「……大変失礼いたしました。私はレイラ=ルーナ=アーレシアと申します。普段はこのイチハ=ヴァル=キサラギと共にアリエラ様の警護をしております」
「アーレシア? アーシアの西側に接しているアーレシア領か」
「はい」
「そうか、アーレシアの次期当主か……」
ルクレツィアは目を細めて満足そうに微笑む。そして紅い唇を弓形に引き上げ、愉しげに言葉を継いだ。
「言い方が悪かったせいで勘違いをしておる様じゃな。妾が欲しいのは片方ではない。ぬしも含めた両方じゃ。2人ひと組で上手くいっている者を無理やり引き離すなど馬鹿の所業じゃろ? それが武官なれば尚更じゃ」
「失礼を承知で申し上げますが、やはり理解できかねます」
ルクレツィアへと返しつつ、レイラの眉が微かに潜められた。
(……何やら胸騒ぎがします。イチハ殿ならどう考えるでしょうか?
イチハ殿の力も未だご存知ではないでしょうし、私にしても、確かに以前より腕を上げたとは思いますが上などまだまだいます。……そう、話が急すぎる。裏があると思った方が良いでしょうね)
レイラの疑念を知ってか知らずか、ルクレツィアは笑いながら右の人差し指を振る。ちらりとアリエラを見た色違いの瞳は心底楽しそうであった。
「ふむ、それでも納得せぬか。ならば仕方がない。今はまだ、ぬしたちの力など二の次じゃ。本音を言えば、ミュゼルの王女様が執着する2人の騎士たちに興味が湧いたからじゃ」
「ダメです!」
アリエラが突然立ち上がり様テーブルを力いっぱい叩いた。しかし威嚇のはずだったそれも、ルクレツィアがニヤニヤと笑っているところから効果は知れたものだった。
「なぜ? ミュゼルならば訓練された騎士など他にもいるであろ? それも両手両足では足りない程にの」
「そのお言葉、ルクレツィア様にそのままお返しいたします!」
アリエラが頬を膨らませて『ルクレツィア様』と呼んだ真意など充分以上に理解しているが、しかしルクレツィアは変わらず楽しげに笑うのみ。軽やかな笑い声を上げてアーシアの王女は翳した人差し指を軽く振った。
「仕方がない。今日のところは勘弁しておくかの。会ったばかりの妾に乗り換える者など、勧誘した妾とて信用できぬわ。じゃが」
顎をついっと反らし、アリエラには出来ないであろう妖艶な表情を浮かべてルクレツィアは微笑んだ。
「妾は諦めが悪い。アリア殿、騎士たちを自らに繋ぎ止めたくば頑張ることじゃな? でなければ妾はどのような手を使ってでも、気に入った『もの』を自分の『モノ』にするからの」
「く……っ」
呻いてはいるが、アリエラからはどんな言葉も出てはこなかった。
(あーあ。アリア、手に入らないことはあっても取り上げられたことは無さそうだし。レティ様との付き合いは苦戦しそうだなー)
碧の目で睨むアリエラを気にもせず、ルクレツィアはゆるりと立ち上がった。
「妾はそろそろ部屋へ帰るとしよう」
「では私が護衛を」
ルクレツィアの客間は4階にあるため、彼女が移動する際は警備にあたる衛士たちの他に一葉かレイラのどちらかが、ミュゼル側の警護責任者として同行することになっている。
アリエラの相手に苦労しそうな予感がしたため、なだめ役に向いている一葉を残してレイラが名乗りを上げたのだった。
「そうか、それではよろしくお願いしよう。アリア殿。妾は先に失礼いたしまする」
「……はい。城内ではありますが、お気をつけて」
アリエラは内心で強い葛藤を抱いていた。自分の視界にいない間、レイラがルクレツィアに何を言われるのかが分からないのだ。しかし彼女も付いていくことは、明らかに理に反すること。何をどう言ったところで素直に見送る他はない。
(あぁぁぁっ! あまりレイラに近寄らないでくださいっ!)
アリエラがじっと見つめている先、先導するレイラに対してルクレツィアは親密に話しかけている。その背中が見えなくなってから、アリエラはようやく力を抜いて長椅子へと座り込んだ。
その表情は苦渋に満ちたもの。
「イチハ、どうしましょう」
「何が?」
傍に立ち何でもないような声で尋ねる一葉の顔を、アリエラは唇を噛みしめながら見上げた。
「イチハとレイラが理由も無く国を離れることは無いと信用しているのです。しかし、私の心は大人しく納得してくれません」
アリエラの心を占めているのは焦燥感。今までは自分だけを見ていてくれた騎士たちの視線が、もしかしたらルクレツィアへと向かうのではないかと思う焦り。
本来であれば兄弟関係の中で味わうはずのものだが、弟が生まれたのは彼女が10歳の時。既に新しくできた弟をライバル視するような歳はとうに過ぎていたのだ。
アリエラはこの日、生まれて初めて『競争相手』が出来たのだった。
現在、低い音の1刻を四半刻ほど過ぎていた。
サーシャと訪ねてきたウィンを相手にし、一葉は難しい顔をしている。淹れたときには丁度よく温かかった紅茶も、既に冷たくなっている。
「アーシアの王女殿下がいらしているので、現在は大事を取って練兵も魔術の実験や訓練も禁止されています。謁見の間を狙ったとみて間違いが無いでしょう」
眼鏡を押し上げながらウィンはそう呟いた。
「……また、何か起こりそうな気がするね」
「このところ続いていましたからね。根が同じならば、一度噴き出した悪意を止めることは難しいでしょう。しかし今回は厄介です」
「不届き者は出ませんでしたか」
サーシャの断定口調にウィンは苦い表情を浮かべている。
「えぇ、その通りです」
3人が問題視しているのはこの日、謁見の最中に起こった出来事についてである。アリエラとルクレツィアが挨拶を交わしている時に、ごく僅かな魔力により何かしらの魔術が構成されたのだ。
それに気づいたのはイチハとウィンを含めて片手で足りる程の人数である。
謁見の間では普段、風属性の騎士が拡声の術を使用しているが、一葉が見た限りその騎士の魔力ではなかった。間違っていたら申し訳ないとは思いながらも、隠しきれない禍々しさから9割方敵だと確信した一葉。術を壊した上で彼女はいつかのようにカウンター攻撃も加えていた。
ルクレツィアの耳に届いた微かな音は、一葉が『コトダマ』を使うために起こした靴音だったのである。
「全く嘆かわしいことです。貴族しかいなかったとはいえ、何人かは私のように宮廷魔術士でもある人間が居たはずなのですが。結局、あの魔力の流れに気付いた人間は殆どいないようでしたね。役に立たないのならば職を辞した方が良いと思うのですが」
形ばかりの『宮廷魔術士』へと苛々としているウィンに一葉は軽口を叩くことを遠慮した。
謁見の間を出たウィンは急いで医務室へと向かい、そしてサーシャに頼んで城内に倒れている人間が居ないかを密かに調べてもらったのだ。その表情と内容から、サーシャは何も言わず探索したのだった。
大事には出来ないため、個別に報告することは出来ない。何かの事件がルクレツィアに降りかかれば、それだけで国と国との問題へと発展してしまうのだ。
調査結果や一葉の所感などをまとめ、この後すぐにウィンが定期報告に紛れる形で報告を上げることになっている。
「医務室にもいない。城内で倒れているわけでもないとなれば、一層面倒ですね。
まずイチハの反撃に耐えられた場合、非常に高い実力をもった相手だということでしょう。敵に回っていると思われる現状では非常に危険です。対抗できる人間がそう多くありませんから……。
それから倒れた上で回収された場合も面倒です。口止めしていること、もしくは周りに気付かれていないということから、身分や権力などにおいて相当大きな相手だと思われます」
「それだけじゃないね?」
一葉はウィンを真正面から捉えた。
「そう、最後に。イチハの攻撃を受けても問題が無い場合もあります。今分かっている範囲で最大限の脅威となるのは――」
「召喚術」
サーシャの呟きにウィンはひとつ頷いた。
「えぇ。イチハの魔力に耐えられずとも、触媒が破壊されるだけですからね」
「全く次から次へと……」
頭を抱える一葉。しかしウィンもサーシャも内心では同じようなものであった。
「報告はこんなところでしょうか。では、私は執務室へ行ってきます」
椅子から立ち上がったウィンは出口の扉へと歩み寄る。扉のノブへ手をかけた彼は、思い出したかのように一葉を振り返ったのだった。
「あぁ、それから。どうやら夕方にルクレツィア様の方から何かしら働きかけがあったようですが、その内容を私はまだ聞いていません」
「そっか……わかった」
一葉は濃紺と深緑の瞳を思い出した。アリエラへのからかいという理由も正しいのだろうが、恐らくそれだけではない。会って間もない自分とレイラをアーシアへと勧誘する彼女に疑問を抱いたのだった。
(何にしろ、明日からも大変そうだなぁ)
軽くため息を吐きだした一葉。サーシャはそっと立ち上がり、ポットを手に取った。
「イチハ様、お茶のおかわりは如何ですか?」
「お願いします。お茶菓子もあると嬉しいです」
「はい。少々お待ちくださいね」
難しいことは分からない。神ならぬ一葉には、今をどうにかすることで精いっぱいである。そう思う一葉はサーシャへとカップを上げて見せ、お茶のおかわりと茶菓子を要求したのだった。