幕間 長月の夜
「ふはは、ここからが私の領域だー! 見よ、私無双!!」
「領域とか無双とかお前、ちょっと重大な中二臭がするぞ。卒業したとかこの前言い張ってなかったか……って、ぅおー……コレは中々キますなぁ……」
目の前のバカ騒ぎに私はこっそりとため息を吐いた。そこには昨日の抜け殻ぶりが嘘だったかのように、陽気に酒を呷っている悪友がいる。その前には持ったグラスを渋い顔で眺めているバカ1人。
「おー、強ぇ……そろそろ止めとくわ。ギブ。如月、俺ギブ」
「ふっふっふ。見たか秋山、私の実力を!」
そう高くない身長でも相手が床に座っていれば見下ろせる。そうした高低差を利用して、私の悪友である如月一葉は同期の秋山隆幸へと勝利宣言を出していた。辺りは死屍累々。普通に店に入ってこんなことをしたら恐らく今後は出禁を喰らうだろう。今朝秋山から呑みに行くつもりだと聞いて、慌てて予定を変えさせたのは正解だった。1人で準備を整えるのは本当に大変だったが。
まぁ、周りの部屋には迷惑だったかもしれないけれど。このコミカルな『戦闘終了』を見られただけで良しとして近所からの苦情は甘んじて受け入れよう。隣近所も学生だからお互い様ではあるが。
「長月ぃ、見たー? 秋山を潰した私の雄姿―」
「あー、見た見た。アンタが酒に強いのはもう分かったから。秋山に絡んでないでこっちおいで」
郊外にある大学の、すぐ近くで借りたこの部屋は驚くほど広かった。ワンルームだけど一応キッチンは分かれていて、部屋自体も都心だったら2部屋か狭い3部屋にはなっていたかもしれないほど広い。値段などその半分以下だというのに。
その部屋の隅に陣取っていた私は手招きで小柄な悪友を呼び寄せ、隣にあったクッションを軽く叩いた。向こう側では秋山が立ち上がる。彼はむしろ如月よりもしっかりしているだろう。秋山の傍では佐藤、北原の男二人と女子の平野が赤い顔でいたり青い顔をしていたりで寝潰れているが、私は彼らの世話などしない。
「秋山。アンタ如月に負けたんだから片づけてよね。そこのバカ三人衆の世話もアンタの仕事だから」
「おー……」
何気なく秋山に目配せをすると、秋山は如月から見えない位置で親指を立てた。これで後輩と書いてこちらもバカと読む奴らの心配はない。事情を知らないでノリに任せるまま突撃を仕掛けてきたバカ3人だけれど、如月の気をバカ騒ぎへ向けさせるというある意味ではいい仕事をしたから今日は許す。
「やー、いい気分だわー」
「あれだけ呑めばそうでしょうよ」
そろそろ色が落ちてきたから染め直さなくては、とぼやいていた髪を弄りつつ、如月は満足そうに息を吐いた。間違っても目がうるんでいたり頬が染まっていたりという、いわゆる可愛らしい酔っ払いでないことは確かだった。何せ顔色が変わらず、呂律もほぼしっかりしており、しなだれかかることもない。本当にからかい甲斐のない悪友である。
唯一酒臭いのが酒を呑んだ証拠になるだろうか。
昼間の内に、準備の一環で安くて強い酒を箱買いしたのだ。明らかに女子大生の私が1人で酒を買い漁る姿は、近くのスーパーでは流石に驚かれた。普通なら何人かで来るところである。何はともあれ酒の味にこだわるヤツではなくて助かった。主に財布的な意味で。
「ふふふふふー」
ほとんど素面と変わらない顔つきで、それでも若干上機嫌な如月。
昨夜いきなり電話がかかってきた時には本当に驚いた。感受性は豊かなくせに他人には分かりづらい表現をするこの悪友が、珍しく電話口で泣きじゃくっていたのだ。
何かがあったのは確かだが、今は12月。しかも昨日は特に冷えていた。部活から帰って夕食を食べてのんびりしていたから22時くらいだったか。そう遅い時間ではないがこのまま外に放置しておくのは良くないだろうと私は判断した。そして慌ててこの部屋へ連れてきた後、とにかく酒を呑ませて寝潰したのだ。
正直な話をすれば精神的に不安定で助かった。普段の如月だったとしたら、私では彼女が潰れるまでは酒に付き合えない。昨夜もギリギリのところであった。
「楽しいね、長月。ホントに楽しいねぇ」
「そりゃ良かったわ」
軽く口角を上げて如月が呟いた。普段の如月がここまで酔うことは無い。というか、この1年半の付き合いで初めて見た。酔っぱらった、またはそこまで呑もうと考えた理由を思うと、とてもではないが心穏やかではいられなかった。
私と如月、秋山と後輩たちは同じ部活であり、如月の『元彼』である鈴木亮は私たち同期3人と同じゼミの同級生だ。だからこその接点だが今回は仇となった。
――誰にとって? もちろん、鈴木亮にとって。
『お前は1人でも平気だろ』
それは言ってはいけない言葉。20年も生きておいて鈴木は何を学んできたのか。どこの世界に1人で生きていける人間が居るというのだろう。守りたい女が出来た? 別れ際の如月すら守りきれない鈴木が、どうやって相手の女を守るというのか。
浮気などはどうでもいい。気持ちが移ろうのは人としてどうしようもないことだと私は思っている。恐らく如月にも非があったのだろう。彼女の淡白すぎる性格が悪くないとは言えないのだから。
けれどどうしても、如月に投げつけたその言葉だけは許すことが出来なかった。
『アイツは一体、如月をなんだと思ってるの!?』
私がキレても何も変わらないことは分かっていた。それでも今日の朝。寝潰れた如月を置いて出てきた大学で、偶然会った秋山に当たってしまった。如月が泣いたことで、ありきたりだけれど私も同じように悲しかった。しかしそれ以上に悔しかった。あんな男に如月が傷つけられたことが。
秋山がああいうヤツで助かった。何も聞かなかったかのように、不自然にならないように飲み会を企画してくれたのは素直にありがたかった。
「ねぇ長月。私、当分部活と勉強に懸けるわー。ありがとねぇ、昨日と今日の呑みに付き合ってくれてー」
「それくらいなら、変に絡まれるよりマシよ」
私の言葉を如月がどう取ったのかは私には分からない。でも、この子の事だから変にねじれた解釈をしないでくれていることは信頼できる。
「長月は文句を言ってても話を聞いてくれるからー」
「聞くだけはタダだからね。でもあんまりグダグダしてたら代わりに生産論のレポート書かすよ」
如月は知らないだろう。私が逆にどれ程助けられたかを。
私は世間的に見て『モテる部類』に入るらしい。だからこそ常に自分が1番でありたい女の子たちの集団に馴染めず、周りには鬱陶しい……本当に私を好きなわけではない男子が次から次へと寄ってくるだけ。私も私で、彼らと軽い付き合いを繰り返していたのだ。
『モテる長月には分からないよ。私には彼しかいなかったの。私の気持ちなんか、いくらでも相手がいる長月には分かるはずがない!』
必ず後から何故か報告されて、落ち込んだ姿を私に見せつける。結局私が何を言っても相手の女の子たちはそう返してくるのだ。そう言われてしまえば私に言える言葉など何もない。彼女たちは悲劇のヒロインになりたかったのだから。直接的にしろ間接的にしろ、場合によっては私自身が彼女たちの『敵』になるのだ。
そして私は口を閉ざし、そっと女の子の輪から外れていく。
「レポートかぁ……私が書いたら教授に喧嘩を売った文になるから、対価としてはお勧め出来ないけどなー」
「あら、私は好きよ? 教授の理論を真正面から切り崩す、単位を全力で投げ捨ててるとしか思えない如月のレポート」
私の返答を聞いた如月は、これだから長月はー、などと言いながら苦笑している。
如月は知らないだろう。
対価をもらうとか言って。めんどくさそうな声を出して。そんな私だけど、真っ先に携帯から発信した番号が私だったことを、心から嬉しく思っていることを。
『あんな男、こっちから願い下げだっつーの!』
『焦ることは無いよ。またいい人に会えるまで、私とか秋山とかとバカ騒ぎしよう』
私も同じように失恋した時には如月はそれだけを言って、あとは秋山と一緒に部屋呑みに付き合ってくれた。本当に好きだった相手への失恋という事実を、如月は重くも軽くもしなかった。彼女は気の毒そうな顔の裏側で嘲笑している女子とは違うと悟った。
どこの誰が、呼んでもいないのに酒と仲間を用意して夜中に来てくれる? 自分でも面倒くさいと分かっている絡み酒に、どこの誰が何度も付き合ってくれるというのだ?
そして自分が失恋した今も如月は私を捻れた理論で排除しない。とても申し訳なくは思うがそれがどれだけ嬉しいことか、貴重なことかも彼女は知らないのだ。
如月にはいくらでも『何か』を貰っているけれど、私は一体どれだけのものを返せているのだろうか。
――私は鈴木を許さない。
私が何かをすることは無いけれど、だからこそ必要以上に気にすればいいわ。普通の空気という名の針のムシロに座ればいい。もちろん彼が幸せになる権利を邪魔するつもりなど無いけれど。許せないけれど興味もない。私の中で今の鈴木などそれだけの存在。
あぁ、そんなことよりも今は如月だ。今だけは、周りにいる人間がみんなで思い切り甘やかしても罰は当たるまい。
「秋山―、どれだけ呑んだ?」
「平野が缶1つと少しで沈没。佐藤が意外に缶3つと焼酎ロック2杯。北原が4と平野の残りと佐藤と対抗した焼酎ロック1杯、結果真っ青」
意外に呑んでいた。本当に箱買いしておいて正解だったようだ。一応水やお茶も大量に買ってあるので、それをある程度飲ませておけば脱水症状を起こすことも無いだろう。
「で? 一騎打ちの結果は?」
「如月が8。俺は7でギブ。お互い焼酎の瓶も1つずつ空けたけどな」
「ギリギリで私の勝ちでーす。悪いね秋山ぁ。容器は全部水洗いもするんだよー」
「言われなくても分かってるっつーの。長月、水道借りるぞ」
「好きなだけ使って、馬車馬のごとく水洗いしたらいいじゃない。食器も洗ってくれて構わないわよ」
私の言葉に、さすがの秋山もふて腐れたように台所へと向かっていった。
「ホントよく呑むわ。こっちまで見てるだけで二日酔いになりそう。でも、今日は珍しくふわふわしてるじゃない。まさかザルの如月が酔うとはねぇ?」
秋山を見送った後、私は彼女にとって不本意なあだ名を持ち出して意地悪く問いかけた。それでも気にせず如月は苦笑いを浮かべている。
「そのあだ名もなんだか定着しちゃったなぁ……。まぁ、おかげさまで楽しく酔えたわ。貴重な初体験だよー?」
「アンタの酒の強さは異常よね。でも調子に乗らないで早く帰りなさい」
目線で示した先には大き目の壁時計。時刻は0時。終電まではあと1時間あるけれど、この酔い具合なら早めに帰した方が無難だろう。
「昨日帰ってないんだからお母さんが心配するでしょ」
「おっと、そんな時間?」
本当は昨日、こっそりと如月のお母さんに電話をしていたのだけど。普段はきちんと家に連絡を入れる子だけど、昨日の如月はそれ所ではなかった。お母さんからは『お願いします』とだけ言われたけれど。それでも本当に心配しているだろう。
「あー……そっか、そろそろ終電だね。うん。帰るわー」
「帰れ帰れ。秋山、男なんだから駅まで送っていって。でも佐藤と北原がいるからまた来なさいよ。来ないと明日の朝、ヤツらがどうなるか分からないんだからね」
「お前の脅しって何するか分からなくて逆に怖ぇよ」
よいしょ、と立ち上がった如月の足元は、あれだけ呑んだ割にしっかりしている。まぁ、世の中には気分が悪くても足元がフラつかない人間がいるらしいので安心は出来ないが。
玄関先で靴を履いている如月と、外でそれを待つ秋山を私は見送る。
「あーあ、ホントに私無双できればいいのに。このまま異世界トリップとかで」
「バカなこと言ってないで、気をつけて帰りなさいよ」
「んー。ありがとー」
「秋山。分かってるでしょうね?」
「……分かってるよ」
ねぇ如月。これでも私、アンタのこときちんと心配してるのよ。だからあんな男の事なんて忘れて、もっと近くに目を向けなさいよ。たとえばホラ、アンタを心配して道化役を買って出た秋山とかね。
まぁアイツの場合は友情か恋か愛情かの判断が付かないけれど。弱り目につけ込むヤツではないし、釘を刺したから今夜どうこうなることは無いだろう。いや、むしろ何か進展してくれた方がこの胸騒ぎが解決する気もしてきた。
如月が遠いところへ行くような、そんな胸騒ぎ。何をどう考えているのか、何をどう感じているかすら今の私には曖昧だったが、それだけは明確に感じ取れていた。
色々と考えてはいたが、私・長月亜希子は、そんな内心を言葉に出さないまま如月一葉を送り出したのだった。
どうやら私自身も多少酔っているらしい。また明日、昼でも誘ってみることにしようと思う。




