幕間 舞うは蛍、落ちるは一雫
如月一葉は学生時代に酒豪として鳴らした過去を持つ。
彼女の故郷ですら平均よりも小柄で、どちらかと言えば可愛らしく映る彼女。そんな一葉をナメてかかり、または下心を抱いて飲み比べをした結果、軽く潰すつもりが逆に軽く潰された男子は数知れない。
――ザルの如月が酔うとはねぇ?
ラーオ村からの帰還時に夕日を眺めていた一葉はふと、笑いと呆れ混じりの優しい声を思い出した。それは故郷から召喚されたあの日に友人から言われた言葉。学校や部活の仲間につけられたその不名誉なあだ名も、今となればいい思い出である。
そして思い出を酒の肴にでもしながらもう少し浸ろうと思ったところで、彼女にとって思わぬ壁が立ちはだかったのだった。
碧の節白金の月の末。
「そこを何とか」
「いけません!」
普段からは考えられない程強く反対するサーシャに、一葉は戸惑うばかりである。
「サーシャさん。確かこの国の成人って20歳でしたよね」
「その通りです。以前のお話では、イチハ様の故郷と同じでしたか」
一度言葉を落ち着けて質問をした一葉に合わせ、サーシャもまた僅かに声を落とす。
「成人の前に呑む人もたくさんいるでしょう?」
「おります。しかし、それも17や18を過ぎた辺りからです。イチハ様は未だその年齢にも届いておりませんね?」
返す言葉で警告を受けた一葉は歯噛みする。
(こんな事になるなら、初めから気合入れて歳を訂正しときゃよかったかなぁ)
しかし、今となっては過去の話である。
「私、本当は22歳なんです」
「……申し訳ありませんが、今この状況では信用できかねます」
何をどのように言おうとも、酒を望むゆえの言葉に聞こえてしまう。だからこそ今は聞くことが出来ないとサーシャは言い切った。
「ですよねー……私って一体……」
予想は出来ていたのだが予想以上に胸に刺さる。肩を落として呟いた後半の言葉は、サーシャには届かなかった。
「さぁ、代わりにお茶をお淹れしましょう。今はそれで我慢してください」
「……お願いします」
その日はそれ以降、一葉が酒を望むことは無かった。
翌日の昼下がり、一葉は非番の日の習慣として散歩に出ていた。
最初はうろうろと歩いていたのだが、ついには足を止めて思考に沈む。辺りを警備している衛士が何事かと見やるが、立ち止まった不審者が一葉だと分かればすぐに警備へと戻っていった。
「うーん……ちょっと、諦めきれないかなぁ……」
里心とでも言うのか、思わぬタイミングで意識に上った故郷の記憶である。このまま蓋をし知らないふりをするのは今の彼女にとって難しかった。
(別に泥酔したい訳じゃないんだけど……。あぁ、下層の食堂なら置いてるかな)
さすがに城から出る程の渇望ではない。彼女は職業柄、非番であってもいつ呼び出されるか分からないのだ。
(うん。食堂で少し分けてもらった方がいいね)
ひとつ頷いて向かった食堂で、一葉は厨房へ声をかける。
「すみませーん」
「はいよ、どうし……あらぁ、ヴァル家の」
厨房の奥から出てきたのは50歳程の恰幅が良い女性。相手は一葉を見てすぐに素性に思い至ったようだが、同じく一葉も彼女を見知っている。常に威勢の良い厨房の主であった。
「何だい、お茶でも飲んでいくかい? あらー、そんな細い腕して! そんなんで大の男たちに交じって剣なんか振って、よくもまぁ折れないねぇ!!」
ヴァル家や一葉自身に対して敵意や悪意を持っていないらしい彼女は、からからと笑い大きな声で話す。一葉は学生時代に通っていた食堂を思い出した。
「お茶も飲みたかったんですけど。あの、ちょっと聞きたいことがありまして。……ここってお酒とか置いてます?」
「え? あぁ、あるけど……。あんた確か、まだ未成年だろう?」
きょとんとしている女性に一葉は苦笑を浮かべた。
「いえ、皆に誤解されてるだけで。私、元々ここの人たちより幼く見える民族なんですよ」
「へぇ? それじゃ、本当はいくつなんだい」
「22歳です」
真顔で言いきった一葉だったが、女性はいきなり噴き出した。
「あんた、嘘を吐くならもっと上手くやらないと!! あぁ、楽しい……よりも、笑いすぎで苦しいわー!」
何がどうツボにはまったのか、女性は苦しそうにしながらも笑いが止まらない。
「あの……」
「ちょっ、ちょっと待っ……くくくっ!」
(これ以上は無理だ……)
会話など続けられないと悟った一葉は、また来ますとだけ言い置き食堂を後にした。
その後も顔見知りの侍女に尋ね、体調不良を心配されて連行された医務室でトレスにみっちりと叱られ、どこから聞いたのかアリエラやアイリアナからも文伝で心配された。
そろそろ諦めようかと思い始めた夕方、気付けば時刻は既に高い音の6刻になろうかという時間である。
このまま私室へ戻れば明らかにサーシャからもお説教を受けると分かっているため、一葉はグズグズと食堂付近をうろついていた。そんな彼女の耳に近くから楽しげな声が届く。
「ちょっと見ろよー。あそこにいるのはー、ヴァル家のおじょーさまじゃねー?」
「あぁぁ、ホントだぁー……おい、ちょっと声かけてみないか?」
「女の子と酒呑みたいよなぁ」
「おぉ、酌でも! 酌でもしてもらうかー!」
聞こえてきた声に視線を流せば、隅の方に酔っぱらった男性が5、6人で楽しそうにしていた。一葉は少し様子を見るために僅かに近づき、人を待つ様子を演じながら会話に聞き耳を立てる。
「ばっか、お前! 相手は貴族だぞぉ」
「お前こそバカだろー……こっちも貴族だっつーのー。まぁ、末端だけどなー!!」
「とりあえず呼んでみようぜー」
「だ、誰が呼ぶ?」
「俺、俺! ちょっ……ちょっと、そこの焦げ茶の! ……えーと、イチハ殿―!」
何が楽しいのか常に笑顔の彼らに、一葉もまた楽しく思っていた。だからこそ彼女は彼らと、自分が思い出してしまった楽しい飲み会を再現したかったのだ。
そして声を掛けられた途端に体を翻した上、有るか無きかの笑顔を浮かべて一団に歩み寄った。
正にその時。
「あなた方」
集まり始めた他の集団の邪魔をしない程度の音量だが、凛とした声は酔っ払いたちへ充分に届いた。
(あ、ちょっとメンドくさい予感)
一葉の耳にも当然のように声は届いていたが、体が振り返ることを拒否していた。
食堂の入り口から酔っ払いたちへ向けて絞った声を放ったのはレイラ=ルーナ=アーレシア。非常に真面目だと評判の、一葉の相方である。
レイラは規則正しい靴音を立てて近寄ってきたかと思えば、酔っ払いたちと、振り返ろうとして体が斜めに傾いだままの一葉を順番に見やった。そして軽いため息を吐く。
「この時間から呑むのを咎める気は全くありませんが、未成年を巻き込むことは感心しませんね」
呆れたようなレイラにも酔っ払いたちは全く怯む気配を見せなかった。
「おぉぉ、今度はルーナ家のおじょーさまだー」
「夢を見てるのか? 今日は女の子がいっぱいいるぞ」
「あの可愛げがない、記号としての女どもなんかじゃないんだー!」
「夢だ、夢に違いない! だが目が覚めるまで堪能するがなー!」
「さぁさぁ、一緒に酒でもー!」
呑みすぎて気が大きくなっている酔っ払い衛士たち。彼らは同僚の女性たちに対してとんでもない失言をしていたが、誰も気づいていなかった。
そして全く堪えていない彼らに再びため息を吐き、レイラは呆れたように頷く。
「仕方ありませんね……一杯だけお付き合いします。その後はあなた方も解散するように。呑みすぎです。明日に響かないように酔いを醒ましてください」
「あはははー! わっかりましたー!」
「レイラさん、良いんですか……?」
どこか心配そうに声をかけた一葉。彼女に対しても、レイラは呆れたままの表情を向ける。
「私はイチハ殿を部屋へ戻すようノーラ殿から頼まれたのですよ。そうなれば問題を起こすよりは、少しくらいいうことを聞いて穏便に解散した方が都合がいいのです。酔っ払いは少しくらい言い分を聞かなければ満足しないものですから」
「あぁ……確かに」
暢気に頷いた一葉へ、レイラはやはり呆れた表情を崩さない。
「イチハ殿こそ。後でサーシャ殿からお話があると思いますので、覚悟をしておいた方が良いかもしれません」
やはり時間を置いた程度ではお説教を免れないらしい。何とも言えない顔をした一葉に背を向け、レイラは席に座り、酔っ払いたちからグラスを受け取った。お猪口程度の小さな器は既に使用済みのために彼女が受け取ったのはマグカップ程度の器である。最大まで注がれた酒をチラリと見、レイラはそれを勢いよく傾ける。
液体が喉を通った途端に目を見開いた。咽ようにも既に半分以上呑んでいる上、液体の流れはすぐには止まらない。結局マグカップ一杯を一息で呑み干したのだった。
そして僅かに掠れた声で呟く。
「これ……は……」
「そぉなんれすー、俺の故郷のー、地酒でー」
「ちょーっと度が強いけど、すんごくウマいんれすよー」
「ささっ、もう一杯―!」
酔っ払いが酒を勧める声が聞こえているのかいないのか。白い頬がカッと染まったかと思えば、視線がフラフラと定まらない。その姿を見た一葉はちょっと失礼、と、酔っ払いの1人から酒を拝借してほんの少しだけ呑んでみた。
「うーわー、これは強いわ」
味見程度だったにも拘らず舌がピリピリと痺れている。地球でいうウォッカ程度の濃度だろうか。少しであればあまり脅威ではないが、量と呑み方を間違えれば非常に強力な酒となる。
「れ……レイラ、さん?」
先ほどから反応のない相方へ恐る恐る声をかける一葉。こちらを向いたレイラに一葉の表情は大きく引きつった。目の焦点が合っていなかったのだ。
「イチハ殿……」
視線がフラフラとさまよっている。しかし体が全く揺れていないのは流石というところか。今すぐ介抱した方が良さそうな雰囲気ではあるが、辺りにいるのは最初から酔っぱらっていた衛士たちのみであり頼りにはできない。
どうしたものかと逡巡する一葉へ背後から声がかかった。
「イチハさん!?」
一葉が振り向いた先にいたのは灰色の髪の医師。その視線は辺りをひと撫でし、焦ったように一葉を見た。
「あー……まさかと思いますが、レイラさんはそこのお酒を呑みましたか?」
トレスが指す先にあるのは転がった酒瓶。それには先ほどまで間違いなく、レイラが一気飲みした酒が入っていた。
「……その。まさか、です」
「そうですか」
頭を抱えるトレス。一葉は盛り上がる酔っ払いと未だフラフラと視線を彷徨わせているレイラを順番に眺め、どうしたものかとトレスへ聞こうとした。
そこですぐ近くからこちらを眺めている私服の一団と目が合ったのだった。
「調子に乗っているからこんなことになるんだ」
悪意の塊を言葉に乗せて投げつけたのは、一葉の『同僚』である筈の5人の男性だった。一葉はアリエラの警護についているが、彼らは部屋付きの警備騎士。あまり交流が無かったために名前までは覚えていなかった。
そしてそれが彼らにとっては気に入らない要因である。自分たちよりも後から入ってきた『子供』が、なぜ自分たちより先に警護職に就いているのかと。
(ここで相手をしたら色々後に引きそうだな)
それでなくとも今は喧嘩を買っている場合ではないため、一葉は無視をしてレイラを部屋まで送っていこうと思っていたのだが。世間というものは自分が思うよりも意地が悪いということを、一葉は都合よく忘れていたのだ。
「ふ……あなた方。イチハ殿へそのようなことを言える程、いつから偉くなったのですか?
あぁ……そうでした。イチハ殿の力を、その目で直接見たことが無かったのでしたか」
今まで大人しくしていたレイラだが、急に立ち上がったかと思えば騎士たちを真正面から睨み付ける。それは荒れたところが無く、水が流れるように静かな動作だった。しかしその静けさこそが後々の爆発を彷彿とさせて一葉には恐ろしく思える。
眉を顰める一葉には全く気付かなかったレイラは、彼女にしては珍しく唇を歪めた冷笑を浮かべていた。
「ふふふ……いいですね。いい機会です。常々あなた方とは話をしなければと思っていました。私の相方殿に疑問があるならば、先にこの私が相手になりましょう。
イチハ殿に手も足も出なかった、このレイラ=ルーナ=アーレシアが!」
高らかに宣言するレイラ。
普段の彼女は間違っても人に喧嘩を売るような人間ではない。このようにいきなり喧嘩を売る様を、短い付き合いではあるが一葉はレイラと知り合ってから初めて見た。
そして同じ騎士として一葉以上にレイラの実力を知る騎士たちは、表情が引きつってはいるが既に後には引けない。人の増えた食堂でのこの騒ぎは視線を集めていたのだ。レイラの喧嘩を買わないとなるならば、騎士としての名は折れたも同然であろう。
何より手合せの機会を作ることで直接自分たちの実力を示すことが出来る。もしかしたら現状で『格上』であるレイラに勝てるかもしれない。そうなればレイラが『自分より強い』と言い張る、この気に食わない小娘の評判も落すことが出来るだろう。また騎士団長たちが彼らの実力を認め、個人の護衛へ配置転換が叶うかもしれないのだ。
(迷ってる迷ってる……うーん、このまま後日改めてって流れになれば一番ベストなんだけど)
レイラと自分たちとの実力差を判断する冷静さと、次々に浮かぶ打算の間で揺れている騎士たち。一葉の見ている目の前で、彼らの背中をレイラの挑発が後押しした。
「何ならば全員同時でも構いません」
「……わかりました。そこまで仰るならいいでしょう!」
怒り、侮辱された羞恥、純粋に戦闘への興奮など。
さまざまな理由から鼻息も荒く食堂を出ていく一行を一葉とトレスは見送った。そして散乱していた器をまとめながら、ため息を吐いたのだった。
「この空気の中に残されるの、結構気持ち的に辛いんですけど」
「しかしあのまま出ていくのも少し……」
見渡せばつまみが転がり、酒瓶が転がり、器が転がり、テーブルの上には色々なものが散乱していた。これでは片づけるのも大変であろうし、このままならば片づけるのは食堂の主になってしまうだろう。
一葉が気付かないうちに酔っ払い衛士たちはいつの間にか寝潰れていたが、悪酔いもしていなかったようなので一葉としては放置することに決めていた。
「正直、今すぐ部屋に帰りたいです」
「すみません。僕では万が一の時に騎士対騎士の戦闘を止めることが難しいでしょう。できれば一緒に来てもらえませんか?」
申し訳なさそうなトレスにお願いをされてしまえば、一葉には断ることなどできない。
「あ、はい、もちろんです。もとはある意味、私が原因ですし……」
慌てた一葉は、何となく話題を変えることにした。
「そういえばトレス先生、何でここに? 夕飯を食べに来た感じではなかったみたいですけど……」
「あなたが昼間に医務室から出て行ってから、少し経ってからですか。今度はレイラさんがあなたの居場所を聞きに来たのです。その後もイチハさんの行動を色々な人から聞いて気になりまして。あまり周りに心配を掛けてはいけないと、僕は言いましたよね?」
「う……」
昼間にも聞いた心の底から案じている叱責に、一葉は小さく謝った。
「まぁ、そういった事情がありましたから。その後も情報はなぜか入ってきましたし、仕事を切り上げてから噂を辿ってきた……の、ですが」
困ったような表情でトレスは酒瓶を見ている。
「このお酒はミュゼルでも北部や、特に寒くなる地方で呑まれているものです。かなり度が強いものなのですよ」
「あぁ、それをレイラさんは一気呑み……」
「一気呑みですか」
本来であれば衛士たちのように、小さな器でちびりちびりと呑む酒である。それを一気に呷るのは決して良いことではない。
「レイラさんもそれなりにお酒を嗜むようですが、あまり強くはないようですし……」
あなたは強かったみたいですけれど、と添えられたトレスの言葉に、一葉は体を硬直させた。
「呑んだのでしょう? まぁ、あまり褒められたことではありませんが。何事もないようで安心しました」
「そ、そうですね……ちょっと強かった、みたいです……」
一体何をどこまで読まれているのか、一葉は時々トレスが恐ろしい。
「そろそろ後を追いましょうか。怪我人がいなければ良いのですが」
「問題は、どこまでレイラさんの理性が戻っているかですよね」
再びため息を吐き、器や酒瓶をまとめ終わった2人は訓練場へと急ぐのだった。
轟音が耳に届く。
一葉とトレスが訓練場へ近づくにつれ、それはハッキリと大きく2人の耳に届いていた。
「これは……」
「まぁた、すごい状態になってますねー……」
遅れて到着した訓練場の状況を一言でいえば『惨劇』。
一葉へ悪意をぶつけていた騎士たちはレイラにより一方的に叩きのめされ、石つぶてをぶつけられ、足止めをされ、既に数人が地に伏している。彼らから20メートルほど離れた位置に立つレイラと言えば剣を抜き、岩や石を操り、轟音を生み出し続けている。それは誰の目にも明らかな実力差だった。
(あらまー……。まぁ、自分たちのタイミングの悪さを恨んでくださいね)
一葉が内心で合掌すると同時に、明かりの点けられた城内から銀髪の宮廷魔術士が出てきたのが目の端に映る。
「今度は一体、何の騒ぎですか?」
一葉たち以外は無人の訓練場。そこへ唯一足を踏み入れたウィン=ヴァル=フォレインは、だからこそ周囲から神経の太さを認められているのだろう。
しかしそんな彼でも暴れまわるレイラを視界に収めて驚いている。
「派手な音がしたのでイチハかと思いましたが……」
ウィンの失礼な言葉にも一葉は反応する気すら起きない。ただただ苦笑が浮かぶのみである。
「私の代わりに、レイラさんが強いお酒を一気呑みしちゃってさ。しかも丁度よく酔っぱらったところにケンカ売られちゃったもんだから」
「なるほど」
大雑把な事情が呑み込めたウィンもまた苦笑を浮かべた。彼のもとにも義妹の奇行と後を追うレイラの話は報告されていたのだろう。そして訝しむ様子が無いことから、レイラの酒への耐性もまた知っていたと見える。
ウィンにとってイチハは心配しなくてはいけない対象ではない。彼女は間違っても深窓の令嬢などではないのだ。多少どころの騒ぎではなくとも、大抵の事は自力でどうにか解決する才覚を持っていると判断している。
(まさか、それがここまで大きな事態になるとは)
呆れるウィンを横目で眺め、一葉はトレスへと声をかけた。
「そろそろ止めないと危ないですか?」
一葉の見る先には最早ボロボロになりかけている騎士たち。いつの間にか全員が地に伏しているが、それでもレイラが止まる気配は無い。このままいけばシャレでは済まない状況になるかもしれない。
ただでさえ酔っているレイラは攻撃の加減ができていないのだから。今もまた無抵抗な人間へ向けて岩の槌を創り、何とか動かして振り下ろそうとしている。今の彼女にとって難しい操作なのだろう。失敗しているようだが、いつ成功して『敵』へ振り下ろすのか分かったものではない。
「そうですね。お願いできますか?」
「一か所に固まって倒れてくれてて助かりました。……いきます。
『結界・創』!」
トレスに頷き、一葉はレイラと騎士たちとの間に透明な盾を展開する。そしてその透明な盾は、ようやく振り上げられた岩の槌を受け止めて消滅させたのだった。
レイラはふっと小首を傾げ自らの攻撃を妨害した一葉を見やった。心底不思議に思っている純粋な、それでいて一葉の不安を掻き立てるような澄んだ茶色の瞳。夕闇に包まれ始めた訓練場でもそれははっきりと見えた。
「イチハ殿、私の邪魔をするのですか?」
「いや、邪魔とかではなく。レイラさんは少し酔っていますよね? 私を庇ってくれたのはすごく嬉しかったです。でもこれはちょっとだけ、やり過ぎじゃないです?」
一葉の言葉にもレイラは生真面目な表情を崩さない。
「騎士ともあろう者たちが他人を軽視した上に、相手の力量を見誤ったのは大問題でしょう。あまつさえこの程度で倒れるとは情けない。鍛錬が足りないのではないでしょうか。それとも騎士になったことでの慢心でしょうか?」
言われたい放題の騎士たちは未だ意識があるのか、悔しげな表情を浮かべている。しかし反論が出来ない理由は彼ら自身が一番理解していた。
「……しかし彼らは丁度いい機会をくれました。そう、邪魔者はいないのです。今ここには私たちしかいないのですから。本当に丁度いい。
さぁ、もう一度私と手合せをしてください。もう一度あなたと本気で手合せがしたかった」
酔った者特有の少し乱れた言葉が終るか終らないかのうちに、魔術で創造した岩を投げつけてくるレイラ。いきなりの攻撃に一葉の防御が遅れた。一葉など容易く貫きそうな鋭い岩の槍が、彼女の鼻先わずか10センチで一葉の魔力に囚われていた。
いつぞやの一葉自身にそっくりな先制攻撃。
(なにか、来る!!)
一葉の直感が激しく主張していた。
「ちょ、レイラさん落ち着い……うぁ!!」
望不望にかかわらず、この手の予感はよく当たる。説得を試みる一葉の足元が突然流砂へと変化したのだ。一葉だけではない。トレスやウィン、ダメージにより身動きの取れない騎士たち付近の地面までもが変化し、そのまま彼女たちを呑み込むように沈んでいるのだった。このまま放置していれば、恐らく数分もせずに一葉たちは砂の下へと消えるだろう。
もちろん一葉だけならば簡単に脱出できる。流砂に埋まった程度ならば『コトダマ』で充分に対応できるのだ。しかし雷を専門としているウィンや、医療魔術士であるトレスはどうだろうか。それ以上に、散々に打ち据えられ消耗している同僚たちは?
(何より、進んで砂まみれにはなりたくないしね!)
一葉は大きく息を吸い、辺りの地面を意識した。
『私は、私の道を創る!!』
一葉は『コトダマ』で足元を固めながら騎士たちの前へ走り出る。そして自分の後ろにある土地を扇状に、レイラの支配下から無理矢理奪い取ったのだった。トレスはもとより、ウィンや騎士たちが砂で生き埋めになるのも目覚めが悪いからこその処置である。
気が進まないながらも、自分が前に出た方がレイラの直接攻撃から同僚を護れるとの判断も含まれていた。
「落ち着いてください! これはもう、手合せなんてレベルじゃなくなってます! 近衛騎士だからこそ余計にこれ以上は拙いでしょう!!」
「レベル……? いえ、大丈夫です。理由ならあります」
「理由の有無を聞いてるわけではなくて!!」
微かにふらふら、ふわふわと視線が落ち着いていないことから、未だ酔いが醒めていないことが見て取れる。酒が彼女の何を解放したのかは分からないが、一葉の説得にもレイラは全く揺らがなかった。
視界の端には緩い表情をしたウィンと少なからず心配そうなトレスが見えた。口を挟もうとしている様子はどちらにも無い。
騎士としての一葉は正統派ではない。『コトダマ』や、どのような策にでも対応する柔軟性が本来の武器なのだ。しかし同僚がいるために卑怯な策を使う訳にはいかない。それではレイラがわざわざ怒ってくれた意味がなくなってしまう。
やり方が無いわけではないが、そこまで見せる必要があるとは思えない。
一葉的な安全に勝つのは難しく、理不尽なことに負けることも許されない。
(あぁ、面倒なことになった)
一葉が渋る理由はそれだけではない。
王族に従い、他国の王族や貴族たちとも顔を合わせる機会のある騎士。明文化されてこそいないが、騎士には高い実力の他に日々の生活態度を厳しく律することも求められている。手合せにしても正当な理由や、場合によれば見届け人も必要となる。それが無ければ内々だが処罰の対象にすらなるかもしれないのだ。
自分勝手と言われようが、一葉はそれに巻き込まれたくなどなかった。
「レイラさん、ちょっと落ち着きましょうって!」
「ふふ……とても綺麗ですね、イチハ殿」
レイラの魔力と一葉の魔力が拮抗し、出口を失った魔力の流れが純白の光としてじわりじわりと輝く。光が集まり、離れ、舞い上がり、そして光を失っていく様は宵闇に美しく映えた。自分たちの周りをふわりと流れるその様子に見とれ、レイラが一葉の言葉も聞かず薄らと微笑んでいた程である。
レイラだけではない。騎士たちも、トレスやウィンですら光の乱舞に見とれていた。ウィンなど宮廷魔術士たちですらこのような現象を起こせる人間は稀である。それは純粋な魔力の光。僅かですら恐ろしく大きなエネルギーを抱いているもの。もし暴走すれば人間など一たまりもなく消し飛ぶだろう。暴走しないよう完璧な制御をできる人間は意外に少ない。
現象とは危険であればあるほどに美しく顕現し、だからこそ古代から人間は危険を怖れながらも心惹かれるのだろうか。
「あぁ、私程度の魔術でこのような光を見ることが出来るとは……」
艶やかに微笑むレイラ。しかしその光を維持している一葉にとっては、正直に言えばどうでも良いことだった。
彼女にしてみればレイラの術に脅威を感じることは無い。やろうと思えばレイラ本人が持つ魔力を支配することも可能であろう。しかし今のレイラは酔っ払い。どのようなタイミングでどのような行動に出るかが全く予測できないのだ。
だからこそ彼女には微妙なバランスを保ち魔力を拮抗させることしかできないのだった。体内魔力は命と直結した力である。余計なことをして万が一にでもレイラの身体に影響を残すことは一葉の望むところではない。
「やはり、あなたは素晴らしい能力をお持ちですね」
ぽつりと呟かれたレイラの言葉に、一葉は反応を返せなかった。しかしレイラ本人は気にしていない様子で呟き続ける。
「邪魔者がいない筈の今ですらなぜ隠そうとするのか。えぇ、分かってはいるのです。しかし共感はできないのですよ。私は一体、どう生きればよいのですか? あなたの眼には、この世界に『色』がついていますか?」
何かを問われている。それが重大なことだとは分かっているのだが、一葉には本質を理解することが出来なかった。
悩む一葉には構わず、レイラはあっさりと魔術での攻撃を中止する。そして肩透かしを喰らったことで戸惑う一葉に向かい、彼女は直接斬りかかってきたのだった。
「『結界・創』!」
「やはりこの程度では破れませんか」
一葉が慌てて張ったシールドがレイラの剣を弾くが、レイラ自身は大して残念そうでもなかった。
防ぎ切れた一葉の方がむしろ追いつめられている。防戦一方ではレイラが収まることなど無いだろう。しかし、もしも一葉が本気を出したとすれば確実にレイラの命を刈り取ってしまう。一葉にはそれが恐ろしい。
「ならば、これならいかがでしょうか」
レイラの不吉な呟きに呼応したように、細身のレイラから信じられない程の圧力を感じた。
(あ、マズい)
何が、という具体的な指摘は出来ない。しかし本能で脅威を感じ取ったのだ。
RPGで言えば最終奥義。現実で使えばシャレでは済まない威力の技を、レイラの言葉を信じるならば『手合せ』程度でしかない筈の今このときに繰り出すつもりのようである。
『酔っていた』では許されない行為に、レイラは手を出し始めていた。
「イチハさん、何とかなりませんか!? 彼女の体内魔力の流れが異常です! 生命維持に必要な魔力量を切ってしまう……!!」
「イチハ! このままでは訓練場どころか城にまで被害が及ぶでしょう! この際無理矢理でもいい……レイラ殿を何とかしてください!」
流石に傍観しているだけではいられなくなったトレスとウィンが声を張り上げる。若い騎士たちは、迫りくる危機感と圧力に対して最早言葉もない。
「くっ、簡単に……!」
「イチハ殿。準備はよろしいですか?」
場の空気とそぐわない、にこやかな表情のレイラ=ルーナ=アーレシア。言いたいことは山となってあるのだが、しかしそれを口にしたところで時間の無駄にしかならないだろう。
「レイラさん、これ以上はダメです! 王城を壊したら実家とか、ちょっとダメじゃないです!? ホラ、立場的な意味で!!」
「大丈夫です。父なら分かってくれます」
真面目なレイラだからこそ、実家という鎖が大きな抑止力になるだろうと踏んだ一葉。しかしその目論見もレイラ自身の言葉に粉砕される。
(城を壊すって、いくら酔っぱらってたとしても反乱とかって言われるでしょ!? それを分かってくれる親って!! 下手なことしたらガチギレしそうな雰囲気出しとけよ! だからお宅の娘さんが止まらないんだよ!
いやいや、今はそれ所じゃないな。……何がいい? 何を引き換えにしたらこの場を乗り切れる? レイラさんは、何に執着してる……!?)
内心で頭を掻き毟っていた一葉は、ふとレイラの声を思い出した。
――酔っ払いは少しくらい言い分を聞かなければ満足しないものですから
それはついさっき、目の前に立つレイラ自身が言っていたこと。一葉はその言葉に縋ってみることにした。
「レイラさん! 手合せなら付き合います! 何なら毎朝でもいい!! だから今日は大人しく帰りましょう!?」
レイラはとても聡明な女性である。とにかく冷静にするには今を乗り切り、酔いを醒ますしかない。もとはと言えば『一葉と手合せがしたい』と言い出した時点から、話が大きくなったのだから。餌は一葉自身が望ましいだろう。
これまでは刺激しないようにと対話を選んだが、これで聞き入れないのならば今度こそ実力行使も辞さない。本気でレイラの体内魔力の指揮権を奪い取るしか道はない。レイラを選んで城にいるアリエラを危険に晒す訳にはいかないのだから。
(これでダメならもう知らん。メンドくさい。外聞なんか知ったことか。望み通り、本当にどんな手でも使って気絶させてあげますよ)
固唾を呑む外野。一線を越えたためどこか投げやりな気持ちの一葉。彼らを余所にレイラはしばし黙考した後、真っ直ぐな視線を一葉へ送った。
「本当に、本当ですか?」
「本当です。私がレイラさんに嘘を吐いたことがありました?」
嘘ではないが故意の誤解を積み上げている一葉は、それを露程も見せずに言い放つ。こういう交渉の時は迷わないことと言い淀まないことが大事なのだと勇者時代に学んでいた。
「本当に本当に、本当ですか?」
「本当です! だから今日は帰りましょう? これ以上ゴネるなら約束しませんが!」
じっと見つめ合う2人。そしてレイラはおもむろに剣を収めた。
「分りました。イチハ殿がそう言うのならば」
そう言うか言わないかのうちに、レイラは地面へと倒れ込んだのだった。慌てて駆け寄り診察をしたトレスだが、彼は苦笑しつつ首を振る。
「強いお酒を呑んだ後あれだけ大暴れしたのですが、特に問題はありません。今は普通に寝ているだけです。後で部屋まで送りましょう」
「そうですかー……」
アルコール中毒の恐ろしさを知っている一葉は、トレスの言葉に本心からホッとしたのだった。
「さて」
続いてトレスから治療を受けていた騎士たちは、ウィンからかけられた声で肩を揺らした。
「トレス医師から伺いましたが、貴方がたは酔ってなどいませんでしたね? そこで提案です。今回の事は事故として、お互いの胸の内に留めておくということでお願いします。そうですね……えぇ、私の実験が失敗したとでも言えば良いでしょう」
原因を作ったのは彼らだが、喧嘩を売ったのはレイラ。彼らにはレイラに対抗する力が足りなかったが、レイラは危うく事故で王城にまで被害を出しそうになった。どちら共に今回の『事件』は隠しておきたいところである。そこへ来て常に魔力が爆発するウィンの実験と言えば、周囲は簡単に納得するであろう。
騎士たちは何とも言えない表情で頷いていた。
「ルーナ殿の過大評価じゃ、なかったんだな……」
誰かがぽつりと零した言葉に、他の騎士たちが内心で激しく同意する。
戦闘開始直後にレイラの手で叩きのめされ動けなかった自分たち。しかし彼らが軽視していたはずの一葉は、動けない足手まといを抱えながらも全てを護りきった。その上で一葉が手加減していたことは分かっていた。彼らも選ばれた『近衛衛士』なのだ。それくらいは分かる。
口から出した言葉は取り戻せない。安易な謝罪は彼らの誇りが邪魔をする。これからの鍛錬で見返せるようになろうと心に誓う騎士たちだった。
如月一葉は最近いくつかの事柄を学んだ。
ひとつは、自らの侍女・サーシャ=デリラには隠し事が出来ないということ。
私室へ戻った一葉はサーシャから一通りの説教を受けたのだが、その後にサーシャはポツリとつぶやいた。
――とは言え、きっと。あれはイチハ様にとって意味のあることだったのでしょう
何とも返せなかった一葉へ笑顔を残し、彼女は彼女の仕事へと戻っていった。
ふたつ目は、行動には必ず『結果』があるということ。
あの事件の後から、少なくとも同僚から絡まれることは無くなった。あの日の騎士たちが積極的に悪い噂を薄めてくれているらしい。
『実力のある騎士』ではなく『ブチ切れたレイラ=ルーナ=アーレシアを舌先三寸で言いくるめる猛獣使い』という方向性は気になるものの、何にせよ面倒事が減ったのは悪いことではない。
そして最後のひとつは。
「イチハ殿、明日は低い音の6刻に訓練場でお願いします」
「はーい……」
低い音の6刻。つまりは朝の6時。そんな早朝にレイラと連れ立って朝の鍛錬へ向かう一葉を、最近の衛士たちはよく目撃するという。
酔っ払いとは相手にとって都合の悪いことのみを記憶に残しているらしい、ということ。一葉は再び学び直したのだった。
「レイラさん、あの……」
「何でしょうか?」
隣を歩くレイラに、少々躊躇いながら一葉は唇を開く。
「あの、この前の……いえ。何でもないです」
「そうですか……?」
レイラは首を傾げたが、一葉はその続きを口にはしなかった。
――私は一体、どう生きればよいのですか?
――あなたの眼には、この世界に『色』がついていますか?
覚えているかどうかすら、問いかけることなどできなかった。あれは恐らく酔ったからこそレイラの口から出た言葉。軽々しく聞いてはいけない言葉かもしれない。
――私は、あなたの瞳にどう映ってますか
レイラたちと比べて明らかに覚悟の重さが無いと自覚している一葉は、だからこそレイラへ尋ねることが出来なかった。
ひと雫心に落ちた疑問をも、一葉はそっと心の底に沈めたのだった。