第19話 一葉の実験室
碧の節白金の月、1日。このところミュゼル王国の王都は真夏に向けて少々暑い日が続いており、夜は幾分涼しいものの蒸し暑いことには変わりがない。
この国は秋・冬が短く春・夏が長いため、その分気温の高い日が長く続いてしまうのだ。
「ふー……」
ただし、新米騎士・イチハ=ヴァル=キサラギの私室はその限りではない。
「これでどうかな……っと、サーシャさん。寒すぎたりしません?」
「えぇ、大丈夫です。とても過ごしやすいですよ」
「やれば再現できるもんだなー。問題は精度か」
余りの蒸し暑さに辟易した一葉。彼女はふと思い立ち、使い道に困っている多大な魔力により自分で室温を調整したのだ。
することが無く手持無沙汰な時間があれば一葉は時折魔術で実験をする。今回も急に思い立ち、サーシャを巻き込みながら実験を開始したのだった。
「や、それだけじゃないかー。確かに便利ではあるけど……」
「えぇ、室温対策を仕事にしている者が困ってしまいますね。とはいえ、イチハ様以外には使えない術でしょう」
一葉の術はそれまでの術者のように、氷を生み出し風で冷気を送っているわけではない。『コトダマ』と魔力を使い室温計を見ながら、気温そのものを下げたのだ。そのため風の逃げ道や氷を置く場所の用意など、通常存在する面倒な手間が存在しない。
むしろ術の行使よりやたら高価な室温計を入手する方が手間だった。申し訳程度に温度らしきものが記されているだけで紅貨2枚。日本円にして20万円である。その上異常に壊れやすいのだ。
(百均に売ってる室温計の方が高性能って。うわー。っていうかコレを買えるゼストさんの財力に引くわ)
説得には苦労したが、逆に言えば説得しただけで買い与えられる義理の父が一葉は少しだけ恐ろしい。
「確かに原理を知らないとちょっと難しいかも」
サーシャの言葉に一葉は少し考えてから頷いた。彼女の故郷は魔術ではなく科学の世界。一葉もほぼ生まれた時からエアコンの恩恵にあやかっていたからこその発想であった。空気や気温などの目に見えない概念を操り不可思議を追及するには、この世界の人間は魔術に馴染みすぎている。
室温計があるにも拘らず温度の概念が薄いことが非常に不可解ではあるのだが、その辺りの誤差は気にしないことにした。
「とりあえず、実験結果ですね。除湿はともかく気温は室温計で意識しないとダメって言うのが……使い勝手が悪いというか。……まったく、ほとんど表示が無い室温計なんだから見なくても良さそうなものなのに」
「そうですね。室温計から目を離すと冷えすぎたり温まりすぎたりしてしまうのは気になります」
何度か調整をしたが、上手くいったと思った実験にも穴があったのだ。一葉の『コトダマ』は魔力の加減とイメージの精密さがモノを言う。時々室温についての確かなイメージをしなければこの快適空間は失われてしまうのだ。流す魔力も多すぎず少なすぎずの量を維持しなければならない。一葉にとって快適でもサーシャにとっては違うという状況が起こり得るのも問題だった。
「目を離すとダメっていう事は、私がいない間はこの部屋は茹るってことですよね……」
一葉が就寝中やこの部屋にいないなどの場合、サーシャではこの『コトダマ』を維持することができない。気温という『概念』に馴染みが無いのはサーシャも同じなのだ。その上、氷という彼女の属性がさらに術の引き継ぎを邪魔していた。
「うーん、難しい。今度もうちょっと考えてみます。さて、遅くなっちゃいましたけどお茶をいただきましょう」
「はい、ただ今用意を……あぁ、そろそろウィン様がいらっしゃる頃ですね」
すぐにカップを増やしましょう。
言いながらサーシャが控えの間へ向かうとほぼ同時に、私室のドアが二度鳴った。時刻は低い音の1刻と少し。夜のお茶会としては程良い時間だろう。
(さすがサーシャさん。ウィンの行動パターンを把握してるとは)
侍女に感心しつつ一葉は訪れたウィンを迎えた。
「ホントに来たよ。サーシャさんすごいなぁ。
……あのさぁ。このところ度々遊びに来るけど、お蔭で周り中から私たちが仲良しだと思われて迷惑なんだよね」
「私も同じ言葉をお返ししましょう。そんなことより何ですか、この部屋は」
一葉の苦情を『そんなこと』と流したウィンは、あまりに快適な一葉の私室に驚いている。
「たいがい失礼だよね。
……で、部屋だっけ? まぁ、なんだか最近ちょっと暑いし。真夏に向けてもうちょっと改良が必要だけどね。出来そうなことだったし……サーシャさん、いつもここにいるし」
何でもないように言っていたが、最期だけは聞こえるか聞こえないかの呟き。ウィンには届かなかったが当の侍女にはしっかりと聞こえていた様子で、サーシャは普段よりも柔らかい笑顔を浮かべていた。
一方ウィンは一葉へ、まるで研究対象を見る科学者のような瞳を向けている。
「どういう原理ですか?」
「えー、説明メンドくさい」
眉を顰めながら言い放つ一葉。しかしウィンを見て口の端を引きつらせる。
「……何その、残念なものを見るような目は」
「いえ。ただ貴女の知識の残念さを感じるとともに、その残念な貴女でも不自由しなかっただろう貴女の故郷の技術が羨ましいと言いましょうか興味深いと言いましょうか、それとも末恐ろしいと言いましょうか」
「……は? なにそれバカ扱い? むしろウィンが理解できるか微妙だからメンドくさかっただけなんだけど」
売り言葉に買い言葉の末、お互いがお互いの言葉で引きつる。感情に引きずられて魔力の気配が濃くなったところへ、サーシャの咳払いが聞こえた。彼らはすぐに乗り出していた上半身を引き、誤魔化すように用意されたお茶で喉を潤す。
「まぁ、これだけ自信満々に言い放ったのです。一応説明してみては? もしウィン様が理解できなかったら良い笑いものになるだけですから」
笑顔で柔らかい声音。しかしその毒々しい内容にウィンは引きつり、一葉は納得した。
「それなら別にいいか。ま、なんつっても多分ウィンの『属性』じゃ使えないんだろうし」
「貴女も納得しますか……」
一葉の中で自分がどのような扱いなのかを見せつけられ、さすがのウィンも多少萎れている。
一方。この世界の『属性縛り』は思い込みが多分に影響しているのではないか、と踏んでいる一葉。思い込みは時として新しい理を生み出すために馬鹿にしたものでもない。そう考えている黒い瞳の魔女は、義兄の様子を全く気にしていなかった。
「あー、どう説明したもんかなぁ……」
微妙に落ち込んでいるウィンには全く頓着せず、説明に頭を抱える一葉。
(認めたくない。ほんっとーに、認めたくないけど! 確かに使い方は知ってても動く原理は基本しか知らないんだよねー。ウィンは多分気になるところが解消されるまで粘着するだろうし。うわ、どうしようか……)
その悩める様にサーシャが声を掛けようとしたところで、僅かに早く一葉は唇を開いた。
「よし、これでいこう。
今私がやってることは、単純に室温計の通りに温度を調整してるだけ。エネルギー……も、科学を知らないと分かりづらいよなぁ……。基本的なことを聞くけど風属性って温度を変えたり出来ないんだよねー?」
「そうですね。基本的にはそこにある空気を魔術で纏め、その塊を操るようです。私には詳しくは分かりませんが」
「そっかぁ……」
前提が増えれば増えるほどに一葉から使える言葉が消えていく。彼女はひとにモノを教えるのが得意ではなかった。
しかし教わる側のウィンは一葉の拙い説明からも色々な可能性を感じていた。
(この術の秘密は私たちに無い新しい考え方でしょうね。イチハは元々私たちとは違った理で動いています。それが技術にしろ文化にしろ、このミュゼルに再現できたとしたら……えぇ。とてつもなく画期的なものになるでしょう)
打算と純粋な好奇心から追及の手を緩めないウィン。サーシャが責めるような視線で見ているがそれにも気づかない。
「あー、これならどうだ。
……いま私たちがいる空間の他に、魔術が存在する空間があると仮定しようか。魔術が発動する前に風を氷で冷やして、それを実際にこの世界に持ってくるような? これで通じるのかな……」
自分で言った言葉に自分で疑いを持つ一葉だったが、聞いた側のウィンはすぐに頷いた。魔術や召喚術が存在する世界では、空間の理論の方が馴染み深いのだろう。
「……何となくわかるような気がします。とは言えいくらこの世界でも、他の魔術士たちにそれを話せばおかしな人間として扱われるでしょうね」
「あぁ大丈夫。何を聞かれてもウィンに聞けって言っておくから」
「それはそれは。自分で説明するのが面倒くさくなったので手間を省くための措置ですね」
飾り気も何もない図星をつかれた一葉は、それを窺わせない笑顔を浮かべる。
「いやいやまさか。頭のいい義兄上の方が、私なんかよりも説明が上手いと思っただけですよ。メンドくさいとかそんな。質問される方に対しての善意からの判断ですよ? 私はこんなに親切に対応しているではないですか」
「おやおや。私の義妹は2度同じ話が出来ないおバカさんだったということですね」
サーシャはため息を吐いて口を開いた。
「イチハ様、お茶をどうぞ。ウィン様も。お2人とも、間違っても室内で兄妹喧嘩などしないでくださいね」
再びの静止に気まずげな表情を浮かべ、義理の兄妹はそれぞれ椅子へ座りなおす。サーシャの淹れた紅茶にホッと息を吐いた一葉は、以前から気になっていたことをウィンへ尋ねた。
「そう言えばウィン、紋章魔術はどうなった? もしかして諦めた?」
「諦める? 誰に言っているのです?」
ニヤニヤしている一葉へ向けて、不敵なウィンは宣言した。今日、小さな光を灯すことができたと。
これには聞いた一葉だけでなくサーシャも驚いた顔をしている。
「そういや2、3日前に自力でちっさい火ぃ出したって噂聞いたけど。え、何? 別の紋章を研究してたの? っていうか早くない?」
「いえ、火も成功しましたよ。本当に小さな炎でしたが」
一葉は開いた口がふさがらない。
(ま、まさか本当に成功するとは……っていうかこんなに早く実現するなんて。……まさかホントに天才だったのか? いやいやまさか。そんな手軽に転がってるはずがない。っていうかウィンを褒めるのは何かムカつく)
驚きで言葉を失った上に葛藤で悶々としている一葉には気付かず、ウィンは表情を曇らせた。
「……まぁ……問題が無いわけではありませんが」
ボソリと呟いた言葉は先ほどと逆に一葉の耳へ届かなかった。サーシャがどういうことかと聞き返す前に、一葉はウィンへ期待した表情で声を上げる。
「見せてもらってもいい? 光なら部屋の中で使ったところで眩しいだけでしょ」
自らの研究成果を見せたかったウィンは二つ返事で了承した。
「いいでしょう。ただしイチハ、貴女にも協力していただきますよ」
(あー、何でこうなっちゃったかなぁ……)
一葉は目の前の惨状に遠い目をする。冷や汗をかいているウィンに、彼へ冷えた声で説教しているサーシャ。椅子に座った一葉は手持無沙汰でぼんやりしていた。
この状況の原因は何だったかと、彼女は記憶を遡る。
了承を得てすぐにテーブルなどの家具を出来るだけ移動して空間を造り、一葉はウィンに言われた通りに即席で描かれた紋章をシールドで覆う。
「何で盾が要るん? 別に光るだけだし要らなくない?」
「まぁ念のためです。何事も備えておいて損はありません」
納得がいくようないかないような一葉だったが、とりあえず指示に従うことにした。シールドの外側には紋章魔術の用意をするウィンとシールドを維持する一葉、壁際には彼らをのんびりと眺めているサーシャがいる。
「さて、いきますよ」
掛け声とともにウィンが少し離れた位置から魔力を流し始めた。すると円が重なるその不思議な模様は次第に淡く光り出し、やがて小さな光を生み出す。紋章の上10センチほどに浮かぶピンポン玉大のそれは間違いなく光の球。
光の属性ではないウィンが、自力で光を生み出したのだ。
「うわ……ホントに出来たよ……」
「だから出来ると言ったでしょう。まぁ、どう頑張っても持続時間や光の強さは専門の属性には勝てませんが……」
「いえ、それでも非常に素晴らしいと思います。今後の魔術士たちの進む方向が変わるかもしれません」
驚愕する一葉と、目を細めて珍しく賞賛を送るサーシャ。そんな2人に対してウィンもまんざらではない様子で笑った。そのまま彼は一葉へ視線を送る。
「さてイチハ。そろそろ盾を全力で強くして、熱も衝撃も空気も何もかもが通らないようにしてください。出来れば紙と床の間にも盾を作り、全方位から紋章と光の球を囲むように」
「え? あ、うん」
なぜ最初からその対応ではなかったのか首をひねりながら、言われた通りに一葉がシールドを補強した瞬間にそれは起こった。ピンポン玉ほどの大きさだった光の球が次第に大きくなってきたのだ。
「え、ちょ……何か膨らんでないコレ!?」
「えぇ、これがちょっとした問題点でして」
のんびりとしたウィンとは逆に、サーシャは混乱する一葉と紋章の間に慌てて身を滑り込ませる。彼女は既にいつでも魔術を発動できる体勢になっていた。
この半月は周囲からの視線が痛かったものの、割と平和に過ごせていた一葉。そのために嫌な予感もさほど感じることはなかった。しかし今、一葉の中では最早馴染みになってきた嫌な予感が久しぶりに激しく警鐘を鳴らしていた。
そしてシールドを内側から圧するように少しずつ膨らんだ光の球。それはやがてシールドの限界まで膨張し、さらに外へと広がろうとしている。
「くっ……」
「おや」
真剣な表情の一葉を見てさすがにウィンも真顔になる。
「これは……ちょっと拙いですか」
「拙いどころじゃない!! 私のシールドが圧されてるって相当なんだけど!?」
普段とは違い腕を伸ばし目もそらさず意識を目の前に固定し、自らが一番力を発揮できるよう万全の態勢を取る一葉。しかしウィンへ返答したことで意識が逸れた一瞬、眩い光が純粋な魔力へと急激に還元され、その反動で光は大爆発を起こした。
熱も空気も遮断されたそれは非常に眩く、暴力的な魔力をまき散らしながら消滅する。
「う……うわぁ……」
「やはりこうなりましたか。やはり準備しておいてよかったですね」
飄々と言い放つウィンを一葉は睨み付けた。
「確か火を生んだ時も最後は爆発だったらしいね?」
「まぁ否定はできませんね」
「なら何で最初から全方位の盾にしなかったの」
「貴女に本気で盾を作られれば、私の魔力を通さない可能性がありましたからね」
分からないわけではない理論だが、一葉はため息を吐き出した。
(分かりたくないわー)
「まったく……何で光の術が大爆発を起こすかなー……」
「本当に。私もそれが疑問で仕方がありません」
全く反省のないウィンに一葉は疲れ切り、サーシャはニコニコとした表情の奥から氷のような視線を送っている。幼馴染の視線に気づいたウィンが笑顔を引きつらせれば、それは説教開始の合図となった。
「あぁ……平和で退屈な生活がしたいわー……」
一葉のため息が2人に届くことはなかった。
現実逃避する一葉と、もはや呆れて言葉も無いサーシャ。そしてサーシャの説教でグッタリしているウィン。
3人がお互いにかける言葉を探しあぐねている間に、廊下から誰かが走る音が聞こえてきた。その複数人の足音は一葉の私室の前で止まる。
そして。
「大変失礼します!」
「イチハさん、大丈夫ですか!?」
鬼気迫る勢いで扉を蹴破るように転がり込んできたのは、灰金の騎士と小柄な医師だった。2人とも余程急いでいたのかレイラは私服の上から騎士の甲冑を、トレスは白衣をそれぞれ身につけていた。
「あー……レイラさん、トレス先生……こんばんは……」
2人が見たのは椅子に座り何とも言えない表情を浮かべる一葉と、床へ座りグッタリとしているウィン。そして視線と表情の温度が合っていないサーシャ。顔を見合わせた5人はしばし無言で立ちつくしていたが、ハッと気づいた一葉がレイラとトレスを招き入れる。
ウィンはちゃっかり立ち上がり、そしてサーシャに顎で使われていた。
「術の失敗、ですか」
急いで部屋の後片付けをしてから状況を説明すれば、ため息を吐きながらトレスは疲れたように呟く。見ればレイラも呆れたような表情をしていた。
「ごめんなさい、心配をおかけしました……」
ひたすら平身低頭の一葉を弁護するように、サーシャはにこやかに言い放った。
「イチハ様のせいではありません。問題があると分かっているにもかかわらず、はっきりと申告しなかった者に責任があります」
その鋭い瞳は目をそらしても尚ウィンを貫く。ウィンにとってこの2歳上の幼馴染は相変わらず怒らせると怖い存在。一葉の手前今は穏やかに振る舞っているが、いつ彼女のナイフが飛んでくるかとウィンは内心で慄いている。
「いえ、まぁ……何事も無くて良かったです」
「その大爆発を抑え込めるとは、本当にイチハ殿の魔術は規格外ですね」
「いや、重ね重ね申し訳ないです……」
言いながら、自らを取り巻く蒸し暑さを意識した一葉は室温計を確認し『コトダマ』を発動する。すると爆発の余韻で上がっていた不快な気温が段々と下がり、やがて快適な温度になった。
「……魔術でイチハ殿を超える人物は当分出てこないでしょうね」
「本当に何でも出来るんですねぇ。僕も職業柄いろいろな人間を見ていますが、イチハさん程のひとは見たことが無いですよ」
嫌味なく褒められた一葉は落ち着かない様子である。本人にとっては不本意ながら、普段はこれ以上なく自由奔放な性格だと思われている一葉。しかしその実、彼女は褒められ慣れていないのだ。
「ま、まぁ、『コトダマ』に属性は関係ないですからね……。と言っても今のところ、この室温計が無ければ上手く調整できませんけど」
照れ隠しにお茶をひと口含み、一葉はふと気になったことを口に出した。
「そういえばレイラさんもトレス先生も、魔力の暴走を感じたから来てくれたんですよね?」
「はい。夕食から帰ってきた途端にあの魔力の爆発ですから、本当に焦りましたよ。方向的にも魔力量的にもイチハさんの私室だと感じましたし……また大怪我をしたのではと思って」
「慌てて飛び出したはいいものの、私はどうすることもできずにその場で立ち往生していましたが。そこにトレス医師が通りかかったので、一緒に」
「うーん……そうですかぁ……」
2人には、申し訳なさと心配してくれたことに対するありがたさを感じるが、一葉は他にも気になることがあった。
確実に気付いているにもかかわらず、他の誰も様子を見にすら来ないのだ。
(んー、扱いがわかるなぁ……。私は関わらない方が無難な人間だと思われてるのか)
内心では肩を落としている一葉。彼女の様子に気づいてか気付かずか、レイラは何の気なしに口を開いた。
「流石に他に誰も来ませんね。……まぁ逆に、アレナ殿とエル殿がいたら今頃さらに大騒ぎだったかもしれませんが……」
「あぁ……確かに。一通り大騒ぎして、満足したら帰っていきそうですよね」
双子の女性騎士たちはなぜかレイラと一葉をとても気に入っている。顔を合わせる度に何かと構ってくる彼女たちだが、今は休暇を取って実家に帰省しているのだ。
黒の瞳は魔術を使える程魔力を持っておらず、魔力が少ないために魔力を感知する力も低い。しかし武人として気配には敏いため、トレスやレイラと同じくこの場にいたであろうことは想像に難くなかった。
(うーん……心配、かけちゃったな)
決して自分のせいではないと言い切れるが、しかし2人に心配をかけたことは申し訳なく思う一葉だった。
「さて、爆発の原因も分かったので僕はそろそろお暇しますね」
「……私も失礼します。それではイチハ殿、また明日」
「ホントに迷惑をおかけしました! レイラさんはまた明日!」
一葉が2人を見送ると同時に、紅茶を飲みきったウィンも席を立った。
「私もそろそろ私室へ帰ります。今日の失敗を再び改良しなければ」
「……部屋をふっ飛ばさないようにね……今度やったら、次こそノーラさんにぶっ飛ばされるから」
『ノーラさん』の説教を思い出して背筋が震える一葉。しかし一葉の忠告を聞いているのか聞いていないのか、にこやかに去っていくウィン。彼の背中を見送ったサーシャはぽつりと呟いた。
「恐らくウィン様の私室は今、非常に酷い状況でしょうね」
「あれ、ウィンにも誰かしら付いてるんじゃないんです? あれでも一応貴族でしょう」
一葉の疑問にサーシャはゆるりと首を振る。
「ウィン様は男子なので、ゼスト様がつけなかったのですよ。ウィン様にその気がなくても侍女たちに迫られることがあれば面倒ですから。
……実際、夜会などでは鬱陶しいほどに各家のご令嬢たちが群がっています」
「あー……そうだ、ね」
普段のマッドサイエンティストぶりからは忘れてしまうが、ウィンはフォレイン侯爵家の次期当主である。その妻の立場はもとより、妾ですら使いようによれば強大な力となる。家柄とそれに付随する権力、そしてあの容姿が揃った結果が自活の原因だった。
(あーあ。生まれがいいと要らない苦労するんだなぁ。そりゃ純粋なだけじゃ生きていけないかー。それにしても腹が立つ性格だけどな)
一葉は義兄に苦笑し、サーシャとともに再び涼しくなった部屋へ戻るのだった。
「おはようございます。ところでイチハ、昨日の爆発のことをウィンから聞きました!」
翌日の朝レイラとともにアリエラの私室を訪れた一葉は、顔を合わせた主から朝の挨拶よりも先に迫られた。
「あ……あぁ、そう……」
若干引き気味の一葉にもアリエラは気付かない。今までの性格や考え方を変えると宣言したところで人間はそう簡単に変わらない。そのため、未だにアリエラは度々好奇心に負けるのだ。
「面白そうな術を使っていたそうではないですか! 私も見たいです!!」
「そっちかー」
世紀の発明である紋章魔術もアリエラの前では霞んでしまったらしい。
(あーあ。情報を絞られた上にこの扱いとは。さすがに可哀想だと思うよー、アリア)
いつ、どうやってウィンから情報を得たのかは考えないことにした一葉。現実逃避の意味も込め、彼女はアリエラへ室温計を持っているかと問うた。
「はい、ありますよ」
そんなことか、とあっさり頷くアリエラ。値段や諸々の生活環境は敢えて考えないようにした一葉は重ねて口を開いた。
「ちなみにここ、他の魔術士が暑さ対策してたりは?」
「王族の私室なので一応用心のため、滅多に侍女と騎士以外を入れることはありません。ここは窓を開けることが暑さ対策になりますね。
……とは言え、リオのところには流石に術士を呼んでいるようですが。あの子は暑いと大人しくお昼寝をしないのです」
私は暑い思いをしているのに! とぼやくアリエラに一葉は苦笑した。
「まぁ、ある程度仕方ないかな」
何にせよアリエラの私室に関しては術士の仕事を奪う心配がなさそうである。小物入れの上に置かれている室温計を昨日のようにテーブルの上へと置き、窓を閉め切ってから椅子へ座った一葉は同じく『コトダマ』を紡いだ。
3人がしばし涼しさを楽しんでいるところに、ノックの音が響く。何事かと思った一葉とレイラが立ち上がるのと同時に、部屋の扉を護っていた騎士の声が聞こえた。
「アーサー王、アイリアナ王妃、並びにオラトリオ様です」
「あ、はい。通してください。……私、何か用事でも忘れていたのでしょうか」
首を傾げているアリエラの声により扉が開かれ、王と王妃、小さな王子とともに女性騎士が1人だけ入室してきた。部屋の中には既に一葉たちがいるために、他の騎士たちを廊下へ残してきたのだろう。
扉が閉まる寸前にチラリと見えた廊下にはアーサー王についているコンラットの顔が見える。それから、夜中に帰ってきたのだろうか。双子の騎士たちも確認できた。
「おぉ……丁度良かったな」
「えぇ、本当に。フォレイン卿から聞いたとおりでしたね」
アリエラと一葉、レイラは立ち上がり客人を迎える。
「父様、母様……もしかして私、公務を忘れていましたか?」
「いや、公務ではなく様子を見に来ただけだ。アリアにこってりと情報を絞られたウィンが先ほど執務室に来たのだ。昨日の魔力の爆発についての報告の合間にイチハが使ったという魔術についても話を聞いてな。たまには息抜きも必要だろう。イリアとリオも連れてイチハに話を聞きにな」
「……こってり」
一葉はほんの微かにウィンへ同情の念を向けるがそれもすぐに霧散した。彼らの日頃の付き合いが垣間見える瞬間である。
「そうでしたか……本当にイチハはすごいのです。私たちの思いもよらないことをしてくれますから」
アリエラの言葉が終ると同時、物珍しそうに部屋を見回していたオラトリオが姉へと走り寄った。ハラハラしている大人たちの予想を裏切らず、彼は何かに躓いたのだった。
「……リオ、あなた。転ばないように気をつけろと、この前もゼストから言われていませんでしたか?」
「言われました」
大好きな姉に苦笑されたオラトリオは誤魔化すように笑い、それから改めてアリエラへと抱きついた。
「姉上! 姉上の騎士はすごいですね!」
「そうですよ、リオ。イチハもレイラもすごいのです。でも、リオの騎士もそうでしょう?」
「はい! 怒るとちょっと怖いけど……でもすごく強くてかっこいいです!」
そう言いながらオラトリオは共に入室してきた小柄な女性騎士を振り返る。民族の違いか大柄な人間が多いミュゼルの民において、その騎士は珍しく一葉と同じくらいの身長だった。
「まぁ。ありがとうございます」
怒るとちょっと怖い、の言葉に金の眼を細めて苦笑している彼女は、ノーラ=ラジーオ=リトローア。3歳下の次期ディチ子爵と10歳離れたトレスという2人の弟をもつ彼女は、現在38歳。
後頭部に結いあげられた灰の髪と金の瞳。彼女の容姿や雰囲気は若々しく、未だ30に届かないと言われても納得できるような女性。ディチ子爵家に生まれながらも騎士としての道を選んだ末に、上官であったコンラットと職場結婚をしたという一風変わった人物である。
(まぁノーラさんなら『怒ると怖い』、わな……)
一葉は最近、彼女のディチ子爵家令嬢としての一端を垣間見ていた。その日一葉は用事によりウィンの元を訪れ、その場の流れで紋章魔術の実験を見学したのだ。完成していない術はやはり暴走した。その結果が宮廷魔術士の詰所での爆発だったのだ。
幸いにも規模が小さかったため事なきを得たが、まさか小さな炎を生み出す魔術で火柱が上がるとは思ってもいなかったのだ。
そのときに素っ飛んできたノーラに、2人そろって叱られたのである。激しく叱る訳ではない。しかし、その威圧感と言えば逆らうことすら考え付けないものであった。
(昨日のことは怒られなかったけど。何だろうこの罪悪感……。私が悪いことしたわけじゃないのに)
今回は完全に一葉のせいではないためにお咎めが無いようだが、また室内での大爆発を起こせば容赦なく、今度こそその優しげな彼女が大魔王に変身するだろう。
(勇者程度じゃ無理だわ。返り討ち確定。その時には私が居合わせませんように!)
心の中でいるかも分からない神へ拝み倒す一葉だったが、見計らったかのようなタイミングで名前を呼ばれた彼女は背筋を粟立たせた。
「キサラギさん、貴女」
「はいっ!?」
体が不自然に硬直した一葉を不思議そうに眺め、ノーラはふわりと微笑んだ。
「貴女、やはり素晴らしい魔術の才をお持ちね。コンラットやアレネアさんたちを押しのけてきた甲斐がありました。今度少しだけ、リオ様のお部屋にも術をかけていただければ嬉しいのですけれど」
「お、押しのけて……」
「いいえ、間違えました。部屋へ入る役を私に譲ってもらえるようお願いしたのです。心から丁寧にお願いを」
悪戯っぽい表情を浮かべるも、それを見た一葉は薄ら寒いような感覚を覚える。
(うわぁ……優しそうな言い方なのに寒気がするのは何故!?)
それは確かに丁寧だったのだろう。ただその丁寧さと笑顔を向けられた人間がどう受け取ったかは、結果を見る限り明らかではあるのだが。
「リオだけでは不公平だ。私の執務室にもぜひ頼む」
「いえ……専門の術士の方々が困ってしまいますし、この術を使うなら私もその場にいなければならないので……仕事もありますから……」
ノーラとアーサー王のお願いにも一葉は苦笑して断りを入れる。執務室や謁見の間に呼び出されてのお願いではないため、断っても問題がないだろうと判断した。その判断は間違っていないようで、2人とも特に気にした様子は無い。
「ではな」
しばし涼んだだけで、彼らはあっさりと帰って行ったのだった。