第2話 凍れる日
「例え話をしようか、オジサマ。
例えば自分の大事なものを失くしそうになったとき。そんな大変なときにいきなり呼びつけられてだよ? やれ人を殺せとかやれ魔王を倒せとか、超迷惑だと思わない?
あー、ったく。それくらい言うならまず自分が死にそうになるくらい頑張ってからにしろっての。ウザ。もー、超ウザ」
そう思わない? と語りかける一葉に、彼はコクコクと必死で頷いた。兵士たちからはよく見えないが、真正面にいるロットリア卿は彼女の黒い瞳をこの上なく恐ろしく感じていた。この際意味が解らなくとも首が少々傷つこうとも、目の前にいる得体の知れない存在の意志に逆らうよりはマシだと思える程に怯えている。
そしてその思惑通り、一葉は多少いい気分になり数度頷く。
「うん、やっぱそうだよね。それがさ、まだ本気で困ってて喚ぶならいいんだよ。まぁこっちも人間だし、多少は力を貸してもいいかなぁとか思うし。
でもさぁ、こっちが力を貸すのを当たり前って思われるとホントにムカつくんだよね」
スッと目を細める。冷やすには何人もの氷使いが多大な労力を必要とするはずの広間が、今は既に冷え切っていた。ロットリア卿の服の袖など、一葉の怒りを真正面から受け止めているためか端から凍り始めている。
ロットリア卿の記憶が確かであればこの国は今、春である。
「ホント、ムカつく」
魔女の言葉には、小さな虫ほどの許しも含まれてはいない。
「くっだらない命令を聞くために喚ばれたかと思うと……反吐が出るわ」
凍れる魔女が剣を引こうとしたその瞬間。
「待った!!」
深い響きのバリトンが一葉の耳に刺さった。
「待っては、もらえぬだろうか?」
自分の声により行動を止めた一葉へ向け、改めて念を押すように王は声をかける。やけに近くからした声に訝しんだ一葉が視線を上げると、戸惑う兵士たちの輪の内側に王が立っていた。
「その者……ロットリア卿は敵国と内通していた容疑がかかっている。本来であれば今も諮問の最中であったのだが……反逆罪の現行犯である。最早その必要もあるまい。
国として処分を下す必要があるゆえ、どうか彼の身柄をこちらに任せてはもらえぬだろうか?」
王であるアーサー=フォン=ミュゼルは意識して気持ちを落ち着かせていた。
諮問開始時には容疑が確定していなかったため、ロットリア卿に枷を着けることはできなかった。代わりにミュゼルが誇る騎士たちで周りを固めていたのだが、その最中に突如それまでの神妙な態度を翻し、魔獣召喚を為したのだ。
魔力の強くない彼にすら感じられるほど禍々しい気配がする、複雑な文様の円陣。そこから出てきたのは彼の娘と同じ年ごろに見える女性だった。
この世界において召喚術は外道とされており、その方法や道具の流通は禁止項目となっている。
しかし表があれば裏もまたあるというもの。人間の召喚方法こそ絶えて久しいが、魔獣を召喚する方法ならばそこで求めることができる。そうして成功率の高低こそあれど、技術が伝えられているのだ。
闇に紛れて取引されている方法論や道具は、大抵は金額に見合った効果を確実に得られるという。どうやらロットリア卿は王を暗殺すれば大手を振って敵国へ行けると考え、莫大な額を対価に裏の買い物をしたらしい。
この命をずいぶんと高く見積もってくれたものだと、アーサー王は思う。
少女の登場に凍結していた思考は、彼女が突然ロットリア卿の手を取ったことで息を吹き返した。少女は召喚主であるロットリア卿からの思考制御を振り切ったばかりか、あまつさえ新たに召喚しようとした彼を止めたのだった。
アーサー王は召喚術並びに召喚獣について、資料や話を聞くことでしか知らない。それによると魔獣とは人語を理解しないモノがほとんどであり、たとえ理解できたとしても殺戮を好む残忍な性質をもつという。そして人型の召喚獣は彼の知る限り存在しないはずであり、そんなモノがいるならば彼が知らないはずはない。これでも王として、あらゆることに対応する義務があるのだから。
しかし現実はどうだ。少女は人型として召喚され、そして今でこそ怒り狂っている様子ではあるが充分対話が可能であろう。そんな相手を安易に召喚獣扱いすることは、現状を掴み切れていない彼にとっては躊躇われる。かといって人間かと問われればそれもまた疑問である。この世界の人間で『色』による『理』から逃れた者など、確認されていないのだ。
ロットリア卿の生殺与奪権を握っているのは黒い瞳の少女。だからこそアーサー王は宰相並びに臣下の静止を振り切り、誠意を示すために兵たちよりも前に立つのだった。武器の後ろで控えている王の言葉など、相手には届かないだろうから。
眉を顰めてこちらを見つめる少女を前に、アーサー王は返答を待った。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
これはもしかすると、とんでもない状況じゃないか。
ぐるぐる、ぐるぐる。
王にかけられた言葉も、今の一葉では脳みそを上滑りするのみ。
たとえ激しい怒りを抱いていたとしても、人間きっかけさえあれば一気に収束するものである。熱しやすく醒めやすい。一葉は正しく21世紀日本の若者である。
その一葉は今、王の目の前で抜剣したことや攻撃用の魔術を使ってしまったことに対して、パニックを起こしていた。
(いくら残虐な王様に見えなくても、こんな場所であんなことしたら普通は処刑ものだよなぁ……うぁ、どうしよう……。考えろ。よーく、よぉーく考えろ、私……!!)
しかし焦れば焦るほど思考は空回りの一途を辿る。そしてその思考に反応するように、両の手にもつ双剣が震えるのだった。
それで生きた心地がしないのはロットリア卿である。刃物を持つ魔女は自分の方を向いていない。剣の扱いが不安すぎる。現に首が薄らと傷ついているのだから。
しかし、当の一葉にとって彼への興味など最早無いも同然だった。
(よしよし、落ち着け。落ち着くんだ私。まだ私に対しての処分は何も言ってない。
とにかくこのオジサマを引き渡せってことで……これは私が勢いで手を出していいことじゃ、ないな……ってことでいいかな)
目を閉じて息を深く吐き、自分の中に残っていた怒りを薄める。この状況で自分の感情を優先させるのはいただけない。自分はもう、駄々をこねるだけで何もかもが手に入るような子供ではないのだから。
しかしそれだけでは心が収まらないのもまた事実。
せめてもの意地で、一葉は最大限の見栄を張ることにした。
「わかりました。突然の無礼、大変失礼いたしました」
――背筋を伸ばして
一葉はまず一歩下がり、両の短剣を優雅に一振りしてから鞘に納める。
――武器は手元に置かないように
これ以上怒りにまかせた行動をするつもりがないと示すため、双剣を下げているベルトを外し目の前に置く。そして右膝と右の拳を絨毯につき、一葉の知る騎士としての礼をした。
――頭を下げすぎないで
一葉の『前職』は勇者である。このくらいのことは普通にできるのだ。
そしてその知識を与えてくれた女性を思い出し、胸が少しだけ痛んだ。
ちらりと周りを確認すれば、王だけでなく周囲の人間たちも驚いていた。一葉はとりあえず安堵する。この作法はこの世界でも、少なくとも無礼には当たらないらしい。
我ながら見るに堪えない恰好をしている。そんな女がこのような見栄を張れるとは思わなかっただろう。周囲にいる人間たちが彼女を侮っていることを、一葉は充分に理解していた。それだけに周囲が驚いたことで胸のすくような思いを抱いた。ココロの動きが分かったのだろうか、胸の奥でふわりと主張する魔力へ一葉はそっと語りかける。
(……うん。私は頑張るよ、“魔王”)
その一方で。一瞬目を見張ったアーサー王が一つ頷き指示を出すと、周囲にいた兵士たちが動き始めた。ロットリア卿は彼らに連行されてはいたものの、ようやく一葉から離れられるとわかると特に暴れることもなく大人しいものだった。
「さて。落ち着いたところで、だが。まずは立ち上がって楽にしてほしい」
静かになった広間の中で。武器を向けられてこそいないが、値踏みするような視線が全方位から向けられていることを一葉は感じ取っていた。
しかし今は気にしない。彼女の対話相手は目の前にいる王だから。努めてゆったりとした動作で、一葉は立ち上がった。
「外道とは言え、召喚術についての文献などは一応残っておる。しかしそれでも今までそなたのような人型で召喚されたモノの記録は残っていなかったはずだ。
一体そなたは何者だろうか? ただの召喚獣なのか、召喚獣などよりさらに上位の存在なのだろうか。それとも、見た目通りの人間なのだろうか。そして、人間だとしたらなぜ召喚などされたのだろうか」
それは一葉自身にもどう答えたらよいのかわからない。問われた一葉にとっても何が起こってここにいるのか分かっていないのだから。
「あぁ、すまぬ。あまり一度に尋ねたところで答えられぬか。まず、我々はそなたをどのように呼べば良いだろうか?」
「なまえ……私は、如月一葉と申します。如月が家名で、一葉が名前です。イチハとお呼びください。それから、私自身の認識では私は人間、です」
一葉の返答に戸惑うような雰囲気が生まれる。あの黒い瘴気の主と同じ手順で喚ばれたのだ。人間だと言われたところで信じきれるものでないのは、一葉を含めた全員が認識している。
しかし魔力の流れや見た目から大きな違いが見られなかったため、特に彼女は気に留めなかった。
「キサラギイチハ。家名が前に来るとは、おらぬ訳ではないが珍しいな」
「こちらでは家名は後になりますか?」
一葉の確認にアーサー王はひとつ頷く。
「そうなるな。イチハ殿であれば、イチハ=キサラギといったとことか」
「イチハで結構です。私は単に喚ばれただけで、身分を持つわけではありませんので」
「然様か。それならばそのように呼ぼう」
「ありがとうございます。それから、申し訳ございません。他の質問にお答えする前にあと幾つか確認をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「あぁ、無理に畏まらずともよい。それで……イチハは何が知りたいのだ?」
一葉は王の許しに少しだけホッとする。
さすがに王様相手でタメ口はまずかろう。しかし思考の纏まらない彼女が口調にまで気を付け過ぎれば、そのうちに何を聞かなくてはならないのかも分からなくなるだろう。
「重ね重ねありがとうございます。それで、失礼ですがここはどこですか?」
まさかそんな迷子のような質問をする日が来るとは。
日本にいた時には携帯ですべてを解決し、前の環境では一応周りが何とでもしてくれた(望もうとも迷子にすらなれなかった)状態だった一葉。王の訝しげな表情を見た瞬間、成人を迎えたいい大人として心の底から情けなく思えてきたのだった。
「どこ、とは……ミュゼル王国の王都、ミュゼルだ。私は国王のアーサー=フォン=ミュゼル。隣にいるのは妻のアイリアナ=フォン=ミュゼルと娘のアリエラ=フォン=ミュゼルだ。
我が国はそれなりに大きな国である筈なのだがなぁ……」
鷹揚ながら、瞳の奥で僅かに傷ついたような表情を浮かべているアーサー王。一葉はそんな彼を尻目に天を仰いだ。最悪ではないが、ある意味では限りなくそれに近い状況である。
もし万が一にでも、魔王を倒した後に別の土地へ転送されただけだったなら。多少苦労はあるだろうが、巫女のいる国へと向かえばいいだけの話。国王に疎まれようとも実害が出る前に還れば良いし、良い思い出がないとは言え知り合いがいるといないでは大違いではないか。
2年もいればそれなりに地理を覚えるもの。しかし一葉の知識の中に、その『それなりに大きな国』の名前は無かった。そして巫女たちの話していた言語は決して全世界共通語ではなかったはずなのに、今の一葉は言葉に不自由などしていない。
縁を再び繋ぎたくなどない。しかし顔見知りに対する安心感が欲しい。
『あの環境』に戻りたくないと思う気持ちは変わらないが、しかし実際に全く知らない土地へ再び望まずに招かれてしまった状況では心が揺れる。武器を持った兵士たちの映像がよぎる。他方、先ほどの黒い瘴気が目に焼き付いている。
一葉にしてみれば、どちらがマシ、とも言い難い現状だった。
「あー、この国に魔王などは存在しますか……?」
「マオウか? 私は聞いたことがないが……」
王の視線を受けた白髪の男性も、ゆるゆると首を振る。
魔王はいない。言い伝えもない。そして言葉だけが通じてしまっている。
(異世界ですね。異世界なんですね……!!)
周囲には無表情に見えるも、実は涙目の一葉。彼女は今こそどこかにいるかもしれない神を罵倒したい気分だった。
なぜ自分ばかりが、こうも嬉しくないところで運を使うのか。異世界召喚に憧れる人間など日本には掃いて捨てる程いるにも拘らず、2度も非常事態に遭遇した自分に対し一葉はほとほと愛想が尽きる思いだった。
しかしそれは後のこと。今は少しでも情報が欲しい。そのためにも自分の情報を全く開示しないのは下策だろう。情報だけでは信用は買えないが、信用を得るためにはこちらの情報は不可欠なのだから。
一葉は言葉を選びながら唇を開いた。
「信じられるかどうかは最後に判断してほしいのですが、私はこの世界の人間ではありません」
想像範囲外の内容にぽかん、とするアーサー王や側近、兵士たちに向け、一葉は自分の体験を語った。
地球でのこと。
召喚されたこと。
勇者に祭り上げられたこと。
魔王を倒したこと。
契約達成により白い光に包まれたこと。
気づけばいつの間にかここに立っていたこと。
思い出したくないと悲鳴を上げる心も、今だけは無視をした。泣くことは後でもできるが、今は説明をしなくてはならないのだから。
「ちなみに召喚された場合の召喚獣は、どうやって還るのでしょうか?」
場合によってはすぐにでも日本へ還れるかもしれないし、悪くしても前の世界には戻れるだろう。そう考えていた一葉はアーサー王の苦々しい表情を見て、先ほど銀の鎖を破壊した時の悪寒を思い出した。
自分の常識からは完全にアウトだと通達されている。しかしこの世界には、一葉が知らない理があるのかもしれない。その一縷の望みに縋る思いだった。
(あー、聞いておいてアレだけど超聞きたくないわー)
「あー、魔獣……だが……通常では呼び出した触媒を利用して操るそうで、触媒を利用して返還するそうなんだが……その、そなたが壊した銀の鎖が、そなたを召喚するための触媒だったのでは……なかった、かな」
アーサー王の視線の先には、先ほどまでロットリア卿がいた場所。そこには既に銀の粉すら見つけることなど適わなかった。ついでに言えば意識が戻った時にあれだけあやふやだった五感も、今では小憎らしいほどにハッキリしており……この世界との繋がりをこれ以上なく明確に主張していた。
(お……終わった……)
膝から崩れ落ちそうな一葉。
「なんで私、ここにいるんだろー……」
そんな彼女の呟きを聞いてか聞かずか、広間にいた男性の1人が優雅に一礼した。王から発言を許可された彼は、眼鏡を押し上げながら口を開いた。
「召喚術では術者の魔力により喚び出せる魔獣が決まっているとのこと。幸か不幸か、本人は無自覚だったようですがロットリア卿はイチハ殿を喚べるだけの魔力を持っていたということでしょう。彼の家系は魔術士を多く輩出している家系ですからね。
そしてさらに幸か不幸か、偶然イチハ殿がその……魔王、でしたか。それを倒して時空の歪みを渡っている時と重なってしまったのかと。
今のところの情報ではその程度の推測しかできません」
すべてはあのオッサンのせいだという。もう一発くらい殴っておけばよかったと後悔した一葉は、ガラ悪の悪い顔をしている。
そんな彼女だったが直後に目を剥くことになった。
「もちろん、イチハ殿の言うことがすべて正しいと仮定した上での話になります。失礼を承知で申し上げるならば、ロットリア卿と今回の件を最初から仕組んでいた協力者ということも充分にあり得ること。
もっとも、特定の人間だけを召喚する術など私には心当たりがありませんが」
目の前の人間は何を言い出したのかと、一葉はつい彼の顔を見つめてしまった。しかし時が止まったかのような一葉とは違い、周囲の人間たちからは僅かたりとも声など上がらなかった。
一葉が固まったのは一瞬。望まざるも納得させられてしまったのだ。よくよく考えれば不思議ではない。アーサー王を含め、眼鏡の青年はこの場にいる一葉以外の疑念を形にしたに過ぎない。
伸ばした銀髪をまとめ右肩に流している彼は、整った容貌を笑顔で固めた青年。しかし、かけている眼鏡の奥にある紫電の瞳は、笑んでいる唇とは逆に全く笑っていない。彼は最初から一葉を信用などしていなかった。だからこそ、一葉が召喚された瞬間から魔術をいつでも放てるよう魔力を保っていたのだろう。
万全の一葉からしてみれば児戯に等しい威力だろうと思えたのだが。
「私が信用できないと?」
「少なくとも、今すぐ確証を得ることはできませんね」
にこやかに交わされる会話。その裏側では嫌というほどに冷気が漂っている。
(王様の近くに顔がいい兄ちゃんがいるのはテンプレか。それが魔術士なのもテンプレか。そして若干研究対象を見るような目で見まわされてるのもテンプレか。
……顔がいい人間なんか、ちょっとした不幸になればいいのに)
自他共に認められる普通の容姿しか持たない一葉は、逆恨み気味に眉を寄せた後に頭を一振りした。常識的に考えれば、悔しいことだが相手の言っていることの方が正しい。今ここで青年が間違っていると主張するのは一葉の我儘にしか過ぎないだろう。
そしてアーサー王が一葉を全面的に認めるような愚王だったならば、国の中にいるだろうダメな大人にいいように操られている可能性が高い。我ながら、一葉は今怪しすぎる『不審者』なのだから。
一葉にしてみればアーサー王の命を救ったのだ。それは恐らく相手にも伝わっており、確かに多少感謝もされていると思う。しかしそれ以上に大きな疑念を持たれている。
これは相手だけの問題ではない。実のところ、一葉にしても相手を信用などしていないのだから。
例えどれ程腹立たしくとも、例えどれ程悔しくとも。今は我慢するほかにない。1度形になった溝は少々のことでは埋まらない。握手をした瞬間にみんなが友達になるなど、幼稚園児ですら無理なことなのだ。
(わかるけどねぇ。うん、わかるけどね。ムカつくもんはムカつくんだよね。心の面積狭いから私。
……顔がいい人間なんか、ちょっとした不幸に遭えばいいのに。切実に)
力に任せて暴れまわる誘惑を抑え込んだが、一葉の表情はさすがに憮然としたものである。
「こういった意見もあるようだが、イチハ殿?」
一葉はアーサー王の問いに苦労して笑みを浮かべ、彼と魔術士を交互に見た。
その際、『大丈夫、自分は事なかれ主義の日本人だ。笑って耐えろ』と自分へ言い聞かせることは忘れない。忘れればそこで全てが台無しである。
「そればかりは今の私では証明できませんので。
……もう1つだけ、質問があります」
「答えられる範囲で答えよう」
その質問は、一葉の縋るもう1つの縁。
――聞きたい
――聞きたくない
――聞かなければならない
――聞くのが怖い
この縁を切られてしまったら、もしかしたら立ち直れないかもしれない。
震える唇を後押ししたのは果たして、どの感情だったのだろうか。
「この世界に、今の私が還る手掛かりはありますか……?」
「――ゼスト」
ゼストと呼ばれた白髪の男性が首をひねる。
「太古の時代、魔獣などの被害がどうにもならなくなった場合にどこからか『力ある人』と呼ばれる人々が現れて、または喚ばれていたそうですのぅ」
「ほう、それで?」
太古の時代、一葉と同じ立場の人間がいた。その先を聞きたいような、聞きたくないような。
一葉の心のせめぎ合いを知ってか知らずか、初老の男性は困ったように先を続けた。
「ある時、魔獣があまりに強くなった時代じゃが、その時代の王は全てを『力ある人』に任せようと考えておったそうでの。その時に喚びだした『力ある人』は喚ばれたおかげでとても不幸な人生を送ったと言われておるのです。
深く後悔した王はもう2度と同じ悲劇を繰り返さないよう、『力ある人』の召喚方法を破棄しました。今となっては呪文だったのか儀式だったのかすら分かっておりませんのぅ」
「ということは、還る方法は?」
一葉が還れるのであればその方が良く、内通の協力者であったとしても異界にいる限りは連絡の取りようもないだろう。
どちらにしてもミュゼルにとっての不利益はないと王は思う。
しかし一葉にとって、物事は簡単に動かないのが常識である。
「改めて文献を見直さなければ何とも言えんのじゃが……私の知識の範囲で答えるならば、還った記録だけでなく喚び出された方法についてすら、具体的な記録を見たことはありませんのぅ……」
「それは……」
一葉の声は震えていた。
「私は、もう……」
もう限界だった。この2年、あの懐かしい家に戻るために心を凍らせてきたのだ。魔王との死闘を潜り抜けたと思ったら喚びつけられた。
不調を訴える体。それ以上に最初から、精神がオーバーヒート寸前だった。
もう、限界だったのだ。
「イチハ殿!!」
「イチハさん!?」
「イチハ殿!! 大丈夫ですか!!」
アーサー王の声や、高い声、低い声。
たくさんの慌てる声を遠く聞きながら一葉の精神は黒い闇に沈み、体は赤い絨毯の上に崩れ落ちたのだった。
視界いっぱいに広がる赤は、いつか見た血の紅にそっくりだった。