幕間 魔女についての考察
イチハ=キサラギという名の少女は私の前に唐突に現れた。
いつもより緊張した空気ではあるが、いつもと同じ諮問。私がその場に居合わせたその時に彼女はこの世界に現れた。
見た目通りの少女ではないことを彼女の内に見える闘気が語っている。しかしその外側にある空虚さとの差異から私は目を離せなかった。
召喚獣として召喚されたその少女は、ロットリア卿からの精神操作を自力で打ち破り自由を獲得した。
そのことが彼女にとって良かったことかどうかは魔術士ならぬ私にはわからない。しかし、そのせいで彼女が自分のあるべき場所へ還ることが出来なくなったことは……正直に痛ましい、と思う。
対外的には、謁見の間でのロットリア卿の行動を止めることは私たち騎士でも可能だったということになっている。しかし私は疑問を持つ。本当にイチハ殿なしで王族を守りきることが出来たのだろうか? しかもあそこまで鮮やかに、誰も傷つかない状態で。
召喚術というものはミュゼルだけでなくこの世界全体で外道とされている。召喚術に触れること自体が稀であり、その対応もまた私たちにとっては慣れないものだったのだ。そしてその戸惑いからくる一瞬が術者にとっては充分な時間になり得る。イチハ殿の対応がもう少し遅れていたら次の魔獣を呼ばれてしまったことだろう。
召喚された魔獣を討伐することは出来たと思うが、しかし被害を皆無に抑えることは難しかったと私は思っている。いや、これは自分の無力さに対する言い訳にしかならない。しかしそう思えてしまうほどにイチハ殿の対応は見事だったのだ。
イチハ殿は私などよりも圧倒的に強い。
心からそう思ったのはそれからさらに7日の後だった。
その日の夕刻、私がお護りしているアリエラ様の姿が見えなくなった。私はいつものように探したが、しかし恥かしながらその行動は決定的に遅かったと言わざるを得ない。アリエラ様の行動は計画的で、不在が発覚したのもかなり時間が経過した後のことだった。
そして探し始めたときには、アリエラ様の身は既に脱獄したロットリア卿の手中に落ちていたのだから。
アリエラ様の姿を見つけた瞬間、私は歯噛みした。なぜもっときちんと護衛していなかったのだろうと。
交代時間? 固定の相方がいない? そんなことは言い訳にもならない。護れるはずのひとを現に護れていないのだから、私の手落ち以外の何物でもない。
アリエラ様が発見されてからしばらくはロットリア卿とのにらみ合いが続いた。騎士の1人が交渉するも、彼はアーサー王並びにアイリアナ様を呼べと言い張るのみ。無理に動いてもあの憎き炎の獅子どもに阻まれ、ともすればアリエラ様を傷つけられてしまうだろう。
一体どのようにすればアリエラ様を救出できるのかを私には考えもつかなかった。
そのときに彼女が出てきたのだ。
3階から見下ろす彼女が、この場の澱んだ空気を中和しているような錯覚を覚えた。ロットリア卿を見ていた私にとってそれほどまでに彼女の纏う空気は澄んだものだった。
ロットリア卿が先の諮問の際に憎しみを抱いた相手、イチハ殿。彼女を見つけたロットリア卿はアリエラ様との交換相手にイチハ殿を望んだ。自分に向けられたものではないとはいえその執着心には身を退く思いだった。それを真正面から受けた彼女の胆力はどれ程の物か。
恥ずべき卑劣な考えではあったが騎士として正直に言おう。私はイチハ殿がアリエラ様の代わりになれば良いと思った。
そしてその願いは現実のものとなる。
3階という高さから彼女は降りてきたのだ。この怨嗟渦巻く1階へ。
イチハ殿が何の抵抗も無しに殴られ、蹴られてもアリエラ様が解放されることは無かった。今にして思えばイチハ殿にはそれが分かっていたのだろう。それは私たちも同じこと。だからこそ王や王妃を差し出さなかったのだから。
これからどのように交渉を進めるか、それが重要だったのだ。
しかし同じ条件を背負っていたはずのイチハ殿はほぼ独力で、圧倒的に不利な状態からアリエラ様を救い出したのだ。交渉などできない。放置すれば周りを巻き込んで消滅するのみ。その近い未来すら彼女は見通していたのだろう。
私やウィン殿がしたことといえば、単にイチハ殿の空けてくれた穴を拡げたことのみ。イチハ殿に比べたら言葉にすることも憚られるほど小さな行動。
私は後悔した。
私がしていたことは理屈を騙り、手をこまねいて見ていたことだけ。剣を持つ騎士ならばイチハ殿のように、わが身を以て飛び込んでいくことも出来たはずではないか。
そして私は決意した。この気持ちを清算しない限り次には進めない。
そして何よりイチハ殿に対して思い悩むアリエラ様にとって、私のこの鬱々とした気持ちは害悪以外の何物でもない。
しかしイチハ殿はさらに私を試した。当然である。私に付き合うことで自分の立つ微妙な足場を崩す可能性が全くの皆無ではないのだから。イチハ殿は戦うことで異質さを見せつける。それはそのまま後ろ暗い者たちへの脅威へとつながるのだ。
「納得することに意味はありますか? アリアを守ることがレイラさんの仕事でそれを誇りに思うなら、納得しようとしまいと関係ないとは思いませんか?」
怖かった。その言葉だけでなく、何より彼女の穏やかな口調に隠されたその凍りついた瞳が怖かった。
実際に剣を持っていたわけでも術を使ったわけでもなかったが、そのときの私は間違いなく剣の刃先を突き付けられていたのだから。
それでも私は退くわけにいかない。これまでも、そしてこれからもアリエラ様の盾となり剣となる身。私自身がアリエラ様の格を下げるような振る舞いをすることだけは断じてしてはならないのだから。
「今の私は心残りに囚われて、傍にいるには邪魔でしかありません。アリエラ様はとても聡い方。一介の騎士である私のことですら気にしてくださり、きっとご自分のせいだとさらに心を痛めてしまう。だからこそ私はイチハ殿との距離を知ることで次へと進まなくてはならないのです」
その言葉で果たしてイチハ殿の眼に適ったのかは分からない。しかしそのときの私のあり方全てが認められたからこそ、彼女は私との手合わせを承諾してくれのだと思う。
彼女は私よりも遥かに賢く、また慎重だから。彼女はその小さな体で、常にこの世界そのものと闘っていると言っても過言ではない。それほどに彼女は私などよりも厳しい状況に置かれているにもかかわらず、私の感傷にしか過ぎない手合わせに付き合ってくれるのだ。
どのような戦いであろうとも全力で臨もう。もしものために騎士団長であるコンラット殿にも声をかけた。当初はお忙しいという話ではあったのだが、話を進めるうちに無理をおして見届け人として来ることを約束してくださった。これでイチハ殿への不要な中傷を、いくばくかでも防げれば嬉しいと思う。
これは決して、イチハ=キサラギ殿が言い出した私闘ではないと証明するのだ。それがイチハ殿に対しての礼義であり、手合わせを承諾してもらった私が唯一出来ること。
訓練場の入り口には対応を任されているウィン殿に連れられたイチハ殿の姿が見えた。
服装も姿勢も空気も、いつも通りのイチハ=キサラギ殿。ミュゼル王国に現れた『黒瞳の魔女』。
私は気を引き締めて、彼女と相対するのを待っていた――