第11話 紅と黒の奏鳴曲 - Kadenz -
一度拳を人に向ければ後は水が流れるようなもので、暴力への心理的な壁は極めて薄く低くなる。今のロットリア卿もまさにそれと同じであった。
とは言え騎士たちが今アリエラを助けられるか、という問いにはノーとしか言いようがない。彼女の周りには炎の獅子がいる。この魔獣が王女から少しでも身を離すまでは、下手に手出しができないのが騎士たちの現実だった。
「ぅ……ぁぐっ……ぁっ………」
「貴様の! 貴様のせいで! 私はっ!」
(もっと……もっとこっちに集中して……もっと大きな隙を作って……)
一方的に罵りながらロットリア卿は一葉の肩や背中、腹や脚を蹴っていく。既に顔や頭にも数発喰らっており唇の端から血が流れていた。
しかしその暴力の嵐の中でも一葉は冷静な思考を維持し続ける。それが今の一葉の持ちうる武器となる。
一方の騎士たちは身動きができない。片方の獅子が周りを威嚇するときには必ずもう片方の獅子が獲物であるアリエラに牙を剥き、その体を前足で抑え込んでいるのだ。
しかし明らかにロットリア卿を取り囲んだ当初よりも、魔獣たちの統制が乱れてきているようではあった。
一葉は蹴られ、転がされ続ける。今はまだ騎士や衛士たちも見ているしかできない。
その凄惨な状態の原因を自分が作ったのだと自覚しているアリエラは、目の前が涙で滲んでいた。
「い……イチハぁっ!」
「うるさい!」
「きゃっ!」
ロットリア卿の感情に引きずられているのか、アリエラへ向けて威嚇する炎の獅子たち。思わず悲鳴を上げて黙ってしまった自分に対しアリエラは悔しさで唇をかみしめる。
(私はここに寝ているだけなのに。イチハは、私よりもずっと怖い思いをしているはずなのに!)
イチハはもう何度蹴られただろう。
あれではそのうち死んでしまう。
「ぅあっ!」
自分の体の内部の音と言うのは、存外よく聴こえるものである。
もう何発蹴られたかもわからなくなってきたとき、とうとう体を庇っていた腕の片方から破滅的な音がした。
(ったー……左腕、折れたか……利き腕じゃないだけマシかなぁ……)
激痛が走る。しかし悲鳴を上げる口とは裏腹に、一葉の精神は奇妙に冷静だった。
痛みなどよりも、一葉へと向けられる人には過ぎるほどの濃度にまでなった悪意により今度こそ気分が悪くなる。
たかが悪意と侮ることなかれ。
怒り、妬み、嫌悪、害意……、負の感情は大きくなればなるほど、魔力のように人に影響を与える力を持つ。それは触れた者を狂わせて破滅させていく一つの魔力となる。
そして今、その悪意は魔力のように一葉へと流れ込んで彼女を蝕もうとしていた。その様子が見えるのか魔術士たちが顔色を変え、歯を食いしばっている騎士たちは空気で何かを感じ取ったのだろう。
レイラもウィンも、ジリジリと焦ったような表情を浮かべている。
(何だろうなぁ、勇者だった時より真剣に人助けを考えてるかもなぁ……)
アリエラは好きだ
王妃も多分好きだ
思うところあれど、アーサー王も嫌いじゃない
ウィンは嫌味を言うけどやるときはやるだろう
レイラが表情を変えるのは珍しい
一葉が送った視線に、緊張した表情のウィンが微かに頷く。本当に意思が伝わったかどうかは考えない。もう後戻りはできない。
(後は根性だ。失敗したら好きにしよう)
もはや痛みなど気にしない。動けなくてもいい。目と口さえ機能していれば。
蹴られ、転がり、また蹴られる。それの繰り返し。
(痛ぅ……んの、クソジジイ……マジでふざけんな! 今すぐ大好きな地面に転がして、調子こいたその顔を殴り倒してやる!)
外に出さない不満や苦痛を一通り自分の中で叫んでから、集中。そして術を準備する。イメージは慎重に。覚悟は既に決まっている。
大きく息を吸い込んで準備は万端、すぐに目当ての瞬間が訪れた。
2体の魔獣が役割を乱して、両方がほんの少しアリエラから離れたそのとき――
「っ!!!」
『氷槍、投下ぁっ!!!』
巨大な魔力の流れに気付いたロットリア卿が魔獣たちへ指令を出すと同時に、一葉は残酷な結果を予言する『コトダマ』を紡ぎ、右手を床に叩き付けて音を立てた。叫びは氷が石の床へと落ちる高い音と気味の悪い湿った音に重なりながら響き渡る。
一瞬の隙間から氷の槍が現れ、アリエラと獅子との僅かな隙間に透明な防御壁が出現した。槍はアリエラに喰らいつけと指示を出された1体の炎の獅子の頭へと落ちていき、炎を喰らい尽くしながらその頭を地に縫いつける。
間一髪。その獅子は大きく口を開け、まさにアリエラへとその牙を突き立てようとしていたのだから。
「ぁ……っ!」
「ふ………っ!」
透明な壁を挟んで僅か向こう側での光景。それからアリエラは思わず目をそらす。
非常にグロテスクかつ無残な状態になった獅子は、氷の楔が消えると同時に倒れ込みゆっくりと風化していった。
そして氷の楔が現れるのと同時、ウィンが渾身の力でもう1体へ紫電を落とす。黒く灼かれ動きが止まった獅子の頭へ、飛び出したレイラが止めに細い剣を深く突き刺した。
こうして、悲鳴を上げる暇もなく2体の獅子たちは消滅したのだった。
この世界では、召喚されたモノが倒されるとああなるのが普通なのだろうか。一瞬自分が灰になり風に流される図を想像した一葉は、慌ててそれを振り払いホッと息をつく。
これでロットリア卿が捕縛されれば一件落着である。
我に返った衛士たちがロットリア卿を拘束しようと動き出したそのとき、彼は厳しい訓練を受けた騎士たちですら目を見張るような動きで懐の短剣を抜き放った。そしてすぐ近くに転がったままの、未だ仰向けのまま動けない一葉へと突き付ける。
「またか……また貴様が……」
「ふふっ……どうかな? ……最後の最後で……逆転される、気分は……?」
このような時に限ってよく口が回るものだ。一葉は、自分の身が危険にさらされているにも関わらず、自分でもわかっていない衝動に負けてロットリア卿を嘲笑った。
しかし正直なところ一葉は満足に動けない。緊張から解き放たれたために左腕を始めとした全身が痛みを訴え出しており、軽口でも叩いていなければ気絶しそうなほど心身が疲弊していた。
(今『コトダマ』使ったら……多分暴走するなぁ)
取り囲む衛士たちは、ロットリア卿を拘束することができない。おそらく誰かが動けばこの均衡は崩れ、捕縛するより先に一葉が刺されてしまうだろうから。衛士は衛士であり王家を優先する騎士ではない。人命を優先させるという彼らの長所は、今まさに短所と化している。
アリエラを救出できた代わりに一葉自身が彼らの枷になっているのだ。
しかし今度のロットリア卿は、周りのことなど髪の毛一本ほども気にしていない。捕縛やその先にある断罪など欠片すらも意識に上らない。憎くて憎くて、殺したいほど愛しい一葉しか彼の世界にはいなかった。
短剣の刃先は一葉の首筋へと突き付けられたまま、彼の大きすぎる感情を表すかのように細かく震えている。そしていつかの彼自身と同じように彼女の皮膚を薄く切り裂いた。一葉の首筋から一筋の血が流れ出る。
その紅が引き金になったのか。彼女を見下ろして憤怒の形相をしたロットリア卿は、絶叫とともに短剣を逆手に持ち変えた。
「……またしても……またしても私の邪魔をするのか、この魔女め!」
ロットリア卿が持つ短剣が、コマ送りのような速さで一葉へと向かってきた。
死の予感。
それは2年前、突然獣に襲われた時の記憶。
無抵抗な自分へ向かってくる悪意を持ったソレ。
一葉の瞳孔が開いた。
『ぁ、あぁ……っ!』
「が……っ!」
巨大な破裂音と共に、一葉は重みから解放されたことを感じた。暴走はしていない。辺り一面を吹き飛ばすような失敗はもうしない。しかし、その力は恐怖の対象であるただ一点へと収束してしまった。
言葉にならない叫びによって生み出された風が、ロットリア卿の体を吹き飛ばしながら切り裂く。それはまさに一葉に短剣が刺さろうかというタイミング。
彼は最期の時に何を思ったのだろうか。吹き飛ばされる直前の、その硝子のような感情のない紅い瞳が一葉の印象に残った。
(あぁ、助かったんだ)
頬や胸などにかかった生温かい液体の感触と、何か重いものが叩きつけられた音、消えた気配……それらを感じて一葉は何となくそう思った。
2年という歳月は確実に相手を仕留められるようになるには充分な時間だ、と実感しながら、一葉の意識はゆっくりと闇へ沈んでいく。
アリエラと王、王妃は最上階の自室に戻り、ロットリア卿の遺体は衛士たちによって片付けられた。彼はどこかへ捨てられるのだろうか。また最期くらいは手厚く葬られるのだろうか。
衛士たちが黙々とホールの後始末をする中、衛士たちに応急手当てをされた一葉は慎重に部屋へと運ばれた。
すぐに意識をとりもどした彼女は侍女たちによって服を清潔な部屋着へと替えてもらい、体を拭かれた上で与えられたベッドに横になっている。侍女たちの礼に微笑で応えていることで、彼女が今まで以上に殻に籠っていることに気づく人間はいなかった。
「アリエラ様を助けていただきありがとうございました。貴女以外には、王や王妃を守りながら王女を助けることは出来なかったでしょう」
訪ねてきたウィンは横たわる一葉にそう切り出した。
そして思いつめた様子で頭を下げる。
「あの場にいたのならば、真っ先に私が炎の獅子を攻撃するべきでした。しかし王女に被害が及ぶかもしれないという迷いがあったために、結局は王女を助けられたかもしれない機会を自ら潰したようなものです。その結果貴女はしなくてよかったかもしれない大けがを負うことになりました。……一体、何と申し開きすればいいのかもわかりません」
「ウィンのせいじゃ、ないよ」
「しかし!」
「ごめん、ウィン」
珍しく謝罪の言葉を唇に乗せる少女に、ウィンは何事かと言葉を失った。
「正直、今の私には受け止めてあげられないんだ……。自分のことで、精いっぱい。ホントに、悪い」
「――っ!」
言葉とは裏腹に何の表情も浮かばない、天井を見たままの白い横顔。その蒼白さを通してウィンは自分の内面を見た。この自ら身を投じた少女に謝ることで、彼女からの許しを得ようとした自分を。貴族として、そして研究者として、せめて自らを誇れるようにあろうと自らを律していた彼にとって、それは許しがたい『失敗』だった。
羞恥に紅潮したウィンは黙って一礼をし、一刻も早く部屋を出ようと身を翻す。
その背中に一葉は震える声を投げかけた。
「……ロットリア……卿、ね。甘いにおいがしたんだ。それに、あの変わり方。多分だけど精神に効く薬か何かを使われたんだと思う。もしかしたら今なら、まだ……」
――手掛かりが残っているかもしれない。
彼女がロットリア卿を正しく呼んだのはこれが初めてであり、そして最後であった。
躊躇うように囁く一葉と、その意味を悟り表情がスッと抜け落ちるウィン。言葉を呑みこんだ彼女に改めて深く頭を下げ、ウィンは部屋を出ていく。
「すみません、遅くなりました!」
ウィンと入れ替わるように、いつかのアリエラのようにドアを壊すような勢いで部屋へ入ってきたトレス。彼はいつものように医療用具をたくさん持っているが、いつもの温かい笑顔とは違いとても焦ったような様子である。
「首の傷はあまり深くないようですね。これは今すぐ治します」
ホッとしたように首筋を治療し終えた後、改めて他の怪我を診療する。
「……やはり左腕の骨が折れているようですね。その他にも打撲が激しいようですし、何よりあれだけ激しく体幹を蹴られているので……内臓への影響も心配です。骨などの外傷はすぐに治しますが……どんな影響があるか分からないので、当分はまた大人しく寝ているだけにしてくださいね」
「わかりました」
5階に職場を持つトレスも先の騒ぎには顔を出していたようだった。その際には一葉が遭遇した事態も全て目撃しており、彼女の主治医である彼はロットリア卿を止めたくて仕方が無かった。全てが終わった後に一葉がとにかく生きていることを安堵したのだった。
最後に顔を癒した後、お大事にとだけ言い残しトレスは部屋を出て行った。一葉の主治医だけが彼の仕事ではなく、侍医の1人として王族のケアに戻るのだろう。それでも診に来てくれたことに世界の異分子は感謝する。
ウィンとトレスの用事が終わってしまえばこれ以上一葉を訪ねてくる人間はいない。1人になった彼女は目を閉じて深くため息を吐いた。
(結局、選ぶことなかったな……)
――『道具』は、所詮『道具』のままではないか
珍しく一葉の顔に明確な表情が浮かぶ。それは自嘲そのものだった。命を奪ったことが辛いのではない。そのような柔い覚悟では誰かを守るどころか、生き抜くことすら難しい。
(結局私は何にも変わってなかった。作り変えられて、元には戻れない私のままだったってことか)
あの世界から逃げ出せて、この世界に召喚されて。もう『道具』としての一葉の役割は終わったと思った。確かに役割は終わった。しかし、一葉はもう『ひと』に戻れないのだ。ロットリア卿を殺した時に何も思わなかった。むしろどのようにすれば効率的に息の根を止められるか、暴走しそうな力をどのように集中させるかを考えた。彼ひとりだけならば一葉ならほかに方法があったはずなのに。
『ひとを殺しました』。『ひと殺しは悪いことです』。
日本にいた時には理屈ではなく理解できていたそれを、今の一葉は何とも思えない。進んで殺そうとは思わないが、他人や動物の命を大事にしていた自分に戻れない。『人間の命を選ぶ』という、心に決めたことを守りきれなかったことを残念だと思う。しかし『残念だ』以上には何も感じない自分が、この上なく空っぽの『人形』に思えて仕方が無かったのだ。
(痛いなぁ……)
そのとき、静まり返った一葉の部屋に扉を叩く音が響いた。
「……はい」
「少し、お邪魔いたします」
6人の騎士たちに護衛をされつつ、部屋へ入ってきたのはアイリアナ王妃。現在アーサー王や人質になったアリエラ王女は、10階にある私室にて厳重に警備をされているという。
もう自分を訪ねてくる者がいるとも思っていなかった上、騎士たちを連れているとはいえ王妃が自分の部屋へ足を運んだことに一葉は少なからず驚いた。
「……今、出歩いてもいいんですか?」
「本来であれば、わたくしも警備をされていた方が騎士たちには負担をかけないのですが。それでも、わたくしが出向くことこそ最大限の礼儀だと思い、参りました」
騎士の1人が用意した椅子に腰かけて、アイリアナは改めて頭を下げる。
「此度は王女のアリエラだけでなく、アーサー王とわたくしの命を助けていただきありがとうございました。イチハがいなければ、わたくしたちだけでなくアリエラや、いずれオラトリオすらも命を奪われていたことでしょう」
「いえ……」
いくらこのような事態であっても、王妃様に頭を下げられて落ち着いていられるほど一葉は傲慢でもないし、身分に慣れている訳でもない。
慌ててアイリアナに頭を上げるよう頼む一葉だが、アイリアナはそれでも頭を下げ続けた。
「いえ、頭を上げるわけには参りません。あなたが救ってくれたのは王と王女という肩書きの人間だけでなく、わたくしにとっての大事な夫と娘です。本来であれば親としてアーサーもここで頭を下げるべきなのですが……起きたことが余りに重大だったために今は出歩くことができません。失礼とは重々存じ上げておりますが、わたくしだけで今日のところは許していただければと思います」
「……アリエラ王女が無事に助かったことだけでも、よかったと思っています。私だけの力ではなくて、レイラさんやウィン、周りで彼を止めていてくれた騎士の方々の力もあってのこと。だから王妃様、頭を上げてください」
一葉がそう言うとアイリアナは頭を上げて本当に微かにほほ笑んだ。そして入口の騎士へ振り向き、人払いをさせる。
特に反論もせず素直に全員が廊下へと出たことに驚く一葉。そんな彼女の翳りのある目を見つめながらアイリアナは唇を開いた。
「わたくしのことはアイリアナと呼んでいただいて結構です。娘のことはアリアと呼んでいるのでしょう?」
「えぇ、まぁ……それならせめてアイリアナさん、と」
嬉しそうに笑うアイリアナは改めて話を始める。
「イチハがなぜそのような顔をするのか、とても気になりました」
「いつもと同じ……つもりですが」
「――ロットリア卿の、ことでしょう? 正確にはロットリア卿を殺めてしまったあなた自身の、それ自体を何とも思わないことをあなたは怖れている」
目を見開く一葉。
そんな彼女へとアイリアナは落ち着いた声で語りかける。
「あなたが初めてわたくしたちの前に現れたあの日から、わたくしはあなたを見てきたつもりです。あなたは確かに戦うことを知っている。必要とあればあなたの言う『勇者』として命を奪うこともしてきたのでしょう。
この世界に召喚されたときに、あなたはその大きな役割から解放されました。しかしあなたが誰かを頼ることは無かった。もちろん生活面では頼ってくれたのでしょうが、あなたの心は常に独りで周囲に弱みを見せないようにしていた。
今までの生活が、あなたに周囲を信用してはならないと教えた」
違うとも合っているとも言えない一葉を気にせず、アイリアナは言葉を継ぐ。
「あなたの生れた世界では恐らく、ひとや命を殺めることを善しとしなかった。それはあなたの慎重さに顕れています。命を殺めれば、または目立ちすぎれば排斥されてしまうと学んでいるのはこの2年の間だけのことではないのでしょう」
アイリアナの表情はにこやかながら真剣だった。
ならば一葉も何となく、聞き流してはいけないような気がした。
「あなたは命のやり取りが必要であることも知っている。でもそれが『悪いこと』だとも知っている。にも拘らず何も感じない。命の重さを実感することが出来ない。それが、あなたを構成する価値観とかみ合わなくて……そんなにも追いつめられている。
そうですね、『出来損ないの人形』とでも言ったところでしょうか」
違いますか? というアイリアナに対して一言も返せない一葉。
自分の世界を離れてから一葉は『一葉』として見られたことが無かった。常に『勇者』という言葉がついてまわった。
死にたくないと思っていた反面、『勇者』の替えは利くのだと諦めていた部分も確かにあった。
『勇者』だから助けてくれる。
『勇者』だから悪いモノを倒してくれる。
『一葉』ではなく『勇者』であること。
それはどれだけ『一葉』が他者を傷つけることに恐怖を覚えても、最終的には『勇者』として相手を殺すこともまわりから強制されるということ。
そして強制された命のやり取りも『勇者』だから当然のことで、強いままでなくては一葉の価値など無いようなものだった。『一葉』がどれだけ悲しくて苦しくても『勇者』を戴く者たちには全く顧みられなかった。
それはもはや人間ではなく、換えの利く『道具』としての一葉。
弱みを見せて『勇者』でなくなることが怖かったのだ。『勇者』でありさえすれば一葉はとりあえず生きていける。周囲を信用できない。表で笑っていても裏でどう言われているのか、想像するだけで怖い。信用できるのは自分と、裏切らない『相棒』である『コトダマ』と『狛犬』のみ。
その戦闘力ですら一葉にとっては『道具』の象徴として、恐怖し隠し通しておくべきものであった。その矛盾にもまた打ちのめされる。
独りであることに慣らされていた一葉だからこそ、今、アイリアナの言葉が胸に大きく響く。
「あなたがどう思おうと起こった事実に変わりはありません。しかしそれでアリエラや、彼が殺そうとしていたわたくしやアーサーが救われたこともまた大きな事実です。
あなたはロットリア卿の手にかかりあの場で死にたかったのですか?」
ふるふる、と子供のように首を振る一葉。
死にたくない。まだ生きていたい。
それは今確かに大きな気持として一葉の中に育っていた。
「この世界でなくても、あなたが生きている限りは他の生命を脅かし続けるでしょう。機械的に。何度でも。それでも、あなたが生きていることには変わりはありません。あなたも、アリエラも、アーサーも、わたくしも、幼いオラトリオでさえも。生きている限りは自分以外の何者かを無自覚に殺し続けるのです。
そんな私たちは人形でしょうか? いいえ、わたくしから見れば『にんげん』です。
何も感じないことは自覚してしまったあなたをとても苦しめることでしょう。
――それでもわたくしは、苦しむとわかっていても、あなたが生きていてくれて良かったと思っていますよ」
生きていてくれて良かった。
この時ばかりは、それが真実だと伝えてくる『おせっかいの魔力』に感謝した。
その優しい言葉を聞いたのはいつだったろうか。
両親の許にいたときには実感すらしなかった。
勇者としての自分は闘う『道具』でしかなかった。
生きていることを肯定されること。
存在を肯定されること。
それがこれだけ嬉しいとだとは思ってもみなかった。
この女性を傷つけずに済んでよかった。
この女性の娘を、大切な友人をこの手で守り切れてよかった。
戦う術を得ていたことを、戦える自分を、今ようやく肯定できた。
次々とあふれる涙をぬぐいもせずに泣く一葉。
アイリアナがそんな一葉に近づき頭を抱き寄せると、一葉はその優しいひとにしがみつきながら大きな声を上げて泣いた。
声が枯れ、腕が力を失い、目が涙を流さなくなってもまだ、2年分の悲しみや辛さを全て流すかのように泣き続けた。
やがて泣き疲れて一葉が眠りついた頃。
再び部屋へ入ってきた騎士たちに向け唇に人差し指を当て、アイリアナは一葉にシーツをかけてから立ちあがった。
「このような年若い子がこんなに思い詰めていたとは……一体どれほどの荷物を抱えさせられていたのでしょうね?」
一葉のいたという前の世界。その場所にいたであろう大人たちの態度は、今の一葉を見れば想像がつく。しかしアイリアナは眉を顰め頭を振って怒りを追い出した。
波瀾もあるかもしれない。これだけの力を持ち、本人も優秀な人材。平穏無事に生きていけるとは思えない。まず間違いなく彼女の夫は目を付けただろう。
しかし今度は自分で道を選び……できるならば、幸せになってほしい。
そう微笑みながら、アイリアナ王妃は部屋を出て行った。