八 銀杏の推理
しばらく、黒木が眠る部室で、僕もまたウトウトしていた。というのも、黒木が昼寝している間に、屋敷、すなわち建物と土地の権利が異なっている場合についての展開を考えるため、附属図書館で民法の基本書を漁ってサークル棟へ持ち帰り、昼寝する黒木の横で、丹念に精読していたからである。そこで、僕は黒木を出し抜く知識を得た。それは、屋敷、すなわち建物の権利よりも土地の権利の方が強いという事実である。どうやら、仮に工藤家の誰かに土地の名義があったとすれば、相続放棄を進言する理由が説明できそうなのである。そんな、普段にない自信に満ちているなか、ちょうど講義が終わったようで、サークル棟へも構内から漏れ出たチャイムの音が聞こえてきた。黒木もそのチャイムで、目を覚ましたようだった。
「終わったか」
そう言って黒木は、ぐっと両手を天井へ向けて伸ばし、長椅子から起き上がった。
「さて、ようやく一花氏との御対面だ。ところで、銀杏、御本人が登場する前に、ちょっとした賭けをしようじゃないか。昼寝のおかげで随分、頭の中が整理されたからね」
おそらく、屋敷と土地の名義問題を思量しようとするものだと察したが、唐突な提案だったので、「具体的にどんな?」と、一応聞き返した。
「もちろん、屋敷と土地の名義の件、賭けはごく単純、二者択一だ。屋敷と土地、どちらも父・隆のものか、あるいは、土地の名義だけ、工藤家の誰かか。君はどちらに賭ける?」
黒木の提案は、おそらく今回の相続問題の本質部分に迫るものなのだろう。ただ、僕もまたこの賭けには、勉強の甲斐あって自信があった。
「後者だね」
僕の自信が黒木には意外だったようで、「なかなか自信があるようだが、その心は?」と聞いてきたので、僕は自論を展開した。
「一花氏の母が相続放棄を進言するのは、土地の名義が工藤家にあることによる相続放棄の連鎖を想定してのことではないかと推察する。相続放棄によって、屋敷と1億円の負債が一花氏から、切り離される。屋敷と負債は、次の順位の相続人に相続されることになるが、負債の返済のために、屋敷を処分しようにも、土地の名義が第三者にあると非常にやっかいとなる。そもそも第三者に名義がある土地に建てられている屋敷を購入する者が出てくるのかという問題だ。屋敷を購入しても、土地の所有者たる工藤家の誰かは、それなりの土地の賃借料を屋敷を購入した者に求めることになる。だから、屋敷そのものの高額な購入代金に加え、半永久的にそれなりに高額な土地の賃借料を支払ってまで、屋敷を購入しようとする者が出てくるとは考えにくい。したがって、次の相続人もその相続を放棄し、そのまた次の相続人も相続を放棄するだろう。となると、巡り巡って、土地の所有者である工藤家の誰かが、その屋敷を破格で譲り受ける可能性が見えてくる。つまり、相続放棄しても、最終的に屋敷が工藤家に戻ってくるという想定で、母・咲は一花氏に相続放棄を進言しているのではと思う。そしてだ。黒木はここでこういうだろう。『そしたら、最初から相続して屋敷を売却し、1億円の負債を返してしまった方が得ではないか』と。しかしそれだと、ダメなんだよ。屋敷に住めなくなると、イベリスの庭園を眺めることができなくなる。どう?なかなかの推察でしょ?」
「なるほど」黒木は感心した様子で、言葉を続けた。
「相続した方が、損得勘定で考えれば得だが、負債を返すために屋敷を処分してしまっては、イベリスの庭園とともに生活するという観点からは本末転倒。むしろ、土地の名義が工藤家にあるならば、相続放棄によって、建物と土地の権利者の相違による複雑性から相続放棄の連鎖を引き起こし、巡り巡って土地の所有者である工藤家のなにがしが、引き取り手のない建物を譲り受ける展開を待つ方が、1億円の負債を切り離すこと、そしてイベリスの庭園のある屋敷での生活という両方の目的を果たせるという、そういうことか。なかなかの考察じゃないか。異論はない。俺もそう考えているからね。この賭けは成立しないようだ」
どうやら、黒木はすでに同じ結論を得ていたようである。
そして、そうこうしているうちに、部屋のドアが開き、「お待たせ、連れてきたよ」と彼女が、一花氏を連れてきた。最近流行りのレイヤードスタイルで、オーバーサイズのジャケットを羽織っており、長身の彼女とは対照的で小柄な女性であった。