十二 エピローグ
イベリスの庭園に係る一件の顛末は、黒木の思量のとおり。一花氏の早急な対応と大規模な磁気探査によって、イベリスの庭園からは、3つの不発弾が発見され、無事、適切に処理されるに至った。ただし、母上の復讐計画は、一花氏が“パンドラの箱”としたことによって、世に出ることはなかったことを申し添える。
なお、今回のエッセイのタイトル、『iのレーゾンデートル』には、様々な思いが込められている。まず、そもそも、本エッセイのタイトルは、『iのレーゾンデートル』ではなかったことに触れておきたい。というのも、今回の一件が相続に絡み、さらに、イベリス(Iberis)の庭園にかかわる悲劇でもあることから、相続ミステリーの名作である『Wの悲劇』をリスペクトして、草稿のタイトルを『Iの悲劇』としていた。
「なんとユーモアのあるタイトルだろう」
そう自画自賛していたのだが、ある時、ふと、黒木の「脚色し過ぎている」という嫌味な言葉が脳裏をよぎった。
そこで僕もまた、改めて、黒木のごとく“思量”し直したのである。
「はたして、今回のエッセイの一番のテーマは何か?」
そうして、草稿を読み返すに「その本質、核心部分は、家族の在り方や、存在意義にあるのではないか」と考えるに至ったのである。ただ、それをもってタイトルを『家族の存在意義』とするには、作品名としての面白さに欠ける。そこでまず、“存在意義”の部分に、フランス語の“レーゾンデートル”をあてることにした。あえてフランス語をあてたのは、『テン・ラーメン』の一件で黒木にドイツ語を選択しなかったことの皮肉を受けた、“皮肉返し”の動機によるものである。
閑話休題、『家族のレーゾンデートル』でもよかったのだが、やはり、相続ものとして、マニアックな読者に『Wの悲劇』のリスペクトをさりげなく感じさせる遊び心を入れたいという思いがあった。そのため、“家族”にイベリスの“I”、そして銀杏の“I”、さらにじつは、僕と彼女との“愛”というテーマを含めて、『iのレーゾンデートル』とした。
ここで読者からこんな疑問が生まれる。
「なぜ、小文字の”i”なのか?」
小文字にしたのは、虚数「i」のように、家族制度、あるいは家族そのものに、ある種、世の中の不完全性を補う役割があるのではないかという問題提起の意味を込めたことによるものであるが、とくに深い考察はない。ちょっとした遊び心である。
さて、結びに、僕と彼女のその後にも触れておく。
あれから、僕と彼女は、大学の卒業を待たずして学生結婚をすることとなった。
僕からの強いアプローチを、彼女は快く受け入れてくれたのだ。そして、僕は彼女との幸せな人生をスタートさせた。だが、それと同時に、銀杏家は思いがけず、絶望の淵に立たされたことを伝えなくてはならない。結論、僕の代で銀杏姓が途切れることが発覚したからである。
銀杏家も宇佐美家も、僕と彼女が子を授かるのを切望していた。とくに銀杏家にとって、姓を受け継ぐという意味でも、子を授かるということが、重要な儀式であったことは言うまでもない。僕も常にその重責を意識していた。だが、神様は僕たちに子を授けてくれない。
そんな僕の重責を理解していた彼女は、ある日、自らの体質に何か原因があるのではないかと疑い産婦人科を訪れた。その際、彼女の検査に加えて、産婦人科医の奨めで、夫である僕も検査を受けることとなったのだが、そこで僕は、何の心の準備もできないままに、子を授からない原因が僕自身にあることを告げられたのである。
「申し上げにくいですが、旦那様は、無精子症と思われます。最近は、おたふくかぜの罹患が原因となって無精子症を患うことがあります。おたふくかぜを患ったことは?」
僕は一時、絶望の深海に沈み、学業も手付かずになったが、彼女の支えのもと、不妊治療を行っていくことを受け入れたのである。
僕は、今、困難の中にいる。だが、そんな逆境にあっても、“銀杏”姓という家族の象徴を引き継ぎ、彼女との家族としての存在意義をたしかなものにすべく、愛のレーゾンデートルを思量し、彼女との幸せな日常を送っていきたい。
ということで、いささか、エピローグとしては、私情を挟んでしまったことをお詫びするが、“評論家”黒木の言う脚色のし過ぎには、十分気を付けたことを申し添える。
※昭和五十七年三月銀杏玲著『iのレーゾンデートル』は北城商科大学文芸サークル同人誌に掲載された。




