04:タイムリミット
シャツから覗いた手首、話すたびに上下する喉仏、広い肩幅、低い声。
どこを切り取っても彼が“異性”だと認識するには十分だった。
***
「あの、織原さん! 負けないでください! わたしたち、リヒユウ推しなんで!」
「え、あ、ありがとう?」(リヒユウってなに)
昼休みに廊下で理仁が「真面目に交際」宣言をしたせいで、二人の仲を認める人たちが増えた。今も選択授業が終わり、教室に戻っている途中、他のクラスの女子生徒になぜか応援されている。
「白雪くんはみる目があると思う!」
「わたしもそう思うよ」
隣にいた果乃実が硬く握手している。美結は鼻高々に頷いていた。
木綿花が苦笑していると、頭にぽんと手を乗せられる。見上げれば理仁だった。
「今日一緒に帰れる?」
「え、うん」
「じゃあ後で」
「うん」
近くにいた女子生徒たちがキャッキャッと声を上げる。美結と果乃実がニヤニヤとしていた。理仁の隣にいた黒木もニマニマして理仁に小突かれている。木綿花は照れ臭そうに目を逸らした。
***
「曖昧にしていたけれど、改めて確認しておこうと思って」
「なんの?」
その日の放課後、もう常連になりつつあるいつものカフェで木綿花と理仁は向かい合って座っていた。教室では席が隣で、放課後も一緒。夜も電話やメッセージをすれば、必然的に彼に慣れてくる。初めこそちょっぴり緊張していた木綿花も今はあまり緊張しなくなった。
「期間の期限について」
「期限」
「うん。俺、最初に来年の三月って言ったの覚えてる?」
「あ……」
今になって木綿花はそのことを思い出した。いろんなことがあって有耶無耶になっていた部分を理仁が改めて確認したいという。
「俺の身勝手な言い分ではじめに三月って言ったけど……、本当はどう思っているのか気になったんだ。今更だけど」
理仁が困ったように笑う。だけど木綿花の心の中では、このまま彼となんとなく付き合って行くのだと思っている自分がいた。
そう思えるほど、馴染んでしまっているところがある。まだ二週間も経っていないのに、それぐらい理仁と過ごすことが当たり前になっていた。
「……三月でいいよ」
「そう?」
「うん」
とはいえ、お互い気持ちがないのにズルズルと恋人ごっこをするのも違う。成り行きとはいえ、お互いを知りながら恋をしようと決めたのだ。
だったら、どこかで制限を作らないとただお互いを縛り付けているだけになる。理仁の受験勉強の邪魔はしたくないから、三月までが妥当だ。
「じゃあ、三月までにお互い“恋”ができなければお別れってことで」
「うん」
木綿花は意気込む。
この二週間だけでも理仁のことが少しずつわかってきた。この調子で彼のことを知っていければ、好きになる日がくるだろうか。
「……ちなみにさ、今どのぐらい?」
「……え?」
「木綿花の中で俺の存在感がどれぐらい大きくなったかなって」
木綿花は思わずぽかんとする。理仁がきまり悪そうに目を逸らした。頬杖をついた手が口元を隠しているが、言い訳がましくもごもごしている。
理仁は時々ぽんこつだと最近知った。普通そんなこと聞かないことを平気で聞いてくる。
「たとえば、このグラスで表すと?」
「えー…… このぐらい?」
だけど木綿花は親指と人差し指で存在感を示した。本当はもう少し大きいかもしれないけれど恥ずかしくて少し小さめだ。グラスの底からわずか一センチ程度のそれを見た彼はがっくりと肩を落とした。
「ふ、あはははは」
「え?」
そのあからさまな落ち込みように申し訳ないけれどおかしくなってしまう。木綿花はひとしきり笑うと不貞腐れている彼に尋ね返した。
「じゃあ、白雪くんはどれぐらいなの?」
理仁は少し思案するとむっすりとしたままグラスを指でさす。それはグラスのちょうど1/3程度の位置で、木綿花はどうリアクションすればいいか逆に困った。
「あ、そうなんだ」
「……うん」
「なんか……ごめん」
「謝られると惨めなんだけど」
ぶすっとした声に木綿花は焦る。こんなとき彼ならどうすれば機嫌を直してくれるだろうか。それがわからない。
「……気にしなくていいよ。そもそも俺はタイプじゃないみたいだし」
先日木綿花の好きなタイプが”赤い人”だということはバレている。バラしたのは、果乃実と美結だ。
「え、いや。そう、かもしれないけど」
「でももうちょっと真剣に俺のこと見てほしいな」
「み、見てるよ」
「本当?」
「本当」
じっと見つめ合っていると、ふと理仁が肩の力を抜いた。くすくすと笑わる。
「その見るじゃないけど」
「わ、わかってるよ」
「だったらさ、ひとつお願い聞いてほしいんだけど」
木綿花は身構える。自然と両手を前にして構えてしまった。彼がお願いというとなんだかちょっと怖い。
「ねぇ、もことこてつの散歩行った?」
木綿花は大急ぎで自宅に帰ると鞄を持ったままリビングに飛び込んだ。いつもならまず先に部屋に上がって制服を脱ぐがぞれどころじゃない。
理仁のお願いは、織原家の愛犬、もことこてつが見たいとのことだった。
木綿花は理仁と近くの公園で待ち合わせている。母は台所から慌てた様子の娘を眺めながらのんびりと答えた。
「まだよ。お姉ちゃんに行ってもらおうと思って」
「麻ちゃんいるの? バイトは?」
「今日はおやすみだって。部屋にいるわよ」
「そうなんだ。散歩、わたしが行くよ!」
「ふーん。じゃあお願いしようかな」
「うん。着替えてくる!」
木綿花はお弁当箱をシンクに付けながらリビングの冷房がよく効く場所で寝転がっている二匹の愛犬を見てにっこりと笑う。
「もこ、こてつ、今からお散歩行こうね!」
おさんぽ!と柴犬のこてつが尻尾を振る。ビション・フリーゼのもこは行くと楽しむのだけど、行くまでが面倒くさいらしい。リードを持つと逃げ回るのだ。本犬はただ楽しんでいるだけだが。
「あれ、散歩行ってくれるの?」
「うん!」
「一緒に行こうか?」
制服から着替えて部屋を出ると、姉の麻葉に捕まった。麻葉は大学の二年生で、まだまだ夏休みを謳歌している。日中はほとんどバイトかサークル活動で家にいないのに、今日は珍しく家にいたらしい。
「大丈夫! あ、お母さんありがと! 行ってきまーす」
木綿花は階段を駆け降りる。母がわんこたちにハーネスをつけてくれたことに一言告げると、二匹を伴って玄関を飛び出した。
娘の慌てよう、表情。それらを見ていた母と姉は。
「……怪しいわね」
「ね」
「ふふふ。木綿花の彼氏どんな人かなぁ」
二人は目配せするとニヤニヤとしながらリビングに戻った。
「お待たせ、暑かったよね?」
カフェから徒歩五分程度の場所にある公園で木綿花は理仁と待ち合わせをしていた。彼は公園のベンチに座って本を読んでいたが、足音に気がついて顔を上げる。
「ううん。思っていたより涼しいよ」
「ほんと?」
「うん。木が多いし、この辺りは影になっているから。一応これでもサッカー少年だったから外の暑さには慣れてるよ」
「そっか。だったらいいけど」
理仁は目を細めると、膝の位置でわふわふしている愛犬と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。その眼差しは柔らかく、表情は優しい。
「こんにちは。どっちがもこでこてつ?」
「柴がこてつ。白い子がもこ」
「触ってもいい?」
「うん。大丈夫! 噛まないよ」
理仁がそっと手のひらを差し出すと、二匹が彼の手の匂いをクンクンと嗅ぐ。犬の扱いに慣れているのか、彼は慎重に二匹の興味を引き、優しく背中を撫で始めた。
「毛並みも表情もいいね。……いい家に引き取られてよかったね」
二匹は飼育放棄したブリーダーに山の中に捨てられ保護された犬だ。他にも何匹か一緒に保護されたが、この子達が一番ひどかったらしい。当初はガリガリに痩せており、目も濁っていた。人間不信で人が近づくと威嚇したり、ゲージの奥に逃げ回ったりもしていた。
「今じゃすっかり甘えん坊で、人間大好きだよ。もこは人を見ているところがあるけど、こてつは割と単純だから」
木綿花がベンチに座ると、もこが立ち上がり木綿花に短いあんよを伸ばしてきた。抱っこをせがまれたので木綿花はもこを抱き上げる。
「抱っこする? あ、汚れるかな」
「洗濯するしいいよ。抱っこしてもいいの?」
「うん。あ、こてつはボールで遊ぼうね」
ボール?! と目を輝かせたこてつに木綿花は笑いながら鞄からボールを取り出した。強くボールを握るとピューピュー音がする。
「投げる?」
「あ、うん。……こてつ、いくよ」
「あん!」
こてつが勢いよく走り出す。理仁がこてつの走る先より遠くにボールを投げた。ボールはバウンドしてこてつの鼻先より高く弾む。ボールより行きすぎたこてつは、慌てて方向転換するとボールを咥えて嬉しそうに戻ってきた。
「賢いね」
「うん。この遊び大好きだから。こてつ、ちょうだい。ぽいして」
「こてつ、ちょうだい」
ハッハッと息を吐き出しながらこてつが口からボールを落とす。理仁はよだれまみれのボールを気にすることなく掴むと、またボールを遠くに投げた。こてつが目を輝かせて追いかける。
「もこちゃんもいくかい? ……いかないの?」
もこが理仁の脚の上で大人しく座っている。顎の下をよしよしと撫でてやれば気持ちよさそうに目を細めた。
「もこはビション?」
「うん。厳密にいうと、ビション・フリーゼとトイ・プードルのミックスなんだって」
サイズも顔立ちもビション・フリーゼだ。元ブリーダーが想像していたような犬にならなかったので、捨てられたのだと推測している。
「だからって捨てなくていいのにねぇ」
「人間の都合だよね」
「おかげで出会えたんだけど」
木綿花は鞄からお水の入ったペットボトルと犬用の水入れカップを取り出して水を注いだ。戻ってきたこてつの足元にそのカップを置く。
「こてくん、お水のむ?」
「こてくんって言うの?」
「あ、うん。こてくんとかてっちゃんとか呼んでるかも」
こてつがガブガブと水を飲んでいる。もこが理仁の脚の上から飛び降りて、一緒に水を飲み始めた。どうやらもこも喉が渇いていたらしい。二匹仲良くお水を飲む様子を見てほっこりした。
(……すごい、白雪くんがはしゃいでる)
水を飲んだこてつは「ボール投げて」と理仁にせがんだ。鼻でちょんとボールを転がすのだ。理仁はそんな健気なこてつに心が射抜かれたらしい。こてつとサッカーをして遊んでいる。ちなみにもこもつられて理仁の足元でちょろちょろしていた。ボールを追いかけたり、こてつを追いかけたりしている。
(めっちゃ笑顔だし)
普段の理仁から想像つかない子どものような笑顔。きっとサッカーをしていた時はこんなふうに仲間達と笑っていたのだろう。
(……甲斐と似てる、かも)
彼もまたボールを追いかけている顔は楽しそうだった。キラキラしていた。負けた試合は悔しそうなのに、笑っていた。きっと“楽しい”が大きかったからだろう。
(本当はもっと笑いたいよね)
以前の学校での理仁の様子はよくわからない。だけど、明らかに今の状況は彼にとってストレスであることは想像できた。今は少し落ち着いたようだけど、当初は隠し撮りされたりしたこともあったという。彼は警戒してクラスのグループラインにも入っていない。連絡先を知っているのは、黒木と木綿花だけだと聞いた。
(……学校がもっと楽しい場所になってほしいな)
眩しい夕陽に照らされて無邪気に笑っている理仁に、もことこてつが飛びついた。同じタイミングだった。驚いた理仁が二匹を受け止めきれず、その場に尻もちをつく。
「え、……もぅ」
木綿花は一瞬驚いたが、犬まみれになっている理仁がとても楽しそうだったので、上げかけた腰をもう一度ベンチに下ろした。理仁は二匹に顔を舐めらて笑っている。木綿花はポケットからスマホを取り出すと、そっとカメラアプリを起動させた。
(……よくない、かな)
これは隠し撮りになるかも……と一瞬躊躇ったけれど「すぐに消そう」と思ってシャッターを押した。あまりにも理仁がいい顔で笑っているので、彼にも見てもらいたかった。こんなにも子どもっぽい顔をしていたのだと、こんなにも楽しそうにしていたのだと知ってほしかった。
木綿花は夕陽が差す公園でカメラ越しに二匹と一人が遊んでいる様子を黙って見守った。
「今日はありがとう。突然だったのに」
「ううん。こちらこそ遊んでくれてありがとう」
たっぷりと公園で遊んだ後、木綿花は理仁と共に家に帰ってきた。理仁がリードを持ちたそうにしていたので、お願いしたのだ。それに、木綿花の家から五分ほど歩くと別の路線になるが駅はある。それを聞いた理仁は「じゃあ、そこから乗ろうかな」と頷いた。
「こて、もこ。またね」
理仁がその場にしゃがみこんでわしわしと二匹の頭を撫でる。すっかりと理仁を気に入ったもこは片足立になり、しゃがんだ理仁の膝に両手をついた。目をキラキラさせているその様子はまるで恋する乙女。人間で言うともうアラサーを超えてアラフィフらしい年齢のもこは尻尾をふりふりしながら別れを惜しんだ。
「あ、やっと帰ってきた。あれ?」
家の前でお別れを済ませていると、帰宅を察知したらしい姉が玄関から出てきた。木綿花を見て理仁を見て目を丸くしている。
(あ、やば……!)
麻葉の目が一瞬キラーんと輝いたのを木綿花は見逃さなかった。
「こんばんは。木綿花の姉の麻葉です。木綿花の彼氏?」
「はい」
理仁はスッと立ち上がると礼儀正しく自己紹介した。
「同じクラスの白雪理仁です。お付き合いさせていただいています」
「わー、すごい整った顔してるね」
「よく言われます」
にこっと笑った理仁を見て木綿花は「あ」と思った。
彼は一瞬のうちに仮面をつけたのだ。さっきまで子どものように無邪気だったのに、よそゆきの顔になってしまった。
「ねぇ、夜ご飯食べて行かない?」
「え? あ、麻ちゃん。何言ってるの!」
「お腹空いてるでしょ? ちょっと待って」
麻葉が玄関から母を呼ぶ。呼び出された母は「もう、なによ〜」と言いながら、理仁を見て目を丸くした。
「あらあらあら!」
「初めまして、白雪理仁です。お忙しい時間にすみません」
「木綿花の母、繭子です。全然忙しくないわよ、ねぇ?」
「姉の麻葉です。暇してたから全然気にしないで。というか木綿花が遅かったからちょっと心配だったんだよね」
「それはごめん……」
木綿花が何も言わずに散歩に出たのに、二時間近くも帰ってこなかったので心配していたらしい。
「すみません。僕が犬を見せてほしいとお願いしたばかりに」
「それは全然いいの! この子達の顔を見たらどれだけ楽しかったのか分かったから」
麻葉が笑う。木綿花は母と姉の顔を見るのが恥ずかしくて目を逸らした。
「お茶の一杯ぐらい出させてほしいな。もしよかったらご飯も食べていって。あ、お家の人が大丈夫であれば、だけど」
「麻ちゃん! 白雪くんにも都合があるの」
若干強引な姉を木綿花は止めた。止めたけれど理仁が同意した。
「ではお言葉に甘えてお茶をいただいてもいいですか」
「「どうぞ〜!」」
母と姉が綺麗にハモった。もこが尻尾をぴこぴこ振りこてつが「あん!」と鳴いて理仁に飛びついた。
「え、建築学科ですか?」
「麻ちゃん、都市なんちゃら学部だよね?」
「その都市なんちゃら学部の中に建築学科があるよって話なの」
麻葉が大学二年生で現在夏休み中だと聞いた理仁が「どこの大学ですか」と尋ねたことが発端だった。そこから麻葉と理仁の会話がはずみ、木綿花は蚊帳の外だ。今はおとなしく母の手伝いをしている。
「……後期(試験)はそこを受けようか考えています」
「決めるの早いね! でもうちなら一級(建築士)取れるから結構いるよ、そういう人。何人か後期試験で入った子も知ってる」
厳密には国家試験の受験資格を得られるだけだが、理仁は身近にモデルケースを見つけて目つきを変えた。
「木綿花、これ運んでちょうだい」
「はーい」
「お箸もね」
木綿花は姉と理仁の様子を見守りつつテーブルにお箸を並べていると、織原家の長男、兄の絃が帰宅した。玄関から足音が近づく。リビングの扉を開けた兄は目を丸くした。
「ただいまー、誰か来て……誰?」
「「木綿花の彼氏」」
「え、お前彼氏いたの?」
「ほっといて!」
「えー、言えよ。教えろよ。あ、彼氏くん。木綿花の兄の絃です」
兄がぺこりとお辞儀する。理仁はわざわざソファーから立ち上がると、彼もまた丁寧に頭を下げた。
「白雪理仁です。お邪魔しています」
「してして。理仁くん、あとでお兄ちゃんともお話ししてね」
「早く手を洗ってきて!」
木綿花が目くじらを立てる。絃は笑って階段を登っていった。
「楽しいお兄さんだね」
「みんなわたしをいじめるのが好きなだけだよ」
「純粋な妹がかわいくて〜」
「麻ちゃん〜」
「はいはい」
麻葉が「妹が反抗期〜」と笑いながらもこを抱き上げた。突然抱っこされたもこは一瞬ばたついたけれど、すぐにおとなしく抱かれている。こてつはご飯を食べたので眠くなったのか、ソファーの上で横になっていた。そのお腹を優しく撫でているのが理仁である。
「そろそろご飯にするわよ」
「はーい」
当初お茶を一杯いただいたらお暇すると告げていた理仁だが、家に帰っても一人飯で、ほとんど外食で済ませると聞いた母が炎を燃やした。そして「唐揚げは好きかしら? よかったら食べていって」と笑顔で圧をかける。理仁は断らずに遠慮しつつも受け入れてくれた。
そのおかげで今夜のメインがお刺身だったところに唐揚げが追加された。あとは、豚肉とキャベツの甘辛炒め(兄の好物)が約二倍に増量。きんぴらごぼう、ほうれん草のおひたし、冷奴、お味噌汁。いつもの織原家のテーブルよりも随分華やかだ。今夜はお皿にもこだわっておしゃれなものに入れている。
母の気合いの入り具合に呆れてしまった。
「お、すごい。豪華だ」
「お母さんが張り切っちゃって」
「そこは木綿花が張り切るところじゃないの?」
「少しは手伝ったもん」
木綿花は唇を尖らせながら食事を運ぶ。ニヤニヤと笑いながら兄が椅子を引いた。理仁は木綿花の隣、お誕生日席に腰を下ろす。彼の対面が父になるが、本日父は会社の同僚と飲み会である。
「遠慮しないで食べてね。苦手なものは食べなくていいから」
「はい、ありがとうございます。……どれも好きなものです」
理仁がテーブルを見渡して母に笑みを向ける。母は嬉しそうに頷くとお皿に唐揚げをぽいぽい乗せて理仁に差し出した。
食事を終えたあと、理仁は絃と真面目な話をしていた。木綿花はいつ自分の名前が上がるのかとそわそわしていたが、兄の話を理仁は聞きたいと真面目に耳を傾けている。
絃も麻葉も同じ大学だった。建築学科を卒業した友人がおり、兄がその人のことについて話している。ちなみに兄は現在大学院生だ。色々進路に悩んだ結果、臨床心理士を目指すことを決め、大学卒業後、周囲が社会人一年目を過ごす中、ひとり黙々と勉強し現在別の大学の院に通っていた。
「理仁くん、シラバスいる?」
「いいんですか?」
麻葉が一年時に使っていたシラバスをわざわざ部屋からとってきたらしい。
理仁はちらっと木綿花を見たけれど木綿花は「どうぞ」と両手を差し出した。
「参考程度にしかならないけど、一年次はあまり変わらないはず。専門は二年次から増えていくから。木綿花も気になるなら見せてもらいな」
「あ、うん。でもまだいいよ。わたしは何も決まってないし」
二人で進路について話している様子が羨ましい。きっと麻葉も木綿花のためにシラバスを取っといてくれたのかもしれないが、今の木綿花には必要なかった。そもそも何をしたいのかもわかっていない。
「そろそろお暇します」
「あら、もう?」
「はい。遅くまでお邪魔しました」
とは言ってもまだ八時を過ぎた頃だ。それでも理仁の家はここから遠い。
それを知った母は無理に引き止めようとしなかった。もし引き止めたら木綿花が断固拒否する予定だったが。
「途中まで車出すよ」
「え、そんな」
「いいからいいから。木綿花も乗るでしょ?」
「うん」
「麻葉の運転が心配だから俺も行こうっと」
「絃くんビール飲んだじゃん。運転代われないでしょ?」
「助手席専門」
だったら来なくていい、と言いながら姉と兄が玄関に向かう。理仁が二人の様子に目を細めた。
「……なんかごめんね? 絃くんも麻ちゃんも」
「ううん」
理仁が首を横に振る。
「色々と教えてもらったし、シラバスまで。でも本当によかった?」
「うん。まだわたしは何したいのかもわからないし」
理仁のように目指すものがあれば別だけどそうではない。
「ゆっくり探すよ。まだ時間はあるから」
「うん、それがいいよ」
「……決まったら聞いてくれる?」
「もちろん」
理仁は嬉しそうに笑うと靴を履いて来た時と同じように、母に礼儀正しく深々と一礼した。
その夜、木綿花はお風呂から上がりベッドで寝転がっていると、理仁からメッセージが届いた。そのメッセージ返信すると、電話がかかってくる。
「……もしもし?」
『ごめん、今いいかな?』
「うん、いいよ」
『改めてお礼を言いたくて。……今日はありがとう。すごく楽しかった』
麻葉は結局大きな駅まで車を走らせた。束の間のドライブだ。車の中で昔話に花を咲かせ、木綿花の子ども時代の話を暴露された。理仁を見送ったあと、コンビニでアイスを買わせたことで溜飲を下げたが、恥ずかしかったことには変わりない。
「ううん。お母さんの暴走を止められなくてごめんね。麻ちゃんも絃くんもごめん」
お節介の母が明日の朝ごはんにとおにぎり二個と夕食の唐揚げ、卵焼き、おひたし等をパックに詰めて理仁に持たせた。「二日連続で同じご飯は嫌かもしれないけれど」と言った母に、理仁は笑顔で感謝を述べてくれた。
『全然。ご飯美味しかったから明日のお昼が楽しみ』
「ほんと?」
『うん。甘辛炒め、木綿花が作ってくれたって聞いたけど』
「あ、うん。そう」
兄の誕生日にたまたま作ったメニューがヒットしたのだ。ただレシピ通り作っただけなので、誰でも作れるが、なぜかいつも木綿花が担当だ。
『ありがとう。ご馳走様でした』
「……お粗末さまでした」
『すごいね。今度俺も自分で作ってみようかな』
「うん。簡単にできるものも多いよ。レシピ見れば誰でも作れるし」
『そうだね。どうせ一人暮らしすると作らないといけないし今からやってみようかな』
理仁の声がわずかに弾んでいる。いつもの落ち着いたトーンにウキウキとした気配が感じられた。
木綿花もまだ理仁のすべて見せてもらえてはいないけれど、徐々に素を見せてくれていることが嬉しく思う。自然と頬が綻んで、そういえばと忘れていたことを思い出した。
「あ、そうだ」
『え、なに?』
木綿花は通話画面を縮小すると、写真フォルダを開いた。そこには夕陽が差し込む公園で笑顔で犬と戯れている理仁が写っている。
「……あのね、もことこてつと遊んでいる姿を写真に撮ってしまいました」
『あ、そう』
「うん。勝手にごめん」
『ううん。木綿花ならいいよ。悪用したりしないし。SNSとかにも載せないでしょ?』
「もちろん」
木綿花は力強く頷く。電話の向こうで小さく笑った気配がした。
『じゃあ、俺にも木綿花の写真ちょうだい』
「え、それはヤダ」
『どうして。不公平だと思うけど』
そう言われると、木綿花は言い返せない。何かいい案がないか考えていると、理仁が「じゃあさ」と切り出した。
『今度デートしよう』
「で、デート?」
『うん。それで二人で写真撮ろうよ。それならいいでしょ?』
そう言われてしまえば断れない。木綿花は渋々頷いた。
「い、いいよ」
『いつにする? 俺は土日ならいつでもいいよ。明日でも』
「あ、明日はダメ! 急すぎる!」
断固拒否した木綿花に理仁が声をあげて笑う。
もことこてつと笑っている写真から楽しそうな声が聞こえたような気がした。