03:真面目に交際宣言
少し高い体温、乾いた手のひら。
自分より大きな手に包まれた時、か弱い女の子になった気分で、
こんな風に守られたいと思ってしまった。
***
「次の化学、移動だよね」
「うん」
「行こうか」
理仁と付き合い始めて一週間。初めこそどこか疑心暗鬼だった周囲は木綿花たちの様子を見て、ようやく実感してきたらしい。中には「本当に付き合っているのか」と直接尋ねてくる猛者もいるが、理仁がキラキラした笑顔で肯定しているのでみんな信じてくれている。
「ちょっと白雪〜。もめを独り占めしないでよぉ」
「席が隣だからってずっと一緒にいるよね」
「もめが足りない〜。もめ〜〜」
後ろから追いかけてきた美結に抱きつかれる。果乃実が理仁にちくりと嫌味を言った。彼は涼しい顔で果乃実の言葉をスルーする。
たしかに席替えをして理仁と話す時間は増えた。格段に増えた。そこに美結と果乃実も入って話すので彼女たちは理仁に対して少し雑だ。
「あんまり独占欲強いと嫌われるよ?」
「うざ」
理仁の肩に腕を回したのは、同じクラスの黒木真紘だ。彼は、幼稚舎から小学校まで翠玉学院に所属しておりかつて理仁と同じ学校に通っていたらしい。中学生になる前にこちらに引っ越して、美結と同じ中学に通っていたんだとか。
「うわ、聞いた? 今小さい声でウザって言った。俺がアドバイスしたのに」
黒木が木綿花を見てあからさまにショックを受けた顔をする。だけどそれも彼がただ悪ノリしているだけだと周囲は気づいていた。理仁が嫌がることをするのが好きらしい。ただ理仁をかまいたくて仕方ないだけだ。
「そんなアドバイスいらないから」
「へいへい。じゃあもう話聞かねえよ?」
「いいよ」
「聞かせてよ〜」
「ほんと、やめろ。まじで」
ガバりと抱きついた黒木を理仁が嫌そうに払っている。あたふたしている姿は、年相応の男の子に見えた。
(白雪くん、黒木くんといるときは幼くなるよね〜)
木綿花はほのぼのした気持ちで二人のやり取りを眺める。どこか取り繕った表情を見せる彼は、黒木の前だと一段と子どもっぽい。木綿花の前でもいろんな表情を見せてくれるようになったが、まだ黒木の域には到達していない。それでもこの一週間で理仁についてわかったことがある。
「ほら、席につけよ」
「まだ休み時間じゃん。もうちょっとさぁ」
「離れろ」
実は人見知りで話すことが得意ではないこと。苛立つと口が悪くなること。ラーメンが好きだけど、めんまは好きじゃないこと。夢を持っていてその夢に邁進していること。負けず嫌いなところ。
二人のやりとりをにこにこと見守っていると理仁がバツが悪そうに目を逸らした。子どもっぽい姿を見られるのはなんとなく恥ずかしいようだ。
「……最近黒木が鬱陶しい」
「寂しいんじゃないかな」
「黒木に寂しいと思われても」
理仁がむっすりする。それでも照れくさいだけで本気で嫌がっているわけではないだろう。黒木もまた、それを理解した上で理仁に絡んでいる。
「もめ、どこ行くの?」
「お手洗い〜」
木綿花は席に教科書や筆記用具を置くとお手洗いに向かう。個室に入って扉を閉めたところで複数の声が近づいてきた。その中から理仁の名前が聞こえる。
「愛菜、白雪くんに玉砕したって」
「まじかー」
「瀬戸っちもだめだったって聞いたよ」
「ってか白雪くん彼女いるって言ってなかった?」
木綿花はドキッと肩を跳ねさせる。彼女たちはまさか本人が同じトイレの個室に入っているとは思わないだろう。話を続けた。
「でもさ、わたしイマイチ白雪くんの魅力がわからないんだよね〜」
「あんた筋肉が好きだもんね」
「そうそう。なんかさぁ、雄ミに欠けてない? 男らしさが足りないというか」
「たしかに、虫も殺さぬような綺麗な顔はしているけどさ」
「わたしはめっちゃ好き。韓流スターっぽい感じがいい」
「桃はそうかもしれないけどさ。もっとこう、肉食な雰囲気がほしいの、わたしは!」
それはその人の好みの問題だ。木綿花は話を聞きながら心の中で突っ込んだ。
「でもまぁ、確かに時期社長は唆るよね。雄ミには欠けるけど結婚相手としては熱い」
「ほんと将来安泰だよ〜。未来の社長夫人だからね。今から射止めるべし」
「結婚しても家政婦雇えばずっと遊べるかな」
「それは離婚される」
「今の時代、社長夫人だって働いているかんね! あんた甘いよ!」
「えー」
そもそも、理仁は家を継がない。彼には「建築士になる」という別の夢がある。以前話の中でぽろっとこぼしていた。芸能にも会社経営にも興味がない。未来のことはわからないが、今の理仁はそうだと教えてくれた。
「ぶっちゃけ愛菜か瀬戸っちが本気出せば落ちそうじゃん? 落ちないってことはマジってこと?」
「かもね。何回もアプローチしているみたいだけど、相手にされてないぽいし〜。瀬戸っちは青柳ちひろにDM送ったって言ってたよ」
青柳ちひろとは理仁の母親の女優名だ。本名は白雪ちひろのはず。
「つよ〜」
「さすがにそこまで強くなれないよね」
「瀬戸っちは読モしてるからコネがあるんじゃない? それに青柳ちひろも読モからモデル→女優に転向したんでしょ? だからじゃない?」
「でもさ、さすがにそこまで図々しくなれないよね」
思わず木綿花もうんうんと頷いてしまった。彼女たちの行動力が怖い。
「愛菜の場合は動機が薄っぺらいんじゃない? 玉の輿狙いだからぶっちゃけ誰でもいいでしょ」
「たしかに」
「でも、その彼女も実は玉の輿狙いかもしれないよ」
「えー、地味な感じっぽかったけど、実は肉食系?」
「いるよね、そういう子」
いるいるー、と好き勝手言いながらトイレから出て行く気配を見送って木綿花はホッと胸を撫で下ろした。ちょうどチャイムが鳴り、慌ててお手洗いを出る。ドッと疲労感覚えた。教室に戻るとすでに先生が来ており、慌てて自席に着席する。
(そういえば、白雪くんはわたしと付き合い始めて何か変化はあったのかな)
トイレでの一件を聞いて木綿花はふと頭に疑問が浮かんだ。授業はすでに始まっており、理仁は真面目に話を聞いている。その横顔にチラリと視線を向けると、気配に気づいた彼が器用に片方の眉を上げた。
「(なに?)」
木綿花が首を横に振ると彼はあっさりと引き下がった。これから実験が始まるので、集中しないといけない。
「ねぇ、さっきのなんだったの?」
実験が始まると木綿花はすっかりとそのことを忘れていた。実験を終えて試験管を洗っていると白衣を着た理仁に声をかけられる。実験が始まる前に「薬品が飛ぶといけないから」と配られた白衣だが、理仁はとても様になっていた。背もあるし、手脚も長い。木綿花は袖をいくつも折って捲っているけれど、彼は腕まくりしているだけで済んでいた。
「さっきの?」
「授業が始まったときこっち見てた」
「あぁ」
木綿花は苦笑しつつ「後でね」と告げる。
「ここでは話せないってこと?」
「え、うん。まだ授業中だし」
「もう終わってるよ」
たしかに片付けをした班から教室に戻っていた。化学室に生徒はあまり残っていない。美結と果乃実も実験が早く終わったので先に教室に戻っていた。理仁は木綿花の隣に並び、蛇口を捻る。洗ったばかりのビーカーをまた洗い始めた。
「これで話せる?」
「あ……うん」
洗っている風に見えるし、水の音で声が聞こえづらい。理仁にそこまでされると木綿花は諦めるしかなかった。
「……どれぐらい呼び出されているのかなと思って」
「今週はないよ」
「え、うそだ」
「本当。ってか、そんなこと嘘ついてどうするの」
「えー」
どうするの、と言われても木綿花の語彙力じゃ言い返せない。
「……わたし、抑止力になってる?」
「そうじゃない? 一緒に帰ったりしているし」
「……だったらいいけど」
でも押せばいけると思われてます、なんて理仁に言えない。納得できないまま理仁を見上げると、彼は困ったように眉を下げた。
「じゃあ何を言えば納得するの?」
「そういうわけじゃないけど」
「もしかしてヤキモチ?」
「違いますぅ」
思わず半目になると、理仁にクスッと笑われる。すると後ろから坂本に声をかけられた。
「なぁなぁ、二人が付き合い始めたのって俺のおかげ?」
「そうだよ」
「そっかー。じゃあ、俺、恋のキューピッドじゃね?」
「そうだね」
「いやぁ、あの時はみんなに怒られてやらかしたと思ったけど、結果オーライだったんだなぁ。よかったー」
坂本はホッと胸を撫で下ろし、太陽のようにニカっと笑った。
「じゃ、結婚式は呼んでくれよ。歌でも踊りでもなんでもするから!」
「気が早いね」
(え、そこなの?)
「早いぐらいがちょうどいいんだよ。じゃあ、腹へったから先に行くな!」
唖然としていると、笑顔で先を急ぐ坂本を同じく理仁がニコニコしながら見送っている。蛇口を捻り水を止めながら、無言で理仁に圧を送った。
「何か言いたいなら言えば?」
「なにから突っ込めばいいかわからないよ」
木綿花は思わずガックリと肩を落とす。結婚なんて考えるのはまだ十年ぐらい早い。そもそも理仁は結婚できる年齢にもなっていないのに。
「……いいなぁ。坂本くんになりたい」
「え」
「そしたら人生楽しそうじゃない?」
理仁が複雑な表情をしているとは気づかず、木綿花はお気楽な坂本を羨ましそうに見送った。
美結と果乃実に加えて今日は黒木と理仁と共に昼食を食堂で食べる。食べ終えて教室に戻っていると、他クラスの女子生徒に理仁が声をかけられた。
「シラユキくん」
「ちょっといいかな?」
果乃実と美結と前を歩いていた木綿花は足を止めて振り返る。だけど理仁は足を止めることなくスタスタと歩き続けた。
(え、止まらないの?)
周りが注目しているのにも彼は足を止めない。それどころか立ち止まった木綿花の肩を抱いて歩き出そうとし始めた。驚いて彼を見上げれば口パクで「助けて」と言われる。
(ほら、ここで彼女の出番)
(そ、そんなこと言われても)
理仁が足を止めないせいで木綿花は引きずられるように廊下を進む。足の長さが違いすぎるので、木綿花の足はもつれてしまった。
「っと、危ない」
「……っ」
転けそうになったところで理仁が木綿花を抱き止める。
「ねえ、聞いてるの?」
「シラユキくん、無視しないでよ」
「話ぐらいしてくれてもいいじゃん」
理仁はあからさまに深々と溜息を吐くと冷めた眼差しを彼女たちに向けた。
「人違いだと思いますけど? 俺は《《シロユキ》》です」
「ちょ、ちょっと間違えただけじゃん」
「ねぇ!」
「間違ってごめんね」
口元で両手を合わせて「ごめんね」ポーズを取る女子生徒は瞳をうるうるさせて上目遣いで理仁を見つめている。
近づいてきた美結が「うわー、あーゆーの大嫌い」と吐き捨てた。果乃実がうんうんと頷く。
「(でも男は馬鹿だからあんなのに引っかかるんだよ)」
「(それ、主語大きすぎない?)」
「(つまり、黒木も引っかかると)」
「(引っかかったふりしてやり返すかな〜)」
黒木がニタリと獰猛な笑みを浮かべる。ブラック黒木が見えて木綿花はそっと目を逸らした。理仁は相変わらず冷めた目を向けている。だけど、木綿花を抱く腕に力が込められていた。
「で、なに」
「昼休み一緒に遊ぼうよ」
「そうそう。うちらクラス違うしさ。ちょっと親睦深めたいなぁって」
「なんのために?」
声をかけてきた女子三人がピシリと固まる。周囲が「白雪怖〜」「もう少し優しくすればいいのに」とヒソヒソと陰口を叩いた。
「な、なんのためにって」
「仲良くなりたいからにきまってるじゃん」
「そうだよ。A組ばかりずるいよね。みんな白雪くんと仲良くなりたいと思ってるよ」
(そうかな?)
しかし少なくとも理仁は仲良くなりたいとは思ってなさそうだ。思わず彼を見上げると表情を消してじっと彼女たちを見つめていた。
(……すごく警戒してる?)
まるで虎視眈々と隙を狙う動物のようだ。彼女たちが何を企んでいるのかわからないが、少なくとも理仁がとても訝しんでいた。
「……それ、答えになってないよ。親睦って仲を深めるって意味だよ。なんのために仲良くなりたいのか聞きたいのに、仲良くなりたいからって言われても」
木綿花が勇気を振り絞って口を挟むと周囲から噴き出して笑う声が相次いだ。余計なことを口走ってしまったかも……と恥ずかしくなって俯くと肩を抱く腕がわずかに緩む。顔を上げると眉を下げて困ったように笑う理仁と目が合った。
「言いたいことを言ってくれてありがとう」
「あ、ううん。口出ししてごめんね?」
「ここは存分に口出しするところだよ」
そうなのかな、と首を傾げると理仁がまた眉を下げた。
「仲よくなりたいことに理由なんているの?」
「そうだよ。理由がないと仲良くしちゃいけないなんて法律はないし」
「そう。じゃあ仲よくする必要はないね。同じ学校だからという理由で仲よくしないといけないという法律はないし」
理仁の切り返しに彼女たちはグッと黙る。
「理由を聞いたのは、俺が君たちと仲よくする理由がないからだよ」
「理由って」
「興味のない人と生産性のない話をして楽しい? 君たちと過ごす時間があるなら英単語を覚えておいた方がマシだけど」
「ちょっと、言い過ぎだよ」
木綿花が思わず理仁の腕を引くと、彼がつーんとそっぽを向いた。
まったく言いすぎたと思っていないらしい。
「いいの? そんなこと言って。わたし知っているんだから。ふたり付き合ってるって言っても一ヶ月限定だよね? 王様ゲームで命令されたんでしょ?」
ザワリと周囲が響めく。
「さすが演技力抜群だよね。周りが騙されるはずだよ」
理仁の表情がごっそりと抜け落ちた。
(……たぶん、今地雷を踏んだ気がする)
理仁の口から両親の話はあまり出たことはなかった。将来の話をした時に、芸能界も経営者も興味はないと言っていた。きっと“社長の息子”や“女優の息子”と言われるのが嫌いなのだ。
「織原さんも可哀想。白雪くんが彼氏だとしんどいよね? 荷が重いって顔してるし」
くすくすと笑いながら上から舐めるように見つめられて木綿花はぎゅっと唇を噛み締めた。そしてキッとにらみ返す。彼女は木綿花の反抗的な目に一瞬驚いて、すぐに顔を顰めた。
「重くなんて」
「たしかに王様ゲームが発端だったけど、それはあくまできっかけに過ぎないよ。俺、一度木綿花に断れているし」
理仁が木綿花の言葉を遮った。その言葉に廊下にどよめきが走る。理仁を見上げて小さく抗議すると彼は肩を竦めるだけだ。まったく悪びれる様子がない。
「事実でしょ」
「そう、だけど」
でもきっと皆が思っているような展開ではない。木綿花は「お試しに付き合うことを真剣に考えてほしい」と言われて「ごめんなさい」をしただけだ。
流れで付き合うことになったけど、お互いがまだ好きあっているわけではない。だけど木綿花は彼を知りたいと思っている。理仁がどんな形であれ向き合おうとしてくれているから、その姿勢には応えたいと思っていた。
「きみたちはたぶん、俺たちがゲーム感覚で付き合っているって知って言いふらして評判を落としたかったのかもしれないけど、俺たちすっごく真面目に付き合ってるから。期待に添えなくてごめんね?」
理仁が木綿花の肩をわざとらしく抱き寄せて首をこてんと傾げる。どこか馬鹿にしたような笑みに、彼女たちはカッと顔を赤くした。
「俺は興味もない《《ただ同じ学校の人》》と仲よくするより、彼女と過ごす時間を優先させたいから仲よくなれません。これで理解できた?」
理仁がそう言うと周囲から「頑張れー!」「応援してるー!」と歓声が上がった。彼女たちは悔しそうに歯噛みするも、「もう行こう」と背中を向ける。
だけど、それを引き止めたのは木綿花だった。
「待って」
理仁が目を丸くしている様子が目の端に映り込む。それでも木綿花は軽く深呼吸をすると彼女たちに真剣な眼差しを向ける。
「……もし本当に白雪くんを想っていたのなら、この状況は面白くないと思う。だけど……ただ"顔がいい”からとか“お母さんが女優だから”とか“お父さんが会社の社長だから”とか、“将来玉の輿”とか、そういう理由で彼に近づくのはやめてほしい」
それを聞いた女子グループのひとりがそっと目を逸らす。木綿花はまだ野次馬気分で集まっていた大勢の生徒の前で頭を下げた。
「白雪くんをひとりの人間としてみてください。彼はみんなと同じただの高校生の男の子で……、アイドルでも芸能人でも社長でもないの」
あたりがしんと静まり、木綿花は自己嫌悪に陥る。せっかく理仁が丸く収めてくれたけれどまた余計なことを言ってしまったかも……と落ち込んだ。
のろのろと頭を上げると、柔らかい眼差しとぶつかる。理仁は困ったように眉を下げて、それでも喜びを伝えてくれた。
「ありがとう。嬉しかった」
「……ううん。また余計なことをしてしまったかも」
「全然」
理仁は首を横に振る。そして美結と果乃実が「もうすぐ予玲だ」と騒ぎ始めたのでその場を後にした。
「俺は知ってるぞ。白雪が意外とお子ちゃまだって」
「それに負けず嫌いだしね」
「人見知りでコミュ力ないし」
「柏木さんに言われたくない」
「それな」
理仁がむっすりと言い返す。だけどその表情は今までで一番素顔に近い顔だった。