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01:キラキラ策士




 ーー好きな人の”特別”になりたい。

 ただ、それだけだった。





***




藤倉高校入学後初めての夏休みを終え、織原木綿花(おりはらゆうか)は二週間ぶりに登校した。八月も下旬といえどまだまだ暑さが厳しい。家から自転車で二十分も走ると額にじんわりと汗が滲んだ。その汗を拭いながら教室の扉を開ける。スッと涼しい風が身体を包み込み身体からホッと力が抜けた。


 「おはよ、もめ」

 「美結ちゃん、おはよー」


 自席に着席すると、すでに登校していた友人の柏木美結(かしわぎみゆ)がチャームポイントのツインテールを揺らしながら近づいてくる。


 ちなみに”もめ”というのは木綿花のニックネームだ。漢字の”木綿”から昔からずっと「もめちゃん」「もめ」と呼ばれていた。


 「暑いよね」

 「暑いねぇ」

 「それよりさ、小林くん陸部の先輩とうまくいったみたいだよ」

 「え、そうなの?!」

 

 美結が声を忍ばせる。木綿花は教室をきょろりと見渡してクラスメイトたちに祝福さ(からかわ)れてい姿を見つけて目を丸くした。


 「あと、田中さんは」

 「あ、野球部の先輩?」

 「そうそう。それで、川上さんはD組の谷口くん」

 「すごいねぇ」


 夏休み前に一学期お疲れ様会と称して打ち上げが開催された時、彼女たちの恋バナを聞かせてもらった。頬を染めて照れくさそうにしながら好意を打ち明け、かつ、告白をするんだと意気込んでいた彼女たち。


 木綿花はそんな彼女たちを眩しく思いながら、鞄の中身を机の上に出した。提出物をまとめていると、美結が足をぶらぶらさせながら報告を続ける。


 「で、早速今朝も二人ぐらい白雪は呼び出されていた」

 「さすがだね〜」


 美結は教室の片隅で本を読んでいる物静かな横顔を見て呟く。


 彼、白雪理仁(しろゆきりひと)は入学式で入学生代表の挨拶をした時から注目の的だった。都内にある由緒正しき翠宝(すいほう)学院中出身で、経営者の父と女優の母を持つサラブレッドだ。おまけに見た目が麗しく手脚が長いモデル体型。入学して四ヶ月経つが彼に告白する女子生徒は後を絶たず、すでに両手を折り返すぐらいという噂もある。

 

 その結果ついたあだ名が”藤校の彼氏”だ。

 

 そんなハイスペックな高校生がどうしてこんな田舎の高校に、と思わなくもないが、彼にも何か事情があるのだろう、と木綿花は思っている。


 「イケメンも大変だね。わたしなら全部無視するのに」


 同じクラスとはいえ、木綿花はあまり白雪と話したことはない。プリントを提出する時とか、朝の挨拶ぐらいだ。


 「律儀なんじゃない? 真面目でいい人そうだし」

 「そっかなぁ。案外腹黒かもよ〜」

 「それは美結ちゃんの好みなんじゃないの?」

 「違うよ。わたしは」

 「おはよ。相変わらず楽しそうだね」

 

 頭上から忍び笑いが落ちてきた。見上げるとショートカットがよく似合う長身の友人、西原果乃実(にしはらかのみ)が首にタオルをかけて立っていた。


 「果乃実、おはよ!」

 「果乃ちゃん、おはよう」

 「おはよう。美結、もめ」


 「あー、朝から疲れた」と肩にかけたエナメル素材の鞄をどさりと床に置く。彼女はバスケ部に所属しており朝練をしてきたようだ。


 「今、美結ちゃんから報告を受けていたの」

 「報告? あぁ、田中ちゃんたちの?」

 「うん。果乃ちゃんは知ってたの?」

 「うん。ってか、夏祭りで会った」


 へぇ、と呟くと果乃実が眉尻を下げる。そこへ担任が教室が入ってきたので、この話は強制的に終了した。


 

 恋というものは、一見キラキラしているけれど、中身は苦しくて苦いもの……だと木綿花は知っていた。相手の一挙一動に振り回されて、自分が自分でなくなるようなもどかしさもある。それでも当時は直向きに想い続ければ叶うもの……だと心の中で思っていた。


 (だって、わたしが一番近くにいたから。誰よりも一番近くに……。って、ただの思い上がりだったけど)


 二週間後に卒業式を控えたまだ桜の蕾が芽吹く前のある日。中学時代二年片想いした彼に木綿花はずっと抱えていた想いを告げた。


 いまだにあの時の、彼の焦った顔が消えない。どうやって断ろうかと考えているのがわかってしまい、自分から「もういいよ」と言った。


 ーーただ、知ってほしかったの、と後付けで。


 嘘。本当は「付き合ってほしい」と言いたかった。

 だけど、呼び出した時点で”どうしよう”という動揺が彼から伝わってきて、木綿花は空気を読んでしまった。想いだけは伝えようと思って「ずっと好きだった」と伝えたけれど「付き合ってほしい」とはいえなかった。


 心の中では少しだけ、いや、七割ぐらい勝率はあった。一緒にいて楽しかったし、夜に長々と電話で話をしたり、メッセージのやり取りもした。くだらない話も真面目な話もして心のうちを吐き出せた友人だった。


 彼もそう思ってくれていると思っていた。だけどそれは自惚れだった。


 半年も前のことなのに、まだ傷はじくじくと痛む。それはきっとつい先日、その彼に彼女ができたと人伝に聞いたからだろう。彼の理想を体現した色白で黒髪ストレートロングヘアの巨乳美女だという。


 (もう切っちゃおうかな、髪……)


 髪が長い方が好きだと聞いて伸ばしていた髪を見下ろして嘆息する。いつの間にかショートヘアだった髪が胸の上まで伸びている。その髪を毎朝丁寧にアイロンでまっすぐに整えていた。もう伸ばしておく必要はないのに、なんとなく切るのがもったいなくて伸ばし続けていたけれど、本当はもう少し短い長さが好きだ。


 「もーめ」

 「あ、うん。ごめん、なに?」


 ぼんやりとしている間に、始業式は終わり教室に戻ってきていた。担任の中原は簡潔に必要伝達事項を告げるとクラス委員に「提出物をまとめて教卓の籠に入れておいてくれ」と言い、「あとは明日のテスト勉強をしておけ」と教室を出て行った。 彼は今日、甲子園の準決勝に母校が出るとかで仕事をしている場合じゃないらしい。担任が生徒たちに揶揄われながら出ていく後ろ姿をぼんやりと見送っていると、美結に声をかけられた。


 「お昼ご飯さ食堂でいい? どこか出ていく?」

 「食堂でいいよ。果乃ちゃん部活あるよね?」

 「うん。でも一時からだし、早く終わりそうだから一旦外に出て戻ってきてもいいと思う」

 

 木綿花たちは始業式が終わったあと、昼食を一緒に取ろうと約束していた。その場所を話していると、クラス一のムードメーカー坂本に声をかけられる。


 「なぁなぁ、もめ。王様ゲームやんねぇ?」

 「王様ゲーム?」

 「そうそう。二学期はさ、体育祭に文化祭があるだろ? クラス一致団結するための練習だ」

 「それはあんたがただやりたいだけでしょ?」

 「で、本音はなに?」

 

 美結と果乃実に詰められて坂本はぺろっと白状する。


 「男ばっかでつまんない。女子も参加してほしいなーと」


 えー、と美結が嫌そうな顔をする。果乃実は眉尻を下げた。あまりにもあけすけな理由に呆れたらしい。


 「わたしは参加してもいいよ」

 「さすがもめさま!」

 「もめ〜?」

 「勉強は帰ったらやればいいし」


 このまま美結と果乃実と話をしていてもなんだかずっとぼんやりしてしまう気がする。幸せそうなクラスメイトの顔を見ていると「おめでとう」という気持ちの反面どうしても羨ましいと思ってしまった。そんな自分が嫌で、逃げたくなる。


 「じゃあ、わたしも参加しようかな。おしゃべりは後でできるしね」

 「果乃実まで〜」

 「決まりだな! いらっしゃいませ、三名様! こちらにどうぞ!」

 「ほんと調子いいんだから!」


 坂本の飲食店店員よろしくの掛け声に木綿花はひっそりと笑う。心がふわっと軽くなって、木綿花は美結と果乃実と彼の後をついて行った。



 

 「「「「王様だーれだ」」」」

 「はーい!」


 蓋を開ければクラスの1/3がゲームに参加していた。あとの1/3は真面目に自習(慌てて宿題をしている人もいる)をし、残りの1/3はおしゃべりに花を咲かせていた。その面々は恋を実らせて幸せオーラを撒き散らしている彼女たちだ。周囲から惚気話をせがまれてテレテレしながら話をしているようだ。


 「5番は今日1日語尾に”にゃん”をつけて話す」

 「げ、最悪だにゃあー!」

 「うわー、気持ちわる!」

 「誰得だよ!」

 「うるさいにゃん! 俺だって嫌だにゃん」


 そう言いながらも5番を引いた男子生徒はノリノリで語尾に”にゃん”をつけて喋っている。友人たちも面白いらしく無駄に話かけていた。


 「王様でないね」

 「そうだね〜」

 「確率的には1/12だからね」


 手元に引いたくじを小さく折りたたんで箱の中に戻していると、隣に座っていた美結が肩を落とした。果乃実は鼻から諦めているようだ。


 「王様ゲームって王様でないとつまんないじゃん」

 「そうかなぁ。 見ているのも楽しいよ」

 「美結は王様になったら何を命令するの?」

 

 美結は少し悩んでにひっと悪い顔をした。


 「全員大人しく自習!」

 「うわ、悪魔だ」

 「悪魔がここにいる!」

 「うるさーい!」


 近くで聞いていた男子がわざとらしく肩を震わせる。美結はツインテールにした緩やかなくせのある髪を揺らしながらクワッと目を吊り上げた。それを見ていた周囲がケラケラと笑う。


 「おーい、そこ。早よ取れよ。取って回せ〜」

 「時間的に最後なんじゃねぇ?」

 「そうかも」


 参加しているとはいえ、一度も番号を呼ばれずずっと傍観していた木綿花は時計を見て「もうそんな時間か」と驚いた。回ってきたくじ箱(坂本お手製の)に手を入れて一枚紙を取る。


 そっと広げると紙には「7」と記載されていた。


 (結局王様はでないんかーい)


 とは言っても、王様が出たところで美結みたいに命令する内容が決まっていない。きっと出たら出たで困るだろう。面白いことを言える自信もない。


 隣を見れば、美結と果乃実が小さく首を横に降ったので、彼女たちも王様ではないようだ。木綿花は手の中のメモを眺めながら小さく溜息を吐き出した。


 「じゃあ、やるぞ! せーの」

 「「「「王様だーれだ」」」」

 「俺ー!」


 声を上げたのは坂本だった。クラスメイトたちが呆れた目を向ける。


 なんだお前かよ。最悪だ。なんかやらかしそう。何やらかすつもりなんだ。という非難の目だ。いや、実際口に出ている。あまりにも信用のなさに木綿花は思わず苦笑いを浮かべた。


 だが、当の本人はその視線を全く気にしていない。むしろウキウキしながら辺りを見渡していた。「心臓強いなぁ」と他人事だけれど彼に感心してしまう。


 「よーし、じゃあ、7番と11番がお試しで一ヶ月付き合う」

 「「「「「は?」」」」

 「「「「おーー!!」」」」


 参加者の半分が引いていたが、半分はノリノリだった。「それやべぇ」と笑っているが、笑い事じゃない。木綿花の手の中のメモには「7」としっかり書かれているのだ。


 「7番だーれだ」

 「……はい」


 木綿花は正直に手を挙げた。すると教室が響めく。これまで命令は男子生徒ばかり下されていた。だから今回も男同士の話だろうと周囲は思っていたらしい。


 ここにきてノリノリだったうちの半数がようやく事態の深刻さに気づいたらしい。しかし、王様本人は気づいていなかった。


 「11番だーれだ」

 「はい」


 静かな落ち着いた声。だけど凛と教室に響いた音は周囲を黙らせるのに効果抜群だった。ゲームには参加せずおしゃべりしていた生徒たちも、先生の指示を守って自習していた彼らでさえも驚きに固まり、瞬き一つできないでいる。

 

 当事者である木綿花も口をぽかんと開けてしまった。


 「あ、あああああアウト〜〜!!」

 「坂本アウト! (ケツ)バットじゃぁ!」

 「なんかやらかすと思ったら、お前はーー!!」


 一人が静寂を破ると口々と周囲が坂本を責め始める。彼もようやく事態を飲み込めたらしくひどく狼狽していた。やんややんやと言っている間にチャイムが鳴り、傍観者たちが一斉に安堵の息を漏らす。


 「だからバカ本なのよ! バカもと!」

 「み、美結ちゃん」

 「なんかやらかしそうだとは思ったけど、ここまでとはね」


 果乃実も坂本を庇うつもりはないようだ。木綿花自身もいくら王様ゲームでもそんな命令を素直に聞くつもりはなかった。ただ、下された命令に驚いただけだ。


 「もめ、ごめん〜」

 「ここまで坂本がバカだとは思わなかったわ」

 「さすがに人の気持ちを弄ぶ系はダメだよ。もめにも白雪にも失礼すぎる」

 「すいませんでした!!」


 深々と頭を下げる坂本に木綿花は「もういいよ」と眉尻を下げる。自分が怒るより先に周囲が怒ってくれたので出る幕がなかった。怒るよりも呆れた気持ちのほうが強かったけど、それは何も言わない。


 「……男同士なら楽しいと思ったんだよ」

 「だったらうちらを誘うな!」


 美結の正論に木綿花と果乃実は苦笑いを浮かべる。


 


 「織原さん、一緒に帰らない?」


 HRを終え、木綿花が帰りの支度をしていると理仁に声をかけられた。

 教室から一瞬音がなくなり、振り返った面々が驚いている。中には面白そうに笑う人や目を輝かせている人もいたが、彼は気にならないらしい。


 木綿花は誘われる理由がわからず首を傾げた。


 「えっと、王様ゲームのことは」

 「うん、それはわかってるよ。坂本くんから謝罪もあったし」

 

 だったらどうして、と木綿花の頭に疑問が浮かぶ。


 「もめ、帰る準備できた?」

 「美結ちゃん」

 「あれ、白雪何かあった?」

 「ちょっと織原さんに用があって」

 

 果乃実が理仁にストレートに尋ねる。だけど彼は言葉を濁した。木綿花は席を立ちながら困ったように眉を下げる。理仁はにこにこしているが、その目が笑っていなかった。


 「えっと、すぐ終わる用事? この後美結ちゃんと果乃ちゃんとご飯に行くんだ」

 「そうなんだ。西原さん、その時間俺に譲ってもらえないかな?」

 「もめがいいならいいよ」

 「「え?」」

 「ということだから、織原さんは今日俺に付き合って」


 美結と木綿花が驚いていると、理仁が木綿花の鞄をサッと持ち、教室を出ていってしまった。呆然としていると我に返った美結が果乃実が詰め寄る。


 「ちょっと、果乃実! お昼ご飯食べる約束でしょ!」

 「”もめがいいなら”って言ったけど」

 「ぐっ」

 「わ、わたし何も言ってない……」


 言ってないが、有無を言わせてもらえず鞄を取られてしまった。彼がそれほどまで強行手段を取るとは思っていなくて素直に驚く。


 「白雪って意外と強引なんだ」

 「ナチュラルに俺様?」

 「何それ、ナチュラルに俺様って」


 美結の例えようにブハッと果乃実が笑う。つられて木綿花は眉尻を下げた。


 「つまり、白雪くんはそこまでしてなにか困っているってことかな」

 「かもね」

 「なんだろうね。白雪が困るって。ちょっと興味ある」

 「美結は相変わらずだね」


 美結は情報収集が好きだ。特に恋愛に関する情報収集に余念がない。ただし、本人は強度の人見知りがあるので自分の恋愛には興味がないようだ。人の恋愛を見ているのが楽しいだけだと言っている。


 「……とりあえず、追いかけるよ」

 「はいはい。報告よろしく」

 「また明日ね」


 木綿花は二人に別れを告げると教室を出る。きっと下足ホール付近にはいるだろうと思っていたが、廊下に出ると扉に理仁がもたれかかっていた。


 「あ、白雪くん。鞄を」

 「はい。ごめんね、ナチュラルな俺様で」

 「え、聞いてたの?」

 「柏木さんって面白い言葉を使うよね」


 理仁は怒るでもなく呆れるでもなく、むしろ興味深そうにしていた。木綿花はどうフォローすればいいかわからず曖昧に笑うだけに止める。


 「織原さん自転車だっけ?」

 「うん。白雪くんは電車?」

 「うん。だからこの辺りのお店をあまり知らないんだ」


 階段を降りながら、彼はなんでもないことのように言う。


 「落ち着いて話せてあまり人が来ないお店、どこか教えてよ」


 

 理仁の要求に頭を悩ませながら、仕方なく学校から駅三つ離れた場所にあるカフェに向かうことにした。ここは木綿花のお気に入りであまり人に教えたくない場所だ。だけど、彼の意に沿う場所が他に思いつかなかった。


 学校の下足ホールで一旦別れて理仁は駅から徒歩で、木綿花は自転車で直接店に向かう。念の為連絡先を交換したので道に迷ったら理仁から木綿花に連絡がくることになっていた。店のURLも送っているので、きっと迷わずこれるだろう。


 木綿花が先に店に到着し入り口で待っていると、それほど待たずして理仁の姿が見えた。彼はカフェの外観が普通の民家であることに驚いて眉尻を下げる。


 「ここがカフェだって外から見てもきっと気づかなかったよ。織原さんが立っていてくれてよかった」

 「元は民家で内装だけ飲食店っぽく変えたんだって。だからなかなか辿りつかないみたい」


 中に入るとソファー席に案内され、二人は向かいあって腰を下ろした。周囲は近所に住む年配の女性が多く、学生は木綿花たちしかいないようだ。店内を見渡して胸を撫で下ろしていると、理仁は木綿花が見やすいようにメニューを開いた。


 「ここはなにがオススメ?」

 「全部美味しいよ。強いて言えば薬膳スープカレーかな。あと香味野菜を使ったパスタも美味しい…! じゃなくて、話を!」


 メニューを捲りながら理仁が笑う。その笑顔は学校で見ているツクリモノっぽくない素の笑顔だった。


 「うん、でもさ。せっかくお店にきたしお腹も空いたし、なにか食べよう。注文しないのもよくないし」

 「……うん、そうだね」


 理仁の言うことはもっともなので、手書きで書かれたお店のメニューを木綿花は覗き込んだ。反対側から理仁も覗き込んでおり、どうしてこういう状況になっているのか未だによく分からない。


 理仁は木綿花がオススメした薬膳スープカレーを、木綿花は夏野菜をたっぷり使った冷製パスタを注文した。彼は冷たいお水を飲みながら店内を見渡す。


 「よくくるの、ここ?」

 「家が近いから時々」

 「そうなんだ」

 「白雪くんは家、遠いんだよね?」


 風の噂で聞いていた。そもそも名門の翠宝学院が都内の一等地にある。彼の両親の職業を考えるときっと自宅も都心に近いのだろう。


 「電車で一時間半ぐらいかな」

 「ええ!? い、一時間、半?!」


 さらりと答えられたが、木綿花は目を丸くした。

 そんな木綿花のリアクションを見て理仁がくすくす笑う。


 「家が都内だから仕方ないよね」

 「どうして藤倉高校を受けたの? 都内なら同じぐらいの偏差値……というか、白雪くんならもっと賢い高校にいけたと思うけど」


 誰も名言しないが、学年で一番の成績優秀者は白雪だ。全国模試でも常にトップで東大も夢じゃないと言われている。


 「理由は色々あるけど……今ある環境を壊したかったから、かな」

 「……こわす?」


 理仁の表情が陰る。垣間見た仄暗さに少しビクッとした。彼のことはよく知らないけれど抱えているものが多そうだ。木綿花は少し心配しつつ、嘘っぱちの笑みを貼り付けた彼の言葉の続きを待った。


 「高校のオープンスクールに参加して受験を決めたんだ。学校の前に海があるし、長閑で落ち着く。それに通学の時間が長いと勉強もできるしいいかなって」


 高校は坂の上にあり、学校からも海が見えた。夏は海水浴を楽しむ人々も多く、磯の匂いもする。


 ただ、彼の言葉の含みから他にも理由があるようにも聞こえた。だけどきっと今のはこれ以上踏み込んではいけないやつだ。木綿花はここぞとばかりに話を変えることにした。


 「それで話って……?」


 理仁はひとつ頷いて本題を切り出した。彼の言葉の意味がわからなくて首を傾げる。


 「織原さん、今恋人いる?」

 「いないけど」

 「よかった。実は、さっきの件考えてくれないかなと思って」

 「………は?」


 対面に座る彼の表情は変わらない。木綿花の表情をじっと窺っていた。


 「えっと。さ、さっきの件って、王様ゲームの件……だよね?」

 「うん。お試しで1ヶ月付き合うってやつ」

 「む、無理無理無理だよ!」

 「どうして?」


 ーーお待たせしましたー、薬膳スープカレーです。


 配膳されるまで口を噤む。手持ちぶさたなので木綿花はお水をちびちび飲んだ。理仁はカトラリーボックスからスプーンを取ると視線だけで「食べていい?」と尋ねてくる。木綿花は「どうぞ」と手のひらを差し出した。


 「……それって白雪くんがモテすぎるからダミーがほしいってことだよね?」

 「うん。よく分かったね」

 「わ、わかるよ! そもそも前提として人選が間違ってるよ。わたしじゃ抑止力にならないし」


 アメリカ人の祖母をもち、チャーミングな顔立ちの美結や170cmを超える長身で手足が長くショートカットがよく似合うクールビューティーの果乃実ならまだわかる。彼女たちなら理仁の隣に立っても見劣りはしないだろう。


 だけど、木綿花はどちらかと言えば童顔でちんちくりんだ。美結のように可愛らしい顔立ちをしているわけではなく、果乃実のようにスタイルがいいわけでもない。身長は平均の平均で157cm。巨乳でもないし、運動神経も偏差値もぜんぶ真ん中だ。


 

 「どうして? 織原さんは十分かわいいよ」

 「か、かわぅぃぃ?!」


 理仁から予期せぬ言葉を返されて思わず声がひっくり返ってしまった。

 ボンっと木綿花の顔が熱くなる。お世辞と分かっていても家族や友人以外に褒められたことがなかったのでどう反応すればいいか分からない。

 

 「で、でも。わたしじゃなくても告白してくれた人の中で彼女になってもらえればいいんじゃないの?」

 「それをしたらどうなると思う?」


 木綿花の頭の中で魑魅魍魎化した美女たちがバトルロワイヤルを開始した。考えただけで悪寒がする。木綿花が正しく理解できたことに理仁は頷くとスプーンでカレーを掬った。


 「……結局誰を選んでもマウントの取り合いが始まるし、俺自身を見てくれることはない。 みんな俺の“顔”と”両親(バックボーン)”にしか興味ないから」


 白雪がカレーを頬張りながら事もなげに言う。あまりにもあっさり言うが、それはとても悲しいことではないかと他人事なのに胸がちくりと痛んだ。


 (……そんなの、寂しいだけじゃ)


 ーーお待たせしました。夏野菜たっぷりの冷製パスタです。


 「それに“藤校の彼氏”って言われていることも嫌なんだよね。なにあれ。俺は芸能人じゃないし、二次元でもないのに」


 理仁が口元を歪める。綺麗な顔が歪むとそれだけで迫力があるのだと知った。


 「……意外と言うね」

 「そう? 幻滅した?」


 もぐもぐと咀嚼しながら理仁が薄く笑う。木綿花はカトラリーボックスからフォークとスプーンを取りながら首を横に振った。


 「幻滅するほど、白雪くんのこと知らないし」

 「……そう」

 「うん」

 「……織原さんのように考えてくれる人は少ないから嬉しい」

 「少ないの?」

 「うん。皆勝手に俺に期待して幻滅するから。自分の理想を押し付けてそうじゃないからって離れていくよ」


 理仁は視線を落とした。木綿花はどう返せばいいかわからなくてパスタを咀嚼する。


 「で、話を戻すね。きっかけは王様ゲームだったけど、俺としては渡に船だと思った。織原さんなら自分の理想を押し付けてきたり、距離感を間違えたりしないだろうな思っていたし、今の話を聞いて間違ってないと確信した。それに楽しく過ごせそうだし」


 理仁はスープを最後まで飲むと「ご馳走様でした」と両手を合わせた。

 早食いなのに食べ方が綺麗なのは生まれがいいからだろうか。


 「できれば3月まで俺と付き合ってくれないかな」

 「2年になるまでってこと?」

 「うん。年が明けると予備校の授業が増えるし、2年になれば、3年の授業が始まるからあまり時間が割けなくなると思うんだ」

 「えっ。てことはもう2年の教科書を進めているの?」

 「うん。中3の夏からもう高1の単元は進めていたからね」

 「中3の夏……」


 木綿花は若干遠い目になった。


 中3の夏と言えば木綿花はバスケットボール部で奮闘していた頃だ。この身長なので高校ではバスケ部に入部しなかったが、その頃に果乃実と知りあえたおかげで入学式にぼっちにならずにすんだのは行幸だった。


 「それに2年になったら理系クラスだし。織原さんは文系だよね?」

 「……うん」

 「じゃあ、クラスも離れるし自然消滅にはいいタイミングだと思う」

 

 藤倉高校は、2年次への進学の際、文系と理系クラスに分かれる。3年になればまた進路によってクラス替えが行われることが決まっていた。理仁はそのことを言っているんだろう。


 「で、どう? 俺の彼女になってくれる?」

 「……ません」

 「え?」

 「なりません!」


 木綿花は急いでパスタを口の中に詰め込むと「ご馳走様でした」と両手を合わせた。そして鞄の中から財布を取り出し、千円札と百円玉二枚をテーブルの上に置く。


 「……白雪くんは”恋”したことある?」

 「……恋?」

 「うん。恋ってね。すごく苦しいの。胸がキュゥって締め付けられてその人のことばかり考えてしまって。振り回されて自分がすごく嫌になったり、面倒くさくなったりもする。いっぱい落ち込んで、何度も発狂しそうになったし消えてしまいたくなるほど恥ずかしい思いもした」


 恋はとてもキラキラしたものに見えたけれど、現実はけしてそうではなかった。だけど、彼と話せるだけで嬉しくて、彼に笑ってほしくて少ない知識を一生懸命絞り出したこともある。メッセージが来るたびにドキドキして、電話で話すたびに「この時間がずっと続いてほしい」と何度も願った。


 良いことも恥ずかしいこともたくさんあった。


 「でもその想いが実った上に”恋人”という関係性があるんだとわたしは思うんだ」


 気持ちが通じ合っていないと気づいた時は、それはすごくすごく落ち込んだけれど、彼のおかげで木綿花は”恋”というものを知ったのだ。


 手を取ってもらえない悲しさも、それでも彼を好きで苦しい気持ちも。でもそれが“恋”なのだ。誰かを選ぶことは、自分が選ばれないこともある。


 「わたしは好きでもない人と付き合えないし、付き合いたくない。”ごっこ”なんて嫌だもん。好きなら絶対欲しくなるし相手にも欲しがってほしい。薄っぺらい関係はいらないの。だから他の人をあたってください!」


 木綿花は本音をぶちまけると呆然としている理仁に頭を下げて店を飛び出した。



 「テストどうだった?」

 「数学の最後の問題、あれ値変わってたよね?」


 翌日の昼休み。木綿花は美結と果乃実と食堂に向かいながら午前中に行われた課題テストのことを話していた。木綿花は二人の話に相槌をうちながら、今朝のことを反芻する。


 教室に入った時、理仁がクラスメイトの黒木と話していた。だけど、木綿花が教室に入ったことに気づいた彼がこちらを見て一瞬目が合う。思わず目を逸らしてしまい、気まずい。テスト中はすっかり忘れていたが、今になってじわじわと罪悪感に苛まれていた。


 (絶対感じ悪かったよね……)


 自分ならきっと凹むなー、と思いながら廊下を歩いていると前から上級生が歩いてきた。すれ違うだけなのかと思えば、彼女たちは丁寧に巻いた髪を靡かせて、木綿花たちの前で立ち止まる。


 「織原ってあなた?」

 「あ、はい」

 「あなたこそ誰ですか。先に名乗るのが礼儀だと思いますけど」

 「あんたに用はないんだけど」

 「こっちこそ用はないです」

 「み、美結ちゃん」


 美結が木綿花を庇うように威嚇する。木綿花は美結を宥めながら、ひとつ深呼吸をして上級生を見上げた。彼女の隣には昨年度のミス藤倉と読者モデルをしているという噂の先輩がいる。声をかけてきた彼女もまた、学内では美人だと有名な先輩だった。そして三人とも理仁に告白して振られた先輩たちだ。


 「織原はわたしですが」

 「話があるの。ちょっとついてきて」


 顎で指図されて、木綿花は仕方なく頷く。心配そうな美結と果乃実に笑顔を向けた。


 「美結ちゃんたちは先に食堂に行って席を取っといて。すぐに終わるから」

 「ちょっと、もめ」


 美結は納得していなさそうだったが、果乃実が美結の肩を掴んで首を横に振る。そして果乃実は上級生たちに釘を刺した。


 「先輩」

 「……なによ」

 「友人になにかあったら、真っ先に先輩の名前を先生に報告しますからね? そうなると内申点やばくなりますよ? たしかR大の推薦狙ってるって聞きましたけど」

 「なっ……!」


 果乃実がにっこりと笑う。黒いものが漂って木綿花ですら頬が引きつった。


 「か、果乃ちゃん。大丈夫だから! あ、A定食! A定食の食券なくなっちゃうから、先に買っておいて! お願い!」


 木綿花は両手のひらを合わせると美結と果乃実に目配せした。二人は仕方ないなぁと肩を落とす。木綿花は二人に手をふると先輩に催促した。


 「なんの用か知りませんが、お腹が空いたので手短にお願いします」

 「なんの用って心あたりあるでしょうが」


 (白雪くんとのことだろうな……たぶん)


 昨日、下駄箱で彼と話をしていた。どこの店に行くかとその話だ。連絡先の交換もしたし、人も多くいたので誰かに見られていたんだろう。もしかするとカフェにいたこともバレたかもしれない。


 (そんなことでいちいち目くじら立てなくてもいいのに)


 理仁が”藤校の彼氏”という異名についてよく思っていないことはわかった。彼だってひとりの人間だ。芸能人ではなく普通の高校生。周囲より少し容姿に磨きがかかっていて、垢抜けているせいか、特別カッコよく見えるだけ。


 (たしかに整っているとは思うけど、そこまでかな……)


 アイドルならファンサービスもしてくれるが、ただの学生の彼はあまり笑わない。淡々と話すし表情があまり変わらないので少し怖いぐらいだ。

 ただし、昨日カフェで話していた彼は口数も多く表情もわかりやすかった。きっと学校生活ではツクっているのだろう。


 (呼び出されるたびにこんな思いをするんだ。胃がやられそう)


 たとえ異性からの呼び出しが自分への好意を伝えるものだとしても、断る方は勇気がいる。少なくとも木綿花ならどうやったら傷つけないで済むか考えてしまうし、断る時の言葉選びを間違えてしまわないか不安だ。


「ねえ、昨日。白雪くんとカフェにいたって本当?」


(うわー、バレてた)


 そして木綿花は校舎と中庭の死角で先輩に囲まれていた。

 自分より背が高い上、三人とも上級生。髪を巻いたり学校の校則を破ってメイクをしていたりと学校でもカースト上位に当たる彼女たちから詰められている。


「白雪くんとあなたが親密そうにしていたから、気になって彼の後をついていた子がいたの」


 (それって犯罪なんじゃ……)

 

「そしたら、三つ向こうの駅で降りてあなたと合流して店に入っていくのを見たって」

「ねぇ、付き合っているの? 抜け駆けは禁止されているって知ってる?」


 三人からずいっと一歩詰められて木綿花は顔を仰け反らせた。長くくるりと巻いたまつ毛の先にまで怒りが伝わっている。後ろはもう校舎なので木綿花に逃げ場がなかった。


 「ぬ、抜け駆けって。わたしは」

 「皆、白雪くんと付き合いたいの。知っているでしょ、彼の人気っぷり」


 ただ友人と食事をしていただけ、と言いたかったが彼女たちが話を被せてきた。一方的に話されて内心げんなりする。


 「連絡先知ってるでしょ? 教えなさいよ」

 「え?」

 「白雪理仁の連絡先よ。教えてくれたら、今回のことに目を瞑ってあげる」


 にこにこと笑顔を浮かべなから、彼女たちはスマホを取り出した。そして木綿花に「早くスマホを出して」と催促する。


 「それは、できません」

 「どうしてよ?」

 「断りもなく、自分の知らないところで知らない人に連絡先を知られるのはその……怖いです」

 「知らない人って」

 「知ってる人でしょ。同じ学校なんだから」

 「それに好意を持たれている相手から連絡が来て嫌な気はしないわよ」

 「「「ねー?」」」

 

 (白雪くんならきっと嫌がると思う。もしかするとスマホを持たなくなる可能性もあるんじゃ……)


 昨日少し話しただけでも、理仁がこの状況にうんざりしていることがわかった。


『皆俺の“顔”と”両親(バックボーン)”しか興味ないから』と投げやりになっている彼に少し同情してしまったぐらいだ。生まれ落ちる場所は選べない。

 ただ会社経営者の父と女優の母の間に生まれて見た目がよかっただけなのに、彼に近づく人たちは誰も彼をただ一人の人間として見ていないようだった。


 (それに、勝手に期待して離れていくって言ってたし)


 彼女たちは白雪と繋がることに躍起になっているけれど、それもまた彼の中身を見ていないし見ようとしていないのだろう。ただイケメンの恋人がほしいだけ。イケメンで将来性のある恋人を連れている自分に酔っているだけだ。


 「ほら、早く。スマホを出しなさいよ」

 「嫌です……あっ!」


 木綿花の制服のスカートのポケットに手を差し込まれてしまう。気づいた時にはもう手遅れでスマホを取られてしまった。


 「顔認証でできるんじゃないの?」

 「指紋じゃない?」

 

 木綿花は思わずしゃがみこんで俯いた。手の指をぎゅっと握って身体を丸める。絶対に渡すものかと身体に力を入れた。肩を掴まれたけれどぎゅっと背中を丸める。


 「ちょ、最悪」

 「ねえ立ちなさいよ。そんなことされると指も顔も分からないじゃない」

 「えー、じゃあパスコード打っていく? 誕生日?」

 「そんなの知るわけないじゃん。ねぇ、誕生日いつ?」


 木綿花はただ黙って俯いたままじっと耐えた。パスコードは彼女たちのいう通り誕生日だ。


  「ねぇ、教室にいけば聞けるんじゃない?」

「そっか。頭いい!」


 三人が離れていく気配を感じて慌てて顔を上げる。しかし顔をあげたところに木綿花のスマホがあり、ロックが外れてしまった。


「待って! あ……!」

「ほい、顔認証完了」

「やる〜! さすが」


木綿花が手を伸ばすも先輩たちの方が背が高く手も長い。赤子の首を捻るように躱されて木綿花はぴょんぴょん跳ねた。


「あ、これじゃない? “白雪理仁”って」

「フルネーム派なんだ。誠実で好感度上がるわ」


 (あぁ、白雪くん。ごめんなさい……!)


 理仁がシャッターを下ろして人間界から遮断する姿を想像してしまう。木綿花がなす術もなく落ち込んでいると、後ろの窓が静かに開いた。

 

「ちょっとそこどけて」

「え?」

 

 理仁が窓をひょいと乗り越えて地面に着地する。驚いている木綿花を他所に彼は涼しい顔で上級生に向かって吐き捨てた。


 「おい、ブス」

 「え?……っ」

 「は?……っ」

 「あ?……っ」

 

 綺麗な顔から飛び出た最上級の悪口に上級生たちがビシッと固まる。そんな彼女たちを見て彼はせせら笑った。



 「ブスって言われて驚いてんの? もっとちゃんと鏡見た方がいいよ」

 「な!?」

 「木綿花、大丈夫だった?」


 (・・・・・・え?)


 突然の名前呼びに木綿花が驚く番だった。理仁は唖然としている上級生から木綿花のスマホを取り返すと、手渡してくれる。


 「ごめん。俺のせいで」

 「ううん。白雪くんのせいじゃ」

 「(違うよ。先に謝っておこうと思って)」


 潜められた声。どこか意地悪に口角が上がる。目を細めた理仁は木綿花を見てふわりと微笑んだ。そしてなぜか抱き寄せられてしまう。逃げようと手で彼の肩を押し返すと「じっとして」と言われてしまった。


 ドキドキと心臓がうるさい。触れ合った身体から知らない体温が伝わってきた。知らない香りが鼻腔をくすぐる。色々と尋ねたいけれど、上級生たちが目くじらを立てている今、木綿花はただ彼の言う通りにすることしかできない。


 「なっ!」

 「ちょっと!」

 「どういうことなの?!」

 「見てもわからないの?」


 理仁が鼻で笑う。木綿花は呆然としながらその茶目っ気たっぷりの笑顔を見つめた。


 「ねぇ、個人情報保護法に違反した場合、1年以下の懲役または100万円以下の罰金って知ってる?」

「「「え?」」」

「今俺がその件を訴えて、100万円いらないから一年間牢屋に入っていてくださいって言ったら先輩たちは大学どころか高校も卒業できないよ? おまけに前科持ちで就職も困難。あ、結婚も難しいか。犯罪者と結婚とか嫌だよね、普通は」


 先輩たちの顔色がみるみるうちに悪くなる。木綿花は淡々と上級生を追い込む理仁から目を逸らせなかった。 


「今度木綿花に手を出したら、俺の持つ権力をフル行使して先輩たちを社会的に抹殺しますから」


 よく覚えておいてください、と最後に底冷えするぐらい冷たい笑顔を作った。


 真夏なのに、ここだけが雪国のように錯覚してしまう。ブリザードが吹き荒び、彼の背景に氷山が見えた気がした。


 「もう行こうよ」

 「し、白雪くんがこんな人だったって言いふらしてやるから」

 「どうぞ。むしろ助かります。勝手に理想を押し付けられて辟易していたんです、こちらは」


 先輩たちは目を逸らしたり、悔しそうに歯噛みしている。そしてバタバタとその場から離れてしまった。


 「あ、あの」

 「あぁ、ごめん」


 腕がぱっと離れる。先輩たちに対処するためとはいえ、理仁に抱きしめられたことは少し驚いた。家族でもない、異性に抱きしめられたのは初めてだったから、普通に戸惑ってしまった。


 「……先輩たちを訴えるの?」

 「ううん。未遂だったから訴えたりしないよ。先生にはちゃんと報告するけど」

 「……そっか」

 

 よかった、とホッとする。 彼女たちが悪いことをしたのには変わりないが、少々罰が重すぎるような気がした。こんなところで社会的に傷がついてはかわいそうだ。


 「……連絡先ぐらい教えてもよかったのに。無茶するね」

 「え、でも。……白雪くんは嫌でしょ?」

 「嫌だけど、ブロックしてIDを変えればそもそも連絡は取れないし」

 「な、なるほど」

 

 木綿花は連絡先をブロックしようなど考えたことがない。だから、何がなんでも彼の連絡先を死守しないと……と思ったのに、言われてみれば対処方法はいくらでもあった。


 しゅんと落ち込むと理仁が苦笑する。その表情は柔らく、眼差しは温かかった。


「でも、俺はそういう織原さんが素敵だと思う」

「え?」


 にこにことしながら理仁が木綿花に詰め寄る。背中は壁で両腕で囲われたせいか、女子三人より白雪一人の方が閉塞感があった。


「やっぱり昨日の話もう一度考えてくれない?」

「……何度考えても同じ答えだよ」

「うん、でも受けた方がいいと思うけどな、俺は」

「ど、どうして?」

「あの先輩たちの情報伝達力を舐めない方がいいよ。たぶん明日には大変なことになるから」

「……っ!」

「それなら、形だけでも付き合っておく方がいいと思う。その方が堂々と木綿花を守れるし、ね?」


 綺麗な顔が嫣然と微笑んだ。木綿花は今更ながら理仁に嵌められたことに気がつく。先ほど「先に謝っておく」と言っていたが、このことだったようだ。


 「俺に”恋”を教えてよ。そうしたら、織原さんの望む”恋人”になれるよ」


 想いあって成し遂げた先にある関係値。家族でも友人でもない特別な関係。それが”恋人”のはずだったのに。

 

 織原木綿花、16歳。

 理想とは程遠い(ニセの)彼氏ができました。

  


 

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