9話 やさしさのかたち
初めて手を繋いだのは、二人で居酒屋に行った帰り道だった。
夜風が少し冷たくて、私は自分の手をポケットに入れたふりをして、そっと直人の袖に触れた。
「直人ったら、手、繋ぎたいんでしょ?」
冗談ぽく笑って言った私に、彼は少しだけ微笑んで、「うん」と頷いた。
初めてキスをしたのは、無人駅のホーム。
日が暮れる少し前、澄んだ秋の夕焼けが空を染めていた。
発車時刻まではまだ時間があって、駅には私たちしかいなかった。
「ねえ、直人。キスしてあげようか?」
ちょっとだけ上を向いた彼の顔には、迷いも照れもなかった。
「うん」
結婚の話をしたのは、激辛ラーメンに挑戦した日のことだった。
湯気の立ちのぼるカウンター席。
一口目でむせた直人が、咳き込みながら顔を真っ赤にしている。
私は笑いをこらえながら、その背中を軽くさすった。
「しょうがないなぁ……私が結婚してあげよう」
しばらくして咳が落ち着いた直人は、
水を飲み干してから、ぽつりと応えた。
「うん、いいよ」
冗談半分、本気半分。
私だけのものになる、そんな風に思えて、ちょっと得意げな気分になった。
入籍後、いつものように私から誘って、買い物デートに出かけた。
その途中、店先に並ぶ小さなベビー服が目に留まった。
直人の子どもは、きっと可愛いだろうな。
そう思ったときには、もう口にしていた。
「子どもほしいなー」
「いいよ」
勿論、嬉しかった。
でも——ぜんぶ、私からだった。
私はいつも、ひとつずつ差し出して。
直人は、いつも、やさしく受け取ってくれた。
ほんとは、どこかで気づいてたのかもしれない。
少しずつ重ねた「ふたりの時間」の中に、
直人の気持ちが見えない瞬間があることに。
誕生日も、記念日も——直人は一度だって忘れたことがなかった。
ちゃんと覚えてくれていて、毎年、数日前になると必ず聞いてくる。
「美知は、何がほしい?」
その言葉に、私はいつも笑って答えてた。
でも、本当はちょっとだけ違った。
私が欲しかったのは、“何を贈ればいいか”じゃなくて、
“直人が、私のために何を選びたいか”だった。
どんなにささやかなものでも、
彼の中に「私を喜ばせたい」という気持ちがあると、
そう思えるだけで十分だったのに——
だから私はいつも、“選ばせてもらった”んだって、納得しようとしてた。