8話 “恋人”になった日
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初めて直人を見かけたのは、研修合宿の初日だった。
大きなホールに100人近くの同期が集まる中で、ひときわ目を引く人がいた。
背が高くて、無駄な動きが一つもなく、スーツの着こなしもきれいで——
正直、顔がとんでもなく整ってた。
(うわ、イケメン……)
って思ったのを、はっきり覚えてる。
目が合うだけで緊張して、話しかけるなんて無理だった。
その夜、貸切のビジネスホテルの一階にあるコンビニで、直人を見かけた。
白いTシャツにスウェットパンツ。
決して着飾ってるわけじゃないのに、清潔感があって、似合っていた。
彼が手に取ったのは、ブラックコーヒー。
リラックスした雰囲気なのに、どこか凛としていて、レジに並ぶ後ろ姿まで絵になるようだった。
思わず、私も同じブラックコーヒーを買った。
苦っ…ってなったけど、
誰かに見られているわけでもないのに、 平気な顔をして飲みきった。
「同じものを飲んでる」って、それだけで少し近づけた気がした。
あのとき、私はもう――
気づかないうちに、惹かれていたんだと思う。
あれ以来、私はブラックコーヒーを飲むようになった。
今では毎日の習慣になっている。
それから運よく、同じ支社に配属された。
直人は営業、私は営業事務。同じ部署。
奇跡みたいな偶然だった。
いつだったかの飲み会。
お酒の勢いもあって、私はついに直人に話しかけた。
緊張と酔いで、何を話したかはあまり覚えていない。
でも、それがきっかけで、会社でも自然と挨拶を交わすようになった。
少しずつ、距離が縮まって——
行ってみたいカフェに誘った。
飲みにも誘った。
そして、水族館に行ったとき。
「もう私と付き合いなさいよ」
笑いながら言ったその言葉は、
冗談のようでいて、本気だった。
——いや、本気だったからこそ、冗談めかして言った。
振られたときに、少しでも自分を守れるように。
直人は、少しだけ間を置いて、
「分かった」
と、ただ一言。
驚くほど、あっさりと。
嬉しいというより、拍子抜けだった。
そのときの直人の顔は、照れてもいなければ、戸惑ってもいなかった。
まるで——「どっちでもいい」とでも言うような顔。
(……え、それでいいの?)
胸の奥がもやもやした。嬉しいのに、なぜか不安で。
私の片想いが、“恋人”って肩書きだけがついただけみたいだった。
一番仲のいい私と付き合うことに、抵抗がなかったのか。
それとも、特別に「好き」だという気持ちがなかったからこそ、迷わなかったのか。
でもあのときの私は、
「付き合える」ことがただ嬉しくて、
それ以上、直人の心を深く覗き込むのをやめた。