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偲愛  作者: 388
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3話 名前だけの空っぽの箱


美月は支度を済ませ、小学校へと向かっていった。

直人は会社に事情を話し、1ヶ月の休暇を取ったのだという。


(そんなに簡単に休めるものなの……?)


疑問は浮かんだけれど、今この人がそばにいなければ、自分は何一つできない。

そう思うと、何も言えなかった。


「少し、散歩しようか」

直人はそう言うと、テキパキと支度を始め、美知に一着のワンピースを差し出した。


「これ、着てほしいんだ」

手渡されたのは、淡い花柄のワンピースだった。

可愛らしいけれど、散歩にしては少し華やかすぎる気もする。

それでも——


(なんだろう、少し……うれしいかも)


そんな気持ちが胸の奥にふわりと湧き上がる。


着替えて戻ると、彼がにこやかにサンハットを手にしていた。


「これも、きっと似合うと思って」


優しく差し出された、麦わら素材のつば広の帽子。

まるで、どこかへ小旅行にでも出かけるような装いだった。


「似合ってる。……可愛いよ」


唐突にそう言われて、美知は一瞬きょとんとした。

そして、すぐにスッピンであることを思い出して、頬がじわっと熱くなる。


「スッピンなのに、可愛いわけないですよ……」


俯いたままつぶやくと、直人がそっと膝をつき、美知の視線の高さに合わせて覗き込んでくる。


「美知が可愛くない時なんて、一度もないよ」


彼の声は、まっすぐで優しくて——

まるでプロポーズをされているみたいで、美知の心がふわりと揺れた。


「敬語、まだ慣れないかぁ……」

直人が、少しだけ寂しそうに笑う。


「すみません、いえ、そんな……あっ」

思わず言葉をつまらせる美知。


二人は顔を見合わせて、くすっと小さく笑い合った。


外に出ると初夏とは思えないほど爽やかな風が吹いていた。

律はベビーカーに揺られながら、おしゃぶりをくわえておとなしくしている。

記憶なんて、戻らなくてもいいのかもしれない。

今こうして、静かに息をしているだけで——

美知の胸は、静かに満たされていた。


少し歩くと、大きな公園が見えてきた。

二人はその一角にあるベンチに並んで腰を下ろす。


直人は近くのコンビニへ向かい、ブラックのアイスコーヒーを手に戻ってきた。


「ごめん、ブラックでよかった?」


「うん、ありがとう」

——たぶん、ブラックが好きだったのかもしれない。

思い出せないけど、彼が買ってきてくれたものなら、きっと飲める気がした。


律はベビーカーの中で、気持ちよさそうに眠っている。

静かな空気のなか、二人はしばらく言葉もなく過ごした。

美知はアイスコーヒーをひと口含み、ゆっくりと息を吐く。


右手をそっとベンチに添えると、少し遅れて、彼の左手がその隣に置かれた。

二人の小指が、ほんのかすかに触れ合う。


それが偶然なのか、そうじゃないのかも分からないほど——

右手の小指だけが、自分のものじゃないみたいに意識されてしまう。


美知は、気恥ずかしさのほうが勝ってしまい、たまらず口を開いた。


「……ちょっと、ブランコ乗ってくるね」


自分でも唐突だと思いながらも、その場にいるのが少し息苦しかった。


ブランコをゆっくりと揺らしながら、美知はちらりと彼のほうを見た。

ベビーカーを覗き込んでいる。


すると、直人がふいに顔を上げ、美知の方を見た。目が合っているのかはわからない。

けれど、彼はためらいもなく手を振ってきた。


こんなふうに無防備な顔を見せるなんて——

ちょっとズルい。

 (……可愛い、なんて思ってしまった)


平日の午前中、大きな公園にはほとんど人がいない。

気恥ずかしさもどこかへ吹き飛び、大きくブランコを漕いだ。


美知たちが帰宅してしばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。


たとえ血のつながった両親でも、記憶を失った美知にとっては

“知らない親”を迎えるようなもの。胸の奥が自然とざわつく。


ドアの外には、大きな荷物を抱えた男女が立っていた。

年齢や雰囲気からして、きっと「両親」なのだろう。


「美知、怪我は大丈夫なの?お母さんのこと、分かる?」

化粧品のやさしい香りが漂う。

短く整えられた髪、品のいい服装——

どこかマダムのような佇まいの女性が、やさしく語りかけてきた。


まだ何ひとつ思い出せていないことを、美知は素直に伝えた。


「記憶喪失だって聞いたから、写真のアルバムを持ってきたの。

大丈夫よ、ゆっくり思い出していきましょう」


——また、写真。


(知らない自分の笑顔を見たって、何が分かるの……?)


美知の心の中に、陰が落ちる。


差し出されたアルバムには、知らない“自分”がまた並んでいた。

笑っていて、楽しそうで、家族に囲まれて——

でもそれは、今の私とは繋がらない世界の話だった。


「美知、お前の好きなお菓子、買ってきたぞ」


父親が大きな荷物をほどきながら、袋をいくつも並べていく。

それはどれも、知らない“私の好物”だった。


「これは、美月と律へのお土産だ」


父親が取り出したのは、クマのぬいぐるみと赤ちゃん用の服。


きっと——この人たちは、良い親なのだろう。

優しくて、気遣いがあって、家族を大事にしてくれる人たち。


それでも美知は、どこか遠くからそれを見ていた。

他人の“幸せな家庭”を眺めているような感覚。

そこに、自分だけがいないような感覚。


「ありがとう」って言うべきなのも分かってる。

けれど、言葉がうまく口から出てこなかった。


ぎこちない会話を繰り返しながらも、部屋の中に少しずつ日常の空気が戻ってくる。

昼下がりの穏やかな時間が過ぎていき、やがて、美月が学校から帰ってきた。


美月は、手渡された可愛いクマのぬいぐるみに目を輝かせていた。

どうやら、美月が好きなキャラクターのご当地限定のぬいぐるみらしい。


「わぁ、これ!ほしかったやつ!」


ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる姿が、あまりに自然で愛おしく見えて、

美知は思わず「よかったね」と笑っていた。


夕食には、美知の“好きらしい”お寿司の出前が届いた。

両親が頼んでくれたものだという。


食卓を囲みながら、懐かしいらしい話題がいくつも交わされていく。

学生時代のこと、実家で飼っていた犬のこと、昔の旅行の思い出。

美知のことを、誰もが“美知”として語っている。


自分の名前が何度も飛び交う。


——知らない話ばかりだった。


それでも、皆の笑顔に合わせて自然に笑っているように見せた。


“この空気を壊したくない”という気持ちと、

“ここに自分が混ざれていない”という孤独が、

胸の奥で静かに揺れていた。


夕食を終え、美知の両親は「今日はありがとうね」と微笑みながら、宿泊予定のホテルへと帰っていった。


夜も更け、美月と律が眠りについたあと——

直人が声をかけてくる。


「お風呂、ゆっくり入っておいで。今日は疲れたでしょ」


差し出されたタオルを受け取ると、ほんの少しだけ力が抜けた気がした。


浴室に入り、服を脱ぎ、湯船に身を沈める。

張りついていた表情が、ゆっくり剥がれていく。


知らない親。

知らない過去。

知らない自分。


“美知”という名前が何度も呼ばれるたび、空っぽの箱の蓋が開いては、また何も出てこないまま閉じていく。

家族との思い出も、好きだったはずの食べ物も、全部“他人”の話のようにしか聞こえなかった。


(私は、いったい誰なんだろう)


湯気にぼやけた鏡の向こうに映るのは、

名前だけ与えられた、記憶のない「私」。


母親として。妻として。

求められている自分になろうとするたびに、

どこかが軋んで、苦しくなる。


(……無理だよ)


声にならない言葉が胸の奥で響いた。


ぽたり、と涙が頬を伝い、

お湯に溶けていく。


鏡を見ても、そこにいるのは「美知」ではなかった。

ただ、名前のない誰かが、泣いていた。


浴室のドアが勢いよく開く音に、美知ははっと顔を上げた。


「美知?」


驚いた顔の直人が立っていた。


「よかった……何度呼んでも返事がないから、また倒れてるのかと思って……」


(そっか、私……お風呂場で倒れたんだった)


直人の声が、ふと優しくなる。


「美知……どうしたの?」


泣いていたことに気づいたのだろう。

静かに、そっと問いかけてくる。


だけど、何も答えられなかった。

言葉が、出てこない。


(私は、“美知”のような母親にはなれない。

“美知”のような妻にもなれない……)


そう伝えたかった。

でも、それは“今の自分”を否定することのようで、怖くて——言えなかった。


ただ、静かに、涙だけがこぼれた。


直人は、そっと浴室に膝をつき、

最初に目覚めた日と同じように、美知の手を握った。


「大丈夫、大丈夫……俺がいるから」


その言葉に、美知の中で張りつめていたものがふっと緩んでいく。


温かい手のひら。

まっすぐな声。


もう、涙を止めることができなかった。




——「分かった、離婚しよう。」


唐突に、頭の奥で直人の声が響いた。


けれど、それは今ここにいる直人の声じゃなかった。

優しさも温もりもない、冷たい声だった。


(……今の、なに?)


視界がぐらりと揺れた。

胸が締めつけられ、呼吸がうまくできない。

息を吸おうとしても、肺の奥まで空気が届かない。


(苦しい……!)


過呼吸のような状態になりかけて、思わず彼の手をぎゅっと強く握った。

無意識だった。


直人が驚いたようにこちらを見つめる。

その顔を見て、なんとか現実に引き戻される。


「……もう、大丈夫。出るね」


息を整えながら、そう告げるのが精一杯だった。

涙の跡を拭い、なるべく平静を装って、彼に背を向けた。




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