2話 まだ、馴染まない空気の中で
「ここが、俺たちの家だよ」
ベージュの外壁に、グレーの屋根が乗った落ち着いた二階建ての家。
玄関横には駐車スペースがあり、静かな住宅街の一角にすっと馴染んでいる。
光がよく入る南向きのリビングには、小さな庭を望む窓。
家族の暮らしを、ゆっくりと包み込むような家だった。
(……私の家? 誰かの家みたい)
ドアが開くと、玄関には靴がきちんと並んでいた。
奥から、にぎやかな声が響いてくる。
「来た!ママじゃない?」
ドタドタドタドタ——
飛び込んできたのは、小学生くらいの女の子。 目がぱっちりしていて、髪の毛は腰まで伸ばされていて、つやつやと光っていた。 まっすぐこちらを見つめてくる。
(この子が……私の子?)
「ママ、会いたかった。」
女の子はためらいなく、美知にぎゅっと抱きついた。 美知は驚いて、固まったまま動けなかった。
「美月、言っただろ。ママ、少し記憶がないんだ。いきなり抱きついたらビックリするだろ」
直人がやわらかく言い聞かせるように言った。
美月ははっとしたように顔を上げ、少しだけ悲しそうな表情を浮かべ、
「……そうだった」
ぽつりとそう言い、リビングへと戻っていった。
美知は胸の奥に何か重たいものが沈んでいくのを感じた。
戸惑いと一緒に、どこからともなく罪悪感が押し寄せてくる。
美知と直人もリビングへ向かうと、そこには年配の男女が並んで座っていた。
(……この人たち……私の父と母?)
一瞬戸惑いが浮かぶ。
会話の内容と雰囲気、そしてどこか直人と似た顔立ち—— この二人が直人の父と母なのだと、美知はようやく理解した。
「お父さん、お母さん、ありがとう。しばらくは俺がついてるから大丈夫。困った時はすぐに連絡するから」
直人がやさしく伝えると、二人は安心した様子で頷き、しばらくして帰っていった。
「部屋、案内するよ」
直人に続いて廊下を進む。 この家は3LDKで、1階にはバスルームとトイレ、そして日当たりのいいリビングが広がっている。 階段を上がった2階には、3つの個室があった。
一番広い部屋が、美知と直人の寝室。
リビングに戻ると、美月がソファに腰かけてテレビを見ていた。
ベビーベッドの中で、小さな赤ちゃんがすやすやと眠っている。
6ヶ月の——律だ。
美知は部屋の隅々に視線を走らせた。 数日間、誰も暮らしていなかったとは思えないほど、整えられた室内。 床にはホコリ一つなく、窓のカーテンは程よく光を通していた。
おそらく、直人の父と母が整えてくれたのだろうと考えながらも、 自分の物や、過去を覗かれたのではないかという不安がふとよぎる。
見られたら困るようなものがあったとしたら—— そう思うと、胸の奥がざわついた。
その気持ちを、やんわりと直人に伝えると——
「美知は綺麗好きだから、自分の物や俺たちの物はきちんと閉まってるはずだよ。 お母さんたちは掃除機かけたり、換気したりしただけだと思うよ」
そう言って笑う直人の声に、美知は少しだけ安堵したが、部屋がどれだけ整っていても、 自分の中だけは、まだどこかごちゃついたままだった。
「美知、これ見てみて」
直人の声に視線を向けると、リビングのテーブルにアルバムらしきものが三冊、そっと置かれていた。
美知は一瞬だけためらい、そしてそっと手を伸ばす。 恐る恐るページを開いてみると、そこには—— 何の変哲もない“日々”を積み重ねた家族の写真たちが並んでいた。
笑顔の子供と夫婦。
どこかの公園。
誕生日ケーキを前に並ぶ3人。
そして—— 髪をきれいに束ね、綺麗に化粧をして微笑んでいる一人の女性。
その顔に、病院で鏡を覗いたときの自分が重なった。
「これは、私が撮ってあげたお母さんだよ」
いつの間にか、テレビの音は止まっていた。 美月がそっと美知の隣に座り、写真を指さす。
「そ、そうなんだ……」
ぎこちなく返した美知の声は、少しだけ上ずっていた。 玄関で見せた美月のあの悲しそうな表情が、まだ胸に引っかかっていた。
写真の中の自分は、当たり前のように「母親」としてそこにいた。
そのとき、リビングに響く小さな泣き声。
律が目を覚ましたらしい。
直人が慌てて駆け寄り、そっと抱き上げた。
腕の中の赤ちゃんは、ぐずるように声をあげている。
「美知も、抱いてみる?」
不意に向けられた問いかけに、美知は驚いたように瞬きをした。
(抱っこ……? 私が……?)
戸惑いと不安にかられながらも、その気持ちに素直に答えるように、美知は小さく頷いた。
「はい……ちょっとだけ」
直人は笑って、美知の腕に慎重に律を移してくれた。
小さな体。あたたかさ。ほのかなミルクの匂い。
美知の腕の中で、律は安心したように目を閉じた。
(この子が……私の——)
胸の奥が、ふっとやわらかくなった。
「思ったより、大丈夫そうです」
自然と口をついて出たその言葉に、直人はほっとしたように笑った。
体が覚えているのか、赤ちゃんを抱く違和感はなかった。
重さ、ぬくもり、腕の添え方——それらが自分の中に、当たり前のように残っていた。
お昼ご飯も、夕ご飯も、直人が素早く用意してくれた。
慣れた手つきで包丁を握り、手際よくフライパンをあやつるその様子は、見ていて頼もしかった。
その間、律が泣き出すと、美月がミルクを作ってあやす。
美月にミルクの作り方を教わりながら、美知も手伝った。
美知がいなくても、この家はきちんと回っている。
2人だけで、十分にやっていけるように見えた。
胸の奥に、小さな刺のような違和感が残った。
思い出せない「私」と、目の前にいる「私」——
その距離は、まだ遠くてぼやけていた。
──夜。
お風呂を済ませ、初めて見る少し使用感のあるパジャマを着た美知は、
寝室のベッドに腰かけ、ぼんやりと部屋を見回していた。
けれど、何もする気が起きなかった。
そこはまるで、誰かの家に泊まりに来たような、よそよそしい空間だった。
やがて、風呂上がりの気配をまとった直人が、タオルを肩に掛けたまま急ぎ足で二階に現れた。
どうやら、シャワーだけを手早く済ませたようだった。
直人はタオルで髪を軽く拭きながら、スマートフォンを取り出した。
画面に映されたのは、写真フォルダ。
「見てみる?」
そう言って差し出された画面には、結婚前の二人が並ぶ写真——
遊園地、カフェ、カラオケ、登山……笑い合うふたりの姿が次々と映し出される。
「どうかな? 何か思い出せそう?」
美知は申し訳なさそうに首を横に振る。
「……思い出せなくて、ごめんなさい」
その瞬間、玄関で見せた美月の表情が脳裏に浮かぶ。
寂しそうで、切なそうな顔。
また、胸の奥にじわりと罪悪感が押し寄せてきた。
(この人たちは、“以前の”朝倉美知を求めてる。——私じゃない)
美知がうつむくと、直人が驚いたように手をそっと握った。
「……そんな、謝らないで。記憶がなくても、美知は美知だよ。
戻っても、戻らなくても……どっちでもいいんだから、でも記憶が戻ったら1番最初に俺に教えてほしい」
その声は真っ直ぐで、真剣な眼差しだった。
「あと、ひとつだけお願いがあって」
言いにくそうに言葉を選んで、続ける。
「俺のこと……“直人”って呼んで欲しい。
あと、敬語、やめない? 俺たち、同い年なんだし」
一瞬、美知の中で突っ込みが浮かぶ。
(……ひとつじゃないじゃん)
それでも、美知はゆっくりと頷いた。
直人が思い出したように言う。
「そういえば、美知のスマホ、ここにあるよ」
そう言って、ベッドサイドの小さなライトの台——
その引き出しを開け、中からスマートフォンを取り出した。
美知は、差し出されたそれを、少しだけためらいながらも受け取った。
手のひらに馴染む感触。記憶は沈黙したまま。
画面を覗くと、顔認証であっさりとロックが解除された。
充電はかろうじて残っていた。
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
何かを見るのが怖かった。
「……明日、見ます」
そっと画面を閉じると、再び引き出しの中へ戻した。
まるで、それに触れたことで何かを開いてしまいそうな——
そんな気がしたから。
直人は寝室の電気を消し、ベッドサイドのライトを点けながら、明日、美知の両親が来ることを伝えた。
新幹線で来るという。
美知は、自分が“娘”としてきちんとふるまえるのか、不安にも似た、心が軋むような感覚を覚えながら——
いつの間にか、静かに眠りについていた。
──ふと、目が覚めた。
まだ外は暗い。
ベビーモニターから、小さな赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。
(律だ……)
記憶はないはずなのに、体が自然と反応する。
まるで、眠っていた母性だけが、先に目覚めたかのようだった。
直人は、疲れているのか静かに寝息を立てて眠っていた。
美知は「抱っこくらいなら」と、泣き出した律をゆっくりと胸に抱き上げ、優しく揺らす。
しばらくすると、律は少しずつ泣き止み、やがて目を閉じて再び眠り始めた。
それが——美知が目覚めてから、初めて“ひとりでやれた”こと。
それが達成感なのか、あるいは元々の母性によるものなのか、上手く言葉にできない。
けれど、胸の奥がほんの少し温かく、やわらかくなった。
ゆっくり、慎重にベビーベッドに寝かせようとしたその瞬間——
「ギャーッ!」
鋭い泣き声が部屋に響く。
その声に、直人が飛び起きた。
「ごめん、気づかなくて」
そう言って、迷いのない動きでオムツを替えると、すぐに階下へ降りてミルクの準備を始める。
その間、美知は再び律を抱き上げ、あやしながらリズムよく揺らしていた。
やがて直人が戻り、簡易ベッドに腰を下ろすと、美知に手招きする。
「美知、おいで。ミルク、あげてみよう」
優しい声に促されながら、美知は戸惑いつつも、そっと隣に腰を下ろした。
ミルクをあげると、律は小さな口で必死に吸い付いた。
その姿が、なんとも言えず愛おしい。
(赤ちゃんって……不思議)
自然と美知の顔に笑みがこぼれた。
そのあと、もう一度、律が泣き出した。
今度は直人を起こし、美知も一緒にオムツを替えたり、ミルクを作ったりした。
おそるおそるお湯の量を確認して、ミルクを振り、温度を確かめて——
「こうかな?」と不安になりながらも、律が満足そうにミルクを飲み干す姿を見ると、胸の奥がふっとほどける。
その感覚は、やさしくて——
手を動かすたびに少しずつ“母親としての感覚”が自分の中に宿っていく気がした。
そうして二人は、寝不足のまま朝を迎えた。