11話 あの日から、ずっと
タオルで髪を拭きながら顔を上げた直人と、美知の視線が交差した。
けれど、どちらもすぐには言葉を発さなかった。
「……記憶が戻ったの」
美知の声は、かすかに震えていた。
そのひとことを口にした瞬間、胸の奥に張り詰めていた何かが、緩んだ気がした。
「……本当に?」
直人は、ゆっくりと美知に近づいて、ベッドの端に腰を下ろした。
美知は黙って頷く。伏せた睫毛の奥、瞳は赤く、どこか怯えたようにも見えた。
少しの間を置いて、震える声がこぼれる。
「……離婚の話、続き……しなきゃ、だよね」
「待って」
直人の声がそれを遮る。
一歩、彼が踏み込んだ音が、静かな部屋に響いた。
「俺の気持ちを、ちゃんと伝えたいんだ」
美知が顔を上げる。
直人の声は、これまででいちばん真っ直ぐだった。
「美知に言われて、やっと気づいた。
全部、任せすぎてた。美知が何を考えてるのか、
ちゃんと知っていたつもりだった。」
直人は、言葉を選ぶように、口を開いた。
***
美知は、俺たちの出会いを「研修合宿だった」って思ってる。
でも実は——もっと前、入社式の日から、俺は美知のことを見ていた。
あのときの光景は、今も記憶に残ってる。
式典会場の前、人だかりの中で一人、目を引く女性がいた。
背筋をすっと伸ばして、まるで舞台に立つみたいに堂々としていて。
他の誰とも違う空気をまとっていた。
その彼女が、入り口の前で、なぜか足が止まった。
そして静かに、深く一礼してからホールへ入っていった。
初めて、人を美しいと思った。
――それが、美知だった。
研修合宿の夜、ビジネスホテルの一階にあるコンビニで、美知を見かけた。
昼間のきちんとしたスーツとは違って、キャラクターのプリントが入ったTシャツを着ていた。
そのギャップに、思わず目が留まった。
あどけないその姿に、不意に胸を掴まれた。
ほんの数秒だったけど、目が離せなかった。
本当は、もっと見ていたかった。
でも、気づかれないように視線を逸らして、
明日の朝に飲むコーヒーだけを手に、レジへ向かった。
何も言えずに、そのまま静かに部屋へ戻った。
同じ支社で、同じ部署になったと知ったときは、本当に嬉しかった。
でも、話しかけることはできなかった。
明るくて、誰にでも分け隔てなく接する彼女の周りには、いつも人がいた。
それも、優しさを武器にして近づこうとするような——
下心に塗れた“好かれたいだけの優しさ”をぶら下げた同期たちが。
俺は、ああはなりたくなかった。
美知に向ける言葉や態度に、打算なんて混ぜたくなかった。
だから俺は、何もできなかった。
自分も、あの連中と同じだって思われたら、それがいちばん怖かった。




