10話 手放したのは、私だった
年々、不安は膨らんでいった。
直人は、私と結婚しなければ、きっと——
本当に好きな人を見つけて、
本当の幸せを手に入れていたんじゃないか。
そんな思いが、心の奥底で膨らみ続けていた。
だから私は言ってしまった。
本当は嫌だった。止めてほしかった。
でも、もう逃げたかった。
「……離婚したい」
美月と律が2階で眠りについた夜。
直人は静かに台所で、いつものように食器を洗っていた。
水音だけが静かに響く中、
私はその言葉を落とした。
直人は、驚いたようにこちらを見た。
けれど、ほんの少しの沈黙のあと、
淡々とした声で言った。
「……分かった。離婚しよう」
その瞬間だった。
涙と一緒に、心の底から絞り出すように、
胸の奥から、抑えていた想いが一気にこぼれ出した。
「……そうだよね、今まで私ばっかりが好きで、
直人は私のことなんて全然好きじゃなかったんだよね。
でも、好きでもない女と結婚して、
子どもまで作るなんて——本当に最低」
直人は何も言わなかった。
私の言葉に、ただ静かに立ち尽くしていた。
「今まで直人の態度に一喜一憂して、
勝手に喜んで、勝手に傷ついて……
それを見て、楽しかった?
ほんと、いい趣味してるよね」
そう言い捨てて、私は風呂場に逃げ込んだ。
水音も、直人の姿も、すべてを遮断するように。
湯船に浸かりながら頭の中でぐるぐると、あの言葉がリピートする。
「分かった、離婚しよう。」
(……本当に、あれでよかったの?)
連日眠れぬ夜が続いていたせいか、熱い湯に浸かった体が、妙にだるい。
湯船を出たそのとき——
視界がふっと揺れて、次の瞬間、床が近づくのが分かった。
——あ、やばい。
そう思ったときには、もう、何も感じなかった。
***
すべてを思い出した、美知。
(直人に記憶が戻ったことを伝えて、離婚の話をしなきゃ……)
そう思うのに、胸の奥に沈む冷たいものが、言葉をせき止めていた。
バスタオルで髪を拭きながら、静かな寝室へ戻る。
(今日、言うべき? それとも……もう少しだけ、このままで居てもいい?)
手のひらが、かすかに震えている。
「戻った記憶」と「今の関係」が、喉の奥で絡まり、言葉にならない。
ふと、湧きあがった疑問が心にひっかかった。
(……あれ? 以前の直人と、入院後の直人って、まるで別人みたい)
直人は、私に「可愛い」なんて言わなかった。
自分から手を握ってくることも、
ワンピースを選んでくれることも——思いもしなかった。
……わかんなくなる。
私の見てきた直人は、本当に“直人”だったの?
(本当の貴方は、どっちなの?)




