第1話 知らない私
「……ん……」
頭の奥で鈍い痛みが響く。
音のない水中から浮かび上がるように、意識がゆっくり戻ってきた。
まぶたを開けると、白い天井。
薬と消毒液が混ざったような匂いが鼻をくすぐる。
(……ここは……?)
右手には点滴。左のこめかみには違和感——包帯?
「……なんで……何が……」
頭を押さえると、じんわりと痛みが広がる。
「美知、大丈夫か?」
慌ただしく駆け寄る男の声。
すぐにナースコールが押され、ピンポーンという軽い音が鳴る。
足音が近づき、看護師が姿を現した。落ち着いた声で言う。
「大丈夫ですか? 痛むところや、違和感はありますか?」
「……頭が、少し……」
「わかりました。先生を呼びますね」
「美知……よかった、目が覚めて……」
安堵に震える男の声。
(この人……誰?)
見覚えがない。
戸惑いながら、ゆっくりと口を開いた。
「……すみません。どちら様ですか?」
男の顔に、わずかに動揺の色が浮かぶ。
「……俺のこと、分からないの?」
(え、私この人のこと……知ってるの?)
——あれ?
私って……誰だっけ?
医師がカルテをめくりながら言う。
「転倒の衝撃で、記憶喪失の症状が出てますね。詳しく検査してみましょう」
そのまま検査室へと運ばれ、CTと簡単な神経反射のチェックを受けた。
「頭部を強く打った影響で、一時的な記憶障害が見られます。外傷性健忘の可能性が高いです。今後、少しずつ思い出していくケースも多いので、しばらく様子を見ましょう」
「……記憶喪失……」
男の顔は、やはり何度見ても思い出せない。
けれど、ずっと握られていたその手のぬくもりだけが、不思議と心を落ち着かせた。
男は静かに言った。
「私の名前は、朝倉直人。君の名前は、朝倉美知。……私の妻だよ。
美知には、11歳の娘と、生後6ヶ月の息子がいる。」
言葉は穏やかだったが、衝撃はあまりに大きかった。
自分が妻であり、母親であること。
それは、誰か別の人に用意された役割のようで、現実味がまったくなかった。
名前、家族、子ども——
どれひとつとして、心に触れてこない。
しばらくして、看護師に呼ばれて直人が部屋を出ていく。
美知はその背中を追うこともなく、天井をぼんやりと見つめていた。
考えるべきことは、山ほどあるはずなのに。
思考は、空回りするばかりだった。
ただ——疲れていた。
体も、頭も、心も。
まぶたが落ちていく。
光も音も、すうっと遠のいていった。
美知はそのまま、静かな眠りへと落ちていった。
***
「奥さま、昨夜は倒れられる直前まで、お一人で育児をされていたと聞きました」
直人は、小さく頷く。
「……はい。私が出張の時は、家事も育児も、彼女が……」
医師は深く息を吐いた。
そして、言葉を慎重に選ぶようにして続けた。
「外傷だけが原因ではないと思います。
精神的な要因——強いストレスや疲労が、引き金になった可能性もあります」
直人の視線が、机の上の診察器具に落ちたまま動かなくなる。
「そういったケースでは、回復には身体だけでなく、周囲の理解と支えが必要です。
責めず、焦らせず、ゆっくり向き合ってください」
拳を握る。
けれど言葉は、どこにも出てこなかった。
病室に差し込む夕方の光が、
白いシーツの上で淡く揺れている。
壁にかかった時計の音が、やけに大きく聞こえる。
「……すみません」
直人は、ぽつりと呟いた。
医師は少し柔らかい声で言った。
「朝倉さん、ご自身を責めすぎないでください。
思い詰めずに、周囲を頼ることも大切です。
そして今は——奥様を支えることを、最優先にしてください」
***
それから数日が経ち、病院での検査と経過観察の結果、美知の身体に大きな異常は見つからなかった。
記憶は戻らないままだったが、会話も食事も問題なくできており、医師からは「一度ご自宅に戻ってみては」と提案された。
「じゃあ……帰ろうか」
「はい」
美知はまだ、実感のないまま言葉を返した。
その言葉は、まるで他人に向けたような、淡い音だった。
それでも直人は、否定もせず、ただ隣にいた。
静かに——記憶のない日常が始まろうとしていた。