灰になった街をネコが巡る
灰色の風が吹いていた。
地を這う塵芥じんかいは、もはや人の気配を記憶していない。
崩れかけた尖塔、窓のない聖堂、骨のように白い街路樹──そのすべてを、黒猫は知っていた。
いや、正確には、知っていたというよりも“覚えている”のだ。
だれかの腕に抱かれたぬくもり。
小さな声で名を呼ばれた記憶。
けれど今は、ただ、灰の海を歩くだけ。
黒猫の足取りは軽く、しなやかで、愛らしい。
真夜中の羽根のような毛並み。
きょとんとした金の瞳。
その姿は、どんな退廃よりも無垢で、無関心で、異物だった。
「……にゃあ。」
誰にともなく、黒猫は鳴いた。
返事はない。けれど、それでよかった。
世界が終わってしまったなら、歩くだけが彼の使命となる。
夜になると、星の見えない空の下で、ひとり踊る影がある。
それは黒猫が過ごした、ある家の亡霊。
踊り子だった少女はもういない。けれど、黒猫はその舞を見たことがある。
だから彼は、舞台の中心にちょこんと座って、静かに見守るのだった。
――まるで、それが“祈り”のように。
『燭台と猫』
廃都の片隅に、まだ灯りの残る一室があった。
誰もいないはずの館で、ひとつだけ生きている炎。
風も届かぬ密室で揺れるそれは、魔法の残滓か、あるいは──誰かの執念。
黒猫は、音もなく扉をくぐる。
首を傾げて、燭台を見上げた。
その灯りは、まるで彼を歓迎するかのように、ひときわ強く明滅する。
「……にゃ」
ぽふん。
黒猫は飛び乗った。古びたテーブルの上、埃を踏みしめて、燭台のすぐそばへ。
蝋の香り。甘く、どこか懐かしい。
火の揺れが金の瞳に映り、黒猫の小さな顔が赤く染まる。
そして彼は、くるりと身を丸める。
灯りのすぐそば、あたたかな場所。
そこに、ずっといたような顔をして、ぴくりと尻尾だけを動かした。
燭台の炎は、眠る猫を守るように、そっと静かに揺れ続ける。
朝は来ない。
けれど、それでもいい。
世界が止まったのなら、猫が眠る場所が夜の中心になるだけなのだから。
『水のない噴水』
広場の中央に、ひときわ大きな噴水がある。
けれど、そこに水はない。
枯れて久しい石の水盤には、雨粒すらも溜まらない。
噴水の彫像は、羽を広げた天使。
けれど、その翼は砕け、両目は風化し、もはや“なにか”の残像でしかなかった。
そこに、黒猫が来た。
ひょいと飛び乗り、丸い水盤のふちを歩く。
ぽとり、ぽとりと足音を残す。
けれど、それは音ではなく――記憶のように、風に溶けて消えていった。
猫は天使の彫像を見上げる。
傾いた首、ぱちぱちと瞬く金の瞳。
「にゃ」
ひと鳴き。
返事はない。けれど、それでよかった。
くるり。
黒猫は身体をひねり、壊れた翼のうえに跳び乗る。
そして、天使の肩にちょこんと座った。
まるでそれが玉座であるかのように、堂々と、しかし気ままに。
乾いた世界の王は、小さな肉球で風を感じる。
水のない噴水の王。
誰にも知られず、誰にも求められず、ただ在るだけの支配者。
風が吹く。
小さな砂粒が、広場をかすめる。
黒猫は目を細め、遠くを見つめた。
そこに誰もいなくても――いつか来た誰かを、たしかに覚えているのだ。
『倒れた騎士の像』
それは城門のすぐ傍に、ひとり倒れていた。
彫像だった。
槍を手に、盾を掲げ、誇り高き騎士の姿を模した白い石像。
だが今は、胴が割れ、顔は砕け、胸には深い裂け目が走っている。
長い戦があったのか。
あるいは、ただ、時がすべてを崩したのか。
もはや確かめる者は誰もいない。
その傍に、黒猫が歩いてきた。
ふさふさの尻尾をゆらしながら、軽やかに、何かを探すように。
瓦礫の中を抜け、ひょいと跳ねる。
騎士の膝の上にちょこんと座ると、猫は空を見上げた。
「……にゃあ」
風が返す声は、ない。
けれど、彼はそれに構わず、前脚を伸ばし、ぐう、とあくびをひとつ。
騎士の掌に乗った小さな影。
それは、世界の最期に遺された、ただひとつのぬくもりかもしれなかった。
黒猫は、眠らない。
けれど、じっとしている時間がとても長い。
まるで、記憶の奥にいる誰かの帰りを、ただひたすら待っているかのように。
ぽつり、ぽつりと。
曇り空から落ちる黒い雨。
その中で、猫だけが濡れていなかった。
騎士の胸の凹みに溜まった水が、そっと彼を守っていたからだ。
『止まった懐中時計』
地面に転がる懐中時計がひとつ。
開いたまま、針はぴたりと止まっていた。
午後二時十三分。
それが最後の時刻だった。
黒猫はその横に腰を下ろす。
ぺたりと前脚をそろえ、じっと針を見つめた。
「……にゃ」
時間はもう動かない。
けれど猫は、その止まった世界のなかで、まるで時を計るように瞬きをする。
背後の大木から、ひとつ葉が落ちる。
それが時計の蓋に触れて、からん、と乾いた音を立てた。
猫は耳をぴくりと動かし、またひとつ、瞬きをした。
まるで、いま針が動いたかのように。
『燃え尽きた書庫』
灰にまみれた階段を、黒猫は降りていく。
書庫だった。かつては知の殿堂。
今はただ、焼け落ちた木と紙の屍しかばね。
けれど、ひとつだけ焼け残った本があった。
タイトルも、表紙も読めない。
それでも猫は、その本の上にぴょんと乗って、香ばしいにおいを嗅いだ。
「にゃ……」
しばらく、その場にじっと座る。
燃え尽きたものの記憶を、踏みしめるように。
一枚、焼け残ったページが風にめくれた。
そこに描かれていたのは、黒猫によく似た、絵本の挿絵。
猫はそれを見て、くるりと回り、しっぽを立てて歩き出す。
まるで、それだけが答えであるように。
『空に浮かぶ教会』
黒猫は、階段を上がる。
空中に浮かぶ、古い教会へと。
どうして浮かんでいるのかは誰も知らない。
すでに地上には神もいない。
だが、扉は開いていた。
猫は躊躇なくそこに入る。
ステンドグラスから差し込む七色の光。
香炉の残り香。
誰もいない礼拝堂の中央に、猫はちょこんと座った。
「……にゃ」
それは、祈り。
あるいは、祝福。
天井から一枚、羽のような埃が落ちてくる。
猫はそれを見上げ、少しだけ目を細めた。
その仕草は、まるで“感謝”のように、優しくて静かだった。
『氷の庭園』
すべてが凍っていた。
花も、木も、噴水も、鳥も。
音ひとつない氷の世界。
その中に、ぽつんと黒猫。
肉球が、しゃり、と凍てた地面を鳴らす。
吐く息は白くない。
けれど、寒さだけが確かにあった。
猫は凍ったバラの前に立つ。
まるで知っているかのように、鼻を寄せ、ぺろりと花を舐める。
氷は微かにきらめき、花びらに亀裂が走った。
「……にゃあ」
猫の鳴き声に、答えるものはない。
けれど、凍った世界はその一瞬だけ、やわらかく揺らいだ。
『銀の鈴』
廃墟となった遊園地。
観覧車は動かず、メリーゴーランドも沈黙している。
だが、ひとつだけ――壊れた馬の首に、銀の鈴が残っていた。
猫はその音に気づく。
風が吹くたび、ちりり、と鳴る小さな鈴。
それを見つけた猫は、前脚でちょいと触れた。
「にゃ」
ちりん。
鈴が応える。
もう一度、触れる。
ちりん。
また、鳴る。
猫は満足したように目を細めると、馬の背に登り、くるりと身を丸めた。
その耳元で、銀の鈴がそっと揺れていた。
まるで、世界に残された最後の音楽のように。
『石碑の丘』
世界の果てに近い場所に、丘がある。
灰と風と沈黙に支配された、最後の丘。
そこには数えきれないほどの石碑が立っていた。
誰が、何のために建てたのか。
猫は知らない。
けれど、そのあいだを通り抜けるたびに、風が変わる。
しん……と静まり返った空。
猫の足音だけが、世界にひとつの命のように鳴る。
その丘の頂には、ひときわ大きな石碑があった。
他のものよりも古く、欠けていて、名前も読めない。
だが、猫はそこに登った。
石碑の天辺に腰を下ろし、目を細め、遠くを見つめる。
その視線の先に、誰がいるわけでもない。
けれど、彼はずっとそうしてきた。
見送るように。
見守るように。
「……にゃあ」
猫がひとつ鳴いたとき、空から灰がひらひらと落ちてきた。
それはまるで、祝福のようであり、
赦しのようでもあった。
丘の麓には、小さな足跡が無数に刻まれていた。
どれも、猫のもの。
だが、すべて古く、風に削られ、いまにも消えそうだった。
今そこにあるのは、ただ一匹の黒猫。
世界の終わりを飄々と歩き、
誰かを思い、誰にも知られず、旅を続ける者。
そして、今日もまた。
彼は石碑の丘を降りてゆく。
――それが、世界の歩き方であるかのように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
このお話は、終わってしまった世界を、ただ黒猫が歩いていくだけの連作です。
戦いも盛り上がりもなく、ただ静かな風景だけが広がる中で、
小さな猫の存在が、なにかを残してくれたなら――
それはきっと、世界にとっても、私にとっても幸せなことです。
猫という生きものは、ときに人よりも自由で、ときに人よりも優しく、
滅びのなかにあってなお、美しさを抱いています。
またいつか、猫が別の風景を歩く姿を描けたらと思っています。
よろしければ感想など、お気軽にお寄せください。
静かな読後を、ありがとうございました。