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選べる未来に夢を見る

作者: 坂東さしま

テーマをもらって一時間ほどで書いた短編に加筆・修正したものです。

 蓮乃は昨日の夕飯に、餃子を作った。「自分の息子」の好物だからだ。じゃあ今日は夫の好きなメニューにしようと、冷蔵庫からキャベツを取り出し、まな板に置いた。


「ありがとうございます、蓮乃さん」


 包丁を握った瞬間、蓮乃は高校生の息子、葵から声を掛けられた。その言葉を聞いた瞬間に、包丁を台所の床に落とした。かろうじて怪我は免れ、包丁はただ、床に静かに横になっている。


「だ、大丈夫ですか」


「ああ、平気よ平気」


 駆け寄ろうとする葵を手で制し、蓮乃はしゃがんで包丁を手に取った。


 息子から感謝の言葉を聞いたのは、初めてだった。それだけでなく、彼から声をかけてくること自体が非常に稀であった。宝くじの一等をあてるほどの確立と言っていい。用事があって蓮乃から質問等はするものの、頷くかいいえと言うか、その程度である。彼の声を判別できるか自信が無いほどに、声も覚えていない。


 彼は蓮乃が産んだ子ではない。蓮乃は今の夫の三番目の妻であり、葵は二番目の妻の子。冷静な顔と同じに性格も落ち着き冷めており、継母だからといって辛くあたったりはしない代わりに、何を考えているのか全く読めなかった。


 蓮乃はブラックホールのように底知れぬ、葵の冷やかな漆黒の瞳が怖かった。心の奥の奥の、自分でも掘れない底まで見通して、値踏みをされているように感じてしまう。日常ではなるべく目を合わせないよう、でも家族として、妻として、継母として、不自然にならぬように接していた。恐ろしいけれど、未成年の子供。誰かにいじわるをするような子でも、暴れるような子でもない。よく分からない子だが、友達はいるし、勉強もスポーツもよくできるし、基本的には「良い子」だと評価できる。むしろ蓮乃が彼を冷遇すれば、蓮乃の立場が危うくなる。育ての親として、最低限で最高の務めを果たさねばと努めていた。


「蓮乃さん、父さんたちに反対してくれたって聞きました」


「反対って……ああ、受験のこと?」


 葵は台所に足を踏み入れ、蓮乃に近づいた。なるべく見ないようにしていた彼の顔だが、蓮乃はこの時、見たいと思った。見上げて、のっぽな息子の顔を確認する。前妻そっくりの、人形のように美しく整った顔が目に映る。一度入れば抜け出せない、深く恐ろしい迷宮を感じる息子の瞳に、おだやかなろうそくの灯りを感じた。


「親戚もお父さんもおじいちゃんもみんな、言う通りに生きろって命令する。それが当たり前だと思ってるんです。村を保つにはそれがベストだから。でも蓮乃さんだけは」瞳にきらりと、光が見えた。「俺の好きに受験させればって言ってくれたって」


 蓮乃が横浜から何もない地方の村に嫁いで10年ほどが経つ。夫は穏やかでいい人だし、長男である一番目の妻の子も、基本的にはフレンドリーで蓮乃に攻撃することはない。しかし、葵と同じく「母」とは呼ばない。また、蓮乃が生んだ三男に対し、長男と葵はよく面倒をみてくれている。葵のことは怖いけれど、おおむね、家庭そのもに大きな不満はない。順調な方と言える。


 ただ、村では皆が皆に、人生を押し付ける。この人生を歩めと決めてしまう。それを村の人たちは受け入れて暮らしている。この慣習を目の当たりにした時、蓮乃は衝撃を受けた。もちろん、夫も周りが決めたとおりに生きている。


 蓮乃の育った家庭は、比較的自由で、女だからああしろ、こうしろだの言われなかった。好きに進路を選べ、村にも好きで嫁いできた。親も反対はせず、お前の決めたことと送り出してくれた。


 決められた人生は、悩まずに済むだろう。前例も多いし、周りがそうなのだからすぐに相談もできる。とてもとても、平和に一生を終えられると思う。


 葵の兄の方は、誰にも刃向かわずに村の当たり前を受け入れて、問題なく生きている。しかし、葵はどうも納得がいかないようで、最近、全ての人々に、出来事に、少しずつ反抗を始めていた。


 その一つが受験である。前述の長男は家業を継ぐために、親戚たちの言う通りに進んだ。では次ぐ必要のない次男は、好きに選べるのだろう、と思いきや、次男にも自由はなかった。蓮乃には衝撃だった。もしや、自身の子、三番目も縛られてしまうのかと恐怖を感じている。


 葵は自身に選択肢がないことを、子供のころから、しっかりしすぎるほどに理解してる。学校では成績優秀で大人しい「良い子」で通っているし、学校側も葵の事情を知っており、高校卒業後は家の言うままにするだろうと思っていた。


 しかし、葵は反抗した。父や親戚たちが決めた道を選ばないと主張し始めた。 


 自由に育ってきた蓮乃は、葵のその態度を応援したくなった。体温を感じなかった彼から、隠されていた憎悪を、己の人生を切り開きたい叫びを、未来への希望を感じたのだ。自分勝手な話にもなるが、次男が成功すれば、わが子にも楽しい将来が待っていそうな気がした。だから、勇気を出して、蓮乃も反抗したのだ。「葵君の好きにさせてあげなよ」と。


「おじいちゃんが怒りながら話してたけど……こんな近くに味方がいたんだって知って、俺、すごく嬉しいです。本当にありがとう」


「感謝されることじゃない。私は自由に生きてきたから、子供達も、やってみたいことには挑戦してほしいっていうか」


「だからお母さんは東京に帰ったのかな」


 葵の母は「親権はいらない。村から出させて」と、生まれ育った東京へ一人で戻った。言われなくても、夫は親権を渡すつもりはなかったという。その話は夫から聞いていた蓮乃だが、葵の口から母の話を聞いたのは初めてだった。そもそも、彼と一言以上の往復をしたのも、初めてのような気がする。


「……東京にも不自由はあるよ」


「そうなんだ。横浜にも?」


「もちろん」


 蓮乃は葵としっかり目を合わせる。初めて出会った頃は、蓮乃よりも小さかったのに、いつの間にか見上げるほどに背が伸びた葵。運動で鍛えているのもあるが、細身でも肩幅や胸腰周りがしっかりし、大人の体に近づいている。十年の成長を感じた蓮乃は、自身のふっくらした小さな両手で、葵の大きな右手を包んだ。赤ん坊に触れるような繊細さで。そして初めて、自分が生んだ子と同等に扱った。


 「反対にこの村にも、自由はある。どこに行っても、自由と不自由はある。だからどこの自由と不自由がいいか、選んでほしい。選べたらいいなって思う。私も選んで、この家に来たの。私は応援してるからね」


 恐ろしさを感じていた葵の瞳が、蓮乃はだんだんと可愛いと思えてきた。体と顔は立派な息子が、出会った当時の小学生に見えてきた。


 彼はずっと、怯えていた。


 寂しかった。


 周囲に怒りを抱いていた。


 だからこそ、冷静でおとなしく、「良い子」に見せかけ、本当の心を隠していた。


 葵が口角を上げた。母になって10年、初めて目撃した。美しい顔としか感じていなかったが、実に無邪気で少年らしい、とても子供らしい顔だった。そう、蓮乃が初めて「葵君も子供なんだ」と素直に思えた表情だった。


「俺、頑張る。蓮乃さんが応援してくれるから」蓮乃の手を強く握り「俺は負けない。自分で選ぶよ」半月の口で、春の野に咲く鮮やかな花のような笑顔で「ありがとう、お母さん」


 蓮乃は自然と、葵を抱きしめ、涙を流していた。


 今日の夕飯は、次男の食べたいものを作ってあげようと決めた。

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