★彼のために創られたこの世界の裏側で【叔父1】
「私は、お前を愛している」
苦しげな告白が、静かな夜の庭に落とされた。
その言葉を予想していたアンドリューは、一つ息を吐いてから、瞳に柔らかい光を浮かべて微笑んだ。
「……嬉しゅうございます。私もあなたを愛していました」
「……リュー」
「もうその呼び方はおやめ下さい」
アンドリューは悲しげに笑って、ままごとのような恋をしていた人を見つめた。まだ丸みを帯びている頬に手を当てる。
「その名を呼ぶには、あなたはもうあまりにも立派になりすぎました」
幼い頃、この恋人は、ドリューというアンドリューの愛称をうまく呼べなかった。それ以来この子だけが呼んだ名前だ。
「あなたはの侯爵家のご子息です。乳兄弟を相手とはいえ、今後はあまり軽はずみなことをしてはなりませんよ」
「軽はずみではない!私は、本当に、お前を、お前だけを!」
「なりません」
言ってはならないことを言おうとする年若い恋人の青さと純粋さを、この上なく愛おしく思いながら、アンドリューは静謐な微笑を浮かべた。
「それ以上は、あなたの妻となる方への裏切りになってしまいます。私の敬愛する主人は、そんな不義理なことをなさる方ではありませんよね?」
「まだ……決まったわけではない」
「でも明日には決まるのでしょう?公爵令嬢との婚約が。そして、あなたは女公爵の伴侶となる」
両家の当主はその予定で話を進めているし、ご令嬢も乗り気だと聞く。明日彼は、公爵令嬢との婚約を結ぶため、公爵家を訪れることになっている。正式な婚約式はまだでも決まったも同然だ。
「リュー……」
泣き出しそうな可愛い人。彼は婚約に乗り気ではなかった。
けれど彼は、正しい教育を受けた貴族だから。
貴族の義務を知っているから、断れなかったのだ。
「リュー……最後に、一夜だけ」
苦しげに顔を歪めた恋人は、懇願するようにアンドリューの手を握りしめて、掠れ声で告げた。
「お前を抱かせてくれ」
アンドリューは、万感の思いが込められた囁きに、返事を躊躇い目を伏せた。
雷の夜や嵐の夜に、互いに抱き合って過ごした幼い日々を思い出す。ただ優しい愛情だけで、互いの体にしがみついた日々を。
けれどこれはもちろん、そういう意味ではないだろう。
「お前が困ったように笑うから。ずっと、だめだと、いけないことなのだと堪えてきた。でも……どうか、一度だけ。それを思い出に、俺は良き貴族として、良き夫として生きて行くと誓うから」
「……で、も」
若い青年の衝動を知りながら、清らかな口付けだけで誤魔化してきたのはアンドリューだ。その肌の温度を知れば、離れがたくなってしまうのが分かっていたから。
どう断ろうかと目を彷徨わせていたら、アンドリューの迷いを見抜くように、恋人は苦しげに顔を歪めて言った。
「お前、俺が結婚したら、この家を出るつもりなのだろう?」
「っあ」
ばれていたのか、とアンドリューは唇を噛む。
その通りだった。
侍従として彼について行くつもりもなかったし、この家に残るつもりもなかった。
愛しい男が他の女を抱き、他の女と幸せな家庭を作るところなんて、見たくなかったからだ。
「お願いだ。私に……思い出を、くれ」
アンドリューの同意の前に、乱暴に唇が奪われる。
夜の庭の片隅の四阿で、押し倒され、アンドリューは天を仰いだ。
「あぁ……神よ」
思わず許しを乞うように呟いてしまい、唇を噛む。目を開けば、白い月が愚かな恋人たちを笑うように細く光っていて、アンドリューは思わず目を閉じた。神の名を呼ぶことなど、許される立場ではないのだと思い出して。
***
「リュー、愛している……」
夜の庭園での、めくるめく情熱の時を終えて、幼い恋人はそっと髪を撫でてくれた。耳元で優しく囁かれる自分の名前と、髪を撫でる穏やかな手つきに、アンドリューは少しずつ年上らしい冷静さを取り戻す。
「あ、りがと……ござ、ました」
「え?」
息を整えたアンドリューが最初にお礼を述べたことに、目の前の恋人は目を丸くする。その顔の幼さに、あぁやはり、変わっていないなとアンドリューは安堵した。
「思い出を、下さって」
「……それは、私の台詞だよ」
「いえ、私の台詞ですよ。坊ちゃま」
坊ちゃまと呼ばれるのを嫌がることを承知で、アンドリューは穏やかに笑いかける。少しだけ眉間に寄った皺を優しく人差し指で撫でた。
「でも、もう、……こんな遊びは、してはなりませんよ」
この可愛くて純粋なひとを、アンドリューはずっとお世話をしてきた。アンドリューの後ろをついて回るのが可愛くて、一生守ってあげたいと願った。
「きちんと、幸せになってくださいね」
年上の矜持が、アンドリューに残酷な台詞を吐かせる。恋人に、自分を忘れて正しい道を歩いてね、と。
「リュ、ゥ……」
「最後に、一度だけ、というお約束でしたでしょう?……ちゃんと、私のことはお忘れになってくださいね」
まるでアンドリューに捨てられるかのように、悲しげに顔を歪める可愛い人。
最後と言ったのは、自分なのに。
「忘れるなんて約束、していない」
「だめですよ」
絞り出すような声に、優しく笑いかける。幼児の駄々を嗜めるように、柔らかく穏やかに、はっきりと拒絶した。
「あなたはちゃんと、奥様と、幸せになるのです。そして、奥様と、生まれてくるお子様を愛して、幸せにしてあげるのですよ」
俯く顔を覗き込み、そっと前髪をかき上げて、額に触れるだけのキスを落とす。
「愛していましたよ、私の坊ちゃま」
翌日、恋人は公爵令嬢の婚約者となった。
そして一年後、恋人は公爵家の婿となり、そして、アンドリューは。
領地への遣いのために乗っていた馬車が山賊に遭い、馬車ごと崖から転落して、
死んだのだ。
「……さ、ま」
アンドリューが最後に思い浮かべたのは、愛しい恋人の泣きそうな笑顔だった。