★僕だけが撫でたい仔猫【弟4】
「……はぁ。レオン、本気か」
断りなく屋敷を抜け出したレオンにため息が漏れる。
先日の会話以来、レオンはますます危機感を募らせていた。平民らしい衣服に身を窶したレオンは、おそらくひとりでトムという平民と対決しに行くつもりなのだろう。
「まったく、愚かな真似を……」
頭痛を堪えるように額に手をやってから、軽く頭を振る。レオンの不安は分からなくもないが、僕にはどう考えても杞憂にしか思えないのだ。
姉をやけに神聖視しているレオンには悪いが、かつて姉は己にも他者にも厳しく、誇り高き完璧令嬢として社交界に名を轟かせていた。
生まれながらの貴族として相応しい美しさと振る舞いで、同年代には恐れられ、親世代からも一目置かれていた人物である。
ある時から憑物が落ちたかのようにのびのびと過ごしているが、平民の少年ごときに良いように扱われるとは思えない。
「……まぁ、レオンの気持ちは分からなくもないけど、な」
レオンは、姉に大層な恩義を感じているのだ。
いまだに距離がある母や兄とは違い、姉は最初から両腕を広げて全力でレオンを受け入れたからだ。
そしてこれは本人すら気づいていないかもしれないが、躊躇いなく抱擁を与える姉に、レオンが自分の母を重ねて見ているのだと、僕は気づいている。
「まったく、素直じゃない……」
レオンが姉に近づくトムを毛嫌いしている理由は、きっと深層心理では姉を奪われそうで嫌だという、ただそれだけだと思うのだけれど。
でも、そう言ったところで、頑ななレオンはきっと聞く耳など持たないだろう。
「まぁ……仕方ないな」
突っ走ったレオンが余計な真似をする前に止めるため、僕は跡をつけることに決めた。
慣れた様子で淡々と道を進むレオンのしばらく後ろを、僕ものんびりと歩く。
裕福な平民程度の姿に変装して街を歩く僕の後ろには、いつも通り数人の護衛がしれっと付いていた。
何も伝えなくても、彼らは僕の身に危険が及ばないように、常にひっそりと付き従う。
そしてレオンにももちろん、護衛がついている。
だから、彼の行動は父にも筒抜けなのだが、……レオンはそんなことには思いも至らないのだろう。
元々平民暮らしをしていたレオンには負担に感じるだろうからと、僕らは敢えて、その庇護を伝えていないのだから。
自分がすでに侯爵家の一員であるという意識が、今ひとつレオンには足りない。
最近はすっかりレオンも貴族然と立ち居振る舞えるようになったこともあり、そんなことも減ったけれど、迎え入れてからしばらくは、レオンは社交界の下等な奴らから「侯爵家の面汚し」「汚れた血混じりの出来損ない」と馬鹿にされていた。
それまで完全無欠ともいえた我が侯爵家の唯一の微瑕だと、レオンは格好の餌食だったのだ。
しかし、その攻撃はある日、ふっと止んだ。
レオンに害を成せば侯爵家から報復があると、貴族たちが理解したからだ。
身内を過剰に愛すると悪名高い僕らの家に、レオンが家族として迎え入れられているのだと、彼らは理解したのだ。
そのきっかけを、レオンは知らない。
いくつかの家が没落し、何人かの愚かな貴族子女は死を願うような憂き目を見ているのだけれど、父はそんなことをわざわざレオンには伝えないから。
だからレオンは、自分が侯爵家の人間であるという意識がどこか欠けている。
自分が侯爵家の微瑕ではなく、僕らの弱みになりうるという自覚がないのだ。
だから己の立場も弁えず、一人で抜け出すなんて愚かな真似をするのだろう。
まぁ、それこそ我が家の一員としては当然だが、監視を兼ねた護衛が複数いるので、危険な目にあう可能性はほぼないのだけれど。
***
「ここがトムの実家のパティスリーか」
レオンが立ち止まって睨みつける先を少し離れた場所から見上げて、僕は「へぇ」と感心の声を漏らした。
平民にしては随分とセンスが良く、斬新で洗練されている。規模は小さいが、上流階級にも十分通用しそうな店構えだった。
中に並べられているのは、よくあるクッキーなどの焼き菓子たち。商品には新規性は無いが、平民たちにも人気の無難な品揃えのようだった。
しばらく店を観察した後、据わった目のレオンはドアに向かってズンズンと進んで行った。
からんからん、と陽気な鈴が鳴り、中から機嫌の良さそうな少年の声が聞こえた。
「いらっしゃいませー!」
満面の笑みで迎え入れた少年に、レオンが無表情で刺々しい問いを投げつける。
「すみませんが、あなたがトムさんですか?」
「へ?お客様は」
「名乗る必要はありません」
堂々と言い切るレオンに、僕は思わず「いや、あるだろう」と内心突っ込んだ。
「あなた、学園で婚約者のいる女子生徒とやけに仲が良いようですが、一体何を考えているんです?学生の本業は勉学でしょう?ふしだら極まりないのでは?」
「へ?あの、お客様、何を……?」
「だいたい!平民の身で貴族令嬢と親しくすることの意味を、あなたは分かっているんですか!?」
「はぁ……えっと……?」
案の定、トムと思われる少年も不可解そうに首を傾げている。厄介な客に絡まれたと思っているのだろう。
「はぁ……嘘だろ、まったく」
開きっぱなしのドアから聞こえてくる会話を、僕は頬を引き攣らせながら聞いた。
レオンは静かに、けれど相当に興奮しているらしい。困惑を顕にする相手に向かって、どこの三文小説の悪役令嬢だ、というような台詞を長々と吐いている。
正直、レオンがここまで思い詰めているとは思わなかった。大誤算だ。
「妙なことを考えずに、身の程をわきまえて、さっさと」
「あーもう!レオンッ、お前は何を言っているんだよ!?」
このままでは、平民相手とはいえ礼を失するというレベルではない醜態を晒しそうな気配を察し、焦った僕は慌てて店内へと駆け込んだ。
「え?アラン、なんで」
「お前が突っ走って妙なことをしないように付いてきたんだよ」
僕の追跡に全く気がついていなかったらしいレオンが、驚いたように目を丸くする。
まるで小鳥のような仕草が可愛らしいが、やっていることはかなり問題だ。正直恥晒しもいいところである。
「帰るぞ!」
これ以上醜態を晒すことになる前にと、僕はレオンの腕を掴んで外に引きずり出そうとした。しかし。
「嫌だよ!まだ用は済んでいない!」
「お前はここに何しに来たんだよ!姉様が悲しむぞ!?」
「パティスリーに来たのに、何も買わずに帰るわけないだろ!?俺はもう少しやることがある。アランだけ帰れよ!」
「お前は菓子を買いに来たんじゃなくて、喧嘩を売りにきたんだろうが!帰るぞ!」
言い合いをする僕らを、平民の客たちが遠巻きに眺めている。巻き込まれてはかなわないと退店する者も現れはじめた。
「あの、ちょっとすみません。他のお客様のお邪魔なので……ダメか。父さん!お会計代わって!」
目の前で喧嘩をはじめた僕らに眉を顰めていた少年が、諦めたように厨房に向かって叫んだ。それを横目に、僕はさっさとここから立ち去ろうとレオンの腕を掴んでドアに向かうが、レオンもムキになったように全力で反抗した。
「俺はここの菓子を買って帰るから、アランだけ帰れよ!」
「こんなところで流行遅れの菓子を買うより、さっさと家に帰って茶菓子でも食べた方がいいだろ!」
「はぁ!?」
だが、僕の台詞は少年に逆鱗に触れたらしい。売り場で揉めている僕らを面倒くさそうに見ていただけだった少年が、怒りに満ちた声をあげた。
「君たち二人とも表に出なさい!」
「へっ」
「わっ」
凡庸な顔の少年は眉間に深い皺をいくつも刻んで怒鳴りつけた。そして同時に、僕らの首根っこを掴むと、体格に見合わない軽やかさで、ひょいと二人とも店の外に放り出したのだ。そして。
「いっっっ」
「ぐぅ……っ」
僕ら二人の頭に容赦ない拳骨を落とした少年は、眦をつりあげて僕らを叱り飛ばした。
「君たち!どこの誰だか知らないけど、店の中で喧嘩するのはどういう了見なんだい!?他のお客さんに迷惑でしょ!」
ぐうの音も出ない僕らに向かって、顔を怒りに染めた少年は腰に手を当てて、小さくなった僕らを睥睨する。
「それに、僕の店のケーキを楽しみに買いに来てくれてるお客さんの前で、商品のことをバカにするのも許さない!君たちの親御さんはどういう躾をしているんだい!?」
「す、すみません……」
「申し訳ない……」
確かにその通りだ。
親の躾まで疑われたと、レオンは隣でひどく落ち込んでいた。
僕も深く反省した。
平民相手とは言え、あまりにも無配慮で、無礼な行動だった。
いや、この発想自体も失礼極まりないか。
本来、礼儀に身分は関係ないのに。
意気消沈しておとなしくなった僕らの態度に溜飲を下げたのか、少年は呆れた顔で首を振り、ため息をついた。
「まったくもう……これからは、兄弟喧嘩は自分の家でやってちょうだいね!」
「きょうだい……?」
「あれ?違うの?よく似てるからてっきりそうかと」
「あ、いや、……そ、うです」
「よかった」
なんとも言えない気分でレオンと視線を交わしつつ頷けば、少年は先ほどまでの怒りの形相が嘘のようににっこりと笑う。
そして僕らの前に一袋のクッキーを差し出すと、軽やかに告げた。
「はい、これ食べて仲直りしてね。今度はちゃんとお行儀よくお客さんとして来るんだよ」
**×
ぽり……ぽり……
静かにクッキーを噛む音だけが響く。
広場の長椅子の端と端に座り、二人で分け合って食べたクッキーは、チーズの塩気がきいていて、やけに胸に沁みた。
「……思ったよりおいしいな」
「……うん」
店で暴れるただのコドモとして、容赦なく殴りつけられてしまった。衝撃すぎていろいろと頭から飛んだ気がする。
側頭部が未だにガンガンと痛み、鎧なしの頭部にこんなに強く衝撃を受けたことはなかったなとしみじみ思った。
帰ったら医師に見てもらった方が良いかもしれない。
外で見ていた護衛たちも、さぞやギョッとしたことだろう。
「ほらみろ、ただの考えなしの平凡な平民だったじゃないか」
頭をさすりながらボヤけば、レオンはじろりと僕を睨め付けて反論した。
「平凡な平民は貴族だらけの学園で首席にはならないよ」
「……まぁな。でもお前のせいで、僕は初めて人に殴られたよ」
嫌味っぽく嘆く俺にチラリと視線を向けてから、レオンは小さく「悪かった」とつぶやいた。
「で、突撃してみての感想は?」
「……ちょっと、まぁ、悪い人ではなさそうに見えた」
罰が悪そうにポツリと返すレオンに、僕は笑いを噛み殺す。
「そうか」
「俺はまだガキで、人を見る目なんかないから分かんないけどな」
「ははっ」
往生際の悪いレオンの言葉に、今度こそ僕は声をあげて笑ってしまった。僕の笑い声に臍を曲げて、レオンは随分と子供じみた仕草でプイと顔を背けた。
最近はツンとすました態度ばかりだったけれど、そういう態度も嫌いじゃない。
「なぁ、また週末に行ってみるか」
「……そうだね」
僕の言葉にうべなうレオンの言葉を誘いと受け取り、僕は笑みを噛み殺す。
パティスリーデートだ、なんて浮かれたことを思った。
***
「で?どこのお坊ちゃんたちなんです?君たちは」
「え?」
「えっと」
数回目の訪問時にトムに尋ねられた僕らは、互いに目を合わせた。
「いや、まぁ……」
「やっぱり気になりますか?」
「気になりますよ、そりゃ」
聞かれたくないなぁという気配を醸し出しつつ尋ね返せば、トムは当然というように頷いた。
「そんな高そうな服を着て、うちのクッキーをぼりぼり齧ってる変わり者兄弟。面白すぎるでしょ」
店内のテーブルに行気よく座った僕らにいつもの紅茶を配膳してくれながら、トムは笑い混じりに肩をすくめる。
「で、どこのお貴族様のお家のお坊ちゃん?」
からかうように尋ねるトムに、僕らはもう一度目を見合わせてから、しぶしぶ名乗った。
トムは名字に「聞いたことがあるなぁ」と首を傾げた。察しの悪い様子に、僕はため息混じりで「あなたの友人の、マリアの弟だ」と名乗った。
「あぁ、なるほど!君たちはお姉さんの友人の僕を偵察に来たのか!」
「……まぁ、そうです」
「あはは!お姉さん思いですねぇ」
得心顔のトムはけらけらとおかしそうに笑い飛ばすと、僕らが食べ終わった皿を勝手に回収する。
「さて、食べ終わったなら席を譲って下さいね。他のお客さんたちも待ってますから」
「……はーい」
「ご馳走様でした……」
普段は急かされることなどないが、この店ではこの店のルールに従うしかない。
不承不承で席を立つ僕らに、トムは「子供だなぁ」と呟いて、クスクスと笑いながら紙袋を差し出す。
「はい、これどーぞ。お土産のチーズクッキーですよ。マリアも好物と言ってくれたんで、よければお稽古の合間にでも食べてくださいね」
***
それからも、トムを挟んで、もしくはトムを理由にして、僕はレオンと出かけた。楽しかった。
けれど、ただひとつ。
レオンがトムに向ける親しげな視線が、僕はどうしても嫌だった。
「レオンもなんだかんだ言って、元平民だもんな。やっぱり、平民同士、話が合うのか?」
ある日の帰り道。
レオンが平民時代の話でトムと盛り上がっていたのが面白くなくて、僕はつい皮肉って揶揄してしまった。
「そういう言い方やめろ、トムにも失礼だろ」
柳眉を逆立てて怒るレオンに、僕はますます不愉快さが募る。
だから、つい口が滑った。
「トムの前で年下ぶって、猫を被って……好かれようと必死だな。籠絡されてるのは姉様じゃなくて、お前の方じゃないのか?」
「なっ!?どういう意味だよ、おいっ」
あぁ、ダメだ。
そう思うのに、僕の口は勝手に侮蔑を紡ぐ。
「平民の血を引くお前には、平民がお似合いなのかもしれないな」
「……ア、ラン……」
血の気をなくしたレオンの顔を見て、僕は取り返しのつかない失敗をしたことを悟った。
「で?今日はレオン様は?」
レオンと喧嘩した翌週末、初めて一人でトムの店を訪れると、トムは驚いたようにヒョイと片眉を上げて首を傾げた。
「たまには別行動するさ!」
ムッとした僕が刺々しく吐き捨てると、さもおかしそうに口元を綻ばせる。
「へぇ?……いつもべったり一緒だったのに?」
「うるさいぞ!」
明らかに面白がっているトムの様子にカチンと来て、僕はいつものチーズクッキーをありったけ買い占めた。
「これ全部貰っていくから!」
「はいはい、毎度ありがとうございます。……アラン様の方がレオン様にくっついてたくせにねぇ、臍曲げちゃって」
「な!?そんなことないっ」
「そうかなぁ」
ボソリと呟かれた呆れまじりの言葉に、僕はカッとなって言い返す。しかし僕の怒りにも、トムは平然とした顔で淡々と返すだけだ。
「レオン様が僕と話してると、いつも面白くなさそうな顔で、じとぉっと僕を睨んでいたくせに。レオン様が一人で来るのが嫌でついてきていたんでしょ?」
「っ、ち、ちが!」
我ながら、もはやその通りだと言っているような慌てぶりの僕に、トムは笑いを噛み殺して首を傾げた。
「仲良くしたいなら、そう言えばいいのに」
「……アイツと仲良くなんか、したくない」
「へぇー?」
にやりと唇を歪めて、トムは目をすがめて僕を見る。全てを見透かすような透明な瞳に、ぎくりと体が強張った。
「あんなに熱い眼差しで、レオン様を見つめているくせに?」
「えっな、あつ、え!?」
突然胸の奥を突き刺してくるような台詞に、僕は咄嗟に否定することすらできなかった。
「あはははっ、本当にすごい慌て方ですね」
「な、と、トム!?」
ケラケラと大爆笑するトムは、キョロキョロと周りを見渡して店内に他の客がいないことを確認している僕を微笑ましそうに見つめながら、ヒョイと肩をすくめた。
「大丈夫ですよ、誰にも言ってません」
「あ……そ、そうか」
「でも多分、レオン様は気づいてますよ」
「ええっ」
一瞬安心した後にとんだ問題発言をされて、僕はまた慌てる。そんな僕の情けない様子を、トムは微笑ましいと言わんばかりの、年上ぶった顔で見守っていた。
「アラン様ってば、そんなに分かりやすいくせに。あの観察眼の鋭い方に、誤魔化せていると思ってたんですか?」
「うぅ……」
そうか、僕はわかりやすいのか。
初めて知った事実に落ち込みながら、僕は手渡されたクッキーの袋を抱きしめた。甘い匂いが少しだけ心を慰めてくれる。
「で、なんで喧嘩したんですか?」
「……僕が、失礼なことを言ったんだ」
「ふぅん、どんな?」
「いや、その……レオンは元平民だから、平民のトムと話が合うんだろ、って」
ぽつりぽつりと語る僕の言葉を、トムは茶化すこともなく穏やかに聞いていた。
「レオンにもトムにも失礼だし、僕の品性のなさと愚かさを露呈しているよ。本当に恥ずかしい」
「あはは」
でも、なんで僕はあんな言い方をしてしまったのだろう。
そう呟く僕に、トムはクスクスと笑ってあっさりと答えを告げた。
「なぁんだ。やっぱり嫉妬してたんですね、僕に」
トムに、嫉妬。
それは、つまり。
「さっさと謝ってらっしゃいませ。僕よりトムと仲良くしたから面白くなかったんだ、レオンは僕と一番に仲良くしてよーって」
「なっ、そんな幼児のような!?」
自覚したくないと逃げ回っていた気持ちを、まるでなんてことのないコドモの癇癪のように言語化されて、僕は顔を顰めた。
しかしトムは呆れ顔で肩をすくめるだけだ。
「そんなものでしょう、あなたの情操レベルは」
「えええっ」
さすがにそんなことはない、と言い返すも、トムはちっとも聞いてくれなかった。
「さ、はやく帰って仲直りしてくださいな。次はおてて繋いでいらっしゃいませ」
「……だから、子供扱いするなと言ってるのに」
負け惜しみのように言い返して、僕は渋々ながら踵を返す。
レオンになんと言おうか悩みながら、帰路にをトボトボと歩いたのだった。
ちょっと急ぎ足ですが、書けるうちに書けるだけ書き進めます!




