★狂おしい衝動に身を委ね【兄5】
それからも、なぜかトムはよく私と殿下が拗れかけている場面に現れた。
そして私や殿下をおかしそうに見ては、私たちの関係を軽やかに肯定するのだ。
次第に私は、殿下とうまくいかなくなるたびに、トムに意見を求めるようになった。彼の言葉は私の心を大層軽くしたし、その助言を聞き入れて行動するたびに、殿下との距離は確実に縮まったからだ。
しばらくすると、私はすっかりトムに頼りきるようになっていた。
「先輩も、失敗するんですねぇ」
「しょっちゅうだよ」
今日もまた、些細な諍いから殿下に距離を置かれてしまい落ち込んだ私は、トムに慰められている。
トムはさもおかしそうに笑って、上目遣いに私を見上げた。
「殿下絡みだと特に?」
「嫌味な言い方だなぁ」
軽く肩を小突くと、トムが大袈裟によろける。こんな、まるで平民のような戯れじみたやりとりも、トムが教えてくれたものだ。
時折、殿下と二人だけの時は、互いにトム流のやり方で戯れ合うこともある。非貴族的な、距離の近いやりとりは、私たちには新鮮で愉快だったのだ。
まぁ、今はすっかり、よそよそしくされてしまっているのだが。
そう思い出し、私は重いため息を吐く。気落ちしている私に、トムはくすくすと笑いながら言葉をかけた。
「ふふ、仕方ないですよ。……大切なのでしょう?」
「……あぁ。誰よりも」
どうでもいい相手ならば適切な言動を選択するのは難しくないのに、相手が大切だからこそ失敗してしまうのだ。
それは、人を愛すれば当たり前のことだ。
ずっと根気強くそう教えて続けてくれたトムに、私は素直に本心を吐露していた。
「それは、マリアよりも?」
「…………さぁね」
いつもよりも一歩踏み込んだ問いかけをしてきたトムに、かすかに動揺する。私は誤魔化すように小さく笑って、そっと俯いた。
そんな、どうにもならないことを言われても困る。
私の心を掻き乱さないでくれ。
「ねぇ、先輩」
だが、これ以上言わないでくれ、という願いとは裏腹に、トムは真剣な顔で私を見上げた。
「良いんですか?このままで」
「……何が?」
「先輩!」
視線を逸らして誤魔化そうとしても、トムは私の肩を両手で掴んで、許さなかった。二つの強い目が、まっすぐに私を射抜いてくる。
「先輩の愛する人が、先輩の妹と結婚することになるんですよ?耐えられるんですか?」
「そう決まっているからな。どうにもならないよ」
すべてを否定しない私に、トムはあからさまに眉を顰めた。
「諦めるんですか?」
「仕方ない。……殿下だって、そんなこと望んでいないさ」
「おや?受け入れてもらえないのが怖くて、告げられないんですか?」
「いや、そうではなくて……」
苦笑いしながら説明しようとしたら、トムは静かな目で首を傾げた。
「殿下が王位を継ぐためには、侯爵家との結びつきは不可欠。だから殿下とマリアとの結婚は絶対だし、よしんばマリアと結婚しなかったとしても、王となるならば子を残すことも必要だから他の妃を娶ることになる……って言いたいのですか?」
「そうだ。分かってるなら言わなくても良いじゃないか」
さすが史上初の平民学年首席殿は理解が早い。そう笑ってみせても、トムは真顔を崩さない。
「でも殿下は、マリアと結婚して地盤を固め、このまま王位を継ぐことを、望んでらっしゃるのですか?」
「え?」
殿下の望み?
そんな視点で考えたことがなかった私は戸惑った。
「だが、それが殿下の歩む道だ。王太子として生まれた殿下の義務でもある」
自身を言い聞かせるように呟いた。私はこれまでそう信じて疑っていなかったのだ。
「愛は一人では成せない。私がこの想いを飲み込めばいい話だ」
それが出来るのかが問題なのだが、と自嘲する私に、トムは眉を顰めて口を開いた。
「でも、聞いてもいないのに、殿下の本心など分からないじゃないですか。もしかしたら、先輩と同じように、叶わぬ恋に悶え、満たされぬ愛に焦がれているかも知れない」
「それは、ありえないよ」
私の悩みを日々聞かされているトムだからこその台詞だ。私は日々、殿下への想いに悶え苦しんでいる。けれど、殿下がそう思うことなどありえないのだ。
「なぜそう言い切れるのですか?」
「殿下は愛を、……いや、おそらくはそういった一般的な感情を理解していらっしゃらないようだから」
「……どういう意味ですか?」
訝しげに問い返すトムに、私はここ数年考えてきたことを初めて口にした。
「王族として、感情をコントロールすることを己に強いてきたからか、殿下は酷く自身の感情……心に疎い。普通の人間の感情というものが分からないと、以前仰っていたことがある。自分は知らないから教えてくれ、と」
「感情を、知らない?」
「あぁ、でも王族として、いや、王として生きていくのであれば、きっとその方が望ましい」
殿下のためだと言い聞かせて、胸の底で吠え続ける欲深くて諦めの悪い魔獣を抑えつける。
これから先、この心が耐えられる限り、己の中の獣を私は渾身の力で捩じ伏せ続けるのだ。
「教えてくれと、言われているのに?」
「知る必要のない感情だろう?愛や恋、それに付随する欲望や衝動など、殿下にとって不要な……いや、有害な感情だ」
厳しい言葉で断じて、私は肺の中の空気を全て吐き出すように、長く息を吐いた。
「どうせ感情のままに振る舞うことなど出来ないのだから、な」
「……ふふっ」
諦念と哀愁の中で俯き、私はため息と共に吐き出す。しかし、トムは何もかも見通すような不思議な目をして笑った。
「じゃあ、もしも恋を知った殿下ご本人が望まれたとしたら?……先輩はどうするのですか」
「それは……」
もし殿下が私を求めたとしたら?
そんな、夢のようなことがあったとしたら。
私は全てを捨てても、いや、この世の全てを壊して構わないと思うだろう。
「……私は、どうすれば良いと言うんだ」
悪魔の囁きに乗ったような心地で、私は平凡な少年に目を向ける。
「簡単な話ですよ。教えてしまえばいい。殿下に『あなたを愛してる』と伝えれば良いのです」
「……それ、だけか?」
「ええ」
トムは涼やかな顔で、自信満々に言い切る。
「愛を理解出来ない人とは、きっと同時に、愛に飢えている人でしょう」
まるで神秘の巫女が告げる託宣のように、トムの言葉は耳からじわじわと体に染み渡る。
「であれば、あなたの愛の全てを注いで、教え込んであげれば良いのです。あなたがその人を押し潰すかも知れないと怯えるほどの愛を。壊してしまうのではないかと恐れながらも、壊してしまいたいと願っている本音を。全てぶつけてご覧なさいませ」
これまで必死に押し隠し、心の奥底に封じ込めていたものを全て曝け出せと、トムは目を細めて微笑う。聖母のような、慈愛の笑みで。
「己の心が、いや、心というものが分からないという人に、あなたが己の心を晒して見せなさい。これが心だと、感情の激動だと、示してあげれば良いのです」
トムは、これまでの私の懊悩の全てを笑い飛ばして、にっこりと太鼓判をおす。
「大丈夫、殿下も心の奥底の、ご本人すら気づいていない深層心理で、先輩に焦がれていらっしゃいます。……先輩も本当は気がついているのでしょう?あなたにだけ向けられる特別な眼差し、激情の芽吹きに」
「……そ、んな」
私がこれまで己の希望が見せる幻だと、妄想だと切り捨てていた考えを、なぜかトムは拾い上げて、力強く断言する。私の妄想が、真実だと。
「きっと、全てがうまくいきますよ」
成功を確信できてしまう、やけに説得力のある声。トムの言葉を聞いているだけで、力が湧いてくるようだった。
「君はまるで、占い師か予言者のようだ」
「ふふ、そう思ってくださっても構いません。大丈夫、あなたたちは、結ばれる星の下にうまれていますから」
トムの言葉に背中を押されて、私はふらふらと歩き出す。
本当だろうか?
だが、もしも、本当にそうだとしたら。
夢見るような心地で、私はそんな未来を思い描く。
もしもそんな日が来るのであれば、私はこの世の全てを……いや、来世を超えた永遠の未来すら、捨ててしまえるだろう。




