★醜悪な欲望を押し隠し【兄3】
私は時折、悪魔に負けた。
「なっ、きゃぁっ!?」
「っ、マリア!?」
「おや、どうしたんだい?」
床に倒れた殿下に覆い被さっている私を見て、たまたま通りかかったマリアが小さな悲鳴をあげる。
慌てる殿下をよそに、芳しい体に密接したままゆっくりと振りかえれば、青い顔のマリアが私に問いかけた。
「お、お兄様、と殿下?お二人こそ、ど、どうなさったのです?」
真顔の私が纏う空気に怯えているのか、マリアは震えながら、しかし気丈にも私たちを嗜める言葉を続けた。
「け、喧嘩をなさっては、いけませんわ」
「喧嘩?ふふ……ちょっと上の棚から古い本を出そうとしたら、脚立が壊れてね。二人で転んでしまっただけだ」
壊れかけている脚立を使ったのはわざとだし、崩れたついでに偶然のフリをして殿下を押し倒していた……なんて言えるわけもない。
殿下だって驚きが勝ったのか、抵抗もしなかったけれど、私がしたのは立派な王族への傷害行為であり、不敬行為である。下手をしたら処刑されかねない。
「大丈夫、ちょっとした事故さ。喧嘩などしていないよ」
顔を赤くしたり青くしたりしている妹を安心させるために笑えば、やっと妹は安堵したように表情を緩めた。
「あぁ、そうでしたの!仲違いされたのではなくて、良うございました」
思慮深いマリアのことだ、先ほどはあえて喧嘩という軽い言葉を使っていたのだろう。
もし私が故意に殿下を押さえ込んでいたのだとしても、後で言い訳ができるように、と。
「お兄様が殿下を襲っているのかと思って、驚きましたわ」
「襲っ……違う、大丈夫だよ」
マリアの言う「襲う」は性的な意味を持たないものだった。けれど、殿下はかすかに頬を染めて、慌てたように否定する。その反応に、私は妄想を掻き立てられ、ごくりと唾を飲んだ。
「お兄様は殿下を守ってらしたのね。丸っ切り反対でしたわ」
「……もちろん、そうだよ」
私と目を合わせようとしない殿下を横目に、私はコロコロと無邪気に笑う素直な妹に、うっすらと笑みを返した。
「私にとって殿下は、この上なく大切なお方だからね」
私の言葉は嘘ではないけれど、本当でもない。
私は己の手で、殿下を傷つけたくて仕方ないのだから。
「……殿下」
夜、寝室に一人になれば、いつだって私の瞼の裏には、至上の人のあられもない姿が浮かぶのだ。
「……私の、殿下」
なぜか時折自信のない言葉を溢し、私を無邪気に頼ってくるあの人を、あのどこまで綺麗な人を、この手で汚してしまいたい。
「あぁ、殿下……」
私は嫌味なほどに高鳴る己の心臓の音から意識を逸らし、右手で胸元を強く握りしめた。
「いつまで、もつだろうか」
我が国の気高い純白の百合を、我がものにしてしまいたいというおぞましい渇望。
純粋で強烈なその衝動を、殿下のすぐそばにありながら抑え込むのは困難を極めた。
「いつ、私は、……私の中の悪魔に負けるのだろうか」
コレに負けた日、きっと私は殿下と築き上げた信頼を、そして王家と侯爵家の関係をも破壊してしまうのだろう。
いつか来るその日を、私は恐れていた。
「カール、いい加減にしろ!」
「殿下の御為です」
次第にエスカレートした私が、過剰に殿下の人間関係を制御し、管理しようとし始めた頃。
殿下は苛立ち、時折私を激しく叱責した。
「お前は陛下から、私の代わりに近づいてくる人間の選別をしろと頼まれているのか?」
「いえ、まさか」
私が請け負っているのは、学友として学園内で殿下がつつがなく過ごすための手配のみ。
拡大解釈すれば、そう解釈できないこともないが、陛下にその意図はないだろう。
勝手に王命を作り出すほど、私は愚かではない。
「私の判断です」
「なぜお前が?私が己の目と耳で、判断すれば良いだろう」
「ですが……彼らは良くありません」
今回私が排除したのは、よからぬ心を抱いて殿下に近寄ってきた輩だ。
中でも、好色そうな目をしていた他国生まれの上級生は、絶対に良くない。
アレは、私と同種の感情を殿下に抱いている。
「彼らも国民だ」
「……あなたを利用しようと近づいてくる者の声など、聞く必要はありません」
私の危機感や焦燥をよそに、殿下は澄み切った目で言い切ってしまう。
「国王など、国民から利用されてこそだろう」
「ははっ、随分と強気ではありませんか」
思わず失笑が漏れる。
あまりにも己に対して他人事の殿下に、焦燥を超えた怒りが募った。
「狡猾で残虐な奴らを、うまく相手できるんですか?あなたのように、人の醜さを知らないお方が」
屑にも劣る人間たちが殿下を利用するなど、そんな悍ましい事態はあり得てはならない。
この高潔な人が、醜悪な人間の欲望の餌食になるなど耐えられないのだ。
私は苦々しい思いで吐き捨てたが、私の言葉は尚更殿下の怒りを煽るだけだった。
「お前だって、私とそう年は変わらないだろう!お前に出来ることが、なぜ私には無理だと言い切る!」
「あなたがもう少し汚れていれば、それも可能だったかもしれませんね。けれど無理ですよ」
焦れたように怒りを叩きつける殿下に、私は薄く笑った。
なぜ私には出来るのか、と?
簡単な話だ。
私が奴らと同類だからだ。
そう思いつつ、私はため息混じりに告げた。
「あなたは汚れなさすぎる」
「……私を、物を知らぬ愚か者だと言いたいか。見る目がない無能だと罵りたいのか」
「え?いえ、違います、そんな」
私の意図とは違う受け取り方をしたらしい殿下に、私は慌てた。
こちらを見る殿下の目は、昂る感情のためか潤み、キラキラと輝いている。殿下自身の美しさを表すようなその煌めきに、私は場違いなことにうっかり見惚れてしまった。
「お前は私を守ろうとしている。それは私にとって、大きな屈辱だ」
「殿下……」
掠れ声で呟かれた言葉が、私の胸を突き刺した。
私の言動が殿下を傷つけてしまったのだと、焦った時にはもう遅かった。
「殿下、違うのです!お待ちを」
「もう、いい。分かった」
明確な拒絶の言葉に、引き留めようと持ち上げた手が、力なく落ちる。
「対等の友人だと思っていたのは、……私だけだったようだな」
悲しげな言葉を落として、殿下は振り返ることなく私の元を去った。
裏庭には、項垂れた惨めな男が一人、残された。




