★死んだ恋人との抱擁【叔父5】
「美しいままのあなたの前で、醜く衰えた姿を晒したくはありませんでした」
掠れた声で告げられた言葉の思いがけなさに、私は目を見開いた。そして喘ぐように呼吸しながら、とぎれとぎれの心を吐き出す。
「けれど……僕は、嬉しいんだ」
「え?」
「ずっと神を、運命を恨んでいた。自分が引き起こした事態なのに、八つ当たりのように全てを憎んで生きてきた。けれど君が生きていると知って、僕は初めて神に感謝したんだよ」
立ち上がったままのアンドリューの前に向かい、そして地面に膝をつく。
「生きていてよかったと、心底思ったんだ」
まるで神の像に祈るかのように、アンドリューの手をとって額に押し付けた。
「ありがとう、僕のリュー。生きてきてくれて、生きていてくれてありがとう」
「あ、ぁ、そんな、あなたが涙を流すなんて」
「はは、ごめん。いい歳をして情けないな」
アンドリューが慌てたように懐からハンカチを取り出して、私の頬を拭う。私は優しい手つきが水滴を吸い取るたびに、じんわりとした幸福感に包まれた。うっとりと目を閉じ、そして噛み締めるようにつぶやいた。
「嬉しくて仕方ないんだ。幸せすぎて涙が出るなんて、思わなかったよ」
私の独白に、アンドリューは無言を返す。けれどその沈黙は、先ほどのような苦しいものではなかった。
「……ねぇ、アンドリュー」
私は目を開き、すぐ近くの愛おしい人をまっすぐに見つめた。
「もう一度、君を愛するチャンスをくれないか?」
「……いけません。あなたの名誉をこれ以上傷つけられません」
アンドリューは顔を歪めて、苦しげに胸を押さえる。
「あなたの噂は市中でも聞いておりました。公爵家からの出戻り息子と揶揄されているのをみて、どれほど私が心を痛め、己を責めたか」
「君のせいじゃない。貴族として、政略結婚の義務すらまともに果たせなかった、愚かな僕が悪いんだ」
私は妻を愛するという、夫としての最低限の務めも全うできずに追い出された。それだけのことだ。
「どうしても君以外を愛することが出来なかった。それならば大人しく、妹のように家など捨てて仕舞えばよかったのに、私にはその思い切りもなかった」
全ては私の若さゆえの臆病さと、立場を弁えない愚かさが招いた事態なのだ。アンドリューの責ではない。
「愛しているんだ。この世の何よりも誰よりも、私は君を求めている」
切々と愛を訴える私に、アンドリューは涙に潤む眼で私を見つめた。
「もはや私の戸籍はなく、今の私は「ルーク」でしかありえません。そして、私は、ここに居場所を見つけてしまったのです。教え子の子供達を置いていくことはできません」
「あぁ、知っているよ」
ゆるやかに求めを拒むかのような言葉は、しかし先ほどとは違って私自身を拒んではいないようだった。
私は柔らかく口元を綻ばせ、首を傾げてアンドリューを見上げた。
「今の君の、ルークの生活に、私が足を踏み入れることは許されないのだろうか」
「なにをばかな……こんな、場末の教会に、侯爵家の方が」
「こんな場末の教会から、今の学年主席が出ているのだ。素晴らしい教育施設じゃないか」
おどけて言えば、嗚咽を飲み込むようにアンドリューの喉がこくりと動く。
震える睫毛からは今にも水滴がこぼれ落ちそうだった。その美しさに思わず私は手を伸ばし、指先でそっと雫を払った
「君自身の心を教えてくれ、アンドリュー。いや、私の永遠の恋人、リュー……君は、もう私を欠片も愛していない?いや、愛していなくても構わない。君が私を憎み、疎んでいないのならば、私にもう一度、愛のチャンスをくれないだろうか?」
「っ、私も……ッ」
情けなく言葉を連ねて愛を乞う私に、アンドリューはぐしゃりと顔を歪めて呻いた。
「私、も、あなたを忘れた日はありませんでした。……ずっと、ずっとあなたの幸せを、我々の罪の赦しを、神に請うて生きてきたのです」
「あぁ、リュー!」
思わず立ち上がり、私より華奢な体を力いっぱい抱きしめる。
感極まった私は、己を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐いた。
滲む視界の中では、アンドリューもポロポロと涙をこぼしながら私を見つめている。
涼やかな秋空のような瞳の美しさは、昔と同じだった。
「私が時おり会いに来ることを、許してもらえるかな?」
「っ、はい。いつでも、お待ちしております」
涙声で返された肯定と、彼の柔らかな頬の曲線を伝う涙に、私の声も震えた。
「……ありがとう」
優しく頬に手を添えて、そっと唇を寄せる。
神の御前で交わす口付けは、静謐な涙の味がした。




