★歪んだ心に空いた風穴【義弟2】
侯爵家に引き取られてからも、俺はしばしば嘘を重ねた。
俺の嘘の大部分は、両親のことだった。
俺は、両親は貧しくとも善良で、優しく朗らかで、笑顔の絶えない人だったと語った。
教育は経済的な問題で、教会で教えてもらう読み書きが精一杯だったけれど、庶民の忙しない日々の中でも十分に愛されていたのだと嘯いた。
真実を伝えなかった理由はただ一つ、メリットがないからだ。
母から暴力を受けていたことを告げても、一時の同情が得られるだけ。
俺は、不仲の機能不全家庭で育った乱暴者の放置子として、危険人物の烙印を押されるだろう。育ちが悪く、何をするかわからない、恐ろしい子供だ、と。
この幸せな家庭で受け入れられるためには、『貧しくても仲良く幸福な家庭で育った子供』の方が受けが良いだろうと判断したのだ。
両親に大事にされていた子ならば大事にしようと思うかもしれないが、親からすらもゴミとして扱われていた子供を人間として扱おうとはしないだろう。人間というのは、そういうものだから。
俺の嘘に、だいたいの人間は騙されてくれた。
彼らは基本的に善人であったが、侯爵家の末娘の息子である俺にしか、興味がなかったから。
もし俺が多少誇張していることに気がついていたとしても、亡くした両親の記憶を美化することにとやかく言うほど狭量な人間たちではない。目を細めて、受け流してくれたのだろう。
けれど。
「おい、嘘つき」
一人だけ、誤魔化されずに、俺の本心を言い当てた人間がいた。
「お前、自分の母親……叔母上のこと嫌いだろう?」
「……え?」
なんで、バレた?
俺はまずそう思い、すぐに訂正出来なかった己の失態に血の気が引いた。
しかし俺が言い繕う前に、目の前の少年は確信を持っているように、冷めた顔で続けたのだ。
「叔母上の肖像画を見てる時の目、めちゃくちゃ冷たいぞ。……気づかれたくないなら、もっと上手く隠せよ」
「っ、な」
咄嗟に右手で目を隠す。母には似ていない、アイスブルーの瞳を。
「ははっ、わかりやすいな。……この家に入るということは、貴族になるということだ。まだ子供とはいえ、もう少し顔色を読まれないように気をつけろ」
俺を馬鹿にしたように吐き捨てて、少年は肩をすくめた。そして、何もかも分かっているかのような顔をして俺に質問を、いや、確認をした。
「お前、自分の感情を、父上に知られたくないんだろ?あの人は、叔母上を溺愛していたらしいからな」
「……へぇ、そうなんだ。知らなかったよ」
なんとか平静を装って返事をしたが、正直彼の言う通りだ。
最初から伯父が口にするのは母のことばかりで、母がどんな日々を暮らしたのか、幸福であったのかを、とても知りたがった。
もし伯父が、母は不幸だったと知れば、どうするのだろうか?
そう考えると、指先からどんどんと冷たくなる。
なにせ俺は母の不幸の象徴だ。
そして、不幸の元凶である男……父の血を引く『俺』を、あの身内にひどく優しくて、そして大層貴族的な冷たい目をした男は、どう扱うのだろうか?
思わず顔を青ざめさせ、ぶるりと震えた俺から、少年は呆れたようにハァ、と小さくため息をついて顔を背けた。
「まぁ、せいぜいうまく隠せ。ああ見えて父上は、見たいものしか見ない、鈍いおひとだからな。……俯いていれば、気づかれないさ」
「……わかった」
短い返事しかできない俺に、もう興味は失せたかのように、少年は来た時と同じように唐突に去って行った。
「……俯いていれば、か」
随分と嫌味な言い方だったけれど、俺の本心を見抜き、守ってくれたのは。
「お前の方が年下のくせに」
同じ歳の義弟、アランだった。
***
アランは俺と同じ歳で、三ヶ月だけ年下だった。俺が母親に育児放棄されて始めていた頃、アランはきっと家族全員から愛を持って迎えられ、大事に育てられてきたのだろう。
口は悪かったけれど、アランは本質的に善良だった。俺が侯爵家の人々の前で猫を被っていることを察していても、素知らぬふりを貫いてくれた。
そして、どうして俺の本心を見抜いたのかと尋ねれば、なんでもないことのように、「目の高さが同じだからさ」と答えた。
「目は心の鏡だからな。お前の目がよく見えたから、父上たちよりもお前の本心に気が付きやすかった。それだけさ」
と。
同じ年齢にも関わらず、アランの観察眼には驚かされるばかりだった。
侯爵家の彼らが聞きたい過去を、求められるたびに俺は話していた。平然と嘘を重ねる俺を、アランはいつも冷笑を浮かべて横目に眺めていたが、彼の態度は反抗期の少年特有のものとして、家族には認識されていたらしいかった。
侯爵家の人たちは、実に人格者であった。
義母は穏やかで温和な女性で、義兄は非常に誠実で厳格な性格だった。
彼らは俺を冷遇することも、かといって過度に干渉することもなく、非常に適切な距離で接してくれた。貴族としてはありえないような失敗をしても、平民として生きてきたのだから当然だと理不尽な怒りを向けたりもせず、忍耐強く向き合ってくれて本当に感謝している。
そして新しい家族の中でも、特に義姉は優しかった。
「ご両親が亡くなって辛いでしょう?どうか無理だけはしないで。苦しいのに笑わないで」
侯爵家と彼らの生活に馴染もうと必死な俺を心配し、抱きしめてくれた。俺は、母にもほとんど抱きしめられた記憶がない。両親が死んだ後で隣の婆さんや孤児院の老いた修道女が与えてくれた抱擁が俺の数少ない記憶だった。
義姉の抱擁はそのどちらとも違う、温かくて柔らかく、そして良い香りのするものだった。柔らかな肌触りの衣服、ほっそりとした体、香りの良い滑らかな髪、硬くない真っ白な掌。なるほど、これが貴族の女性か、と思った。
「お父様とお母様が亡くなって、急に家族を名乗る私たちが現れて、さぞや驚いたことでしょう?まだ受け入れられなくても大丈夫、当然のことよ。ゆっくり私たちと家族になってくれたら嬉しいわ」
優しく微笑み、いつも気にかけ、多少の粗相にも寛容に接してくれた。下層の平民から貴族の一員になってしまった俺の大変さを慮り、気を遣って過ごす俺の苦労を思いやり、そして家族として受け入れようとしてくれた。
「あなたが幸せであることが、家族である私たちの願いなのよ」
「……ありがとうございます、姉様」
けれど俺には、義姉の持てる者ゆえの優しさが、無性に苦しくもあった。
母も、もしこの家で暮らし続けていたら、義姉のように穏やかで優しく、慈悲深い令嬢として賞賛されていたのかもしれないと思ってしまったのだ。
母の若き日の肖像画は、顔立ちだけならば義姉にとてもよく似ていたから。
そんな環境だったから、俺に対して嫌悪を向けるわけでもなく、ただ、常に冷めた目を向けてくる義弟のアランは、侯爵家の中では少し変わっていた。
もしかしたら彼だけが俺の本心を、そして本質を見抜いていたのかもしれない。
俺はいつも少しだけ線を引いていた。
本当の家族ではないから、と。
家も身分も義務も投げ捨てた貴族令嬢と、主家のお嬢様をたぶらかした卑しい平民の息子。
それが俺だ。
流れる血だけは、どうしたって変えることはできない。
そして俺は、あの二人の血を引く自分をどうしても信用できなかった。
だから俺は、いつかはこの家を出ていこうと心に決めていた。
俺に流れる穢れた血が、彼らに悲しみを呼ぶ前に。