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オールドボーイ・オールドガール   作者: 田島 ごう
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~鶴は千年、亀は万年~

オールドボーイ・オールドガール ~鶴は千年、亀は万年~


作者:田島ごう

オールドボーイ・オールドガール


~鶴は千年、亀は万年~






第1話 訪問者ビギナー午前8時 申し送り




第2話 対立バトルズ 午前10時 トイレ




第3話 てんやわんや(ゴーアンドバック)正午 食事




第4話 穏やかな午後スイートアフタヌーン午後2時 入浴




第5話 恋する心ハートビート午後4時 レクレーション




第6話 出会いと別れ(ハローアンドグッドバイ) 午後6時 就寝




第7話 仲間たち(バディズ)午後8時 巡視




第8話 旅立ち(フォオザフューチャー)午後10時 業務終了






 第1話 訪問者ビギナー午前8時 申し送り




今日という一日が、僕にとって生涯で忘れられない特別な日になるとは想いもしない。僕の気持ちは少し落ち込んでいる。疲れている。移動中、電車の中から窓越しに眺める景色は、晴れ渡る炎天下、市街地を抜ける私鉄が高架線路を南に走る。その先に小高い丘を超えると、前方に広がる海沿いの大きな公園がある。公園の入り口に面した”駅前公園前駅”と云う、早口言葉のような名前の駅で降りる。その駅は大きな公園が隣接しており、名前が駅前公園だから。駅が先なのか、公園が先なのか・・・。まだ完成したてのペンキ臭い匂いがし、ホームの湿っぽい閑散とした雰囲気の中、過ぎ去った電車の後に鳴り響く盲導鈴の音。


「キーンコーン、キーンコーン」


独り取り残されたようで、妬けに寂しく感じるのは、降りたのが僕以外誰もいないからか。二階にあるホームから中央の広い階段を降りると、正面にある一階の改札を抜けて直ぐ右に曲がり、駅と交差する道路沿いを道なりに暫く歩く。季節は夏の盛り、朝の日差しは既に気温三十度を越し、進み行く並木道。先ほどまでのジメジメした空気から一変、照り付ける太陽が周囲を煮えたぎらせる。背後から追ってくる車からの風が、辺りの熱気をまき散らす。全身に纏わりつくようで足下が重い。気が付くと、目的地の建物に着いている。


「何故か嫌な予感がする」


胸騒ぎがする。 当時、派遣として働いていた工場を退職したばかりで、仕事はきつかった。給与は悪くなかったので長く勤めていたが、不景気と経営刷新を理由に人員整理の対象になった。つまりクビである。いきなりの通告。それからは、明日の生活を維持するための職探し。偶然見つけたのが、介護職の仕事だ。御時世か、求人誌にやたら羅列されている。まさか、介護の仕事をするなんて、考えてもいない。お年寄りは家でお茶飲みながら、孫と遊ぶ。そういうイメージでしかない。とうに子供を過ぎた年に、おじいちゃんおばあちゃんと関わるなんて想像もできない。いわゆる選択の余地なしと言うこと。オマケに、電話をするといきなり、とりあえず面接だけでその日から即採用するという具合で、こちらからの就業条件やその他希望も、何も聞かずにだ。連絡先に問い合わせしただけ、履歴書の送付や試験もない、お互い顔も見ずに声だけで済んでしまう。まあ、こんなクソ暑い時期だし、面倒なことがなくなるのは嬉しいけど、拍子抜けしたと言うか、あっという間な感じだ。そしてその日が始まる。特別暑くて長く、短い一日が。訪れた施設の玄関口で小さな吸殻入れを片手に持ちながら、タバコを吸う男が立っている。いやタバコを吸いながら、燦々と照り付ける陽射しを受けながら、苦々しい顔をしながら、イライラしながら、ながらながらの印象の何だか忙しそうな、関係者と思しき男性が僕をわざわざ出迎えてくれる。歓迎されているのか、多分違うが。目が合うといきなり


「若いな。あんた、新人?」


その男は怪しげに返してくる。確かにその日の格好は、リクルートスーツに身を包んだ何処かの新入社員らしき姿ではあったが、特別に白衣や制服を身に着けているわけでもなく、着ていたスーツも上着を片手に脱いで抱え、汗だくのシャツによれたネクタイだ。


「そう言えば、事前に伝えたのは、名前と年齢、性別ぐらいで、とにかく直ぐに来てくれとだけだったよなあ。」


そんな独り言を呟いている自分の腕を掴み


「いいから、ちょっと来い」


そんな具合に、建物の中に連れて行かれる。いや連行だ。玄関を入ると正面には大きな油絵が飾ってある。特別に絵画に詳しいわけではないが、大した絵には見えない。それよりも、その大したことのない絵の額縁が、いかにも高価な黄金色に輝いているのが笑える。 導かれるままに長い廊下を突き当たる先の扉を開けると、広いフロアを囲むように椅子が並べられていて、全ての椅子に座る者の視線が、開いた扉の方に向けられる。その眼差しには、殺気が満ちていた。まるで当然のように、部屋の真ん中に立たされる僕の姿は、これから判決を待つ被告人の様な気分にさせる雰囲気が漂っていた。不思議なもので、何もやましくないはずの心は、いつしか罪をわびる罪人の心境に至っている。これがここの面接なのだと思い


「よろしくお願いします。」


状況がよく掴めたかったので、とりあえず大きな声で元気よく。何事も第一印象が大事である。


「一体どういうことなんだ!」


背後から突然大きな声が上がる。


「えっ、いきなり何だ?」


恐る恐る後ろを振り向くと、円形に囲む並んだ椅子の一つに座る、腕組みをした小柄な初老の男がこちらを睨み、凄い勢いで口角泡を飛ばした。


「それはこちらの台詞ですよ」


心の中で小さく囁いた。


「何い!」


見透かしたかのような間髪入れない言葉に、一瞬息を呑んだ。


「いや、何でもありません。すみません」


僕は何かを言うとき、最後に口癖で謝ってしまう。気が弱いのか、心にやましいことがあるのか、その両方か。確かに、面倒なことに遭遇すると、それを乗り切る勇敢さより、回避する気楽さを優先する性格があるのは事実だ。其の罪悪感か、体裁を繕うズルさなんだろうと、他人事のように考える。だが、そんな軽薄さが簡単にまかり通る程易々とはいかない気がする。僕はこの重たい雰囲気を独り背負うことになる。天国と地獄とはこの事か。喜び勇んで来たがいきなり怒鳴られるなんて。神様あんまりです。明るい未来は突然、暗黒の闇へと引きずり込まれる。天使の微笑みが悪魔の冷笑に変わり、首筋を伝う冷や汗が体の熱を一気に奪う。背筋が凍る思いです。窓から聞こえる騒々しく行き交う車の騒音が、関係ないとばかりに無責任に通り過ぎるようで、僕は益々孤独になる。私は罪人ですか。「君らは一体どういうつもりなんだ。」初老の男は続けて捲くし立てる。


「最初からそのつもりだったのね。」


初老の男を向く僕の背後から、哀愁漂う弱々しくも、押し殺したような声が聞こえる。再び振り返ると、白髪の小柄な女性が俯きながら呟く。


「もう決まったことなのさ。わしらにはどうしようもないんだよ。」


隣でその女性をいたわる様に寄り添う男性は、年期の入った表情を曇らせて力なく吐き出す。背負う空気は益々全身に覆いかぶさる。


「あの・・・。」


重たい口を開き、僕は恐る恐る言葉を吐いた。


「何だ!」


初老の男は強い口調で答えた。


「僕は今日、こちらで就職の面接に来たんですが。これって面談の一種なんですかね。ははは・・・。すみません。」


ぎこちない笑いが空しく部屋中に響き渡る。


「何がおかしい。」


そんな声が聞こえてきそうなくらい、白々しく静まり返る。だが、よく周りを見渡すと、取り囲む面々は目を丸く見開き、口を開けている者もいる。お互いが、今までのやり取りは何だったんだと言わんばかりの、唖然とした表情が並び、その中を、淡々とエアコンの送風だけが音を唸らせる。


「面接?何の話だおい!」


それもこっちの台詞だよ。人を急に呼び寄せて置いて


「一体どういうつもりだ?」


そう言いたい気持ちをグッと押さえる。


「君は責任者じゃないのか!」


続けて初老の男は問い正す。「今日は説明するという話で皆こうして集まっているんだ!」イチイチ怒鳴る人だなとボヤく。


「地声だ!」


とまた怒鳴る。


「連絡しても中々来ないし、話は勝手に進めるし、人の話を全く聞こうとしない。やっと来たと思ったら、謝るばかり。どうなっているんだ全く!」


捲くし立てる口調に


「それはコッチの台詞ですよ。」


と思わず吐き出す。


「電話じゃ、採用するからすぐに来てくれと言われて、来ていきなり問い詰められて、参ってるのは僕のほうです。」


信じられないという声なき声が部屋中を埋め尽くす。エアコンの効いた冷えた部屋に動揺が走り、どうしようかという困惑が漂う。気まずい空気が流れる中、隅の方から


「ああ。」


小声でそう嘆くのは、先ほど僕を無理やりこの部屋へ連行して来たあの男だ。


「何だ!」


また怒鳴る初老の男に


「いや。」


気まずそうに答える男は、頭を掻き毟りながら呟く。


「そういや、連中の来る時間、夜だったな。ははは。」


「はははじゃねえよ。」


シラケた雰囲気と舌打ちや溜め息の声が連呼する。


「あ~解散。」


やれやれと言った口調がこだまする。張り詰めた空気は一気に拡散し、僕は皆が退室していく中、独り立ち尽くす。


「悪かったな。」


僕をこの部屋に連行して来た男は、背中をポンと叩きながら、申し訳なさそうに呟く。


「確か、面接だったよな。今日は、職員休みだ。当直の非常勤しか居ないよ。」


そう言うと玄関まで送ろうと言う。


「今日は最悪の日だ。」


疲れが肩に重く圧し掛かり、足取りが重くなる。玄関先で男は


「まっ、一服しようや。な。」


そう言うと差し出すタバコに火を点ける。


「ふ~」


燦々と照り付ける陽射しは、タバコの先の火と共に、ジリジリと熱く肌を焦がす。


「お兄ちゃんよ、この暑い時期に大変だね。まっ、こっちも他人事じゃないがね。」


男は、タバコの煙を深く吸い、気だるい熱気の中に更に天高く吐き飛ばした。


「いやな時代だね。なあ、お兄ちゃんよ。」


男は続ける。


「生きていくのが罪だなんてな。俺たち、この世界に生を受けてこれまで必死に生きてきた証が、このザマだなんてさ。」


まるで哲学者のように雄弁に語る。


「人間の価値はその人の生き方で決まるとしたら、俺たちの人生は、こんな扱いを受けるに値するって事かね。なあ、お兄ちゃんよ。」


「地獄の沙汰も金次第としたら、この世は地獄そのものだね。生きている間は何処に行こうが、地獄、地獄また地獄。」


「俺は、地獄に産まれた覚えはないがね。」


皮肉交じりに又タバコを燻らす。苦渋に顰め面した顔を汗が伝う。「お互い大変だね。戦場の戦士同士がんばろうな。負けてたまるか!」


男は呟く。


「一体、この世の中は誰が作ったんだろうな。神様か?何でもかんでも神様のせいにしちゃ、神様もたまらんよな。人間の世の中ならな少しは自分たちで努力しなきゃな。」


やけに説得力がある言葉に、胸がグッとくる。何故か分からないが感情が込み上げてきて、何かしなきゃと言う気持ちが湧き上がり、思わず口にした。


「僕に何か出来ませんか!」


心にもない言葉が頭に響き渡る。呆然と見つめる男は


「お兄ちゃん、大丈夫か。しっかりしろ!」


重たい身体が軽くなり、今にも湧き上がりそうな高揚感と同時に、目の前が揺らぎ意識が遠のく。僕はその場に倒れこむ。気が付くとベッドの中で横になっていた。エアコンの心地いい音が静かに冷風を送り込んだ。眠気に誘われ再び意識が遠のくのが分かる。


「ここは天国に違いない」


目が覚めると、天井から可愛い天使が優しく微笑み、見下ろしている。


「やっぱりここは天国だ。」


そう夢見ていると、奥の方から何処かで聞いた覚えのある怒声が響いてくる。


「どうした!起きたか!」


嫌な予感がして来た。


「やっぱり地獄か・・・。」


目を閉じると


「おい!大丈夫か!」


怒声が頭に突き刺さる。


「そのようですね。」


可愛い声が後に続く。僕は、よれたシャツとネクタイのまま、診察室のベッドの上にいた。「痛っ。」


重い頭を抱えて起き上がろうとするのを


「まだ駄目ですよ。寝ていて下さい。私、看護師の最中と申します。安心して下さい。」


そう制止する可愛い看護師の女の子。


「先生が来るまで待って下さいね。」


「先生ってあの人は?」


そう言って指差すあの初老の男に


「ああ、あの人はここの理事長さんです。村瀬理事長。」


そう言う彼女の後ろで


「大丈夫そうだな!」


相変わらず声がデカイ。


「何だかよく分かりませんが、ご迷惑おかけしたようですね。申し訳ありません。すみません。」


力なく出る言葉に


「いや、迷惑掛けたのはこっちのほうだからな!済まなかった!わしはこの施設の理事長をしてる村瀬だ。」


大声で謝られると、なにか嫌味に聞こえる。


「あっ。美里先生が来ましたよ。」


看護師の最中は、ドアが開いた音の方を向く。


「今度は、天国か地獄か。まあいいか。」


もうどうでもいい気分だった。


「あら、元気みたいね。」


細身の小柄な美形、気さくで屈託のない、明るく聡明な印象の女性が僕に話しかける。それにしても、人間の脳はよく出来ている。関心のある事には、こうも処理の仕方が違うのか。掛かった時間は一瞬だった気がする。


「ここはやっぱり、天国だ。」


僕は単純だ。何だか知らないが、漠然とした達成感が湧き上がってきた気がした。 医務室のドアが再び開く。年配の男性が入ってくると


「君、高樹君だよね。僕、斉藤といいます。電話で君の話を受けた非常勤職員だよ。早速なんだが、仕事手伝って貰えるかな。美里先生、いいですよね。」


「斉藤さん、まだ休ませて上げてください。」


看護師の最中がかばうように言う。


「いいんじゃない。まだ若いし、少し疲れてただけよね。」


優しく微笑む美人の美里先生に


「はい。」


二つ返事で歩き出す僕の身体は何かに憑りつかれたように不思議な力に支配されていた。「ありがとう。」


照れ臭そうな笑顔で看護師の子にそう言うと、女神に見守られながら颯爽と部屋を出る。僕は今、何も恐れるものはない、根拠のない自信に満ちていた。


「よし、行こう。」


そう言う斉藤の後を階段を駆け上がる。高まる高揚感が胸を熱くさせる。


「何でも来い!」




二階のフロアに上がる。 非常階段を上がる足音が周囲に響く。


「タンタンタン」


分厚く頑丈な扉を開けると、眩しい光が視界を塞ぐ。中に入ると目の前には、入口にあたる事務所兼寮母室と書かれた、ガラス張りでカウンター付の部屋があり、その奥に広がるフロアには、大きなテーブルと大型の液晶テレビがいくつか備え付けられている。窓からは日差しが惜し気もなく注がれていて、室内の照明が不要なほどだ。この大きく広く明るい空間は、辺りを隅々まで照らしてくれるようで、活き活きとした雰囲気が漂うのを感じた。これまでの苦難の道のりと閉ざされた自分の心の闇を吹き飛ばす、未来の扉を開いたのかもしれない。独り世界に自己陶酔している僕の横で斉藤さんは


「高樹君こっち。」


と淡々と道案内する。




フロアには利用者と思しき車椅子のお年寄りが数人、テレビの政治討論番組をジッと見ている。通路を歩く背後の僕らには見向きもしない。「高樹君!」大きな声に驚くと、斉藤さんの姿がない。廊下で立ち止まり、辺りをキョロキョロする。


「あれ?」


戸惑う僕に


「オーイ!こっちこっち、こ・っ・ち!」


声の方に目を向けると、部屋から体半分だした状態で手招きする彼の眼差しが真剣だった。小走りで近づくと


「君、落ち着きないよね。怪我するよそんなんじゃ。」


小声で囁くように凄むその眼つきが怖かった。


「ちょっと手伝って。」


部屋のベッドには寝ているお年寄り。


「何するんですか?」


そう聞くと


「オムツ交換。」


ポケットから取り出した携帯のゴム手袋をはめると


「斉木さーん。今からオムツを新しいのに代えますから。」


と慣れた口調で相手に伝え、さっさと交換していく。何時の間にか用意したバケツの中に古い物を入れると、手際よく新しいのに代えてく。見事な手さばきに感心してると


「何してるの?君もやるんだよ。」


「は?」 


「ほれっ。」


投げ渡されるゴム手袋を慌てて掴むと


「ナイスキャッチ。」


と笑顔で返すも目が笑ってない。黙々と作業をこなす背中を前に、茫然と立ち尽くす。


「時間ないよー。早く早く。」


傍にある新品のオムツを手にすると、隣に寝ている別のお年寄りのベッドに恐る恐る近づく。


「なーにやってんの。夜這いでもかけているみたいじゃん。寝てる人にいきなりはないよ。ちゃんと起こして、名前呼んで挨拶しなきゃ失礼でしょ。」


オムツ片手に伸ばした手先が震える。どう見ても怪しい格好でお年寄りに何かしようとする自分に落ち込む。


「何してんだ俺は。」


しばらく沈黙すると


「ガチャ。」


部屋のドアが開く音がする。


「キャー!何やってんのよ!」


部屋に入ってきた女性が悲鳴を上げる。「あっ。川奈主任。今日は非番じゃなかったんですか?」驚きもせずに応える斉藤さんに


「呼び出しがあったのよ!大事な会議があるって。それより誰よこの人!しかも、オムツ片手に小沢さんに何のまね!まさか代えさせようとしてない?」


「ああ、こちら高樹勇さん。今朝、電話で面接したいって言うから。だって人足りないっていってたじゃないですか?後で連絡しようと思って。ちょっとだけ手伝ってもらおうと・・・。」


彼女は、何言ってんだコイツといった顔つきで一言。


「ダメだろ。」


反論もなく


「はい。一人でやりま~す。」


斉藤さんは何もなかったように、僕の手にした新品のオムツを掴むと、再び黙々と作業に取り掛かる。


「えーっと。高樹勇さんでしたっけ。私、この施設で主任をしてます川奈と申します。詳細は事務所で宜しいでしょうか。」


そう言うと部屋を出ていく。後に続いて斉藤さんが隣の部屋へと出ていく。二人がいなくなった部屋で気持ち良く寝ているお年寄りを前に、エアコンの音だけが耳に響く。


「お疲れさん。」


 後を着いていくように部屋を出て、通り過ぎた事務所兼寮母室に戻る途中、広いフロアでは相変わらず、液晶テレビの政治討論番組が熱く繰り広げられている。誰もいないフロアで。先程の観客は何処かへ散会したらしい。画面に映し出される熱弁が、閑散とした雰囲気に空しく響き渡る。誇らしげに雄弁を語る出演者はこの事実を知らない。


事務所に入ると、デスクのパソコンを操作する川奈主任がいる。忙しそうにキーを叩く指は慣れたリズムを奏でる。颯爽とした仕草は、ベテランの風格を漂わせた。ひと仕事を終え、立ち尽くす僕の方に椅子をくるっと向ける。


「どうぞ、お座りください。」


隣の開いている椅子にそう導くと座る正面から、端整な顔立ちにも厳しさが滲む口調で「改めまして。私、川奈由紀と申します。社会福祉法人心の故郷で統括事務主任をしております。今日は急な事でお互いに混乱もありますが、精査していきましょう。」


淡々と語る言葉にも、誠意と真剣さ表れ、よれたネクタイを締め直し背筋を伸ばす。


「これぞ面接。」


緊張の面持に


「まず最初に申し上げますが、現在こちらでは人員の採用は諸般の事情により行っておりません。」


一瞬思考が止まる。


「は?」


返す言葉を失う口から思わず零れる。


「でも、雑誌に掲載された募集要項を拝見して連絡しましたし、電話口で面接の約束を頂いて参りました。どういうことですか?」


戸惑う表情に対し彼女は続けて語る。


「ですから、先程申しました通り、お互いの混乱をここで冷静に精査していきましょう。」今度は笑顔と柔らかい口調で丁寧に説明する。その対応に口を挟む余地はなく、込み上げてきた感情は、胸のあたりでモヤモヤと燻る。


「こちらの不手際をお詫びさせてください。本当に申しわけありませんでした。本来ならば、踏むべき手続きの後でお伝えすべき事ですが事情がありまして、単刀直入に申しますと、今回はお引き取り頂きたくお願い致します。誠に済みませんでした。」


深く頭を下げられ、成す術もなく下げられた頭を見降ろす。


「あの。」


硬直した口元から諦めで出ない力を振り絞り出す。


「その事情って何ですか。」


普段から諦めが早い性格だと自負していたが、こうもあっさりと片付けられると流石にそうもいかない。納得がいかないのだ。そう自分に言い聞かせて尋ねた。


「そうですね。」


少し困った顔をした彼女は、仕方ないと割り切った顔つきで


「実は、ここの施設がこの度閉鎖する事になりまして、その引継ぎ手続きで少々混乱しております。まだ決まった事ではないので、ここでお話しすることではないのですが、もちろん、今回のあなたへの失礼を言い訳にするつもりではありません。本当に御免なさいね。」


その笑顔は堅苦しい雰囲気を和らげ、内々の話をするという距離を縮めた会話に、少しだけ安心感がうまれた。ほぐれた緊張感が開放感に変わると


「詳しくお話を。」


図々しい態度が不思議な力で導き出される。


「困ったな。」


そんな表情が見て取れるが


「そうですね。」


まあいいかという感じで話し出す彼女。


「いやね、私も最近急に知らされたことなのよ。」


今度はため口でざっくばらんに始まる。


「本当に参ってるの~よ。今日だって朝からいきなり会議するから来いでしょ~。何が何だか訳がわかんないわよ。」


吹っ切れたように肩を落とす。


「長年勤めてきて、こんなの初めてよ~。」


呆れたわといった具合だ。それから続く長い説明に僕は聞き入る。


「ここは元々診療所で、1Fに診察室があったの。」


「ああ、僕が寝てたところか。」


そう呟くと


「え、来たことあるの?」


彼女が聞く。


「はい、今日初めてきました。」


「は?」


「あ、実は今日こちらにお伺いした際、ちょっと疲れまして、倒れたんですけど。その時、診察室に運ばれまして。」


「そうなの。大変だったわね。じゃあ、先生に会った?」


「綺麗な女の先生ですよね。」


即答で嬉しそうに話す僕に


「そうでしょう。」


頷く彼女。


「美里先生。お父さんがここに診療所を開設したのよ。今は自宅で隠居してるんだけど、美里先生が後を継がずに大学で研究することになって、お父さんがここを今の社会福祉法人化して、施設を存続させたのよ。」


「じゃあ、診療所は?」


「昔から地元のお年寄りの寄合所的なところがあって、ここに入所している皆さん、診療所の患者さんばかりよ。今では診察は近くの別の病院に委託して、美里先生はそこの非常勤医師として、時々ここに回診来るのよ。だからこの場所は、皆さんにとって我が家みたいな所なの。」


彼女はしみじみ答える。


「じゃあ何故こんな騒動に?」


なにか記者の質疑応答みたいな雰囲気の中、彼女は井戸端会議のおばちゃん的に前のめり気味になる。


「そこなのよ~。ここの土地は元々この町の所有で、美里先生のお父さんが町の依頼で診療所を建てたの。もちろん、町の予算でね。だから、ここの土地も建物も町の所有なの。今は社会福祉法人として施設運営されているけど、理事会などはここの利用者がボランティアとして就任しているだけで、実質的権利は町にあるの。その土地と建物の権利を民間会社が買ったのよ。町は施設の存続を条件として会社に売却したのに、会社側が運営方針を変えて、利用条件の変更を提示してきたの。町側は財政面を考慮してその条件を受け入れたから大変よ。困るのはここの利用者よ。」


「つまり?」


「入所規約が変わり、費用やサービスが今まで通り受けられなくなるのよ。それで今日、会社側と利用者側との話し合いが急きょ開かれることになったの。」


ふむふむと何時の間にか腕組みをしながら僕は聞き入っていた。


「つまり、僕は会社の人間と勘違いされてたんですね。」


「は?」


何って顔の彼女。


「いや実は。」


それからこれまでの経緯を詳しく話すと


「そうなんだ。あなた大変だったわね。」


嬉しいのか悲しいのか分からない涙が込み上げてきた。


「一緒に頑張りましょ。」


何故か運命を感じてまた感極まる。


「あなた涙もろいのね。なんだかこのまま返すのは惜しくなったわ。もう少しこのドタバタに付き合わない?もし良ければだけど。」


「はい。」


二つ返事で答えた。二人笑い声のなか、何故か涙が零れる。


「ほんと泣き虫ね。あはは。」


笑い声が部屋中に響く。




只々、毎日働いて働いて、そんな単調な日々を繰り返した。何の感動も関心もなく、機械みたいにそうする事が当たり前のようになっていた。考えるというより反応している。スイッチが押された無機質な本能は、いつしか何処へ向かうのか分からない暗闇をひたすら走り続ける。立ち止まる勇気もないし、もし走るのを辞めれば、もう二度と動き出す事が出来ない、そんな恐怖に駆られる。それが嫌で、その恐怖から逃げるように走り続ける。ここが何処なのか、何に向かっているのか、上も下も前も後ろもわからない果てしない空間を、彷徨うように走り続けるしかない。自分に偽りの喜びを感じ、真実の悲しみから目を背けていた。いびつな心の歪みが痛い。この痛みは僕の心の本当の叫びだ。今まで目を背けてきた悲しむべき僕の真実だ。やっと、その事に気づくことが出来たのか?僕は、ボンヤリとだが初めて見る光に胸を躍らせる。


「おはようございます。」


事務所に入ってくる声が力なく二人にかかる。


「多田さんおはよう。」


川奈主任は僕越しにそう話しかける。


「いや本当、勘弁してほしいですよ。まったく。」


そう矢継ぎ早に話す女性は、不満そうな顔付きで近づきながら、何気なく僕の顔を覗く。「おはようございます。」


僕がそう返すと


「どうも。」


と拍子抜けした様子で見つめる。


「こちらは高樹勇さん。そんで彼女が介護主任の多田さん。」


時間省略といわんばかりで二人の紹介を仕切る慣れた手さばきだ。


「多田です、どうも。」


笑顔で軽く会釈するとすぐさま


「それはそうと川奈主任、どうなってんですか一体?」


と話を切り替える。


「本当に私もビックリしてるのよ。どうもこうもないわよ。実はね・・・。」


僕は、二人の会話に挟まれてしばらく聞き入ることになる。


「川奈主任。私もう耐えられません。こうも話しがあれこれ変わると、一体何を信じていいのか。自分の立場が良くわかりません。家族にも迷惑がかかりますし、利用者への対応にも影響を与えない自信がありません。」


「私も責任者の立場として、申し訳ないと思っているわ。でも、所詮、現場の管理者でしかないの。この状況はもっと複雑なのよ。とにかく私たちがやれることは、従来の職務をまっとうする事だけよ。後は、事が解決するのを待つだけだわ。」


川奈主任は現場のプロとしての強い決意を示した。


「さあ、私たちの仕事するわよ。」


 


1F会議室に隣接する理事長室では、3人の男がテーブルに置かれた電話を囲んで話し込む。「どうしたもんかな。」


理事長の村瀬は腕組みして目を閉じ考える。


「とにかく、相手側からの連絡を待ちましょう。我々理事会としては、現状の維持という方針を堅持する方向で交渉を進めたい。」


隣に座る理事の一人である前島は、独り納得したように応える。もう一人の理事である監査役の富岡はそれに問い正すように反論する。


「でもね前島さん。理事会は実質的権限はありませんよね。もう既に町側と会社側で交渉は成立してる訳ですから。」


前島はその反論に被さるように


「それじゃ、今回の話し合いは何の意味があるんですか!」


少し声を荒げた。村瀬は小声で応える。


「事後承諾という事か」


同じ姿勢で溜息を吐く。


「はぁー」


3人の沈黙が続く。室内に突然、重い空気を打ち破るように電話が鳴る。


「プルルプルル」


「はい理事長室」


飛びつく前島の鼻息は荒い。前のめりになる富岡。村瀬は姿勢を崩さない。


「はい、はい、はい」


電話越しに淡々と相づちを打つ前島に食い入るように目をむく富岡。村瀬は閉じた目を少し開けて横目でチラリとその様子を覗き込む。隣で電話を取る前島の顔が徐々に険しくなるのが分かる。


「あなたね!ふざけてるんですか?」


電話を握る手が震えるのが分かる。


「こっちだって命が係ってんだよバカ野郎!」


「ガチャ」


受話器を叩き付けるように置く姿に村瀬は驚いた。普段温厚な前島の豹変ぶりに、恐怖すら感じたのだ。富岡は少し、涙目になっていた。当の前島は我に返ったのか


「あっ」


思わず口にした、しまったといった心境か。3人は何が起こったんだという奇妙な困惑に陥った。


「どうした。なんて言ってたんだ」


村瀬は恐る恐る尋ねた。


「すみません、つい」


前島は今度は俯き、顔を赤らめて頭をかく。少し間を置くと、堪らず富岡が問い詰める


「だから!なんて言ってたんだよ」


身を乗り出して、テーブル越しに前島に詰め寄る。


「いやね、今度の話し合いはあくまで決定事項の報告で、自分たち社員もその手続きや他の業務で忙しいんだとか言い、今日の説明会で会社から送られる資料を配布するからと、それをよく読んで了承頂きたいということなんですよ」


「やはり事後報告なんだな!」


富岡は乗り出したままの姿勢で脅すように前島に吐いた。


「初めから分かっていた事だな」


村瀬は諦め半分で口元を真一文字に締めた。


「よし分かった。」


なにか吹っ切れた表情の村瀬は両膝をポンと叩いて受話器をおもむろに掴みボタンを軽快に押す。まるでこうなるのは計算済みとばかりに素早い行動だ。


「どちらにお掛けですか?」


恐縮する前島に


「戦いだ」


村瀬は鼻息荒く呟く。


「戦いですか?」


前島は驚いて富岡に無言の確認を目線で送る。


「俺たちの闘いだ」


村瀬の口元が少しニヤリと歪む。 




第2話 対立バトルズ 午前10時 トイレ




駅前公園は、入り口を入るとその正面に大きな噴水があり、訪れる人たちは皆、火照る身体の熱を冷ますかのように、導かれるまま噴水のシブキの中に吸い込まれていく。その周りでは、子供達が駆け回り、辺りは家族連れで賑わう。海岸沿いから吹く潮風は更に、灼熱の空気を吹き飛ばし、一帯を砂漠のオアシスへと変える。今宵は、ここで恒例の花火大会があるらしく、関係者らしき人混みでごった返し、会場の設定や、露店が軒を連ねる準備をしている。集まる人々の熱気を冷ます噴水は大人気である。ここ社会福祉法人心の故郷もある意味、様々な人々の熱気で包まれようとしている。


「ジョボジョボジョボ」


ひと気のないトイレで独り斉藤は、至福の時を過ごしている。右手で器用に用を足し、左手でくわえタバコを取り


「ふー」


と吹かす。煙が換気扇の中に上手く吸い込まれていくのを満足気に見つめる。


「ガチャ」


入り口のドアが開いても気にする様子もなく余韻に浸る。


「またサボってる。」


入って来た初老の女性は子供に注意するようにぼやく。


「おばちゃん、いくら仕事だからって、ノックぐらいしてよ。一応、僕も男だから。」


斉藤はやれやれと言わんばかりに口を濁す。


「なによ、興奮したの?変なことすんじゃないよ。」


「アホか!」


空かさず斉藤は突っ込む。清掃員の速水はベテランの職員で、施設の衛生主任として掃除の仕事に従事し、日課の掃除を淡々とこなしている。お互い背中越しに、暗雲の呼吸でやり取りが展開される。


「クククク」


嘲笑しながら男が入ってくる。


「まーたやってるな。親子漫才。」


そうボヤキながら斉藤の隣で用を足す。


「だから田尻さん、ここは職員用トイレ!利用者用トイレ使ってよ。困った人だな。」


二人の年寄り相手に、自分の事を棚に上げて諭す。


「まったく、どいつもこいつも男なんて勝手なもんだね、あたしゃ付き合いきれないよ。」速水は呆れた感じで溢す。


「言われてるぞ斉藤ちゃん、トイレでタバコなんて、高校生かよ。川奈主任に告げ口するぞ。」


田尻は斉藤の顔を横に壁に向かって嬉しそうに話す。


「告げ口って、小学生かよ。」


互いの罵り合いも息が合ってるのがいい。嫌みのない朝の挨拶代りといったところか。狭いトイレの中で舌戦が続く。


「そういや、今日は朝から事務所あたりが騒がしいな。職員の数多くない?何かあったか?」


田尻は用を足すと、去り際にそう漏らす。


「ちょっとあんた、便所で手ぐらい洗いなさいよ!幼稚園じゃないんだから。」


速水は床を拭きながら注意する。


「小学生の次は幼稚園か。どんどん年齢下がってくな。おじさん若返り過ぎだよ。」


斉藤は皮肉交じりに言う。


「きっと、お前のタバコがばれたんだな。川奈主任相当怒ってたもんな。」


話を逸らすように心配する田尻に


「この子のサボりはみんな知ってんのよ。いよいよ年貢の納め時だわ。」速水は作業の手を止め、真剣な表情で説明する。


「そんな事で騒ぐか。呆けるのもいい加減にしろよ。」


斉藤は反論する。


「何言ってんのよ!呆けたからここに居るんじゃないの。職員ならそれぐらいわかるでしょ。田尻さんに失礼よ。」


速水はキレ気味に真面目な顔して叱る。


「あのね・・。」


田尻は何も言えずに引きつった表情で退散する。


「だから、あんたも手を洗いなさいよ!そんな手であちこち触られちゃ掃除するのも大変なのよ。まったく、これだから男は困るのよ。」


田尻とともにドアを出る斉藤に速水はやれやれと溢す。男は困ったは彼女の口癖である。随分男で苦労したらしい。ドアの向こうではドタバタと走り回る足音が聞こえる。


「斉藤くーん!」


フロアに川奈主任の呼び声が響く。


「わっ来た!俺の言った通りだろ。斉藤ちゃん、ご無事で!」


田尻は急に嬉しそうにその場を離れる。


「きっと血シブキが飛ぶから掃除が面倒ね。血のりは拭くのが大変なのよ。早くしてね!」速水もそう言うと面倒臭そうにトイレを出ていく。


「あのな」


残された斉藤は独り立ち尽くす。


「斉藤くん、どこに居るのよ!出てきなさい!」


川奈の怒号が鳴る。


「どいつもこいつも、俺を何だと思ってんだ。」


ブツブツ呟くも


「はーい。」


表情を変えて作り笑いで外に出る。斉藤を見つけると彼女はすっ飛んで来た。


「わ!ごめんなさい!勘弁して!」


斉藤は思わず頭を抱えて身構える。


「何してんのよ!一体どこ居たのよ!探したんだから!」


「ちょっと休憩してただけです。つい魔がさして誘惑に負けて・・・タバコを。」


言い訳する斉藤に


「誘惑?タバコ?そんなのどうでもいいわよ!1号室の大岡さんが室内でオシッコして暴れてるのよ!一緒に来て手伝ってよ!」


斉藤の腕を掴んで引っ張っていく川奈。


「あんたのタバコなんてとっくに知ってるわよ。こうゆう時のために居るんでしょ!力貸しなさい!」


「わ、わ、分かりました!」


助かったと安堵の様子で斉藤は連行される。二人のやり取りを観ていた観衆は口々に


「ああ、事務所でボコボコだな。」


「可哀そうに。相変わらず要領悪いわね。」


「ご愁傷様。」


みんな日頃、暇を持て余しているからか、久々の血の修羅場を観られず残念そうに散会していく。




一号室では利用者の大岡が大声を上げて暴れている。職員の高野は背中から大岡を抱えて、静止させようと必死になってる。


「大岡さん、お願いだから静かにして下さい。皆さんに迷惑ですよ。」


丁寧な言葉だが口調は荒い。


「根畜生、云う事きかねーな。」


内心そう言いたいところを堪えている。男性職員は、斉藤と高野しかいない。力仕事はもっぱら彼らの専門である。比較的大人しい利用者の中で、時に穏やかでない状況に活躍する役割にある。もう一人の男である斉藤が川奈主任に引っ張られて部屋に入ってくる。3人に同時に羽交い絞めにされる大岡は


「助けて、殺される!わー!」


大きな体を揺らしながら、逃れようとする。


「大岡さん!服が汚れてるので、着替えますよー。落ち着いてください。」


オシッコまみれで暴れる大岡を説得して着替えさせ、その後、汚れたベッドや床を綺麗にする。大仕事に取りかかり3人の頭の中は大岡に集中している。


「大岡さん楽しそう。頑張れー。」


隣のベッドの婦人が応援する。入り口には他の利用者が集まり、野次馬のようにこの修羅場を観戦している。


「おーやってるな!隣の河合さん声援送ってるよ。楽しそうだな。」


「こりゃ大変だな。職員3人がかりか。大岡さん朝から元気だね。」


いつの間にか、田尻が腕組みしながら様子を楽しんでいる。


「大岡さん!汚れた服を着替えますよ!暴れないで下さい。」


手足を高野と斉藤に掴まれもがく大岡に川奈主任は話しかけながら着脱作業に取り掛かる。


「うわー!襲われる!殺されるー!」


わめく大岡。


「襲わない、襲わない。殺さない、殺さない。」


子供をあやすように主任は手際よく服を着せ替える。暫くすると大人しくなった大岡は、為すがまま観念した子供の様に職員の指示のもと、ベッドで横になりジッとしている。


「なんだ、もう終わりか。」


騒動が終わるのを見守ると、野次馬は再び散会する。


「高樹君はここで待ってて。」


つい先程、川奈主任がそう言って事務所から飛び出し、外での大声が聞こえなくなると、今度は突然室内に呼び出しコールが鳴る。五号室室内トイレのランプが点滅している。


「あっ、石村さんね。高樹君ここで待っててね。」


多田はそう言うと急いで部屋を飛び出した。すると入れ替わりに、川奈主任が入って来た。


「ごめんなさいね。この時間、利用者のトイレが多いのよ。丁度、朝食が終わって間もないから。あーやれやれ。」


川奈はパソコンに記録を書き込みながらそう言う。この道長年のベテランの風格も、年季の入った手強い相手との押し問答に、形無しといったところだろうか。毎度の事とは言え、大変さが顔ににじむのが分かる。普段は特別意識しにくい日常活動としてのトイレも、介助する側される側と、お互いの信頼関係がないといくら仕事とはいえ、いくら高齢者とはいえ、大の大人相手に下の世話と簡単にいかない。自分で当たり前のことが出来ない状況を相手に委ねるのは勇気がいることで、一方でそれを引き受ける彼女の仕事に敬意と尊敬の念を抱き、僕はこれまでの事を含めて自分の認識の甘さを痛感する。




古びたビルの二階にある仁村法律事務所。窓に下された日除けのブラインダーが一部折れ曲がっていて、隙間から薄暗い室内に日差しが射し、デスクに積み上げられた書類を照らしている。この事務所の主で老舗弁護士の仁村は、煩雑した中でモクモクとタバコの煙を燻らす。この白髪の男は、気難しい顔をして文献を覗く。


「全く、いくら御時世とはいえ飼い犬の権利保護だなんて、何でもかんでも主張すれば良いと思っているのか。子供や動物にやたらと自由や権利をくっ付けて、結局は所有や保護を盾に自分の利益を唯、主張しているだけの輩が増えたもんだ。権利、権利って馬鹿の一つ覚えだな。少しは、慎む品というものが無いのか。外国の受け売りが過ぎるな。訴えれば良いと云うもんじゃないぞ。」


書類に囲まれて燻らす煙の上りは、さながら穴ぐらから立ち上る煙のように見える。向かいのデスクで黙々とパソコンに入力する事務員の女性である岡崎は、見慣れた光景を無視しながら、ブツブツ溢す愚痴に何気に口をはさむ。


「そんなこと言っていたら、仕事なんてありません。世界は日本だけじゃありません。今や国際社会で外国人が増加する中、昔取った杵塚じゃ通用しません。私も生活かかっていますから、お願いします。」


淡々とした口調にも、ズバズバ指摘してくる性格が、静まり返る室内に大きく表われる。「しかしな、女房がだよ、いくら旦那が自分の飼い犬に食事を作らなかったからって離婚訴訟を起こすなんて、おまけに巨額の損害賠償まで請求するんだぞ。巨額だぞ。俺が裁判官なら、説教だな。犬の事を考えているなんて嘘も甚だしい!弁護する気にならんな。離婚するのは人間だぞ、犬が別れるわけじゃないのに、理由が飼い犬の餌だなんてよくもまあ、一体、誰のため何のための弁護なんだ。俺は恥ずかしくて法廷に行けないよ。まったく。」


白髪で覆われた短髪をかきむしり、見ていた文献を投げ出す。


「だからここはいつまでも貧乏所帯なんです。ご存知でしょうが、正義感も値段がつく業界です。浪花節は翻訳し難いんです。相手は日本人ではありません。お願いします。書類を作るのは私ですから、先生。」


感情の起伏のない、今風のAIが喋っているような抑揚のない無器質な発音が、益々、仁村の無力感を増幅させる。


「そろそろ年貢の納め時かな。」


ボヤく仁村に


「辞めるなら早く行ってください。私も色々と準備がありますから。なにしろ生活が懸かってますから。」


彼女は何食わぬポーカーフェイスで語る。


「ふー」


溜息はタバコの煙と共に仁村の口から重たい空気に溶け込んでいく。


「リリリーン」


静まる空気に黒電話のベルが突然鳴り響く。


「はい、仁村法律事務所です。」


岡崎は顔色一つ変えずに、受話器を取る。


「先生、お電話です。」


「誰?」


「お客様です」


「ふーん」


渡された受話器を片手に、くわえタバコを取り、灰皿に押し消す。


「先生、お願いします。私の生活が懸かっていますから。」


相変わらず凹凸のないマシンのような語り口に味気ない気分を感じて、思わずネクタイの紐を手で緩め、胸くそ悪い表情で窓の外を思わず眺める。暗く煙たい閉鎖空間から、抜け出したい思いが息を詰まらせる。


「んー」


仁村は暫く受話器片手に唸り、沈黙する。


「先生」


向かいに座る岡崎の鋭い視線が、沈黙を無言の圧力で打ち破ると


「はっ」


握った受話器を思わず落としそうになり、たじたじで声を出す。


「あっ、はい、弁護士の仁村と申します。どんなご相談ですか?」


作り笑顔で歪んだ頬を、冷や汗がつたう。古いエアコンが異音を鳴り響かせ、ぬるい冷風を吐き出す。室内は、熱いのか寒いのか分からない異様な温度に包まれる。




「ご無沙汰してます。私、村瀬です。」


「村瀬?」


少し間を置いて


「村瀬寛治です。お久しぶりです。」


仁村は、大きな声に思わず受話器を耳から離す。


「ああ、村瀬さん。相変わらず大きなお声ですな。ははははは。」


思い出したように再び話し始める。


「まいったな。声が大きくて気付かれるなんて。ははははは。」


ようやく冷静を保ち、安堵の顔で仁村は問いかける。


「もう1年になりますか。あれから。」


「その際は、先生に大変お世話になりまして、ありがとうございます。」


「いえいえ、これも仕事ですから。」


二人は電話越しに挨拶を交わす。


「仁村先生におかれましてはご多忙の事と察しますが、この夏の猛暑にはどうかお身体無理をなさらずにお気を付け下さい。」


「村瀬さん有難うございます。そういって下さる事、胸にしみます。お互い老体に鞭打って頑張りましょう。」


仁村は数少ない心を許せる旧友のような親しみを村瀬に感じている。村瀬も同様に、仁村の才能以上にその古風な情に厚い考えに、一目置いている。互いに世知がない世の中の戦友として、歴戦を踏んできた絆を作り上げた事を誇りとして、何時も称え合っている仲間である。とかく古臭いと疎まれる心情を共有できる僅かな同志でもある。そんな二人の会話は自然に、世間への嘆きと古き良き時代への渇望へと思いを馳せていく。


「昔はよかったなんて言うと、老いぼれの戯言と揶揄されそうですが、言わずにいられない毎日ですな。」


仁村はしみじみと呟く。


「分かりますよ。私も日々その葛藤で苦悩する繰り返しです。」


村瀬も受話器越しに頷く。


「長生きずると色々な、様々な環境に遭遇するものですが、この御時世のあまりにも特異な変容にはとても付いて行けない。年なんですかな。」


寂しそうに肩を落とす仕草をする仁村は、自分を納得させるかの様に時々頷く。


「我々の時代はなんて、既に死語ですかな。若い者には若い者なりの考えがあるのでしょうが、時代の流れというものでしょう。老兵は去るのみと云ったところです。新しいものを全て否定するつもりはないのですが、なにか温故知新というか、寛容というか、もう少し優しさがあってもいいのかなという気もします。昨今は何処か、余りにも先を急ぐ欲の暴走と思えてなりません。そんなに急いで一体、何処へ行こうというのですかね。」


村瀬はまるで、目の前にいるかのように仁村に語る。二人の会話には、電話越しの距離を超えた確たる一致が垣間見える。哀愁を漂わす仁村の背中の向こうで、事務の岡崎は淡々と入力作業を、まるでピアノの鍵盤を叩くかのようリズムよく、マシンのように奏でる。無感情に。


「コッ、コッ、コッ・・・」


「タタタタタン・・・」


静まり返る事務所の時計の針が刻々と時を刻む音に合わせるかの様に、彼女がパソコンのキーを叩く音が軽妙に鳴り響く。仁村は独り感慨深く自己陶酔にふけ、沈黙が暫く続く。


「ゴホン、先生」


背後から大きく聞こえる咳払いに、受話器片手に思いに耽る仁村は驚いて振り返ると、普段は感情を表に現さない能面の岡崎が、微動だにせず睨みかえす。


「いい加減にしろ」


と言わんばかりに。


「あっところで、なにかご用でもありましたか?」


事態を察した仁村は、少々上擦った声で突然思い出したように、まるで母親に叱られた子供のような素振りで、姿勢を正し切り出す。


「ははははは、あーそうですね、積もる話も沢山ありますが、それについては、ぜひまたゆっくりと語り合いましょう。」


申し訳なさそうに話を逸らす仁村の姿は、彼女の眼光鋭い眼差しにタジタジといったところか。異様な空気の中、脂汗とも冷や汗ともいえる額の汗を取り出したハンカチで思わず拭う。


「ははははは、いやつい長くなってしまいました。先生とのお話は尽きません。ぜひまたそれについては、次の機会によろしくお願いします。ところで今回なんですが、是非とも仁村先生にお力をお貸し頂きたいとご連絡申し上げました。」


村瀬も思わず参ったと云わんばかりに、いつもの調子にとは違い、少し慎重だが、力の籠った口調で答える。


「はっはい、もちろん喜んで。で、どのような内容ですか?」


村瀬の何時もと違う口調に、仁村は神妙な面持ちで、丁寧な言葉で答える。村瀬は続ける。


「実は、現在運営しております施設が、色々事情が発生しまして、ある民間企業に施設と土地の権利譲渡を推し進められ、今後の安定した継続経営維持の名目のために、組織の傘下に入る事になってしまい、事実上これまでの施設運営が刷新されそうなんです。目下、運営主体の役所と民間企業を交えて、協議中であります。我々としては到底納得がいかず、是非とも仁村先生のお力をお借りしたくご連絡申し上げました。」


仁村は状況がよく把握できない中、詳細を詳しく聞くべく質問を投げかける。


「それはまた急なお話ですな。宜しければ、詳しく聞かせて頂ければと思います。」


これまで何度か、村瀬から施設運営の法律の相談役として、長らく努めてきた立場もあり、共に創り上げてきた理想の産物だけに、寝耳に水の話に、ある意味驚いたと言った感を否めない。法律顧問と言っても、助言やアドバイスと、側面的サポートといった限定的立場を通してきただけに、いきなりの申告に困惑を隠せない。


「一体何が起こってるんですか?」


唯ならる様相に、対応に苦慮するしかない。


「いきなりの報告に申し訳ない気持ちで恐縮です。頼りの仁村さんにどうしても相談したくて、ご連絡した次第です。私としてもこのままでは納得がいかない気持ちで、仁村さんのお力を是非お借りたいとご連絡申し上げました。何卒、ご協力お願いします。」


村瀬は強い覚悟を期して、仁村に確固たる意志を示す。周知の仲の村瀬の意気迫る訴えに思わず後ずさる感情を無意識に戻す。村瀬はこれまでの経緯を、今まで押し殺した感情を吐き出す様に躊躇なく語り続ける。仁村は只々、聞き入るばかりである。息上がる村瀬の溢れる感情の中で、熱意の籠った語り口に、いつの間にか時間を忘れて心酔して頷き、気持ちを一身にして話を必死に聞き続ける。あまりにも熱意に包まれる我を忘れた熱弁を繰り広げ、思わず我に返り冷静になりながらも、村瀬は堪らず


「先生、私はこの件に関し、覚悟を持って臨みます。いや、命懸けでも構いません。」


穏やかでない、あまりの勢いに仁村は、村瀬の本気度を肌で感じ、何やら大変な事が起きていると、いつもと違う村瀬の迫真の訴えに、驚きと恐怖すら感じて、言い知れね心の震えをおぼえた。


「私の出来る事をあらゆる限り尽くして、尽力致します。」


仁村は村瀬の只ならぬ強い決意に、迷いない賛同と協力を惜しまない心情に何か心底惚れ込んで、何時しか失われた己の秘めた情熱を思い返して、熱いものを感じていた。


「是非ともやらせて下さい。村瀬さんこれは我々の長年培ってきた積年の集大成であり、到達点、何にも代えがたい共通の確固たる願いですよ。やりましょう是非。」


お互いの長年の思いはここにいよいよ到達の様相を呈してきたのである。二人はもはや迷いなど無い。進むべき道は決まったのだ。唯、真っ直ぐである。二人の無言の頷きを脇目に、事務の岡崎はやれやれと、中年おやじの盛り上がった世界に無感情で、自分の職務を淡々とこなす様にパソコンのキーを軽快に鳴らす。何時もの壮年期の年寄の戯言だと、ある種の諦めの境地であると、冷静に分析する。双方の相容れない温度差の中で、部屋の古いエアコンの生ぬるい空調は、混沌としたカオスな雰囲気を弱弱しく包み込んでいるだけだ。厳密な時計の針だけが正確に時を刻む。コツコツコツ、針の音が室内に鳴り響く。淡々と。延々とした小劇場とは裏腹に、現実の時間経過だけは、何時も正確である。




第3話 てんやわんや(ゴーアンドバック)正午 食事




駅前公園の噴水を囲むように走り回る子供たちの賑わいをよそに、夜から始まる花火大会の会場設定準備に大人たちは忙しい。特に、大勢の観客を迎える数々の露店、その屋台骨の組み立てが進んでいく。来場客の胃袋や心を満たすべく建てられる軒先の連なりは、完成後の彩られた晴れの舞台に相応しい華やかさとは程遠い、色褪せて汚れたカバーや鉄筋のパイプが何枚、何本も束で紐にくくられて、トラックで一緒に運ばれる。荷台から降ろされた資材の数々は、工員の慣れた手さばきで「トンテンカン」と組み立てられ、リズム良く金槌の音が鳴り響く。さながら楽器のようなその響きに合わせてか、いつの間にか集まった子供たちが、自作自演の独創的な歌や踊りに舞い、自画自賛に酔い痴れる。まるで、本番前の余興と言わんばかりか、周囲大人の微笑や時折の嘲笑の盛り上がりに湧く。彼らの身勝手な舞台は既に始まっている。時に子供の世界は、現実離れした創造的な未来を描く。それを迷惑と捉えるのが大人の常識なのだが、彼らの世界は常に先にある。自分たちがこれまで生きてきた時間よりも遥か彼方の。突然現れ、変幻自在、待ったなしである。それが彼らの世界の醍醐味でもあり、魅力なのだ。中々、常識に縛られた大人達には理解され難いのだが。さて丁度、正午の鐘が鳴る。昼飯時の腹も鳴る。ここ心の故郷の子供たち、いや、子供のような大人たちの腹の虫も鳴っている。未だか未だかと唸っている。


「さ~餌の時間だぞ!」


田尻は誰もいない方向を向いて、とぼけた振りして誰かにそう叫ぶ。


「ま~たそんなこと言って。相変わらず、減らず口だわね。」


厨房主任の栄養管理士でもある熟年ベテランの所沢佳代が溢す。昼のお弁当が詰まった古びた搬送用の台車を、もう一人の調理士で、まるで所沢の孫ほどの若い、栄養士の松永明美と共に、古びたエレベーターから食堂に、疲れた表情で運んでくる。


「遅いよー。待ってるだけで疲れたよ。こっちも忙しいんだから、早くしてよ~。」


田尻は何食わぬ顔をして、彼女らに何時もの口調で暴言を吐く。


「何言ってんの。暇人の何処が忙しいのよ。」


所沢はまたかと言わんばかりに突っ込む。


「そんなに暇なら手伝ったらどうなのよ。忙しいのは喋る時と食べる時だけよね。」


「おばちゃん。年寄りに随分だね。哀れな年寄りに労りの気持ちないの。」


「何言ってんの、あんたの方が年下でしょ。あたしゃこの年で頑張ってんのよ。労われるのは、こっちでしょ。全くおかしな世の中だわ。普通逆でしょ、逆。」


本来なら世話される側の年齢にも関わらず、現役でバリバリの迫力に


「よっ、肝っ玉母さん。頼りにしてるよ。」


調子のいい田尻はそそくさと自分の弁当だけを取り出し、サッサと食べだす。


「順番も守れないの。行儀悪いわね。あんた、長生きするよ。」


何事もない調子で所沢は淡々と弁当を皆に配り出す。松永も何事もないように手伝い、仕事を裁く。昼の何時もの挨拶代りの風景だ。


「あっ、何か手伝いましょうか。」


いつの間にか皆の中で椅子に座る僕は、彼女らに話しかける。


「あら、見かけない顔ね。新しい職員なの。川奈主任もう採用しないって言ってたのに。人手が足りないから助かるけど。,店終いの今更何考えてるのかしら。」


そう溢す口調に考え込む余裕はない程、テキパキした手さばきで弁当を次々配り出す。そこへ川奈主任を始めに続々と職員が食事の介助に食堂へ集まる。


「は~い、皆さんお食事の時間ですよ。食べましょうね。」


介助が必要な利用者の側にそれぞれの職員が配置に付く。黙々と淡々とそれぞれの食事が始まる。数十名の利用者と数名の職員が、一同に会し昼の食事の時間が続く。


「あー大岡さん、手掴みで食べちゃダメよ。箸使って。新見さんゆっくり食べてね。ほらほら、石田さん食べ物溢しちゃダメよ。」


川奈主任はあちこちで無雑作に食べだす利用者に忙しく目配りをし、声掛けや手伝いをする。一日の楽しみのである食事の時間は、ドタバタの騒々しい修羅場と化す。残りの職員も一人で二、三人の相手を慌ただしくこなしていく。


「あれ、あいつ何処行った。斉藤―っ。早く来て手伝え。」


川奈主任は大声で叫ぶ。


「どーせ、どっかでサボってやがんな。」


田尻は既に食べ終わった空の弁当を前に、爪楊枝で歯を穿りながら吐き捨てるように呟く。利用者の一人が弁当をひっくり返す。


「あー奥寺さん、遊んでないでちゃんと食べてー。」


テーブルに汁物がこぼれて一面に広がる。


「高野君、布巾持ってきてー。」


川奈主任の大声が響き渡り食事の場は慌ただしい中、職員が駆け回り、騒がしい時間が延々と続く。僕はその中で、唯呆然とその様子を見ているだけである。


「ほら、あなたも食べなさいよ。お腹空いたでしょ。」


隣の女性が自分のおかずを差し出す。


「新見さん、自分の食べ物人に上げちゃダメでしょ。ちゃんと自分で食べてください。」


川奈主任はすかさず声をかける。


「だって、この子何も食べてないでしょ。可哀そうよ。若いんだから、一杯お食べ。」


ニコニコしながらその老女は手で取ったおかずを僕の手に渡す。


「高樹君、その人認知あるから。相手しちゃダメよ。」


川奈主任はそう言うと、その老女の手掴みで汚れた手を拭いておかずを器に戻す。お年寄りの困った作法は次第に状況は騒々しさを増す。時間内に食事を終わらせ、スケジュールを遂行する為の戦いが、無邪気で奔放な熟年層と職員達の熾烈なお昼の戦いが繰り広げられる。人の生き物としての本性が垣間見える食事の時間は、生きたいと云う願望が表出、表現される瞬間でもある。普段はどんなに大人しい、整然とした振る舞い、立ち回りの者でさえ、その欲望を抑えるのは中々容易では無い様だ。限られた時間で、如何に職務を全うするかに専念する職員と、其れを如何に阻止して自由を謳歌するかに奔走する達人たちの抱腹絶倒な仁義なき戦いが繰り広げられる劇場の幕上げである。


「飯ぐらい好きにくわせろよ。」


爪楊枝で歯を穿りながら何処かへ目線を逸らして、白々しくほざく田尻に


「何言ってんのよ、ちゃんと聞こえてるわよ。あんた食べるだけの人みたいな態度ね。後片付けするのは誰なのよ。」


テキパキと仕事を熟す所沢はやれやれと云わんばかりに応える。


「だって、其の為におばちゃんがいるんじゃない。」


少し笑みを溢しながら小声で言う田尻に対し


「あたしゃ、あんたの召使いじゃないんだから。そんな事いう時間あるなら、自分の食器ぐらい片付けたらどうなのよ。まだ其れ位の能力残ってんでしょ。そんなの残しててもしょうがないでしょ。勿体ぶるんじゃ無いよ。こういう時くらいでしょ。其の能力使えるの。」側で方付けてる栄養士の松永が思わず吹き出す。


「ぷっ。」


田尻は年甲斐もなく顔を赤くして


「な、何言ってんだよ。呆けるのもいい加減にしてよ。」


そう言いながら自分の食器を慌てて片付ける。


「何もそんなに慌てなくても食器は逃げやしないよ。あんた呆けたからここに居るんだろ。あたしゃ未だ呆けちゃいないよ。」


ベテランの巧みな切り替えしにタジタジの田尻は片付けた後、頭を掻きながら


「あっ、斉藤め。何処行きやがった。とっ捕まえてくる。」


と意気揚々風に何処かへ退散して行く。


「似たもの同士、仲間を探しに行くんだね。居場所は大体きまってるよ。以心伝心て奴ね。」隣で食べてる石田は、食べ溢しを指で摘み口に運びながら淡々と成り行きを解説する。


「石田さん、汚いから溢した食べ物口に入れるのやめなさいよ。」


所沢はそう諭す。


「食べ物を粗末にしない年代なの。あんたも同じでしょ。」


そう云う石田に


「職務上そんなことは言えません。」


そう返す所沢に


「あらあら、同じ年の大先生にそう云われちゃ敵わないね。年なんて取るもんじゃないね。」石田は笑いながら溢した食べ物を何食わぬ顔して口に運ぶ。


「やれやれ、年なんて取るもんじゃないね。」


繰り返すように愚痴る所沢。


「ほんと、以心伝心ですね。」


若い松永は嬉しそうに言う。


「若いっていいね、期待してるよ。頼むよ、お嬢ちゃん。」


所沢はそんな若さを前に年を感じてか、ふっと溜息を吐く。向こうの方で繰り広げられる騒音に目をやり、ひと休みする。そこでは何時の間にかやって来た斉藤と何故か田尻が川奈と共に食事の片付けに奮闘する。なんでか田尻も、職員の様にテキパキと、斉藤と息の合った手捌きで職務?を熟していく。


「ほんと、息の合った名コンビだこと。」


所沢は穏やかな眼差しで、微笑ましくも滑稽なその有様を、愉しむかのように見守る。昼の食事時は騒々しくも何処か和やかに、何時もの変わらぬ風景の中、それぞれの胃袋と団欒を独特に満たしていく。


「あれ、岡村さんがいない。」


川名は食事介助をしながら周りをキョロキョロ見渡し叫ぶ。


「斉藤君!岡村さん起こしてきてよ!」


「あれ?岡村さんいない。」


斉藤は岡村さんの部屋へ駆け出す。


「早くしてよ。食事時間もう終わるんだから。急いでよ!」


川名は大声で駆け出した斉藤の背中に叫ぶ。


「職員足りないから大変よね。」


所沢は弁当の食器を方付けながらやれやれと云わんばかりに溢す。


「ガシャン!」斉藤が駆け出した先から音がする。


「わー!」


振り向くと、部屋に向かった筈の斉藤が食卓にある食器を床にぶちまけてズッコケている。床に散乱した食器の中で転んでいる斉藤に川奈は叫ぶ。


「何やってんのよ!また仕事増やさないでよ!」


「全く相変わらずドジね。うだつが上がらないね何時までも。」


所沢は冷静に悲惨の状況を前に淡々と語る。


「年取るばかりで、何時までも成長しないわね。困ったもんだ事。」


ドジで間抜けな床ですっころんでいる斉藤を哀れに吐き捨てるように溢す。


「高樹君だったわね。あーなったらお終いよ。よく見といてね。」


騒々しい食事の時間は慌ただしく、淡々と過ぎていく。食事を終えた利用者はそんな事は関係ないとばかりに、満腹の中、満足気に寛ぐ。「いやーやっぱり飯の時間が最高の楽しみじゃ。世は満足じゃ。」田尻は王様気分でそう言う。「さぞ、満足な事でいい御身分ですな。」所沢は半分諦めた口調で言い放つ。唯一の楽しみの時間が彼らの充実した日々のを盛り上げる。ドタバタの中に、何処か独特の世界を展開していく。慌ただしい時間が過ぎていく。戦もまずは、腹ごしらえである。食うもの食わずして、何もならない、生き物の醍醐味だ。何時もの時間が淡々と過ぎていく。




古びたビルの2階に密かに?ある仁村法律事務所。普段は年季の入った狭い階段や廊下の先にひっそり掲げられる釣り看板に、達筆に書かれた事務所の名前が薄暗い中に文字が薄れて表記され、静寂の中に来客を向かい入れる。入り口の古臭さを感じさせる作りのドアノブの奥で、それとは対照的な熱気を沸々と巻き上げる様な二人の熱い?会話が繰り広げられている。使い込んだ古びたドアノブはその反動に時折ガタガタと揺れを繰り返す。もう一人の同伴者、事務要員の岡崎は何食わぬ顔をして、淡々と自らの庶務に専念する。


「先生、私はこんなに悔しい思いをしたのは初めてですよ。いくら世の中がそんな風に変化していても、いくら自分が古い人間でも、人の心は、思いは皆同じで、変わらないものだと信じています。だからこそ私には理解できない。それが正直な気持ちです。」


村瀬は時代遅れの古びた思いを大事に生きてきた自分の半生を思い起こすかのような感慨に耽る。


「村瀬さん。それは私も同感です。仕事柄、世知がない人間模様の混沌とした中を、規律や法に準ぜざるを得ない自分の不甲斐なさ、力不足に日々、歯痒い気持ちをしながらも職務に専念してきましたが、正直着いて行けませんな。限界を感じます。ここは気持ちを一つに、思いを果たしましょう。是非とも。」


仁村は何かが吹っ切れたような高揚感に満ちていた。


「最近ね、そろそろ引き際を考えていたところなんですよ。今回の村瀬さんとのお話を是非取り組ませて頂きたいですな。やりましょう。とことん。我々の意地を、見せつけてやりましょうよ。」


二人は堅い握手を交わし、互いに頷きながら思いを一にする。事務の岡崎はその様子を横目で無感情に、冷ややかに見つめ、少し面倒そうな、嫌な表情をする。


「年寄りの戯言で雑務に忙殺されるのは私ですよ。」


と無言の抗議を、冷たい視線で投げつける。



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