【#7】わたしが、アイドルに
「さっきのレースを見せてもらって、あなたの姿が輝いてみえたの。アスリートとしてのあなたも素敵だけど、わたしの見立てでは、女優、歌手、アイドル……どういう道に進むにしても、きっとあなたは輝く星になると思ってる」
「陸上は引退するので……それに、芸能人になるなんてそんな」
「そんな?」
「恥ずかしいです……」
そう言うと、莉多は蘭から顔を背けた。その背けた顔を覗き込むように、蘭は回り込んだ。
「勿体ないよ」
「へ……?勿体ない?」
怪訝そうな顔をする莉多を横目に、蘭は熱く語り始めた。
「そう、勿体ない!あなたは美しいし……、それにさっきの走りを見て、意志の強さも感じるの。わたしと一緒に、一番星を目指してほしいんだ!」
「そんな……一番星だなんて」
なおも莉多が迷った様子でいると、蘭はスーツのポケットからペンを取り出し、莉多に手渡した名刺にペンを走らせた。
「わかった。今すぐにとは言わないから、少しでも芸能のお仕事に興味を持ってくれたら、わたしに連絡してきてくれるかな?これ、私の携帯番号とメッセ。待ってるね!……あっ」
蘭は、莉多の元を去ろうとしてすぐに踵を返した。
「よかったら、名前だけでも教えてくれないかな?」
莉多は一瞬戸惑ったが、蘭の方を向いて答えた。
「莉多……川波莉多です」
名前を聞くと、蘭は莉多にグッと顔を近づけて見回した。
「莉多ちゃん!……素敵な名前だね、可愛い顔によく似合ってるよ」
「そんな……恥ずかしい」
照れて顔を真っ赤に染める莉多の肩に手を置き、蘭は言った。
「大丈夫、こうみえてわたし記憶力は抜群なんだ。いつか莉多ちゃんが連絡くれるのを待ってるから。貴重な時間をくれてありがとう。またね!」
そういって、ピンヒールのカツカツという音を響かせて蘭は競技場から去っていった。ひとり、夕暮れの競技場に残された莉多は、手に持ったままの名刺をずっと眺めていた。
「わたしが………芸能界に?」
この日のレースを最後に部活を引退した莉多は受験勉強のシーズンを迎え、無事に地元の4年制大学へ合格を果たした。あの日、西京極競技場でスカウトされたことも遠い記憶となり、いつしか手元にあったはずの名刺も無くしてしまった。大学に進学した莉多は、授業にサークル、アルバイトに明け暮れる毎日で、どこにでもいるちょっと忙しい普通の女子大学生となっていた。
「おーい、店員さん!お勘定お願い!」
「あっ、はい、かしこまりました!」
居酒屋の制服を着た莉多は、アルバイトで忙しく店内を駆け回っていた。
「お待たせいたしました、4名様でお会計が7875円になります」
「じゃあ、クレカで。領収書はカトウで頼むわ……おっ?」
「?」
男性客は、莉多の顔を見回すとこう言った。
「いやあ、お姉さん、めちゃめちゃ可愛いやん、アイドルなれるん違う?」
「ええっ、そんな」
莉多は照れていたが、男性客の何気なく発した言葉に引っかかった。
(アイドル…?)
莉多は何かを思い出そうとしたが、別のテーブルから呼び出されたのを見るや、テーブルの方へと走っていった。
「お客様――、お待たせいたしました、……あっ、生3つまだですね、大変申し訳ございません…」
あくる朝、莉多は最寄りの駅から大学へと向かっていた。連日のアルバイトが祟ってか、朝から頭がぼんやりとしている。鞄からペットボトルを取り出すと、ピーチミルクティを二口、三口と飲み、大きく息を吐いた。キャンパスの入り口へは、大きな市道を渡る必要がある。渡ろうと信号を見たその瞬間、ピヨピヨという音は止み、青信号が点滅し始めた。
(次の信号で行こう……あっ!)
つい数秒前に赤信号になったはずの赤信号を、よぼよぼと渡る老婦人の姿が目に入った。腰は深々と曲がり、杖をつきながらゆっくりと横断歩道を進んでいく。すでに、車道の信号も黄色に変わった。老婦人はようやく半分渡り終えたが、もうすぐ車道の信号が青に変わる。
「……お婆ちゃん!」
莉多は一目散に駆け出すと、老婦人をぐっと抱きかかえて一気に反対側の歩道へと渡り切った。莉多が渡り終えたその瞬間、先頭に待機していたスポーツカーが轟音を立てて走り去っていった。
老婦人は、何が起こったのかわからないといった表情で莉多を見つめた。
「ハア、ハア、お婆ちゃん、赤信号渡ったら、車に轢かれてまうよ……!ハア、ハア」
「あら?そうやったのね、気付かへんかった。お嬢ちゃん、おおきに……あら」
老婦人は、瓶底のような分厚い眼鏡を直すと、莉多をまじまじと見つめた。
「お嬢ちゃん、えらいべっぴんさんやねぇ…女優さんになれるん違う?」
「えっ……」
老婦人は、手を振って去っていった。莉多は、老婦人の言葉を反芻するように、火照った頬に手を当ててつぶやいた。
「女優さん……女優さん…?」
そして、昨日の晩、酔客が発したあの言葉。
(お姉さん、めちゃめちゃ可愛いやん、アイドルなれるん違う?)
そして、いつか、西京極競技場で出会ったあのスカウトの言葉――
(わたしと一緒に、一番星を目指してほしいんだ)
いくつかの言葉が心を去来するうち、莉多の心のうちに確かに芽生えた感情があった。
(一番星…アイドル……わたしが……アイドルに……?)
<To be continued.>