新校則:生徒による惚れ薬の生成、売買および使用を禁ずる
「去年の騒動を受けて、今年度から校則が新たに追加されることとなりました」
厳格な表情で教頭が貼り出した掲示に、生徒たちはがやがやと群れて顔を見合わせている。
「これから一週間、学園内外において、生徒による惚れ薬の精製、売買および使用を全面的に禁じます」
「惚れ薬盛ったらどうなるんですかー?」
「一般生徒は停学処分、魔法薬専攻の生徒の場合は今期の成績取り消しになります」
「ひでー!」
「そりゃあんまりだ」
「むごすぎる」
非難轟々の掲示板前から目線を逸らし、ラクスは嘆息した。
(くだらないな)
……本当に厄介な話だ。
今日から一週間続く聖ヴァルストラの祝祭は、一年の中でもとりわけ学園内が盛り上がる時期である。本来は聖人の誕生を祝う行事だったはずだが、今やそれは形骸化し、大切な人へ――特に恋人や想い人に対して、贈り物によって日頃の思いを伝え合う祭りと化していた。要するに告白イベントである。
拳を振り上げて不満を表明する生徒たちを、教頭は涼しげな目元で眺め回した。
「何も生徒間での贈り物を禁じている訳ではありませんよ。我々教師陣はあくまで惚れ薬を規制しているだけです。今年からは自分の言葉と誠意で頑張ることですね」
白髪をひっつめて髷にした教頭が、にべもなく言い放つ。生徒たちは明らかに不服を示しつつも、そのまますごすごと立ち去っていった。
今しがた貼られた掲示の隣に、来月に迫る検定試験の要項が貼り出されている。他の生徒が散っていったのちに、ラクスは落ち着いた足取りで掲示板に歩み寄り、試験の要項に目を通し始めた。
「ラクス・トートリオン」
と、まだ掲示板のそばに残っていた教頭に声をかけられて、ラクスは目を丸くして顔を上げる。
「何でしょう、先生」
教頭はラクスをしばらく眺め、それから唇を引き結んで鼻から息を吐いた。
「……教師として、このようなことを一生徒に言うのは不適切かも知れませんが、敢えて伝えさせていただきます。これから一週間、身の回りには十分に気をつけなさい」
その言葉に、ラクスは思わず苦笑した。去年の騒動が脳裏をよぎる。
「まさか二年連続で同じ事件が起こるとは思いませんが、今年度ですと最も狙われやすいのは貴方でしょうから」
ラクスは唇の端を持ち上げた。嘲笑混じりの笑みだった。
「分かりました、先生。十分に気をつけます」
それだけ答えて、ラクスは機敏な足取りで踵を返した。
***
「あっ、せんぱぁい!」
頭の悪そうな声とともに二つ結びが揺れる。目の鼻の先にいるにも関わらず大きく手を振られて、ラクスは思わず真顔になった。
生徒会室に他の役員はおらず、後輩が一人でへらへらとこちらを見ている。
「ねえ先輩、何かもう今日この部屋に来たときからすっごいたくさん贈り物が届いてて、わたしが来てからもワンサカ届くんですよ! これ全部先輩への贈り物ですって! 先輩ったら、モテモテなんですねぇ」
満面の笑みで開示された部屋の隅を見て、ラクスは頭痛がするような心地がした。惨状と言ってもいい有様である。山と積まれた箱や袋はいずれも柔らかな色彩で、丁寧に包装されていることが見るだけで分かる。
これが全て、自分への贈り物だというのだ。
明らかに何度か雪崩を起こした形跡のある山脈を前に、後輩――リスティアは何故か得意満面である。
「先輩、これで一年間はおやつに困りませんね」
「いや、こんな得体の知れないものは食わない」
「ええ!? もったいない!」
大袈裟にひっくり返ってみせた後輩を横目に、ラクスは大股で部屋を横切ると奥の机に向かった。生徒会に代々受け継がれてきた重厚な椅子に腰を下ろし、足を組む。
「去年のこの時期に起こった騒動は知っているか?」
「いえ、わたしは高等部からの編入生なので、去年の事情はとんと……何か問題があったという話くらいは聞いてますけど」
リスティアは菓子の山をちらちらと見ながら、少し唇を尖らせた。
「魔法薬専攻の生徒たちが結託して惚れ薬を大量生産する体制を整えて、学内販売でめちゃ稼いだんでしたっけ?」
「まあ、対外的にはそういうことになっているが」
鞄の中から菓子を取り出して封を切る。「誰から貰ったものですか?」「家から持ってきた」と、この時期なら当然の確認を済ませて、ラクスは甘い香りのする焼き菓子を鼻先に近づけた。
「――魔法薬専攻の人間から買った惚れ薬を、去年まで在籍していた王太子殿下に盛った馬鹿がいた。没落寸前の貴族令嬢だったこともあって、退学処分に加えて家ごと取り潰しにされたそうだ」
さく、と前歯で菓子を小さく齧ると、リスティアは絶句した様子で口を開けたまま凍りついている。
「お……王太子殿下に、生徒が作った惚れ薬を?」
その重大さに気づくのは、どんなに阿呆っぽく見えても魔法薬専攻に編入してきた期待のルーキーである。学園の中でも編入が一際厳しいと言われている専攻だ。
学園において、基本的に編入生の定員は設けられていない。編入試験は毎年行われるが、非常に高い水準を満たす受験生が数年おきに一人ふたり編入するだけで、編入生がいない年度の方がざらである。
そうした編入試験を突破してきた後輩の実力は折り紙付きだ。貧しい平民出身で、言動が少しばかり抜けていて、見た目が幼いといった特徴を跳ね除けて生徒会役員に推薦されるだけのことはある。
「それって、薬師倫理的にまずいどころか、不敬罪とかに問われても不思議じゃないですよぅ」
予想を超える事態だったのだろう。リスティアは口を押さえてふるふると震え始めた。
「魔法薬専攻の生徒は、作ろうと思えば惚れ薬なんて簡単に作れるんですから」
とは言っているが、一般的に惚れ薬は難易度が高く、技術が伴わない生徒には精製が難しいのは周知の事実である。それを『簡単』と言ってのける後輩を横目で見ながら、ラクスは家から持参した菓子を全部口の中に放り込んだ。
「あ、そういえば!」
ぽん、とリスティアはおもむろに手を叩いてラクスを振り返る。
「それで先輩あのね、わたし、先輩のためにお菓子作ってきたんですよ!」
「話の流れって知ってるか!?」
思わず目を剥いて叫ぶと、リスティアは不思議そうにきょとんと目を丸くして首を傾げた。
「俺、さっき、貰ったお菓子は、食べない、って、言った!」
「あはは、先輩ったら片言になっちゃって、どうしたんですかぁ?」
あまりの衝撃に、言語野に異常が生じてしまったらしい。ラクスはごほんと重々しく咳払いをすると、身動ぎをして座り直す。
「良いか、だからな――去年、『魔法薬専攻』の生徒によって惚れ薬が学内で乱用される事態になったんだぞ」
「はい」
「挙句、『身分の高い男子生徒』に惚れ薬入りの『菓子を贈った女子生徒』が、『退学処分』になったって、言ったよな」
「言いましたね」
「で、俺は貰った菓子は食わないことにしたと言ったな」
「うん」
しれっとした顔で棚から大きな包みを取り出した後輩に、ラクスは思わず額を抑えた。
「……状況が完璧に揃ってるだろが!」
「ええー!?」
どん、と後輩が出してきたのは明らかに手作りのチョコケーキである。歪な円柱をしている。
「わたし、先輩にいつもお世話になってるから、お礼の気持ちを込めて一生懸命作ったのにぃ!」
目に見えて涙目になった後輩に、ラクスは手のひらを向ける。
「良いか、俺は食わないぞ! 絶対にだ、……万が一お前に惚れ薬を盛られてアホみたいにデレデレし始めたら公爵家の恥晒しだ」
「ひどーい!」
そんなことしませんよぅ、と後輩が頬を膨らませた。腹の前で皿を持ったままいそいそと近づいてくる。
「初めてお菓子作ったんですよ! ねー食べてくださいよぅ」
「嫌だ! なんだお前……盛ったのか! 盛ったんだな!? 退学だぞ」
「違いますよぉー! わたしはただ本当に先輩に感謝を伝えようと」
ずい、と差し出されたケーキは、贔屓目に見ても、とてもじゃないが『美味そう』という評価は下せない代物である。たとえ惚れ薬が入ってなくても、正直あまり食べたくない。
まさか後輩が自分に菓子を作ってくるなんて思っていなかった。謎の動揺に襲われて、何故か足がもぞもぞとする。
いや、この自分が、後輩がケーキを作ってくれたくらいで動揺するはずがない。ラクスは勢いよくかぶりを振って、勝手に持ち上がろうとする口角を手で無理やり下げた。
厳しい視線を後輩に向ける。
「何だ、たしかお前、病気の母親がいて薬代がかさむって言ってたな……俺に取り入って公爵家の一員になろうったって、親戚一同が平民を認めるとは思うなよ」
「先輩って、悪い人ではないんですけどすごくナチュラルに平民のこと見下してますよね」
珍しく語尾を伸ばさずに放たれた一言に、うぐ、と息が詰まる。後輩の口元は笑っているが、その目はどう見ても笑ってなかった。
今のは流石にまずかった。自分でもそう悟って、ラクスは慌てて弁明しようと身を乗り出す。
「いや、今のは……」
「いえ別に良いんですよ。見てきた世界が違うんでしょうし、先輩は多分そのままでも支障なく生きていけるお立場の人ですから。でも優秀でバランス感覚の良い部下をつけるようにしてくださいね。生きてる世界の違いは自分じゃ埋められないものだって、よく分かりました」
後輩は冷ややかな笑顔のまま言い切ると、ケーキを皿ごと棚に戻してしまった。それを目で追ってしまうと、「あとで処理しておくので放っておいて結構です」と険のある声が飛んできて、思わず狼狽える。
「……用事があるので帰ります」
後輩は鞄を肩にかけると、こちらに一瞥もくれずに扉の方へ向かってしまう。後輩にこんなに素っ気ない態度を取られたのは初めてだった。いつも人懐っこくてヘラヘラしている後輩だが、どうやら今度こそ逆鱗に触れてしまったらしい。
弁解の言葉を並べるが後輩は既に聞き入れず、「では」と一言言っただけで生徒会室を出ていってしまった。ぱたん、と扉が閉じたあとの静寂が痛い。
「や、やってしまった……」
ラクスは肘をついて顔を覆った。今のは流石に、自分が100対0で悪い。いくら動揺したとはいえ、後輩の家庭事情を揶揄するようなことを言ったのは完全にやりすぎだ。
(ん? 動揺?)
と、そこで思考を振り返って顔を上げる。
(俺は動揺してたのか?)
念の為、手首に指先を当てて脈拍を測った。平常よりは早い気がする……が、これは恐らく後輩を怒らせたことによる恐怖の心拍数だろう。
(いやまさか……俺があんなちんちくりんの後輩に手作りの菓子をプレゼントされたごときで動揺するはずがない)
ふう、と息をついて落ち着こうとするが、視線が何故かさっきから自然に右へ吸い寄せられようとする。そこに何があるかといえば、先程後輩が『ほっとけ』と言ってしまい込んだケーキである。
「………………。」
頬杖をついたまま、ガラス扉の向こうでカバーをかけられているケーキを眺める。
確かにあの後輩は惚れ薬を簡単に作れる魔法薬専攻の生徒で、恐らくは金に困っている平民で、自分は潤沢な資金のもと生まれ育った公爵家の人間である。
去年の事件も、困窮した没落貴族の令嬢が一発逆転を目論んだ結果だという。
与えられた環境から抜け出すための方法として、身分の高い人間に取り入ろうとするのは、少々釈然とはしないが、有効な手段のひとつである。だからといって、自分たちが大人しく利用される謂れはない。そのための自衛だ。必要な警戒だ。
でも、
(……一口くらい、食ってやれば良かったか)
初めて作ったんですよ、と後輩の言葉が蘇る。あのときの笑顔を思い出すと、何だか変な気分になった。頬杖から顔を上げて、机に手をつくと慎重に腰を上げる。
棚を開けて、ケーキの乗った皿を取り出す。そこいらの商店街で三枚いくらで売っているような、粗悪でセンスのない皿である。
(これもノブレス・オブリージュってやつだろ)
内心で何故か必死に言い訳しながら、皿を手に席に戻る。まさかどこかから覗き見などされてないだろうな、と背後の窓を振り返ってカーテンを閉めようとした瞬間、ラクスは完全に動きを止めた。
一望した中庭の中央で、見覚えのある二つ結びと知らない男子生徒が対面している。ラクスは思わず椅子を蹴倒して、額と鼻先と両手で窓に張り付いた。
「な、何だ……用事があるつってたのは……男からの呼び出しか……!?」
目を剥いたまま、ラクスは唖然として中庭を睨みつける。衝撃である。
後輩は顔を赤くして俯いており、その前で何やら小包を差し出している男子生徒は負けず劣らずの顔色で長広舌をふるっているらしい。
「どう見ても告白されてんじゃねぇか……」
いや、後輩がどこの誰に告白されようと自分には関係のない話である。ラクスは窓から離れるとふるふると首を左右に振って腕を組む。
「俺には関係ないからな」
言いながら、ケーキ皿を覆っていたカバーを外す。ご丁寧にフォークまで添えられていた。フォークをむんずと掴みながら、視線がひとりでにふらふらとさまよって、窓の方を見てしまう。
「あいつ、まさか告白受けるんじゃないだろうな……俺に菓子作っといて舌の根も乾かぬうちに別の男に乗り換えるなんて……良い度胸をしている……」
端を削り取って口に含んだチョコレートケーキは、いかにも素人が作った、可もなく不可もない味をしていた。
***
(ね……寝れない!)
何故か目が冴えて眠れないのである。ラクスは首の高さまで引き上げた布団を両手で掴んだまま、仰向けで天井を睨みつけていた。
(おかしい……こんなことは今まで一度もなかったのに……)
何故か胸の内がもやもやとしている。原因は明白だ。さっきから脳裏に後輩の顔がちらついて離れない。思えば帰宅時から……いや、後輩に冷ややかな目を向けられたときから、ずっとだ。
『生きてる世界の違いは自分じゃ埋められないものだって、よく分かりました』
見捨てられた、と感じた。いつも何を言ってもへらへら笑って甘えるような態度をしていた後輩が、あのとき本当に失望したような目をしていたのだ。
普段なら『別に何と思われようが問題ない』と切り捨てることができるはずの不安が、何故か胸の内にまとわりついて離れない。
それからほとんど間を置かずに、後輩が別の男に向けていた照れ笑いが瞼の裏に浮かぶ。訳の分からない不快感である。
(おかしい……胸が痛い、……病気か!?)
がばりと身を起こし、手首の内側に指を添える。どくん、どくんと血管が大きく脈打っている。普段より倍近く速い。
『せんぱーい! 今日は早いんですねぇ!』
以前、校門前で鉢合わせたときの光景が、勝手に脳裏に蘇る。朝日を浴びながら、後輩が大きく手を振ってこちらに合図している。みっともなく大声を上げて、普段ならすぐに黙らせるけど、そのときは周りに誰もいないから理由が見つけられなかった。
『何でこんなに朝早くから来てるんだ』
『それはこっちの台詞ですよぅ』
ちゃっかり隣を歩きながら、後輩が面白がるようにこちらを見上げる。
『――お花、見に来たんでしょ』
に、と前歯を見せて後輩が笑う。図星だった。思わず狼狽えたラクスに、後輩が得意げな顔をする。
『最近ずっと裏庭の方ばっか見てましたもんね。ちょうど一昨日あたりから満開ですから。放課後は生徒会活動がありますし、昼休みもみんながお弁当食べてて見に行けないと思ったんですよね?』
図星も図星だった。そこまで言い当てているということは、後輩がこんな早い時間から登校しているのも偶然ではないのだろう。
計画を丸裸にされて黙り込むラクスを肘でつついて、後輩がちょっと声を上げて笑う。
『もう少し喜んだらどうですか、せっかく可愛い後輩がお供しに来たんですから!』
『自分で言うな』
『ぎゃっ』
余程急いで出てきたのだろう。上着も忘れて寒々しい格好で暴れている後輩に外套を投げると、後輩が変な声を上げる。
胸の前で外套を抱えたまま、後輩は目を白黒させていた。
『な……なんですか、これ』
『風邪でもひかれたら困る。来週総会だぞ』
素っ気なく答えると、彼女の頬が赤くなった。さっきまでうるさいくらい喋りまくっていたのに、いきなり静かになる。その沈黙が妙に居心地悪かったので、つい思ってもない言葉が出た。
『……馬鹿は風邪ひかないから杞憂だったか』
『ひどーい!』
再びやかましく喚きながら、後輩が腕を振り上げる。なかなか袖を通そうとしない後輩の肩に無理やり外套をかけてやって、ラクスは顰め面で裏庭の方向を指さした。
『他の生徒が来る前に行くぞ』
うん、と満面の笑みで頷いたリスティアの顔が、明るい朝の光で輝いていた。
体が火照っていた。何でいきなりこんな前のことを思い出したのか分からない。
(演劇や小説の回想シーンでもあるまいし……)
しかし、この心拍数は明らかに異常である。心臓に不調があるのかもしれない。
(病気? いや、まさか……!)
ハッと口を押える。三分の一ほどを食べたケーキの存在を思い出す。
新たな校則。生徒による惚れ薬の精製、売買および使用を禁ずる。破った生徒には罰則。魔法薬専攻の生徒の場合は、今期の成績取り消し。
『いやー、名門だけあって学費も馬鹿にならないですからねぇ』
去年の学園祭のあと、生徒会役員で打ち上げに行くことになった際に、笑顔で首を振った後輩のことを思い出す。少し切なそうに一人で寮へ帰ってゆく後ろ姿が、やけに小さかったのだ。
瞬間、痛切な感情が込み上げて、息が止まった。慌ててかぶりを振って、後輩が知ったら怒られそうな同情をかき消す。今まで何とも思ってなかったはずなのに、後輩の一挙一動を思い返しては胸がざわつく。
(間違いない、――盛られた!)
確信して、ラクスは血の気が引くような気がした。動機は十分。状況も完全にそうだ。
今まで全然気になってなかった後輩のことが、気になって仕方ない。これが惚れ薬の効果でなくて何だというのだ!
(でも、俺が告発したら、あいつは……)
成績取り消しとは、すなわち留年がほぼ確定するということである。後輩に、その分の学費が払えるとは思えない。
国内で薬師免許を取得できる学園は限られている。ここで中退すれば、恐らく後輩は薬師になれないだろう。
突如として目の前に立ち現れた天秤に、ラクスは懊悩した。
***
「……先輩、今日は早いんですね」
人気のない生徒会室で、リスティアはぎこちなく振り返った。
「簡単な予想だ」
言いながら、後ろ手に扉を閉じる。後輩が体を強ばらせた。
「昨日、持ってきたケーキのことを、お前は『自分で処理するから放っておけ』と言った。何故かと言えば、その後に用事があったから。目立たずには持ち歩けない大きさの皿だったからな」
「まあ……そうですね」
「ではいつ回収するかといえば、早朝、それも一度登校してから寮へ戻って再度登校できる程度には早く、だ」
「合ってますが、そんなに仰々しい雰囲気を出して言うほどの内容じゃないですよ。殺人事件の犯人じゃないんですから」
へらりと後輩が口元をゆるめて首を傾げる。なんだくそ可愛いな、
「じゃなくて」
「何がですか?」
額を押さえて頭を振る。後輩は怪訝な顔である。
ラクスはしばらく黙り込んでから、リスティアを見据えて慎重に告げた。一晩中考え抜いた結論である。
「……卒業したら、エヴェーリル地方に領地をもらえることになっている」
「何の話ですか?」
「優秀な部下が欲しい。バランス感覚が良くて、視野も広くて、俺では手が回らないところに気づけるような部下だ」
「うん?」
白々しくすっとぼける後輩から視線を外すことなく、ラクスは毅然と額を上げる。
「余裕ができたら、またどこかの学園に通わせてやる。偶然金がある家に生まれたんだ、学費くらい何年でも払ってやる。俺がお前の人生を背負ってやるから、だから、――大人しく罪を認めてくれ!」
そう言うと同時に、生徒会室の扉が開け放たれた。待機していた教師陣がなだれ込み、リスティアを手早く拘束する。
「え!? 何ですか!?」
リスティアは為す術なく取り囲まれ、訳が分からないというように立ち竦んでいた。
「来なさい、話はあとで聞く」
大柄な体育教師に背を押されて、後輩が部屋を出される。入れ違いに魔法薬教師が入ってきて、戸棚の中を覗き込んで眼鏡をクイと上げた。
「これが、惚れ薬が使用されたとみられる食品ですか?」
「はい、間違いありません。昨日食べたときの形跡とも一致します」
ふむ、と教師がケーキを取り出してしげしげと眺める。
「とりあえず、押収しておきましょう」
ラクスは生徒会室に来る前に、職員室へ行って教師にリスティアの行ったことを報告していた。証拠はいずれ上がるだろう。
***
広々とした大会議室の中央には巨大な机が据えられ、それを囲むように教員が席を並べて険しい顔をしている。
たかが生徒一人、されど生徒一人。未来ある少女の人生を左右しうる決定の場に相応しく、会議室には重々しい空気が張り詰めていた。
「それで、先生。鑑定結果はどうでしたか」
教頭が厳しい声で魔法薬教師を振り返る。参加者の視線を一身に集めながら、彼は「そうですね」と言いづらそうに口を開いた。
前年度に起こった王太子への惚れ薬投与事件のこともある。多忙で学園内にいることの少ない学長までもが出席して、成り行きに目を光らせていた。
末席で小さくなっている後輩を、ラクスは物悲しい気分で眺める。仲のいい後輩だと思っていた。それほど思い詰めていたのなら、相談してくれれば援助してくれそうな知り合いを紹介することだってできた。
それなのに、リスティアが、校則違反と分かっていて自分に惚れ薬を盛るだなんて……。
「結論から申し上げますと、惚れ薬は含まれてませんでした」
「は?」
ケーキの乗った皿を持ち上げながら、魔法薬教師はあっさりと告げた。ぽかん、と間抜けな空気が流れ、それから一同の視線は教師から横滑りして告発者のラクスへ向いた。
「ま、待ってください!」
これではまるで、自分が後輩を貶めようと嘘の告発をしたかのようじゃないか! 予想外の結論にラクスは顔をひきつらせ、天板に手をついて立ち上がる。
「絶対に惚れ薬を盛られたんです! だって昨日、彼女が持ってきたケーキを食べてから、何かずっと動悸がして、原因不明の胸の痛みやら、そう……そうだ、彼女の顔がずっと頭から離れなくて! 絶対に何かを盛られたに決まってます!」
隅の席で何故か頭を抱えている後輩を指さして、ラクスは懸命に訴えた。こんなに理路整然と語っているのに、何故か喋れば喋るほど教師陣の顔が死んでいく気がする。おかしい。
「……念の為訊きますがね、昨日、他にいつもと何か変わったことはありましたか?」
教頭の言葉に、ラクスは狼狽えながら記憶をさらう。
「いえ、昨日は別に……大量に運び込まれた他の菓子には手をつけませんでしたし、例のケーキを食べた以外は何も。あ、あと……後輩が告白されてるの見てちょっとビビりました」
「なるほど、それですね」
閉廷、と言わんばかりの口調で教頭が結論を出すので、ラクスはラクスは泡を食って反論する。
「そんなはずないです! 何なら今朝見たときから異常に後輩がかわい」
「もうこれ以上はやめてください!」
悲鳴のような声で叫んで、後輩が椅子を蹴倒し立ち上がった。
「信じらんない……こんなことになるなんて……」
顔を真っ赤にしてわなわなと震えている後輩に、ラクスは更に動揺する。何故か教師陣が三々五々席を立って部屋を出ていく。
「ま、しっかり話をするんだな」
すれ違いざまにぽんと肩を叩かれて、ラクスは呆気に取られて絶句した。おかしい、高位貴族に対する惚れ薬投与など、もっと大問題になって然るべきである。それなのに何なんだこの冷淡な対応。妙だ。
会議室の端と端に二人だけ残されて、ラクスは茫然自失としたまま後輩を眺めた。リスティアは腹の前で両手を握ったまま俯いて喋らない。
「あ、あの」
咄嗟にラクスの口から出てきた言葉は他人行儀だった。等間隔に並ぶ窓から、斜めに降り注いだ光が四角く机の上に落ちている。
「……先輩、わたしのこと疑ってたんですね」
後輩が微笑んでいる。ほんの少し眉根を寄せて、それは明白に傷ついた表情だった。
「わたしがお金目当てで惚れ薬盛ったって? ……先輩がわたしの境遇からそう思ってしまうのは自由ですけど、お手製のケーキに混ぜて食べさせるなんて杜撰な方法を取るほど馬鹿だと思われたことの方が業腹ですね」
ふふ、と茶化すように両手を広げて、リスティアは小首を傾げた。いつものような、邪気も他意もない笑顔である。そう見える。
それを見た瞬間に、思い込みに気づいた。ラクスは慄然として立ち尽くす。何か恐ろしい事実に直面した気がする。
(……薬が盛られてなかったなら……つまり、ど……どういうことだ?)
直視したくない可能性が、目の前を何度もよぎって離れない。惚れ薬もないのに、後輩のことが気になって気になって仕方ないなんて、それって、まるで『そういうこと』みたいじゃないか……!
「朝方の生徒会室での会話は聞かなかったことにしますし、今しがたの話もなかったことにしますから、安心してくださいね!」
リスティアがぐっと親指を上げて合図する。そのままさっさと部屋を出ていくので、ラクスは思わず駆け出していた。
「えっ!? 逃げ足速すぎだろ……」
会議室を出たときには、既にリスティアの姿はなかった。右を見ても左を見ても人の気配はない。きょろきょろと頭を動かすラクスの視界の端に、渡り廊下を歩く人影が見えた。
「もうあんなところに!?」
異常に速い。すたすたと大股で歩いてゆくリスティアの後ろ姿は見る見るうちに遠ざかっていった。大慌てで追いかける。
「待て!」
ようやく後輩に追いついたのは、生徒たちが大勢行き交う玄関ホールだった。大きく弧を描く階段の上から大声で呼びかけると、戸口のところで彼女がくるりと振り返る。癖毛のツインテールが揺れる。
「え? 何?」
「会長がフラフラしてる」
「リスティア書記は嫌そうな顔してるけど……」
ざわざわと生徒たちが顔を見合わせる中、ラクスは覚束無い足取りで階段を降りた。後輩は身構えるように肩を強ばらせている。
「……悪かった!」
勢いよく頭を下げると、周囲が悲鳴のようなどよめきに満ちた。後輩は「ちょっと!」と慌てふためいた様子で肩を押して体を起こさせようとする。譲らずに腰を直角に折ったまま、ラクスは強く目をつぶって毅然とした声で告げる。
「変な疑いをかけたことも悪かったし、そもそも昨日の発言は不適切だった。謝罪する」
「はい、あれは正直ちょっとね、わたしじゃなかったら見放してますよ」
いきなり近くから声が聞こえて面食らった。はっと目を開ければ、膝を抱えてしゃがみ込んだ後輩が、下から顔を覗き込んでいる。
「……良いですよ。先輩が悪人ではないことは知ってますし、……わたしが惚れ薬を盛ったと思い込んだ上で、わたしの人生のことまで考えてくれたこと、本当に嬉しいです」
からかうように、後輩が口元に手を当ててちょっと笑う。今更ながら己の所業を思い出して、カッと頬が熱くなった。
「――わたしの人生、背負う覚悟だったんですか?」
つん、と額を人差し指一本で突かれる。自然と顔は仏頂面になった。「任せろ」と大変不本意に吐き捨てると、ラクスは体を起こす。
「なあ」
膝に手をついて立ち上がった後輩を見下ろして、声は何故か喉元で滞っていた。
「……昨日の放課後の告白、なんて答えたんだ」
恥を一旦かなぐり捨てて問うと、リスティアは呆気に取られたような顔をして、それからにんまりと笑った。んふ、と堪えきれなかったらしい笑い声が漏れる。
「嬉しいけど、気持ちには応えられないってお断りしました。わたし好きな人いますし」
「だ……誰だ!?」
「ええー、言いませんよぅ」
頬に手を当てて、後輩がくねくねと妙な動きで拒否を示す。何だか腹の立つ踊りである。
「……言わないなら、魔法薬専攻の生徒に金積んで自白薬を買い付けてくるぞ」
「いや確かに自白薬は校則で禁止されてませんけどね」
唇を尖らせてリスティアが目を逸らす。断固として口を割る様子がない後輩を眺めて、ラクスは腰に手を当てて嘆息した。本当に口を割らない。
割らないが、でも、わざわざ手作りのケーキを丸ごと贈ってくれたんだから、ちょっとは自惚れても良いんじゃないだろうか。
「リスティア」
呼んでから、後輩の名前を口に乗せるのは初めてであることに気づいて赤面した。後輩自身もびっくり顔で目を丸くしている。
「あのさ、その……」
何を口走ろうとしたのかは自分でも分からなかった。後輩は何やら期待のこもったキラキラした目でこちらを見上げている。
「こ……これからも、よろしく」
辛うじて絞り出した一言に、リスティアはちょっと不満げな顔をした。が、すぐに破顔して片目をぱちんと閉じる。まあいっか、と独り言が聞こえた気がした。
「もちろんですよ。よろしくお願いしますね、先輩」
後日、ラクスがリスティアに対して公開告白に踏み切ったという、根も葉もない……と言ったら嘘になる噂が出回ったのが、一番の問題だった。
『あなたに恋人ができたという噂を聞きました。お相手がどんな方でも口出しはしませんから、早いうちに連れてきなさい』
文体は厳格ながら、内容が明らかに浮かれている。久方ぶりに届いた母からの書簡を前に、ラクスはどう返信したものかと頭を抱えた。
***
「――全くもう、先輩ったら、やっぱりわたしが惚れ薬盛ったと思ったのね。心外だわ」
ひどーい、と頬を膨らませる。ポケットから取り出したフォークを顔の高さに掲げて、リスティアはため息をついた。
「こんなに弱ぁい自白薬なのに、あんなに効いちゃうなんて、先輩、きっと魔法薬が効きやすい体質なのね」
まさか全教員の前であんな演説をされるなんて、想像だにしていなかった。僥倖だけど、恥ずかしすぎた。
ラクスが惚れ薬を警戒するのは織り込み済みだ。だが、惚れ薬が検出されることはない。ケーキから何らかの薬が見つかることもない。
(……そんな間抜けな方法を、わたしが取るわけないでしょ、先輩)
単純な話である。
ケーキではなくフォークに。惚れ薬ではなく自白薬を。
布で丹念にフォークの先を拭い取り、塗り込んでおいた自白薬の痕跡を消し去る。もはやこの仕込みが露呈することはないだろう。自白薬という単語が先輩の口から出たときは、正直ぎょっとした。
「他にどんな輩が薬を盛ろうとするか分からないし、やっぱり、わたしが傍で見ててあげなきゃ危ないんだから」
今日は薬のおかげでちょっと素直な先輩が見られたけれど、あれはドーピングのようなものだ。多用は良くない。
薬を拭き取った端切れを暖炉の中に放り込んで燃やす。証拠隠滅を終えてからフォークにそっと口付けて、リスティアは自室でひとり微笑んだ。
お前の人生を背負ってやる。そう言い放ったときの、決然とした顔を思い出す。まさかそう来るとは思わなかったけど、あんな顔が見られたのなら大収穫だ。あんまり蒸し返したら、また拗ねてしまうだろうけれど。
あれだけ大々的に騒いでしまえば、ラクスも発言をなかったことにはできまい。
変なプライドと自意識過剰と斜に構えたひねくれ具合も嫌いじゃないけど、あんまり度が過ぎると単なる失礼だ。自分に近づいてくる人間が全員金目当てだと思い込むあたりは、むしろ卑屈なのか何なのか。性根を叩き直してやりたい。
まったくもう、と小さく呟いた。
「かわいい人……」
くすりと笑って頬杖をつく。初めて名前を呼んでくれた声を反芻しながら、リスティアは窓の外を一瞥した。
「素直になれるまで、ちゃーんと面倒見てあげますからね、先輩」
バレンタインに全然間に合わなかったんです