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君の瞳の影~The Shadow Of Your Eyes~

作者: 弓筆人

◇◇◇◇◇◇◇

「あなたの為を想って敢えて言いますが、残された命の時間はそう長くないでしょう…。

…心の準備だけはしておいてください…」


体の節々の痛みや食欲不振、体重減少、倦怠感を訴え、ポツポツと陰鬱(いんうつ)な小雨が初夏の若草を濡らす早朝に病院を訪れた青年が、延々と待ち時間の続く検査の後、数多くの命を救った優しさと、救えなかった幾多の命の哀しみを顔の皺に刻んだ老いた医師から、

「入院して詳しく調べた方がいいが、あなたの症状は全身に転移した胃癌でほぼ間違いないでしょう…」

と症状の説明を受け、最後に()くの如き宣告が為された。

雨が強まり、診察室に鈍い音を立て遠雷が鳴り響き、蛍光灯に淡く染まった診察室の窓を怪しく照らした。

その言葉に青年は、

「僕、どうせ死ぬなら苦しむのはいやです…」

と訴えると、老医は、

「抗癌剤を始めとした化学療法の事ですね?…わかりました。配慮しましょう。…これからすぐ入院してもらっても構わないかね?」

「…はい…」

そうして老医は診察室を出る孤独な背中を見送ると病棟へ内線の電話をかけた。


それから間もなくの事である。

「六号室の患者さんの採血済んだ?それと検体とったら師長さんのところ行ってくれる?連絡あるみたいだから」

「はいっ、わかりました」

素早く返事をすると若き看護師は医療器具を載せたトレーを手に、病室のベッドに座っている老人の元へ駆け込んだ。そしてゴム紐状の駆血帯(くけつたい)を取り出し器用に老人の腕に縛り付けると、鬱血(うっけつ)した静脈にアルコール綿を擦り当て、紫色に透けた血管に素早く穿刺(せんし)する。

「看護婦さん、上手だねえ。痛くない」

老人の喜びの混じった驚きに、

「痛みを感じる部分は皮膚にあるから一気に刺せば痛くない時もあるんですよ。よかった」

若き看護師は澄んだ瞳で優しく語りかけると、採血ホルダーに採血管(スピッツ)を挿入する。小気味よく管に静脈血が流れる。そして採血管に血が溜まると慣れた手つきで取り出し、攪拌(かくはん)しては新たに一本、また一本…。そして最後に駆血帯を外して針を抜き、絆創膏(ばんそうこう)で止血して強く押すよう優しく指示し彼女は採血を終えた。

針を処理し採血管を試験管立て(スタンド)に据えて、看護師は足早に師長の元へ向かう。

「来たわね。あなた、ここで一年の研修期間(プリセプターシップ)も終えたし、そろそろ一人も慣れてきたわね。それで、今日検査入院で入る患者さんなんだけど、あなたに任せたいの。悪性腫瘍(しゅよう)のエンドステージ。あなたにとって初めての受け持ちになるけど…出来るわね?」

優しそうだが、同時に威厳を感じさせる師長からの突然の申し出に若き看護師は、

「えっ?まだそんな患者さん私には…」

と、最初はおおいに戸惑(とまど)っていたが、

「出来る出来ないじゃないわ!やるのよ。大丈夫、フォローするから!頑張りなさい!」

「…わかりました。全力を尽くします…」

と激励を受け、遂にはその覚悟を決めた。


こうして青年のもとへ(つか)わされた若き看護師は、精一杯の笑顔を作る。

「はじめまして。担当をさせていただくことになりました。一生懸命お手伝いします。よろしく御願い致します」

「…よろしく…」

それから青年が病棟で病衣に着替え床に就いたのはもう暮れ時になろうとする頃だった。

勢いをつけた雨脚が病室の窓を強く叩いた。

◇◇◇◇◇◇◇

それから死刑宣告を待つ被告のような永い孤独の日々が青年を待ち構えていた。

消毒用アルコールの匂いが染みついた白い無機質な個室の簡素な病院用ベットとサイドテーブル、テレビと冷蔵庫のついた床頭台(しょうとうだい)、天井から伸びた間仕切りカーテン、そして隅に置かれたロッカーとスツールだけが調度品の寂寥(せきりょう)たる病室で、青年は静寂の中、不安や焦燥に耐え続けていた。

CTスキャン、MRI、超音波(エコー)、胃カメラ、大腸カメラ、ありとあらゆる検査が行われた。

若き看護師も検温や食事、鎮痛剤の服用の(たび)に病室を訪れ、言葉を失いそうになりながら、

「もう夏ですね。今日は全国的に三十℃を超えるそうですよ」

「今年も暑くなりそうですね…」

絞り出したさり気ない会話は青年の気を和らげたようだった…。


そして約二週間後、老医が病室を訪れ、

「残念ながらやはり悪性腫瘍でした。化学療法を受けたくないのであれば通院治療という選択肢もあるが、君は御両親の身寄りがないようだから入院を続けた方がいい」

と、精密検査の結果を伝え、

「…若くしてこのような病気になり心中察して余りあるが、あなただけに出来る事がきっとあるはず。お気を強くお持ちください…」

と言葉を閉じた。青年は、暗く俯いて、

「…はい…」

と応え、こうして入院生活が続く事となった。

◇◇◇◇◇◇◇

歳をとり老い衰え死ぬ…。誰しもわかりきった事であり、だからこそ人は日々精一杯生き、為すべき事を為し、後顧(こうこ)の憂いをなくして老いと死に臨むのではなかろうか。しかし、そんな当たり前の人生さえもが閉ざされるとしたら人は一体どうなってしまうのだろうか…。

若き看護師も教科書では習っていたし、ある程度は覚悟していたが、青年の魂は絶望の未来を受け入れる事が出来ず現実を逃避した。

診断が確定してからしばらくしたある日のことである。

看護師が癌による疼痛(とうつう)を抑えるモルヒネの服用の為青年のもとを訪れると、

「すいません、自宅で身辺整理をしたいので外泊します」

「わかりました…でもちょっと待ってください」

看護師は青年の申し出に待ったをかけた。

「外泊は医師の許可があれば可能ですが帰ってくるときにいつも酒臭いですよね。アルコールには副作用がありますし肝臓にも癌が転移しているんですよ!それに煙草!隠れて敷地内で吸ってるし、なによりその本数!肺にも転移してるのわかってないんですか!?告げ口するつもりはありませんけど命を粗末にするような真似はやめてください!」

若き看護師は温厚な性格に珍しく目を怒らせて心配をぶつけたが、それに対して青年は、

「放っといてください!痛てて…」

「ほら、そんな身体で無理するから…。安静にしててください!」

という彼女の心配をよそに、

「看護婦さん、僕もうどうせ死ぬんですよ。死ぬならいっそ好き勝手して早く死にたいんですよ…わかってくださいよ。」

と聞く耳を持たなかった。

炎天下、開け放たれた窓から降りしきる蝉時雨(せみしぐれ)雑音(ノイズ)が二人の喧嘩の声と相混ざって病室に不協和音をこだました。

人生とは実に皮肉に出来ていて不幸な人間ほど快楽に手を染めるものである。

こうして死を前にした青年と若き看護師の軋轢(あつれき)は酷暑の中、一月(ひとつき)ほども続いた。


『もうあの患者さん面倒見きれない…。…って、だめ!何考えてるの私!?』

情に厚く使命感の強い彼女も青年を看護することに迷いが出始めたそんな時だった。

その頃院内では無人島に自分だけの村をつくり動物達と(たわむ)れるオンラインゲームが子供達の間で流行っていた。

そしてその病棟には重い持病で入院生活の長く続いている病弱な少年がいたが、経済的に苦しいのか、ゲーム機もソフトも持っておらず、家庭の事情を子供ながらに理解しているのだろうか、少年はじっと我慢して楽しそうにゲームしている子供たちの輪を遠くから寂しそうに眺めているだけだった。

看護師もそんな少年を心配していて、この日も一人ぼっちの少年を見かけてせめてもの慰めの言葉をかけようとした、ちょうどその時である。

偶然近くで様子を見ていた青年がふと困ったように頭を掻くと、

「ちょっと待ってろ坊や」

と言って病室に消えて行き、しばらくしてから、

「ほら、俺のやるよ。子供たちと一緒に遊んどいで…」

と伝え、自身の病室から持ってきたゲーム機とソフトを少年に手渡した。

すぐにどこからか少年の母親がとんできて礼を言いながら、混乱したように青年に対応したが青年は再び髪の毛を掻きむしり、

「いやいいんです。僕はもうすぐこのゲーム…、…やめるつもりだったんで…。」

と、どこか寂しげに言葉を返した。

彼女は喜ぶ少年と居心地悪そうに頭を掻く青年を、なにか軽い魔法にでもかけられたかのように眺めていた。


それから一週間ほどしたある日、青年が外で一服しようとナースステーションの扉を横切ろうとした瞬間、中から声が聞こえてきた。

それは看護師長らしき人物と若き看護師との会話だった。

「私ね、あの患者さんを病院に置いておくのは正直もう限界だと想うの…。末期の悪性腫瘍で気の毒だとは思うけど度が過ぎている…。今度の会議(カンファ)で議題に出すわ」

師長は憂鬱そうに、だがきっぱりと語った。

しかしその提案に対して若き看護師は一瞬いつもはほがらかな明るい瞳を曇らせたが、

「それは待ってください!痛みがひどくなってモルヒネもふえてますし、彼がルールを守らないのは私にも責任があります。もう少し私に時間をください」

と頼みこんだのである。

「でもねえ…」

若き看護師の申し出に師長は言葉を(にご)したが、

「私がなんとかしますから、あの患者さんを看護させてください。お願いします!」

と力強く告げ再び頭を下げたのである。

これには師長も、

「そうよね、あなたのキャリアで最初のステージⅣの患者さんだし強制退院なんて終わり方したくないわよね…。

…わかりました。あの青年の件はしばらく私のところで預かっておきます。

その代わりちゃんとルール守ってもらうのよ。わかったわね!」

「はい、ありがとうございます!」

若き看護師は安堵(あんど)の声で感謝を述べた。

このやり取りを聞くと青年は頭を掻きむしり、うなだれたようにその場を去った。

◇◇◇◇◇◇◇

それからというもの、青年は放埒(ほうらつ)な生活をぴたりとやめて若き新人看護師の指導に素直に従うようになった。

酒の匂いをさせて病院へ帰ってくる事もなくなり、強いて言えば煙草を病院の敷地外にあるひっそりとした公園で日に数本吸う程度の事であり、それは一応形では禁止されているが末期癌患者の数少ない気晴らしの一つとして目をつぶれる範囲の事だった。

勿論青年の態度の変化になにより驚いたのは青年を擁護した若き看護師だった。


それから数週間ほどしてだろうか…。

「近頃生活態度が随分とよくなりましたね?」

どこかさり気なく問いただすような瞳で彼女は青年を褒めた。

するとその言葉を聞くと観念したように、

「…いや実は僕、こないだ自分を強制退院させるとかって会話聴いちゃったんです。だけど看護婦さん必死に止めてくれてましたね。僕看護婦さんに完全に見放されてると思ってたんですけど。ありがとうございます…」

と応えて礼を述べた。

それに対して看護師はやはりと思ったが、

「私は看護師として当たり前の事をしただけです。それに…、あなたがもし助からないんだとしても私はあなたに最後まで責任を持って関わる職務があります」

と、毅然(きぜん)として誠実に応えたが、その後で、

「それにあなた、他人(ひと)に優しくするのはいいですけど御自分の事も少しはしっかりしてください!…もう…バカなんだから…」

(ほお)を少し赤らめながらつけたした。

「ああ、あれ看護婦さんに見られてたんですね。いやあ、バカか…その通りかもしれませんね…。まあ、ともかく…こちらこそ。お願いします。」

いつものように頭を掻きながらどこか所在なさげに青年は挨拶を返したが、同時に初めて和やかな雰囲気が二人を包んだ。


それから数日後の事である。栄養点滴に訪れた彼女が視線を青年のサイドテーブルにやると、十冊ほどもあろう書籍の山とノートパソコンに気づいた。

「あっ、すいません…。隠すつもりじゃなかったんですけど僕小説書いてて…」

と青年は弁解するように言葉を切り出し、

「とは言ってもいつも最終選考止まりで賞をとった事ないんですけどね…」

とはにかんだように頭を掻くと、

「僕はもうどうせ死ぬんだと思って無茶してたんですけどね。僕みたいなろくでなしでも一生懸命庇(かば)ってくれる看護婦さんみてたら俺もなにかやらなくちゃって、それで最期にもう一作書いてみようと想ったんです…」

()ずかしそうに語った。

いつもは飄々(ひょうひょう)としているのだが珍しく動揺していた青年に若き看護師は、

「作品愉しみにしています」

と、優しく応えた。夏の終わり、暑気(しょき)が和らぎ、その隙間を縫って涼しい風が窓から病室へ流れた。(ひぐらし)が鳴いた。


この一連の出来事は、死の運命にある青年が若き看護師に厚い信頼を寄せ、看護師もまた青年に心を許すようになる、いわば二人の信頼関係と淡い想いの萌芽(ほうが)だった。

◇◇◇◇◇◇◇

慈愛に満ちた看護師の言葉と行為は彼を放蕩(ほうとう)から現実へと呼び醒まし、小説の執筆と賞の応募へと導いた。看護師にとっても逃れられぬ死を受け入れながら創作に打ち込み懸命に生きる青年は、同情と同時に尊敬の対象ともなった。

だが(ほの)かに惹かれあう二人がより想いを寄せるには、互いを深く知ることが必要だった。


そんなある日、

「あの患者さん変わったわね!やるじゃないの…」

師長から若き看護師は声を掛けられた。

「はい、ただ心のケアが…。私に出来る事ってなんだろうって…」

自信なさげに応えた彼女に、

「あの患者さんまだ若いからね、教科書通りも大事だけど、純粋にあの人の心に寄り添ってあげるの。あなたなら出来る!頑張って!」

「はい、頑張ります!」

師長のアドバイスは心に染みたようだった。


それから数日後の事である。執筆作業をしている青年に、

「あの、こんな事訊くのもなんなんですけど…、どうして作家になりたいんですか?」

看護師は問いかけた。

「どうしてねえ…?」

青年は自分にも問いかけるように(つぶや)いたが、

「僕片親に育てられたんですけど亡くなった親父が国語教師でね…。家には小説やら研究書やらが山のように(あふ)れていたんです。

で、僕の親父も本当は国語を教えるんじゃなくて自身が作家になりたかったんです。…だけど家庭の事情でそうも言ってられなくて食ってくために教師になったから…。

それでお鉢が俺に回ってきたっていうか…。

まあ言ってしまえば親父の夢の押し付けですかね…」

と、問いかけに応え始めた。

「大変でしたよ。子供の頃は…。

毎日学校から帰ったらひたすら小説を読まさせられては構造分析…。

それが終わったらひたすら作文書かされてねえ…。ほんと嫌になりましたよ。

それでいて、俺を怒る時は『そんな事じゃ立派な作家になれんぞ』ですからねえ。…ったく、誰のおかげで苦労してると思ってるんだか…。あの馬鹿親父が…」

青年は愚痴(ぐち)をこぼし看護師は微笑んだ。

「でもね、文明っていう言葉。あれはいわゆる(ふみ)を以て明らかにするという意味でね…。

言葉は人間の文化的活動の根幹(こんかん)なんですよ。その言葉を操って世界を創り上げ人の心を揺り動かす…。悪い仕事じゃないでしょ?」

「素敵だと想います!」

看護師はつぶらな瞳を輝かせて応える。

「…さあ僕の事はこれくらいで、今度は看護婦さんの事も聞かせてください。

なぜ今の御職業を(こころざ)されたんですか?」

青年も彼女に尋ねた。

「えっ?私ですか…。私はそんなうまく説明出来ないし…」

看護師は恥ずかしがったが、

「素直に応えてくれればそれで十分ですよ」

「じゃあ…私は…」

彼女も青年に背中を押されて語り始めた。

「私は幼稚園からずっと一緒だった幼馴染(おさななじみ)がいたんです。優しい子で頑張り屋さんで…。

お互いに気心の知れた苦しいことも楽しいことも分かち合った親友だったんです。

だけどその子高校生の時に白血病に(かか)って…。若くして亡くなってしまったんです…。

私はなにもしてやれなかった自分が嫌になって、その子のような患者さんを一人でも救う手助けになりたいと想って看護の道を選んだんです…」

「…そういやもう盆も過ぎますね…」


こうして二人の心の交流の灯火(ともしび)がともされ、そのゆらめきはゆっくりと熱を帯びていった。治療の回数やナースコールの音が重なる度に二人は徐々に仲睦(むつ)まじくなっていった。


そしてある日の事。若き看護師が青年の病室から聴こえるかすかな音色に誘われて彼の元を訪れるとノートパソコンから美しいギターの音色が静かに流れていた。

「いい曲ですね。切なくて、儚い…」

彼女は想わず感想を述べた。

「これは『ジョー・パス』というギタリストの『The shadow of your smile』という曲です」

「君の笑顔の影…」

「そう。ジャズの名曲で、『いそしぎ』という曲が登場した映画から生まれた訳があるんですが直訳するといまいち詩的じゃない。…それで僕、この曲の題名『The shadow of your eyes』のほうがいいなと想ってて…」

「『君の瞳の影』…?」

「人が哀しみを経験して成熟すると瞳の奥底に影が出来ると僕は想うんです」

青年は彼女に語った。

確かに青年の瞳には憂いを帯びた暗い影があり、それは彼が病魔に冒されているだけでなく、経験や書物を通じ、人生の不条理を体得して帯びた哀愁(あいしゅう)のようだった。


それはそうと、青年は創作に懸ける熱い想いを看護師が受け入れてくれていることに感謝し、彼女も執筆に夢中になる青年を看護する事が徐々に生き甲斐となっていった。

青年は明るくほがらかで一途に彼の命を救おうとする彼女に心を許し、彼女もまた死の暗い影を背負い孤独に創作に明け暮れる青年に想いを寄せた。元来磁石のS極とN極が引き寄せ合うに正反対の二人は惹かれあったのである。

そして青年は彼女が血圧や脈を測ってくれるだけで満ち足りた気分になるようになったし、彼女もただ青年が文献をパラパラとめくり、キーボードをカタカタと小気味よく鳴らす、その(かたわ)らにいるだけでなんとなく幸せな心地になっていった。


そんなある日青年の病室を老医が訪れ、

「痛みは強くなってないかな?強くなっているならモルヒネを更に増やすが…」

と尋ねた。青年はついこないだまで身体の疼痛を訴えモルヒネの投与量が日に日に多くなっていたのだが、その時青年は、

「先生、それが最近痛みをあまり感じないんですよ」

と快調そうに語り、老医は驚いた。

その時、偶然若き看護師が病室を訪れたのだが、その時ほころんだ青年と彼女の表情をみて、老医は『やれやれ』と小さく呟き、

「若いっていいね」

と言い残すと病室を去って行った。


かくして青年と彼女は看護と執筆を続けながら穏やかな幸せを育んだ。

この時、二人は恋人のように親密に寄り添っていたが患者と看護師としての仲をこえるものでも決してなかった。

そして二人にはそんな距離感が心地よかったし、それ以上の関係になることもそれ以下の関係になる事もできなかった。

この時の二人はまだ若すぎたのかも知れない。

限られた時のせせらぎを二人の幸せは静かに流れた。

蜉蝣(かげろう)初秋(しょしゅう)の空を揺らめいた。

◇◇◇◇◇◇◇

こうして二人は互いへの熱い慕情と自制の狭間から滲み出る淡い想いを育み、青年はその間も着実に小説執筆に取り組んでいた。

そして明けない夜などない。

公募の締切の間近に近づいた、秋の曙光(しょこう)が病室の白い壁を明るく染める心地いい朝の事。

看護師が青年の検温に訪れると、青年はノートパソコンを(にら)んでいた。

そしてほとんど眠ってないらしい血走った目が看護師の心配そうな視線とぶつかり、

「出来た…」

と蒼白い表情で小さく語った。

その言葉に彼女は、

「うん…」

と返すと、その後特例として病院のプリンターを使って原稿が印刷され、その日の午後看護師である彼女がつき添ってという条件つきで近くの郵便局への外出が認められた。

全ては執筆に疲れた青年が仮眠している最中に、青年の頼みを受けていた彼女が尽力(じんりょく)しての事だった。


二人が病院を出発した時刻には日が黄昏(たそが)れ始めていた。青年は病衣から、ブラウンのスラックスとジャケット、白いワイシャツに着替え、そして彼女は白衣から、真白なワンピースとピンクがかったベージュのカーディガンをあわせたいでたちだった。


「人事は尽くした。天命を待つ…」

郵便ポストに原稿の入った封筒をゆっくりと入れると青年は呟く。

「お参りしていこっか…」

その時そう言い出したのは彼女だった。

郵便局から病院へ帰る途中にこじんまりとした神社があるのを知っていたのである。


それからしばらく、二人は生い繁った草木の狭間、夕日の木漏れ日のなか神社への階段を踏みしめていた。鈴虫や蟋蟀(こおろぎ)が鳴き、儚く色づいた錦繍(きんしゅう)の如き紅葉(もみじ)や楓、銀杏(いちょう)唐紅(からくれない)黄金色(こがねいろ)に染まった秋が二人を包む。

そして(こけ)()した幽玄な石畳の参道を通り、鳥居をくぐると(おごそ)かな拝殿へと辿り着く。

そして参拝を前に彼女は財布に入っていた五百円硬貨を、青年は、

『ええい、ままよ!』

と心に叫ぶと【福沢諭吉】の札を賽銭箱(さいせんばこ)に投げ入れ二人手を添え鈴緒(すずお)を鳴らして手をあわせそれぞれに祈りを込めた。

『俺はもうやり遂げた。賞の事はもうどうでもいい。俺が死んでも彼女が幸せになりますように…』

青年は彼女の幸せを願い、

『私の命が半分になっても、あと一年になったっていい…。だから彼を長生きさせて…』

彼女は青年の命永からんことを願った。

想いを寄せあう二人のいと清らかなることよ。

こうして二人が参拝の後、鳥居をくぐり階段を降りようとしたその時である。

「あっ…!」

石段に(つまづ)き、倒れかかった彼女を青年の両手が優しく抱きかかえたのである。

少し頼りないが暖かく優しい感触だった。


そしてふと憂いの影を秘めた青年の(まなこ)と、(けが)れ無く澄み渡った彼女の瞳が見つめあう。

彼の瞳が(うる)みゆっくりと一粒の涙が頬を伝った。

「なんで泣くの…?…バカ…」

溢れる涙から何かを悟ったかのように、優しく瞳を閉じた彼女もまた涙を流していた…。


…そして二人はそっと口づけした。

彼女の身体を青年のなにかが流れた。


樹木(きぎ)から散る紅葉(こうよう)が儚く舞い、沈みかかった淡い夕日が祝福するように二人を照らした。

◇◇◇◇◇◇◇

その後二人はお互いを支え合い、連理(れんり)(えだ)のように病院への帰途についたが、

「俺、化学療法受けてみようと想って…。」

その途中、青年は決意したように語りかけ、

「えっ…。本当ですか…?よかった…」

彼女は透んだ瞳に涙を溜め、溢れるよろこびを隠しきれない様子だった。

そして終着に差し掛かろうとした頃の事。

「一服したいんだけど…」

彼女がコクリと(うなず)くと、青年は自販機に立ち寄り、病院の近くにある落ち葉舞い散る紅葉(こうよう)の樹木に囲まれたいつもの公園で、彼女はブランコに座りながらお茶を呑み、青年が缶珈琲(コーヒー)を手に立ち尽くし紫煙をくゆらせる様子を幸せそうに眺めていた。

こうした穏やかな幸せは永遠に続くように彼女には感じられた。

だがその時である。

青年が手にしていた缶珈琲を地に落とすと朦朧(もうろう)としたようにふらつき、膝をつくと力無く崩れ落ちたのである。

落ち葉に(いろど)られた地に崩れ落ちる青年と、飛び散り地を這う珈琲がアニメーションのコマ送りの様に彼女の目に鮮明に焼きついた。


それから間もなく病棟にストレッチャーの車輪の音が鳴り響き、看護師達によって苦しそうな青年は病室に運び込まれ、看護師長と共に老医が駆けつけた。

やはり彼が無心に小説を執筆していた間も、病魔は着実に彼の身体を蝕んでいたのだ。

「いかんなショックだ、DOA(ドーパミン)をγ(ガンマ)3で流して」

老医はすぐさま点滴(ライン)を確保して昇圧剤を投与し、病衣へ着替えさせられた青年は師長の指示で心電図から心拍数モニター、そして酸素マスクと酸素飽和度(サチュレーション)モニターを接続された。

それからしばらくして青年の安静を確認した老医と師長は看護師達と病室を後にしようとしたが、ふと、白衣に着替える間もなく病室の隅で小さく震えながら一部始終を見つめていた彼女を見て、去り際に目配せし、

「ちょっと…」

と彼女を病室の外に呼び出した。

「しっかりするのよ…」

「あの青年は長くない。そばにいてやれ…」

そう、優しく小声で語ると師長と老いた医師は静かに立ち去った。


病室に戻った看護師は胸元に組んだ青年の両手を握りしめながら、懸命になにかを言いたそうにしている青年の口元に耳を寄せ、その声を必死に聞き取ろうとする。

「看…護…婦…さん…」

病にやつれながらかすれ声で青年は語る。

彼女は青年の手をより強く握りしめ、かすかな言葉を必死に聞き取ろうとした。


「俺…、死ん…だら…、君の…瞳の…影…に…なる…」


「もう…そういうところが…バカなんだから…」

声を詰まらせながら彼女は応えた。青年の頬に彼女の澄んだ瞳の奥から(したた)る涙が(こぼ)れた。


それから数日後青年は息を引き取った。

彼女の瞳が、青年の作品の賞の行方を見届けた結果は知る由もない。

ただ彼女の光をたたえ澄みわたった瞳の奥に宿した影、少なくともそれが応えとなろう。

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