人間花火
煎った豆の匂いがした。香ばしいコーヒーの匂いだ。狭い待合室はたちどきに満たされる。飲み口から液体を吹きこぼすスチール缶が、転がりながら床を茶色く染めていく。やがて勢いを失った空き缶はミサキの足元に落ち着いた。
見てみぬ振りをする電車待ちの人々は、新聞紙を捲ったり、部屋を出ていったりする。
「ソーリー」
濃い黒髪をした浅黒い肌の男は、右手で後頭部を掻いている。空いている方の手でコーヒー缶を拾うと、彼はミサキから少し離れたところに座った。
彼の隣には、カールした金髪の男がサングラスをかけて手帳を眺める男がいた。
ミサキの足元でキラリと光るものがある。それは小さな十字架で、首にかけるためのチェーンがついていた。ミサキは立ち上がって、
「これ、落としましたよ」
十字架のネックレスを手渡された男の顔に花が咲いたような笑顔が弾けた。
「センキュー」
明るい表情とは裏腹に、瞳の奥に宿る仄暗い光にミサキは心惹かれた。
「ウェアーユーフロム?」
拙い台詞はどうやら通じたようで、
「ここではないどこかさ」
はっきりとした日本語で彼は答えた。はぐらかされても悪い気持ちはしない。彼の懐っこい笑顔が、緊張の糸をほぐしていく。
「観光ですか」
「いいや、別に」
彼の言う通り、大きな荷物は見当たらなかった。隣の金髪の男も同様に、持ち物は先から集中している手帳くらいだった。もしかすると留学生かも知れない。
「君のおすすめの場所はあるの?」
「ええっと、そうですねえ」
ミサキは名所を列挙した。仏閣、避暑地、庭園など、思いついた端から口ずさむ。黙って聞いていた彼は、突然肩をすくめて頭を抱えた。
「この国が好きなんだな」
冷たい視線と嘲るような言い種に、ミサキは言葉が詰まった。
「あなたは祖国を愛していないの?」
「もちろん、愛しているさ、だからこうして」
十字架のネックレスを彼は握りしめる。そして堰を切ったように語りだした。
「折角あげつらってもらった観光地なんて行かなくても、この国はどこでも素晴らしいよ。路上の自動販売機が壊されることはないし、街を歩いて背後から襲われることも滅多にないしね。濾過を繰り返し、浄化された水は、蛇口を捻ればどこでも飲める。義務教育があって、子どもが労働にかられることもない。地雷で手足をもがれることだってないだろう。しかもそれが全国津々浦々変わりないのだから。けれど君はおすすめを尋ねられて迷わず観光地を選んだ」
外国人に「おすすめは」と聞かれたら、ミサキだけじゃなくて、誰だって同じように観光名所を教えるに違いない。しかしそんなミサキの心は見透かされていた。
「そして君たちは恵まれた環境を、とりわけ意識したことはないはずさ。例えば学校に来ない子どもがいたらおかしいしと思うだろう。つまはじきにすることだってある。でも学校に通えない人間なんて、この世にごまんといるのにだ。君らのスタンダードは寧ろ世界のレールを逸脱している」
「そんなあなたはなぜこの国にいるのよ。そんなに不満だらけの場所にやってきた理由があるはずでしょう」
堪らずミサキは反論する。幸福かぶれのこの国に、ぬるま湯に彼も身を委ねたかったのではないのか。
「なぜって?それは」
「おい、喋りすぎだ、先に行ってるぞ」
口を開きかけた彼を、金髪の男が制止する。手帳をポケットにしまった金髪の男は、待合室を出てエスカレーターを下っていく。
しばらくの沈黙の後に、再び彼は話し始めた。
「君は政治家が好きか?」
また試されているのだろうか、ミサキはなかなか言葉が出てこない。
「もう一度聞こう、君は政治家が」
「どちらでもないわ」
この国の人間らしいと、蔑まれることをミサキは覚悟して言った。ミサキは自分の気持ちに自信が持てなくなっていた。あれほど恵まれていることを協調されれば、変に意識が働いてしまう。
「そうか、どちらでもないか。政治家たちは無償で交通機関を利用できるらしいじゃないか」
「そうなの?知らなかったわ」
「まあ知ったところでどうすることもできないだろう。制度を変えるにはそれこそ政治家になるしか道はないのだから。君たちが捧げた税金を肥やしにしている」
「でも政治家がいなくては、国が回らないわ。トレードオフよ、仕方ない」
十字架を握り締めながら、彼は注意深く言葉を選んでいるようだった。そして、
「そうだな、国を動かすための必要経費なのかも知れない。一旦この話は忘れてくれ。ところで君はチョコレートは好きか?」
「ええ、嗜む程度には」
「甘くて美味しいチョコレートはカカオでできている。しかしそれを農園で働く者は殆ど知らない。ただそこに雇用があるから、感謝の気持ちさえ抱きながら、黙々と作り続けるのだ。君たちの税金と同じだな」
腕時計に目を止めた彼は、おもむろに立ち上がった。そして胸の前で大きくクロスを切った。
「君は神を信じるか?」
ミサキは男の瞳が黒く濁るのが気になって、返事を忘れていた。
「次に会うときには穏やかに話そう、ではまた」
男が去った待合室には、コーヒーで濡れた床が茶色い光とともに、煤けた匂いを放っていた。
彼はコーヒー缶を忘れていった。ミサキは摘まんで捨てようとした手が止まった。
どのフロアのゴミ箱も封鎖されている。ロッカーには貼り紙がされ、使用禁止となっていた。
「ミサキー、お待たせ。さあ、行こっか」
友人がやってきた。
「うん、楽しみだねオリンピック」
ミサキは笑顔で迎える。
ホームへと向かう途中で、大きな花火の音が轟いた。開会の合図にしては早すぎる。
二つ目の花火の衝撃がミサキたちの身を包むとき、彼女の脳裏には、胸の前でクロスを切った男の姿が刹那的に蘇る。
途切れかける意識の角で、「私が神だ」と彼が言った。(了)
細菌でもよかったけど、このご時世ですから、自粛。