16 双眸の偽水晶
「静姉、知世ちゃんは?」
「奥で警備隊員が様子を見ています。まだ眠っていますが、目を覚ましたら、そのまま警備隊に身柄が搬送されるでしょう」
「そっか……」
リラの屋敷に案内された一同のもとに、ラセット・リラと二人の騎士がやってきた。黒い甲冑の騎士団長と、白銀の騎士こと浅葱蘇芳だ。二人とも兜を外して顔を見せている。
「浅葱さん、びっくりしたよ。リラのところの騎士だったんだね」
「黙っていてすみません。騙すつもりはなかったのですが、任務上は仕方なく」
「屋敷に潜入していたのは、目潰し事件のことでですか?」
「おおむねそのとおりです。ですが、私の調査ではお嬢様が怪しいということしか……どうにも決め手となる情報がなく、証拠も根拠も動機も見つからず。完全に手詰まりの状態でしたので、最終的には皆様の任務に便乗する形となってしまいました。探偵さん、お気遣いどうもありがとうございました」
「気遣いなどしておらん。私はどうでもいい情報をくれてやっただけだ。そら、忘れ物だぞ」
探偵が部屋から回収した盗聴器を浅葱に向かって投げる。それを受け取り、浅葱は挑戦的な笑みで探偵を見た。
「いつから気付いておいででしたか」
「たわけ。最初からだ。まったく、いい手癖をしている。私の護衛からは有益な情報を聞き出せたか?」
「いえ、残念ながら。彼はなんでも話してくださったのですが、どうでもいいようなことばかりで。まるで無防備なようでいて、腹の底では私を警戒していたのか。あるいは、そうなるように彼の持つ情報を徹底的に管理していた御仁でもいらっしゃるのか」
「そいつはただバカなだけだ。秋人ほど利用し甲斐のない人間はいないからな」
「左様でございましたか」
「え、俺の話?」
秋人が探偵と浅葱を交互に見るが、浅葱はなにも言わずにこりと笑うだけだ。探偵は無視している。
「私はリラ様の騎士であり、騎士団の諜報員として国内外を問わず、身許を隠した潜入捜査なども仰せつかっております。あらぬ疑惑を振りまいてしまい、申し訳ありませんでした」
「えー、俺全然気付かなかった」
「勇兄にぶーい。浅葱さんってクチはうまいけど演技は下手だったじゃん。ね、月?」
「……まあ、詰めが甘いところは多かったけど」
「私もまだまだ未熟ですね。お恥ずかしい限りです」
「空來くんって意外にズケズケ言うんだよなあ。如月くんも……」
「別に……僕も人を騙すのが本職だから、他人のそういうのにも目がいくってだけだよ。僕も空來も、騎士ってことまでは知らなかったし」
「男に気を遣って僕にメリットある? 僕が許すのは女の子の嘘だけだよ」
「雅日さんのことか? 浅葱さんのこともそうだけどよ、なんか気付いてたなら言ってくれりゃよかったのに」
「わかってないなあ勇兄は。女の子が嘘をついたときはね、それが嘘だってわかってても騙されてあげるのが男の甲斐性ってものだよ。それに僕が言わなくても來亜が言うと思ってたからさ」
空來が來亜を見る。來亜は先の騒動がおさまってからは召喚獣としての姿に戻り、なおかつ大幅にサイズダウンした状態で静來の腕に抱かれている。大きさとしては普通の猫と同じくらいだろうか。その姿が最も魔力の消費が少なく済むらしい。三対の赤い目が空來を見た。頭をなでようと手を伸ばすと、額の角で頭突きをされた。
「今って、屋敷のほうはどうなってんだ?」
「行方不明となっていた使用人の遺体は、既に警備隊が運び出しました。当主の身柄も確保しています」
「雅日さんは?」
「別室で他の騎士と警備隊員がお話をうかがっています。脅迫状の偽装に至った経緯などは、今のところすべて探偵さんが仰っていたとおりのようですね」
「あ、もしかしてお屋敷に警備隊の人が来たのって、浅葱さんが呼んだから?」
空來が雅日を迎えに出たときのことだ。月は警備隊が屋敷に来たので、守りを任せて空來に追いついた。そのことを問うと、浅葱は頷いた。
「リラ様が屋敷にいらしたころには連絡を済ませました。皆様が話し込んでおられるうちに、先に現場を見ておこうと小屋にいる間に騒動になったので、騒ぎに気付けず、少しばかり到着が遅れてしまい……」
「地下室って鍵かかってんだろ? あと岳さんの部屋も。鍵はどうしたんだ?」
「物置小屋の鍵は使用人なら誰でも持ち出せます。地下室の南京錠は簡単な構造でしたので、不躾ながら開けさせていただきました」
そう言って浅葱は自前のピッキングツールを見せる。勇來と秋人は顔をひきつらせた。
「騎士って……なんなんだ……?」
「なんでもできる男、怖っ……」
「えっと……で、さ。結局、知世ちゃんは大丈夫なのか? その、いろいろと……」
秋人が言葉に迷いながら探偵を見る。探偵は腕組みをしながらため息をついた。
「命に別状はないだろう。身体機能に問題はない。精神状態に関しては本人次第だ。何者かが余計な手を加えない限りは、もうあれが表に出て来ることもないだろうよ」
勇來がため息とともに舌打ちする。
「何者かって……さっきも話してた黒幕のことか。何者なんだよ、そいつは。そいつが知世に……なんだ? 心に干渉する能力かなんかをかけて、あんな変なのを生み出したんだよな?」
「あの異形は、言うなればパンドラだ」
「パンドラ?」
勇來が首をかしげる。リラが補足した。
「開けてはならない禁断の箱。その中身があの檻のような異形の者……と言ったところかな? カルセットではないし、かといって人間でも獣でもない。異様な気配だった」
「それは生きとし生けるすべての生命が内に秘める、無意識に閉じ込めた欲望の塊だ。いや、場合によっては命なきものにも宿ることもあるだろう。概念的な存在ではあるが、特定の条件を満たせばあの檻のパンドラのように実体をもって現れる。私も知識として知っているだけで、実際に目の当たりにしたことは……ないとは言わんが、それほど多くない」
「どういうこと? なんか、そんな変なのを操れる人がいるってことだよね? ……あ! それってこの前の会議で言ってた鍵がどうとか言う話?」
「私もロアさんから話は聞いているよ。『鍵』に気を付けろ、と。禁断の箱の鍵を開ける――いわば鍵師か。知世ちゃんはその人と接触してしまったんだね」
探偵は目を伏せたまま、なにかを考え込んでいる。この場でどこまで明かすべきかを悩んでいるのだろうか。秋人が心配そうにその顔色をうかがっている。
「探偵、さっきのあいつって……」
「もうこの国にはいないだろう、追うだけ無駄だ。……私と寿、秋人は既にその鍵師と接触を果たしている。早乙女知世を捕獲し、風音静來たちと合流するまでの間にな。発見したのは闇祢零羅だが、幸い鍵師にはまだ面が割れていない」
勇來が身を乗り出した。
「えっ、会ったのか?」
「捕まえられなかったけどね。こっちには知世ちゃんもいたし、向こうも一人じゃなかったから分が悪くて」
「こればかりは殴って終わるような簡単な話ではない。やつらの顔は覚えたが……厄介なことになったものだ」
「厄介?」
「このことはギルドには既に連絡済みだが、現状、鍵師の能力を防ぐ術がないというのが最も厄介だ」
「え、防げないの?」
「パンドラが顕現し、その持ち主すらを呑み込んだとき。その多くは本来の姿を保てなくなり、完全なる異形と成り果てるだろう。だが今回の一件で、パンドラが顕現した段階であれば対処可能であることが判明した。根本的な解決ではないが、収穫はあったと言える」
「うえー、わかんないことがさらにわかんなくなってきた……」
「ギルドに帰還後、すぐに会議を開く。そこでバカにも理解できるように話してやるとも。私はこれから警備隊の連中に話をつけてこなければならないのでな。今は詳しく話している時間がない」
探偵が部屋を出て行くのを見送り、静かになった部屋の中。入れ違いになるように一人の騎士が訪れた。騎士はなんだか少し戸惑っているような態度と声で、きょろきょろしながら用件を述べる。
「し、失礼いたします。リラ様、屋敷の前にお客様がお見えになっています」
「客? 来客の予定はなかったはずだけど……急な用かな」
「それが……そちらのギルドの皆様と同じくらいの年代の少女でして、なにかをさがしておられるようなのですが」
そのとき、静來の腕の中でおとなしく眠っていたように見えた來亜が、なにかに反応するようにぱっと頭を上げ、遠吠えのような高い声を出した。獣の存在に気付いていなかった騎士がおどろいてびくりとうしろによろめいて、鎧がガチャリと音を立てる。
「わわ、來亜どうしたの?」
遠吠えは止まず、來亜はなおも鳴き声を上げる。その場にいる全員がうろたえていると、廊下のほうでなにやら騒ぎ声が聞こえた。誰かを叱るような声。引き留めようとする声。二人分の甲冑が走るやかましい金属音と、一人分の革靴の音がみるみる近くなり、扉の近くに立っていた若い騎士が、横から伸びた手に押しのけられた。
「來亜!」
突然の闖入者が呼びかけると、來亜は静來の腕から飛び出して、一目散にその少女の胸に飛び込んだ。少女はそれを抱き留めて、互いの頬をこすりつけ合う。くるぶし丈のブーツに、膝が覗いたご機嫌なハーフパンツ。肩まで届かない短い髪と、深海のような青い目。月が苦虫を噛んだような顔をする。
「げっ、マジカル娘……」
「琴琶! なんでここに?」
勇來が声を上げると、世知那琴琶は來亜を抱いている反対側の手を軽く振った。同時に、リラが部屋の外にいた騎士たちに声をかける。
「さがりなさい。大丈夫、彼らの仲間だ」
「はっ」
ガシャリ、ガシャリと足音が遠ざかる。琴琶はその音を見送ってから、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、お邪魔します!」
「国の化身の住まいで、警備の騎士二人を振り切ってここまで侵入してくるそのメンタルは尊敬に値しますね」
「で、なんで琴琶ちゃんがここに?」
秋人が改めて問う。琴琶は肩に乗っている來亜の横腹をなでた。
「來亜の魔石が砕けたのがわかったから、大急ぎでお仕事片付けて飛んで来たんだよ。來亜は私と契約してるから、外付けの魔石が砕けたくらいじゃ簡単には消えないけど、それでも魔力が尽きたまま放っておけばいつかは消えちゃうからね」
「外付けの魔石?」
「召喚獣は体内に魔石があって、それが私たちで言う心臓みたいなものかな。生命活動を維持するだけならそれだけでもまあ大丈夫なんだけど、戦いとかでもっと動きまわったり力を使ったりするには、契約者である私の魔力を使う必要があるんだ。それは知ってるよね? で、すぐ近くにいるときはまだしも、離れた場所にいる間は魔力が届きにくくなるから、ちゃんと届くように受信機みたいなものが必要になるんだよ。みんながいつも見てる來亜の石がそれ」
「じゃあ、そっちの石が砕けても死にはしないってこと?」
「うーん、動けなくなるだけで半日くらいは大丈夫なはずだよ。契約者以外の人の魔力を吸収することもできるけど、來亜の魔力コストは半端ないからさあ。魔術系かそれ寄りの能力を持ってたり、とにかく魔力生成のコスパがめちゃくちゃいい人じゃないと一時間も持たずにすっからかんになるよ。あ、そっちの白い鎧のお兄さんなら勇來の三倍は持つと思うけど」
「私ですか?」
「浅葱さんの能力って武装系じゃねえのか? 武装系って他の能力と比べると、下から数えるほうが早いくらい魔力の生成量も消費量も少ないはずだけど……」
勇來が首をかしげる。
「でも魔術系に寄ってるように見えるよ? 魔術系は他の系統と違って、比較的自由に魔力を操れるんだよ。それで武装系ってことは……ねえねえ、お兄さんが召喚できる装備って自由度高いでしょ。形を変えられたり、剣も槍もたくさん出せたり」
「一度この手に取って使ったことのある武器なら召喚可能ですが、たくさんと言えるほどは出せません。三つが限度ですね。この甲冑もそのひとつでして。色は変えられないので、騎士団では目立ってしまうのが難点ですが」
「あ、だから一人だけ色が違うの?」
「來亜に魔力を補給したのはお兄さん?」
「いいえ。私はリラ様のお傍にいましたので」
「零羅ですよ、琴琶。ジオから預かっていたお守りの魔力を全部、來亜に譲渡して活動を維持させています」
琴琶が零羅を見る。零羅は無言だ。
「あー、どうりでハチャメチャに良質な魔力が詰まってると思った。ありがとう、零ちゃん。っていうか一時的とはいえ守護神の魔力もらうってやばくない?」
「やばーい」
「琴琶は來亜を迎えに来たんですか?」
「そうだよ。今は私がこうして近くにいるから、もう魔力の心配はないんだけど、早く魔石を復元するか新しいのを用意するかしてあげないとだから。來亜は私と一緒に、このままひと足先にギルドに帰ってるね。戻ったらジオにもお礼言わないと」
あッ! と、琴琶が鼓膜を突き抜けそうなほどの声を上げた。月が咄嗟に耳を塞ぐ。琴琶は静來のほうに駆け寄る。
「静來! 怪我してるじゃん、見して! うわー、めちゃ痛そう。ついでに治してくね。ちょちょいのちょいっと。ほら見て綺麗に治ったよ! これは奇術じゃできない高等魔術だね! すごい! 天才! さすが! じゃあ私帰るね!」
「なあ琴琶、來亜が唱えてた呪文の意味ってわかるか? らーらーなんとかかんとかって」
「呪文? ああ、ラー・ラ・パルーラマ・ル・ザムタ、だね? 意味っていうか、あれは『元に戻す』ための呪文だよ。いざというときに來亜が元の姿に戻れるように教えておいたんだけど、本当に必要なときにしか発動しないんだよ」
「呪文がないと戻れないのか?」
「來亜って本当はめちゃくちゃ大きいでしょ? ずっとその姿だといろいろ大変なことになるから、いつもは自由に戻れないように制限をかけてるの。それに今はちっちゃくてかわいいけど、本来の大きさだとちょっと怖いし」
「元に戻す……なるほど、それで……」
「今回はそれに助けられたね」
「來亜のための呪文のつもりだったんだけど、なにかの役に立ったならよかったよ。じゃ、またギルドでね。お邪魔しましたー!」
喋るだけ喋って用が済んだら、琴琶は來亜をつれて出て行ってしまう。彼女が去った直後は、なんだかやけに部屋の中が静かになったような気がした。
「嵐みたいだったな」
「反動なしの完璧な治癒魔術を見たのは初めてです、おどろきました」
浅葱の言葉に、秋人が首をかしげる。
「反動って? 完璧じゃない治癒もあるってことか?」
「ご存じありませんか。治癒魔術と言えば、むしろ不完全なもののほうが一般的なのです。傷口を塞ぐことは叶おうとも、痛みが残ってしまったり、術者が傷を肩代わりするなど、なにかしらのデメリットが生じりることが多くございます」
「肩代わり?」
浅葱の代わりに静來が頷く。
「たとえば、さっきの私の傷を治癒したとして、私は傷が治りますけど、代わりに治癒魔術をかけた人にその負担がかかって、治した傷と同じだけの反動を受けるんです。たしか癒暗の治癒がそのタイプですね」
「あー、そういえば治癒はめちゃくちゃむずかしいって癒暗が言ってたっけ。そういえば傷口を消すのなら月もできたよね。痛いままだけど……あれ? それって魔術なんじゃ……」
「ペテンだよ。傷口を消す手品なんだから、痛みがそのままなのは当たり前だし」
「そっかー」
「そういえば、今回は喧嘩にならなかったな」
「……別に、いつも喧嘩してるわけじゃないんだけど」
「先ほどの彼女は、態度や言動こそ明るくあどけない少女でしたが、魔術の腕前は相当のものです。いったい何者なのですか?」
浅葱が月に向かって問うので、月はなんとなく居心地の悪そうな顔で目を逸らした。
「……あいつはあいつだよ。ただの……一流の魔術師だ」
*
黒幕との邂逅は先述したとおり。早乙女知世の確保に成功した探偵たちが、檻のパンドラと交戦する静來たちと合流するまでの間に起きた出来事だった。
「知世ちゃん気絶しちゃったけど、大丈夫なのか? っていうか、なんで急に倒れたんだ?」
「中身が暴れているせいであろうな。あの檻の異形は早乙女知世の精神の一部。動力源はこの小娘の魔力だ。生命力と言い換えてもいい」
「えっ、それじゃあこの戦いが長引けば、知世ちゃんは……」
「そうなる前に檻は逃げ出す。今、この娘が死ねば異形のほうも消滅してしまうからだ。たしかに、早急に決着をつけるべきではあるが……」
知世を抱えた秋人の隣を走る探偵が、端末をちらりと見て足を止めた。秋人も少し遅れて立ち止まる。ひと気のない裏路地は薄暗く、ただ静かな風が吹き抜ける。
「探偵、どうした?」
「……チッ、今になってか」
「零羅くんから? ……それ、なんの座標だよ」
探偵が顔を上げる。建物の陰、示された座標。その裏道は二人の位置からは死角となっている。彼は睨みつけるように目を細め、鋭い声を投げかけた。
「そこにいるのだろう。出て来るがいい」
秋人もつられてそちらを見る。こつ、こつ、と硬い足音がしたかと思えば、二人の前に奇妙な三人組が姿を見せた。大人が一人と、その両隣に子どもが二人。
七分丈のシャツとズボンは薄汚れており、裾から覗く手足は痩せ細っている。短い前髪。狐のように吊り上がった糸目。素足で歩く少年は油断ならぬ殺気を放っている。
もう一人、胸元に目玉模様を施した趣味の悪い服に、膝丈のハーフパンツ。右足は義足であることがひと目でわかる。長い袖で手を隠し、ガスマスクで顔の半分を隠した少女。少年と同様に痩せ細った体で、どこか虚ろな目で俯いている。
その二人を引き連れた、白髪の人物。男のようにも女のようにも見えるため、見た目だけでは性別の判断が難しい。至って普通に見える左目に対し、白と黒が入れ替わったような奇妙な右目。髪は左半分が腰まで長く、右半分が短い。左右非対称だが身綺麗な服に、踵の高い靴と、頭には汚れひとつないシルクハット。耳と襟元に鍵がぶら下がっており、左手に黒、右手に白の手袋を着け、その手には杖を持っている。
「どうも、はじめまして」
ひとまずは彼、としよう。どこまでも左右非対称な彼は、怪しく胡散臭い薄ら笑いを浮かべた。傍らの子どもたちは無言で佇むばかりだ。
「ようやく現れたか。……ずいぶん捜したぞ、鍵師」
「おや、僕をご存知ですか。光栄なことだ」
鍵師は目を細めてにんまりと笑う。薄気味悪い笑みだ。秋人がごくりと唾を飲み、わずかにあとずさろうとした。いや、逃げようとしたと言うべきか。その表情は拒絶に引きつり、名状しがたい居心地の悪さに息が詰まるほどの窒息感すら覚えた。吸い込む空気すら重く禍々しい。邪悪。あまりにも邪悪な気配だ。
「……た、探偵。なんだよ、あいつ。……なんか、俺……あいつ、すっげー、嫌だ……」
震える声で探偵に囁く。探偵は彼から決して目を離さずに答える。
「あれが今回の……いや、今回だけに限らず、あらゆる事件の真犯人であり――黒幕だ。早乙女知世が助かったところで、あれがいる限り、これから先もあらゆる場所で同じような事件が起き続ける」
「く、黒幕……?」
鍵師はなおも笑っている。探偵は頷く。
「セリナに発生したカルセットの巣。セレイアで目撃された謎の火柱。絶滅したはずの魔獣を町に放ち、死者の身体すら弄ぶ。あれはそういう者だ。この世に存在するべきでない邪悪だ」
「あ、あれは、人間じゃないぞ……」
「いかにも。……光属性。あれは忌々しき神格を宿す存在。鍵の権能を持つ邪神だ」
白髪の邪悪は不気味に笑ったまま、手袋をつけた手を叩いた。
「お見事。僕を突き止めたことへの称賛、そして賢者への礼儀として、ひとつお聞きいたしましょう。君は――何者ですか?」
「私は探偵。真実を語る者だ」
「ほう、君が……」
「貴様のほうこそ何者だ」
「これは失礼、申し遅れました。僕はアンロック。真実を開放する者です」
アンロックと名乗った邪悪は帽子を手に持ち、優美な動作でゆっくりと頭を下げる。姿勢を正し、帽子をかぶりなおすと、獲物を舐るような笑みで探偵を見た。
「――さて、君は僕をどうするおつもりで?」
「……どうもせん。今はまだ、な」
「そうですか。ええ、そうでしょうとも。……賢明な判断ですね。僕と君は、いずれまた出会うことになる。……ふふ。そのときまで、さようなら。どうぞお元気で」
アンロックは傍らの少年と少女に目を向けた。
「ハンプ、メノコ。行きますよ」
「……はい、アンロック様」
「仰せのままに、アンロック様……」
痩せ細った二人の子どもは従順に、アンロックのうしろに続く。その背中が路地に消え、探偵が再び静來たちのもとに向かって歩き出したとき、秋人は戸惑いを言葉にした。
「た、探偵、よかったのか? あのまま逃がして。黒幕なら捕まえたほうが……」
「やめておけ。今の状況で真正面から手を出せば、こちらに勝機はない。貴様は早乙女知世を抱えたまま、あの邪悪と戦えるのか?」
「それは……」
「……少なくとも、今の我々ではどうにもならん相手だ。あそこで手を出していれば命はなかった。あいにく、貴様と違って私はこんなところで死ぬわけにもいかない身なのでな」
――鍵の権能。パンドラの邪神、アンロック。
「それに、やつの言うとおり。いずれまた会うことになる」
立ち向かうべき脅威の姿は明確となり、役者はそろった。これはその戦いの前日譚にすぎないのだ。探偵は大きく息を吐く。その額には汗がにじんでいた。