15 それは新たな脅威との邂逅にすぎず
数日前のリラ国内、某所。中央地区を少し外れた街並みを杖をつきながら歩くリラと、その隣に付き添う白銀の騎士の姿があった。午後の散歩は彼女の日課のようなものだ。賑やかな通りをあぶなげなく歩くリラの足が、あるとき不意に止まる。
「リラ様、どうかなさいましたか」
「彼女、最近よく一人で出かけているね」
リラが顔を向ける方向に視線を送る。その先を楽し気に歩いているのは早乙女岳の一人娘である知世だった。
「ああ、早乙女家のご令嬢ですね。いつもは付き人を連れているはずですが、本日はお一人のご様子」
「あの岳が彼女一人での外出を認めるとは思えないな。おおかた、こっそり抜け出してきたんだろう」
「おそらくは。行動力のある好奇心旺盛なお嬢様ですから」
苦笑する蘇芳だが、リラはむずかしい顔で考え込んでいる。
「リラ様、彼女がなにか?」
「いや……なんとなく、最近のあの子は様子がおかしい気がしてね。いつもの無邪気で天真爛漫なお転婆さとは別に、背徳的で、なにかただならぬものを内に秘めているような、やけに高揚した音をたてる」
声。足音。呼吸。衣服の擦れる音。そんなかすかで、普通にしていれば聞き逃してしまうような、常人には違いのわからぬ音ですらリラは正確に聞き分ける。たった一瞬すれ違っただけでそこまで知覚するとは、我が主君ながら恐ろしい。蘇芳は息を呑む。
「それにね、ただの偶然かもしれないけど……彼女がそういう顔をする日のあとには、どこかで死体があがるんだよ」
「……まさか」
「とはいえ、動機も証拠も根拠もない。彼女の態度が本当に事件と関わりがあるのかどうかはわからないし、私の思い過ごしかもだ」
「いいえ、リラ様。私はあなた様の目となり、手足となる者。リラ様の疑問を解決するのは私の役目。これまで何度もそうしてきたように、此度も私がリラ様に代わり、真相をたしかめて参りましょう」
*
「静來ちゃん、君たちはまだ戦えるのかい?」
浅葱の手を借りて立ち上がるリラ。静來と勇來は檻の異形を見上げた。あれは先ほどからずっと動きを止めている。まだ動き出す気配はない。静來は頷いた。
「ええ。まだまだ、この程度で倒れはしません」
「静來、本当に大丈夫なのか? その足」
「致命傷に見えますか? 私は生きてますよ」
「極端だよなあ」
「私もここに残って君たちを援護したいのは山々なんだけど、町のほうも気がかりでね。騎士団がうまく立ち回ってくれているはずだが……私が王者である以上、放っておくわけにはいかないんだ」
「いいぜ、行ってくれ。來亜も合流したことだし、俺もようやく体が暖まってきたところだ。ところで、なんでこいつは動かなくなったんだ?」
「それは私の能力さ。相手が脳を持った生き物であり、格上と格下、力の優劣、そういった概念を理解できる存在ならば有効になる。簡単に言うと、こちらが上位の存在であるという意識を相手の本能に直接植え込む、一種の洗脳だ」
「洗脳? も、もう一段階簡単に……」
「すべての生き物に対する命令権ということですね。人間もカルセットも、自分より強い相手には逆らえない。目の前にいるのは己以上の強者であると相手の本能にすり込んで、強制的に従わせる。絶対的な王者の声。それがあなたの能力ですか」
リラは静かに口角をあげる。決して穏やかな笑みではないだろう。
「戦いというものはね、戦わずして勝つのが一番いいんだよ。そうすれば誰も傷つかないし、誰も死なない。国の化身や領主には効かないから、大戦時代ではあまり役に立たなかったけどね。ただ、あの子は妙だよ。命令の響き方が人間と同じだった。あれはカルセットとは呼べないだろう。まったくの異形だ」
「そこまでわかるもんなのか。まあ、詳しいことはあとで探偵が教えてくれると思うから、先に町の混乱をどうにかしてくれ」
「わかったよ。それと、そこの大きな君」
白銀の獣、來亜が三対の赤い目でリラを見る。銀の毛並みが淡く発光したかと思うと、光が収縮していき、一人の人間ができあがる。
「蘇芳を連れてきてくれてありがとう。おかげで助かった」
「おれが一番速い。間に合う。リラ、これを持つ」
來亜が差し出したのはリラが落とした杖だ。浅葱が受け取ってリラに持たせると、彼女はそれをしっかり握った。
「ありがとう。そろそろこの子に下した命令が解けるころだ。また同じように暴れ出すだろう。どうか気を付けて」
「リラ様、参りましょう」
浅葱は一度、静來たちに向けて頭を下げると、リラの体を抱き上げて中央地区のほうへ走り去った。その背中が遠ざかると、檻がギシギシと低く軋みながら再び動き出す。勇來は落とした槍を拾い上げた。
「來亜、策はありますか?」
「ない。動きを止める。して、試す」
「静來、なんだって?」
「打開策の心当たりがあるようです。作戦と呼べるほどでではないですが、試してみる価値はありそうなので、私たちであれの動きを止めましょう」
「じゃあさっき止まってる間にやればよかったんじゃないのか」
「それはできない。呪縛。残るが気がかりだ。直接止める。失敗できない」
「なんだ?」
「リラの能力による強制的な拘束は精神干渉の一種。本質的には呪術に近いものです。あの檻の異形は知世の精神の一部だというのが探偵の話ですから、そこに呪いが残ったまま本体に戻すっていうのは避けたかったんですよ」
「なるほど。じゃ、とにかく気を惹いて來亜が近付くための隙を作ればいいんだな」
「ええ。仕切り直しといきましょう」
*
「きゃあああっ」
「おかあさん? おかあさぁん! どこー?」
「痛い! やめて押さないで!」
「どいてくれ! 娘がまだ残ってるんだ!」
中央地区は不穏に騒ぎ立てる民草でごった返していた。数名の騎士が分裂体の侵攻を押し留めているので、まだこのあたりに異形の姿はないが、これだけの喧騒だ。異形の者たちはその声に引き寄せられるように東から攻め込んでくる。
近辺の警備隊や騎士団が避難誘導をしているが、不安と焦燥に駆られた人々は人間同士での衝突を繰り返しており、避難経路は渋滞していた。
「みなさん冷静に! 落ち着いて指示に従ってください!」
「あわてずに、押さないで!」
数少ない騎士たちが、駐在の警備隊員と連携をとって声を張る。騎士の一人が、甲冑にマントを着けた大男に駆け寄った。
「団長! リラ様と副団長がお戻りです!」
「なに? 二人は今どこだ」
「すぐこちらにいらっしゃいます。あ、ほら、あそこに」
騎士の指差す先。リラを腕に抱いた白銀の騎士が建物の屋根を伝って町を駆け抜け、騎士団長、銀堂仁の傍に降り立った。
「仁さん、お待たせしました。状況は」
「みんな混乱していて避難が進まなくてな。まだパニックってほどでもないが、いつそうなってもおかしくない。家の中に閉じこもってる住民も多いようだ」
「自宅にこもるのはある意味正解ですよ。見たところ、あれは視認したものを攻撃するだけのようですから、どこかに隠れていれば安全のはず。早乙女邸のみなさんも今は屋敷に隠れていますが、襲撃にはあっていないようですから」
「なるほどな。あれはなにかの使い魔か?」
「ええ。本体はギルドの方々が抑えていますので心配ないでしょう。使い魔は魔石を砕きさえすれば動かなくなりますから、対処はそれほどむずかしくありません。我々騎士団だけでも過不足なく立ち回れます」
「使い魔を作り出す本体さえどうにかなれば、あとは残党を狩り尽くすだけでいいってことだな」
「はい。楽観視するわけではありませんが、現状、それほど鬼気迫った状況でもありません。慢心せずに落ち着いて事に当たれば犠牲は最小限に抑えられます」
リラが浅葱の肩に触れる。
「蘇芳、私をもう一度屋根の上に。まずはみんなを落ち着かせなければ」
「御意」
浅葱は再びリラを抱え、腰の剣を壁に立てかけて足場にすると、屋根の上にあがった。リラをその場におろす。彼女は見えない瞳のまぶたを開け、人々の混乱を見渡した。
「押さないでったら!」
「うるせえ、俺が先だ!」
「やめて! 子どもがいるのよ!」
杖を両手で支え、体の正面で突く。リラの能力は相手の精神に干渉することで自らを王者と知覚させる能力だ。それが他国の者であろうと、人間でない獣であろうと関係ない。生き物に宿る、自分自身よりも立場や力が上の者には逆らえないという本能的な畏怖を呼び起こすことで、強制的に従属させることができる「絶対王者」の能力。
大戦時代、リラは千の軍勢を率いる敵対国を相手に、少数精鋭の騎士団のみで立ち向かった。それでも現在のリラがどの大国の傘下にもなく、ひとつの国家としてあり続けているのは、この能力があったからだ。どれほどの猛者をかき集めた屈強な軍隊であろうと、リラがひと言、動くなと命じるだけでいい。
血を流さずに屈服させるための、支配による平和を生み出す力。その気になればこの世すべての生命を自らに隷属させることのできる暴君の力。彼女がむやみに力を振りかざすことを良しとしない、平和主義者であることが唯一の救いだろう。
魔獣や敵国の民ですらリラの命令には逆らえない。自国の民ならば、なおのこと。
「――鎮まれ!」
その声が響いた瞬間、あたりは水を打ったように静まり返った。喧嘩していた男。喚いていた女。泣いていた赤子。叫んでいた子ども。怯えていた老人。喧嘩の仲裁に入った騎士。迷子の少女を宥める警備隊員。老若男女を問わず、すべての人間がリラを見た。
「なにを恐れる。なにを迷う。民よ、従いなさい。速やかに、粛々と前に進みなさい。異形の者は騎士団が引き受ける。怯える必要はない。恐れることなどなにもない。君たちは騎士に守られている」
「リラ様」
「リラ様……」
「その身は王者の前にあり。絶対王者の権限によって命じる。我が民草よ、騎士の指示に従いなさい」
先ほどまでの喧騒が嘘のように、住民たちは静かに速やかな避難を開始する。騎士たちがリラに敬礼し、住民の誘導と異形の打倒の役割に分かれていった。
*
足の傷で動きが鈍くなった静來を勇來がカバーする。静來は荒れた地面から雑に拾い上げた手のひらいっぱいの石を投げ、針を落とした。撃ちもらした数本の針を躱し、そのターンの攻撃を凌ぎきる。
「静來! うしろだ!」
勇來が叫ぶ。静來はうしろを振り返った。そこにいたのは三体の分裂体。しかし、屋敷から真っ先に飛び出して行った静來と勇來には初見の相手だ。白い腕を広げようとした一体の分裂体に矢が放たれる。矢は胴の中央に浮いていた黒い魔石を砕いた。動力源を失った異形は失墜し、風に吹かれるように消滅した。矢を放ったのは來亜だ。
「なんですかこれは」
「分裂体。使い魔だ。石を壊す。すれば消える」
残る二体が針を飛ばす。來亜が静來を抱えて飛び跳ね、それを避けた。勇來が分裂体の背後に素早くまわりこみ、槍を投げて魔石を破壊する。休む間もなく檻の異形が針を撃ち出した。すぐさま槍を回収した勇來が妨害に入ったため狙いが定まらず、無作為に飛び交う針の何本かが分裂体に当たり、魔石を砕いた。
「静來! 來亜!」
勇來の声に、檻の異形に向き直った。檻のまわりに新たに四対。分裂体のひとつが勇來の攻撃に崩れ落ちた。残り三体。既に攻撃準備が整っていた。
二人に向けて、百に近い数の針が撃ち込まれた。静來を抱えた來亜がなんとか避けるが、徐々に振り切るのがむずかしくなる。勇來がもう一体の石を砕く。崩れ落ちながらも針が放たれ、その狂った照準ははからずも静來を捉えていた。
來亜が静來を突き飛ばす。双方ともに地面に倒れ込んだ。同時に、勇來が残った分裂体の二体を手早く討ち倒す。静來はすぐに起き上がったが、來亜は倒れたままだ。
「來亜……?」
静來が倒れている來亜の体を起こす。怪我はない。だが來亜は苦しそうにうめき、そのまま動かない。胸元の赤い石が砕けていた。
「來亜! 勇兄、來亜が!」
「どうした!」
「石を砕かれました!」
來亜の赤い魔石は、分裂体と同様に彼自身の動力源と言ってもいい。召喚獣である來亜は召喚者であり主人である世知那琴琶と魔力を共有しており、琴琶が彼に魔力を分け与えるための媒体としているのがこの赤い石らしい。召喚主と召喚獣の間に距離が生じても、魔石を介して魔力を補給できる。その石が砕ければ來亜は魔力源を失い活動できなくなる。以降は來亜個人の保有する魔力が消費されるため多少の猶予はあるものの、時間の問題だろう。召喚獣が活動するために必要な魔力量に比べると、一体のヒト型に蓄えられる魔力量などは微々たるものだ。
「よりにもよって心臓イカレたってことか? クソッ」
勇來は檻を槍で叩き、狙いを自分に向けさせる。その背後に再び分裂体が二体。それは勇來ではなく、静來たちのほうを見ていた。それを確認した勇來は叫ぶ。
「零羅ーッ! 見えてるなら手伝ってくれー!」
銃声がした。二発。時計塔の方角ではない。すぐ近くだ。
「聞こえている」
分裂体が消滅し、静來のもとに現われたのは零羅だった。新しく三体の分裂体が生み出されるが、零羅は構わず來亜の傍に屈んだ。來亜の魔石に触れ、状態を確認する。そうしている間に、分裂体が腕を広げて攻撃準備に入った。
しかし、一直線に打ち出された針はことごとく、零羅に触れる前に方々へ飛び散った。彼はなにもしていない。ただ、なにかに阻まれたように針が零羅を避けたのだ。そう。飛び道具が彼に命中するはずがない。風の寵愛を授かる零羅は、見えない壁に守られているのだから。
「れ、零羅、どうにかできますか?」
「代わりになる魔力を工面できれば問題ない」
「その魔力がどうにも――」
静來ははっとする。零羅はポケットから出発前にジオから押し付けられたお守りを取り出した。
「……いいんですか、零羅」
「こういうときのための物だ」
來亜の胸元に添えたお守りが光り、周囲にゆるやかな風が巻き起こった。零羅がお守りを離すと、それは役目を終えたように朽ち、消えていく。來亜の目が開いて零羅を見た。呼吸は落ち着いている。
「……礼を言う」
「役目を果たせ」
ひと言、そう交わすと來亜は体を起こした。一度目を閉じてから、鋭い眼光で檻を見据える。壁際に追い込まれた檻は動きづらそうだ。勇來は振りおろされた白い腕を槍で受け止め、そのまま押し留めている。
「勇來。そのままだ」
地を蹴り、一気に距離を詰める。勇來のすぐ背後で高く跳躍した。檻の柵を掴み、さらに上へ。長い髪で覆われた頭部に手を伸ばし、右手を指いっぱいに広げてわし掴みにする。
「らあ、あら……」
――離れてる間は、石を通した私の魔力だけしか届けられないから。
――もしものときのために呪文を教えておくね。必要になったら、來亜が唱えるんだよ。
――だから忘れずに。いい? しっかり覚えて。ラー・ラ……。
「らあ、ら、ぱるらま、るざむた!」
ごう、と風がうなり、檻の異形がまばゆい光に包まれた。けたたましい悲鳴を上げ、白い腕が頭を抱え、悶えるように左右に体をかたむける。來亜は檻から飛び降り、勇來の隣に着地した。なおも苦しむ異形の姿は、やがて光の中にかき消えた。金属の軋むような悲鳴の残響が、大気に残る。
「……來亜、今のは?」
「魔力源を失った。分裂体は、そのままでも消える。少し待つ。檻はまだ戻っただけだ。知世をさがす」
「えーと……」
「その必要はない。早乙女知世はここだ」
声のした方角を見る。知世を抱えた秋人と、少し疲れた顔で寿を手に持った探偵が追いついたのだ。知世は気を失っているようで、秋人の腕の中で眠っている。來亜が例の黒い鍵の先を知世に向けると、鍵はひとりでに知世の体の中に吸い込まれ、内側のほうでカチリ、と音がした。探偵がため息をつく。
「……ひとまずはこれでいい。任務完了だ」
次回は明日、十三時に投稿します。