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14 騎士は剣に誓いを立てる

リラの町は騒然としていた。檻の母体が生み出した使い魔である分裂体が、既に各所で出現しているらしい。甲冑の騎士たちが既に対処にあたっているものの、彼らには事態の原因がわからないということもあり、人々は混乱するばかりだ。


「あっ、いた! 知世ちゃん、待って!」


早乙女邸から北東に少し離れ、細い道を抜けたとき、逃げていく知世のうしろ姿に呼びかける。知世は聞こえていないのか、聞こえたうえで無視しているのか、曲がり角の向こうに消えて行った。それを追う秋人たちの目の前に分裂体の異形が現れ、その行く手を阻んだ。


「くそっ……こんなときに!」


動揺する秋人の隣で、探偵は懐からリボルバーを取り出し、即座に発砲した。來亜の戦いを見ていたため、分裂体の弱点があの鉱石のようなものであることはわかっている。放った弾丸は命中したが、石の破壊には至らなかった。


「探偵、あの石はなんなんだ?」


「魔石だ。矢野瀬來亜も襟元に赤い石をぶら下げているだろう。あれはあれで少し勝手が違うが……簡単に言うと、魔力のこもった石だ。使い魔はその石の魔力を消費することで活動している。使い魔にとっての生命線と言っていい」


「つまり來亜くんがやってたみたいに、あれを壊せば動けなくなるってことだな?」


分裂体が両腕を広げ、二十ほどの針を出現させると、三人に向かって射出する。秋人が寿をひっつかんで、近くの建物の裏に隠れて攻撃を凌ぐ。


「……距離が遠いな。もう少し近付くことができれば、こいつで砕けるものを」


「それってただのリボルバーなんだろ? カルセット相手によくやるよ」


「はたしてあれをカルセットと呼んでいいものか……それと、私が使う弾丸は北国由来の少々特殊な火薬を使っているので、従来の弾薬より威力が高く魔獣にも有効なのだ。説明がいるか?」


「今はいい!」


針の雨が止んだ瞬間、秋人が物陰から飛び出した。次の攻撃準備が済む前に、分裂体に向けて寿を放り投げる。


「いけっ寿!」


弧を描いて宙を飛び、分裂体の腕に飛びついた寿がその白い腕に噛みつく。金属の軋むような甲高い悲鳴を上げ、分裂体の高度が落ちた。異形は寿を振り払おうと暴れるが、その前に秋人が跳躍して胴にしがみついた。一瞬、動きが止まった隙に腕をよじのぼった寿が、髪で覆われたやじろべえの頭に噛みついた。さらに高度が下がり、異形は地の近くまで接近する。


「探偵!」


秋人が叫ぶと同時に探偵が異形に急接近し、至近距離から発砲して魔石を撃ち抜いた。石は今度こそ砕け散り、力を失った分裂体が崩れ落ちていく。その個体が放った針も同じように消えた。


「浮いてる相手はやりづらいなあ。こういうときにフランリーがいればもっと……」


ため息まじりの秋人の頭に銃床が叩きこまれる。目の前で火花が散り、めまいに襲われた。探偵はおそらく本気で殴ったのだろう。容赦がない。


「おい貴様、私の助手を勝手に投げるな」


「うげー、パワハラ上司。勝ったんだからいいだろ? 寿だって怒ってないし」


「そういう問題では――」


探偵がぴくりと目を細める。


「伏せろ!」


素早く秋人の頭を掴んで地面に押し付けて屈む。


直後、二人の頭上を数本の黒い針がよぎった。振り返ると、もう一体の分裂体が次の攻撃準備に移っているところだ。


「おいおい、まだいるのか?」


「四の五の言うな。来るぞ」


再び物陰に身を隠そうと走り出す探偵に、秋人も続く。しかし、一歩踏み出した先で地面に転がっていた針を踏みつけてしまい、滑って転倒した。


「わーっ! やばっ」


あわてて立ち上がろうとするが、間に合わない。異形は標的を秋人に定め、用意した黒針のすべてを放つ。どうにもならないと悟って思わず目をつぶった。


――が、秋人が死に至ることはなかった。


なにかを強く跳ね返す金属音が連続して響く。目の前が暗い。人の気配に目を開けた。白銀の鎧。腰に携えた剣。深い青のマント。背丈は秋人と同じか、少し低いくらいだろうか。


秋人と異形の間に立っていたのは、大きな盾を持った甲冑の男だった。


「騎、士……?」


騎士は腰の剣をさっと抜き取り、大きく振りかぶって異形に向けて投擲する。白銀の剣は一直線に異形に迫り、中央の魔石を打ち砕いた。そのまま、あっけにとられる秋人を振り向くと、彼は黙って手を差し伸べる。そこでようやく秋人も我に返る。


「あ、ありがとう」


「モナルク騎士団の副団長だな。助太刀、感謝する。だが……貴様がここにいるのは我々を助けるためではないだろう」


白銀の騎士は黙って探偵を見た。寡黙だ。


「貴様の主はここよりわずか南にいるはずだ。ギルドの者が既に向かっているが、あれらは貴様ほどあの女を丁重には扱うまい。急ぐがいい。あとのことはこちらが引き受ける」


探偵が言うと、白銀の騎士は一礼し、投げた剣を回収してから南の方角へ走り去って行った。


「行くぞ、秋人」


「あっ、お、おう」



*



なんだか町が騒がしいような気がした。


買い出しのために外に出て、行きつけの市場に向かう途中。ふと屋敷のほうを振り返った。建物の陰に隠れてよく見えないが、屋敷の周辺を中心に騒ぎが広がっているような気がする。


なにかあったのだろうか。いいや、たとえそうだとして、自分になにができるわけでもないのだから、ギルドの者に任せておいたほうがいいのだろう。頭でそうわかってはいても、どうしても屋敷が心配だ。まだそれほど離れているわけでもないのだし、一度、様子を見に戻ろうか。


道の端で立ち止まり、そう思案する雅日の頭上に、ふっ、と大きな影が落ちた。空を見上げ、凍りつく。目の前に大きな、見たこともないバケモノが、浮いている。一瞬だけ、頭の中が真っ白になった。


「え――」


心臓が痛いほど大きく脈打った。ようやく理解する。バケモノ。バケモノだ。見たこともない形をした、見たこともない大きな怪物だ。


逃げなければ。咄嗟にそう思うも、足が竦んで動けない。目の前の、巨人のようでいてそうでない、頭にリング状の胴がつながった奇妙な生き物が、白い腕を広げる。三十センチほどの長く太い針のようなものが、どこからともなく現れて、みるみるうちに数を増やしていく。じわり、と嫌な汗がにじんだ。


「雅日さん!」


はっとして、反射的に声のしたほうを見た。


雅日のもとまで走った空來が、そのまま雅日を庇うように抱きしめ、手を正面にかざす。その手のひらが光ったと思うと、雅日の背中のほうからバチバチとなにかを弾くような金属音が響いた。


「そ、空來く……」


「動かないで」


音が止む。その瞬間に空來が雅日の手を引いて走り出した。もう片方の手には巨大な剣が握られていた。刃渡りだけでも身の丈ほどもあり、刃の幅が三十センチは下らない。振り回すどころか、持っているだけでも大変な重量だろう。それこそ巨人が扱ってちょうどいいようなスケールだ。


「そ、空來くん、それは……?」


「武装系の能力。……本当はあんまり使いたくないんだけど、今回はしょうがないよね。誰かを見殺しにするよりマシだもん」


「さっきの、あ、あれはなに?」


「わかんない!」


「ええっ」


「とにかく、今は逃げる! 僕は能力があるだけで、戦えるわけじゃないからね!」


細い路地や抜け道を通って逃走を図る。だが次の曲がり角を右折したとき、目の前に先ほどの異形の者が舞い降りてきた。まわりこまれたのか。いや、うしろからも同じ外見のバケモノが追いついてきた。別の個体だ。挟まれた。


前とうしろ。今なら横を抜けられるだろうか。一瞬、立ち止まった二人の足元に、小さな白いボールのような物が転がる。雅日がそれに気付き、視線がそちらに移った瞬間、足元のそれは白い煙を勢いよく噴き出しながら、ねずみ花火のように地の上を這った。


「わわっ、なに!?」


たちまちあたりが白く染まり、うろたえる雅日と空來の腕を誰かが掴む。そのまま引っ張られ、導かれるままに走ると、やがて煙を抜けた。二人の手を引いたのは、金髪の少年。三日月の髪飾りがこちらを向く。


「月! なんでここに? 屋敷は?」


「それが、警備隊が近くにいたみたいで、屋敷に来たから……」


「そうなの? まあいいや、早く戻っ……あ! 気付かれた! 月、あの分裂体どうにかならない?」


煙幕から空來が分裂体と呼んだ、先ほどの二体が現れる。それぞれの周囲にあの黒く長い針が浮遊しており、広げたままの白い腕で合図をすると、それらは一斉に三人に向かって射出された。空來が雅日の前で剣を地に突き立てて防御しようとするが、そのまた前に月が立ち塞がった。


「月!」


月は右手で拳を作り、左手の親指と人差し指の先をその中にねじ込む。素早く引き抜かれた指には風呂敷のような大きな黒い布がつままれており、無数の針の雨が目の前に迫ったとき、月はその布を盾にするかのようにひらりと翻した。


構えた盾にすべての針が命中する。布は破られず、しかし針が地面に落ちたわけでもない。たしかに向かって来ていたはずの針の雨は布の向こうで消滅した。月が右手に布を掴み、腰の高さでばさりと揺らすと、その瞬間に中からバラバラと数十の針が地面に落ちる。今度はその布の内側に左手を入れ、ステッキを取り出した。


風呂敷に見えた布はマントだったらしい。月はそれを背中に羽織り、くるりとステッキをまわしてみせる。そのままステッキの先を、地面にトンと突いた。


途端、一体の分裂体の中央にある石が爆発した。異形が煙を上げながら崩れ落ちて消えていくさまを見ながら、雅日はあっけにとられて言葉を失う。


「……仮面がないから、口上はなし。あんまり見ないでくれる?」


「そ、それって本当に魔術じゃないの?」


「ペテンだよ。言っとくけど、あとの一体にはなにも仕込んでないからね」


遠くで乾いた音がした。空來の肩がびくりと跳ねる。次の瞬間、残ったもう一体の分裂体の石がひとりでに砕けた。


「うわっ、なに?」


「銃声……ああ、零羅が撃ったんだ。あの人、見張りと援護が仕事だし」


「零羅が? 拳銃の弾って、時計塔からここまで届くの?」


月の言葉に、空來が時計塔のほうを見上げた。雅日もつられてそちらを見る。遠くのほうに時計塔の頭が見えるだけで、人の姿など見えるはずもない。当然、本来ならこの距離で銃弾が届くはずもない。


「普通は無理……だけど、あの人は風の加護があるから、たぶん……どこまでも届くし、正確に撃ち抜けるよ」


「ずるいよねえ。あとでお礼言わなきゃ」


「とにかく、新手が来る前に、さっさと屋敷に戻るよ。僕ら、どっちも戦えないんだから。とくに……その人には、いろいろ聞きたいこともあるんだし」


「うん。行こう、雅日さん」


「え、ええ、ありがとう二人とも……」



*



薄暗い路地裏。目標の明確な位置さえわからず、ただ全力で走る。騒ぎが街に広まりつつあるのを音で感じながら、しかし住民の混乱は騎士団の者が鎮めてくれるだろうと信じて走る。


なにかが破壊されるような音が遠くで聞こえた。町外れの海岸沿いにある森のほうだろうか。浅葱は不意に足を止める。


「浅葱。どこへ行く」


「……來亜くん。どいてください」


屋敷を出たときにはまだあの場に残っていたはずの來亜が、浅葱の行く手を阻んだ。つけてきていたのか、先回りしていたのか。なんのために浅葱を追うのか。もしも邪魔立てするのであれば、多少手荒な真似をしてでも押し進むこともやぶさかではない。


「遅いぞ。追いつくは、簡単だった」


「なにをしにきたんですか」


「お前が遅いからだ。それは間に合わない。おれのほうが速い」


浅葱は身構えた。彼は底が知れない。ぎこちない話し方に、並外れた身体能力。奇妙な鳴き声。胸元の赤い石のペンダントは、おそらく魔石だ。人間ではないことが予想できる。


「らあ、あら」


來亜が一歩、前に歩み出る。


「……らあ、あら、ふぁるらま、るあ、むた」


たどたどしく、意味の測れない言葉を唱えた途端、來亜の足もとに魔法陣のような光が広がった。彼の内側からあふれ出る、目に見えるほどの膨大な魔力に、浅葱は一歩あとずさった。大気が震え、突風が巻き起こり、思わず目を閉じる。


一瞬、あたりが静かになり、風が緩んだときに薄目を開ける。


目の前に、体長が四メートル以上はありそうな巨大な獣がいた。白銀の毛並み。三対の赤い目。額に生えた一本の細い角と長い耳。手足には鋭く大きな爪。首から胸元にかけて赤い石が埋め込まれ、大きな尻尾がふわりと揺れる。


狐のようでありながらウサギのようでもあり、猫や狼のようでもある。白い獣だ。來亜だったはずのものが、地の底から響くような低い声で、グルルと喉を鳴らした。



*



「よしっ、とりあえず町からは引き離したな」


檻の異形が人の多い場所へ行かないよう、東へ東へと追い込んでいくと、やがてひと気のない丘の上に出た。広々とした大地の先に切り立った崖がそびえ、その上に森が広がっているのが見える。崖の下に追い込まれた檻が振り返って静來たちを見る。


「でも既に町のほうでもなにか暴れてるみたいですよ。そっちは騎士団や警備隊に任せておいていいと思いますが。こっちもこっちで、ここより西にも東にも行かせるわけにはいきません」


「ああ、今はリラを助けるのが最優先だ。どうする静來。あの檻ってどこから開くんだ?」


「殺さなければいいだけです。檻の構造を見ながら、殴っておとなしくさせましょう」


「わーお、雑。了解だ」


勇來が槍を強く握り、檻の異形に向けて構える。静來はここに来るまでに路地で拾った鉄パイプを軽く振って握り心地をたしかめた。彼女は武装系の能力者だが、勇來のように武器を召喚できるわけではない。


基本的にカルセットと戦うには魔力のこもった武器や威力の高い武器が必要となり、それだけでもおのずと扱う獲物が限られてくる。武装系の能力者は対魔獣用の武器を召喚できる能力だ。だが武装系の能力者は本来なら自分の武器を選べない。能力を発動すれば個々人の保有する魔力の性質などによって、その人に相応しい武器が召喚されるからだ。


しかし静來にはその制限がなく、そもそも彼女は武器の召喚自体ができないのだ。つまり固有武器というものがない。その代わりに触れた物すべてに己の魔力を通すことができる。ゆえに、普通の刀剣や銃器などはもちろん、拾っただけの角材や鉄パイプ、果てにはそのあたりの石ころですら武器として魔獣と戦える。周囲になにもなければ、己の肉体を武器にするのだ。


二人の闘志を感じ取った檻が白い腕を広げた。黒く長い針のようなものが出現したと思うと、一斉に二人に向かって飛び出してくる。二手に分かれてそれを避け、ときに弾き落としながら接近していく。針の弾丸が尽きると、檻は白い両腕を激しく振り回して暴れた。静來は鉄パイプを盾にそれを防ぎ、勇來は素早く躱す。頭上から鈍い音と、小さなうめき声が聞こえた。リラの声だ。


「勇兄! やみくもに暴れさせるとリラが!」


「わかってっけど多少はしょうがねえぞ。命のやり取りなんだからな」


「それはそうですけど……ちょっとそっちに引きつけておいてください!」


「おう!」


勇來が槍を構えなおし、檻に向かっていく。檻はその動きに反応して腕を振りおろすが、勇來は避ける。針の雨が今度は勇來一人に集中するが、彼の反射神経は並外れている。そのすべてを槍一本で弾き落とした。その間に静來は檻の異形の背後にまわりこみ、崖の前で跳躍すると、壁に鉄パイプを深く突き刺した。そのまま手を離さず体を持ちあげ、壁に刺さった棒を足場に異形に飛びついた。なんとか片手が檻の格子に届き、リラの姿が見える位置までよじのぼる。


「リラ! 無事――ではないですよね、大丈夫ですか!」


「う……せ、静來ちゃんか……」


リラは格子に掴まっているが、それでも激しく動く異形の中で振り回され、体のあちこちをぶつけただろう。顔や手などに擦り傷やアザができている。声も弱々しい。


「意識があるならよかったです。どうにかそこから出す方法をさがし――」


異形が静來を振り落すべく、勢いよく左右に回転した。遠心力でリラの体が格子にぶつけられる。静來もしがみついて離れない。完全に勇來から静來に標的を変えたようだ。振り落せないと察するや否や、すぐうしろの壁に向かって突進した。壁に大きなクレーターを作り、異形はゆっくりとそこから身を離す。


崖の中腹から静來が落下した。地面に倒れ伏し、二秒してから指先がぴくりと動く。


「静來!」


異形は白い腕を横薙ぎに振りかぶる。静來に気を取られていた勇來は直前でそれに気付き、咄嗟に槍を縦に構えた。直撃は免れたものの、勇來の体は軽く弾き飛ばされる。衝撃で槍を手放してしまう。十数メートルほど先で身を打ち付けて転がった。


「勇兄! 勇兄!」


駆けつけようとする静來にも白い腕が迫る。静來は勇來が落とした槍を思いきり蹴り上げ、掴み、迫る腕に突き刺す。異形は金属が軋むような甲高い声をあげてのけ反った。そして、よりいっそう激しく、錯乱したように腕を振り回して暴れ出す。静來はそれを槍で受け流したが、攻撃を防ぐたびに槍に腕が持っていかれて体勢が崩れる。


能力で召喚した武器とは、言うなればその人専用の武器なのだ。持ち主にとってはどの武器より軽く扱いやすいものだが、それ以外にとっては持ちあげるのがやっとなほどに重く感じられる。静來たちは血のつながった三つ子である以上、魔力の質も近い。静來自身の能力の性質もあって、赤の他人がこれを持ったときに比べればずいぶん軽いほうだろう。扱えないことはない。が、やはり重い。咄嗟に拾い上げたものの、勇來のようには使いこなせない。これを十全に扱えるだけの筋力と技術が足りていないのだ。


静來の体勢が崩れたところに針が撃ち込まれる。狙いが雑だ。頬と肩、右側の腹を掠る。それ以外はほとんど外れたが、左足の太股にそのうちの一本が命中した。


「ああッ――!」


鋭い痛みに膝をつきそうになったところに白い腕が直撃する。そのまま飛ばされ、再び壁に叩きつけられた。倒してはいけない。人質がいる。その二つが静來と勇來の動きにためらいを残す最大の要因だ。異形の錯乱状態は続いており、誰もいない場所めがけて針を放ったり、腕を振り回したりしている。


「チッ、……く、っそ……がァ!」


足に深々と突き刺さった三十センチほどの針を、怒号とともに引き抜いた。脳がしびれるほどの激痛に意識がかすみそうになるのを、歯を食いしばって耐える。その針で上着を破り、傷口に強く巻き付けて簡単に止血した。


「リラ!」



*



リラが気付いたとき、遠くから響くかすかな波の音を最初に聞き取った。ここはどこだ。海が近い。少し上から葉擦れの音。森だ。リラ国において、海の近い森の傍といえば、町を離れた東の丘しかない。早乙女邸から既にそんなところまで来ていたことは、捕まったときに頭を打ちつけ、しばし気を失っていたリラはおどろいた。


一度はすぐそばで聞こえた風音静來の声。急な強い衝撃と、檻の中に砂や石が降り注ぎ、彼女の声はそれきり遠ざかった。誰かが攻撃を受けて弾き飛ばされ、静來が苦痛の声をもらすのが聞こえた。檻をぶらさげた、なにか大きなモノと戦っているのだ。そして、その檻の中に自分がいることをリラは理解している。


彼らはリラを救うために手を尽くしてくれている。ならば、リラ自身も出来る限りのことをするべきだろう。この異形の者に自分の力が通用するかはわからないが、このままなにもしないわけにはいかないのだ。一度は絶対の境地に至ったリラの能力。目を失って退化していようと関係ない。それは今なお変わらずリラの身に宿っているのだ。


届くだろうか。……いいや、届け。届かせるのだ。


「その身は王者の前にあり――」


対象を定め、その対象が地位と畏怖の概念を解する存在ならば。


「絶対王者の権限によって命じる。止まれ! 私を――ここから出せ!」


檻の異形は動きを止める。ぶるぶると小刻みに震え、なにかに抵抗を示すように金切り声をあげた。直後、リラが囚われていた檻の、底が抜けた。


一瞬の浮遊感。


咄嗟に、リラは格子を掴んでいた手に力をこめた。片手一本で宙にぶら下がる。檻の中で打ち付けた腕が痛い。腕だけではない。肩が、頭が、足が。全身が痛い。


風の音を聞く限り、このすぐ十センチ下が地面になっているわけではなかろう。高さはどのあたりだ。二メートル、もっとだ。五メートル、まだ高い。正確な高度までは聞き分けられないものの、そこが空中であることはわかる。


少しずつ、一秒ごとに。格子を掴んだ手から力が抜けていく。うまく力が入らない。ずる、ずる、と手のひらが滑っていく。落ちる。下はどうなっている。土か、石か。草の音はしない。この異形の者はずいぶんと暴れたらしい。平坦な地面ではないだろう。足場は荒れているはず。落ちる。見えない以上、受け身は取れない。


「誰か……」


誰か。


「……す、お」


誰か。


「すお、う……蘇芳、蘇芳!」


落ちる。


「蘇芳! 私はここだ! 助けて!」


手の中から格子が抜けた。


「あ――」


静來の負傷した足では間に合わない。離れた場所で息ができなくなるほどの強さで身を打ち付けた勇來の距離では間に合わない。落ちる。下へ、下へ。息を吸う間もなく地に吸い込まれる。その細く柔い体が、硬い土に打ちのめされる前に。


「――リラ様!」


風の如く俊足で疾駆する白銀の魔獣。


その背中から、一人の青年が飛び出した。無情にも宙に投げ出された少女の体を空中でしかと抱き留め、優しく、そして強く、地上に足をつけ、腕の中の主君の無事をたしかめる。


「う……」


「リラ様、リラ様!」


「蘇、芳……」


「申し訳ありません、リラ様。私という騎士がお傍にありながら、御身を危険にさらす失態。それに取り乱すばかりか、私は己に課せられた任務を放棄し……ああ、でも……間に合ってよかった」


わずか遅れて、勇來と静來がやってくる。傍らの巨大な白い獣は本来の姿に戻った矢野瀬來亜だ。その背に乗り、間一髪でリラを救った青年は――早乙女邸の使用人、浅葱だった。静來は特別おどろきもせず二人を見ているが、勇來は愕然として固まっている。


「蘇芳……私の騎士。君ならきっと来てくれると信じていたよ。君の任務は既に完遂された。ゆえに、今この瞬間からは、私を守ってくれ」


リラの声に、浅葱はその場で跪く。


「はっ。不肖、浅葱蘇芳あさぎすおう。命を賭してお守りすることを誓います。我らが王。私はあなた様の騎士。あなた様の目となり、手足となる者。存分にご命令を」


「あ、あ、浅葱、さん……?」


勇來がおずおず声をかけると、浅葱――浅葱蘇芳は、立ち上がって勇來と静來に向かい合い、一礼した。浅葱の全身が強く光り、次の瞬間にそこにいたのは、白銀の甲冑をまとった騎士の姿。


「申し遅れました。私はモナルク騎士団、副団長。白銀の騎士――浅葱蘇芳と申します。この身は我らが主君、リラ様に忠義を誓うただ一振りの剣。……どうか、ご内密に」

次回は明日、十三時に投稿します。

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