初めての遊園地
カランコロンコロン
軽やかにドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中に立つ少女の声が仕事帰りの男性の多い店内に柔かく響いた。
一人で入って来た若い男性は店内を見渡し窓際の空いた席に座った。
男性はその席からカウンターをちらっと見た。
見つけた。彼女だ。
ここに来てからずっと探していた。
高鳴る鼓動に気付かれないように深呼吸した。
少女が水の入ったコップとメニューを持って来た。
「抹茶」
それしか口に出せなかった。
「かしこまりました」
顔だけでなく、少女の声も記憶そのままだった。
メニューと注文書を持って少女が席を離れると男性はふっと息をついた。
やっと会えた。
ずっと探していた。
忘れられなかった。
ずっとずっと会える日を夢見ていた。
彼女の記憶がなかったら、自分は今日までの苦しい日々を耐えることなどできなかっただろう。
思い出すのもつらいこれまでの日々は今日のためにあったのかもしれない。
男性は窓の外に広がる夕焼けに染まった景色に心が痛んだ。少女と最後に会った日の夕焼けの色と似ていた。
「お待たせしました」
少女が抹茶の入った茶碗を持って来た。
「ありがとう」
そう言った後で、すかさず尋ねた。
「俺のこと、覚えてる?」
少女の端正な顔が一瞬こわばった。が、すぐになんともいえぬ表情に変わった。泣きそうな笑いそうな不思議な顔。
「あ、それじゃ、ほんとに」
少女の声が一気に見た目の年齢相応のものに変わった。
その声に隣の席の客はちらっと顔を上げたが、すぐに手元の新聞に目を落とした。ここではよくあることだった。
若い男性はうろたえる少女が自分を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「ありがとう。俺も覚えてるんだ。忘れたことはない」
「そんな……」
男性はボタンダウンのシャツの胸ポケットから小さな布袋を出した。お守り袋。かつての自分に少女がくれたもの。
「ああっ!」
少女は小さく叫ぶと、涙を両の目からこぼしていた。男性はごめん、泣かせるつもりなんかなかったのにと言ったが、少女の涙は止まらなかった。
マスターの配慮で少女は早引きすることができた。
店の裏口の外では男性が待っていた。
「さっきは悪かった」
「いえ。あんまり驚いたものだから。もう大丈夫です」
少女は微笑んで男性を見つめた。
「やっと会えた」
男性はそれだけ言うと、少女の右手を両手で握った。少女は頬を真っ赤に染めた。
「今は手が荒れてないんだね」
「はい」
「あの頃の君の手はかさついていた」
少女は俯いた。
「ごめん。思い出したくないよね」
誰しも思い出したくないことはあるものだ。男性にもそれはたくさんある。
男性は手を離し、二人は並んで歩き始めた。
「久しぶりに会えたんだ。飯でも食おう」
「あまり食欲は」
「俺もあまり食べたくない。じゃ、少し歩こう」
「御家族の方には会ったのですか」
「え? ああ。でも会えなかった人もいるけどね」
「私もです」
男性は思う。少女にとって家族は会いたい存在だったのかと。
「まさか、君はあのお母さんに会いたいなんて思ってないよね」
少女はそれには答えなかった。
「弟には会いたかったんですけど」
「弟さんか。いい子だったもんね」
家族の中で唯一少女の味方だったのは年の離れた腹違いの弟だけだったはずである。継母もその連れ子の姉も妹も少女をさんざん苦しめていた。
味方になるはずの父親は少女を助けてはくれなかった。
「家族はこの街にはいないみたいで」
当然だろうと男性は思った。
街はすでに夜。あちこちに店の灯りがともり始めていた。
「今夜は予定は?」
「ありません」
「時間があるから、どこか行かない? 俺はまだここに来て日が浅いから知らない場所も多いんだ。お勧めの場所とかない?」
「特には……」
言いかけて少女は不意に立ち止まった。男性もそれに合わせて止まった。
少女ははるか前方に見える城の聳え立つ尖塔を見つめた。
「あの遊園地。店に来るお客様が楽しかったとおっしゃってて。ずっと気になっていて」
「ああ、この街のはずれの」
「はい。ドリームランドです」
男性もその施設の名を知っていた。
「公共施設共通パスで入れるんだっけ」
「はい。私もここに来た時にもらったんですけど、一人では行く気になれなくて。弟と行こうと思ったんですけれど……」
「よし、善は急げだ。行こう」
男性は少女の右手を握った。
少女は再び顔を赤らめた。
「ようこそ、裏野ドリームランドへ」
パスをエントランス前で見せると若い従業員がにこやかに言った。
「閉園までご自由にお過ごしください」
男性と少女はイルミネーション輝くドリームランドの大きな門をくぐった。
スピーカーから流れる楽し気な音楽は心を浮き立たせた。前方を見上げるとドリームキャッスルが見えた。先ほど少女が見ていた西洋の著名な城を模した白亜の建物である。
「大きな城だな。これでは簡単に攻め落とせまい」」
男性は感嘆したように言った。
少女は笑った。
「あのお城は御館様がいないのですよ」
「そうか。形ばかりの城か」
男性も笑った。
近くを歩く家族連れも城を見上げてため息をついていた。
「大きな城じゃのう」
「うちの殿様の城もああであればよかったに」
イルミネーションの光に導かれるように、二人は最初のアトラクション施設に到着した。
メリーゴーラウンド。作り物の馬や小さな馬車がゆっくりとまわっている。
少女は目を見張った。
「まあ、この馬なら乗れるわ」
「そうだな」
男性は栗毛の馬を見て、ふと切ないものがこみ上げるのを感じた。可愛がっていた馬に似ていた。
やがて回転が止まった。係員が並ぶ客を馬や馬車に乗せていく。少女と男性もそれぞれ隣り合う馬に乗った。男性は栗毛の馬に跨った。少女はその隣の白馬に乗った。細身のジーンズの裾からのぞくくるぶしが男性には眩しく見えた。
男性は馬のたてがみを軽く撫でてみた。実際の毛並みとはかけ離れた感触がかえってわびしさを感じさせた。
やがてゆっくりとメリーゴーラウンドが回転を始めた。ゆったりしたメロディーが流れ、それに合わせてイルミネーションが輝きを変えた。
様々な色の光を浴びて微笑む少女を男性は美しいと思った。
少女もどこか憂いを帯びた男性の顔を美しいと思った。
まばゆい光を放ちながら、メリーゴーラウンドは人々の笑顔を乗せて回り続けた。
いつまでもこのまま。少女は願った。
やがて回転速度が落ち、動きが止まった。
男性は先に降り、少女の手をとって降りるのを手伝った。
「ありがとうございます」
「遠慮はいらない」
そう言って男性は微笑んだ。先ほどまでの憂いは消えたように見えた。
「次はどこへ行こうか」
二人はさらに奥に向かった。メリーゴーラウンドに乗っている間に入場者が増えたようだった。人の波にのまれぬように、男性は少女の手をしっかりと握りしめた。少女は恥ずかしくて俯きながら歩いた。
「お化け屋敷、か」
二人の目の前には廃屋のような建物が建っていた。入口から次々とカップルや家族連れが入って行く。中にマイクでも仕掛けてあるのか、男女の悲鳴がひっきりなしに聞こえる。
少女は怯えたように男性を見上げた。
「大丈夫。怖くはない」
男性は微笑んだ。
「迷うといけないから、しっかり手を握るよ」
一段と強くなった手の力のほうが少女には怖かった。
中へ入ると、先の方から悲鳴が聞こえた。少女は思わず自分の手にも力を込めていた。
「お化けなんか怖くない。怖いのは人間さ」
男性はささやいた。少女にもそれはわかっているが、怖い物は怖い。
唐突に通路をふさぐように現れたのっぺらぼうに、少女は叫んだ。さらに進むと、生暖かい空気が顔に当たる。
「ひゃっ」
「これはなかなか凄いな」
次は冷気が足元を吹き抜け、足元から青白い亡者の腕がつき出てきた。
「いやああ」
思わず少女は男性に抱き付いていた。
「これは!」
男性はなかなか凄い趣向だなと感じた。
「大丈夫、さあ行こう」
男性は怯える少女の手を引いた。少女は泣きそうになりながらもその手を頼りに暗い通路を進んだ。
包帯を身体全体に巻いたミイラ男、首の長いろくろっ首、油を舐める化け猫、どれもよくできていた。あちこちで恐怖の叫びが上がっていた。
最後は三メートルほどの長さの吊り橋だった。横からの風に揺れるだけでなく、橋の下には真っ赤な血の池地獄が広がっていた。さほど高くないので、地獄で苦しむ人々の顔がありありと見えた。
男性はその光景にはっとした。
「見ない方がいい」
そう言うと、少女に目を閉じるように言った。
「俺の手にしっかりつかまって。絶対下を見ちゃいけない」
少女はうなずき、男性の手をつかんで前に進んだ。揺れる橋は目をつぶれば一層恐ろしいけれど、この人の手につかまってさえいれば大丈夫と少女は心を励まして一歩一歩進んだ。
「下りの階段になってるから」
そう言われて降りると揺れていた足元が安定した。
「目を開けて」
少女が目を開くと、目の前には外へと続く出口があった。
「ああ、怖かった」
お化け屋敷を出た後、少女は大きく息を吐いた。
「よくできてたからね。でも、この程度は大したことないさ」
男性はそう言うと、お化け屋敷を振り返った。そうたいしたことはない。彼がこれまで経験してきたことに比べれば。
二人はその後、ジェットコースターに乗った。
少女は怖い怖いと言いながら乗ったが、下りた後は楽しいと笑っていた。
男性は来てよかったと思った。少女が楽しいという声が聞けたから。
ドリームキャッスルの中にも入った。
男性はこんな城では戦えないと文句を言いつつ、アトラクションのゲームに興じた。
キャッスルを出た後、喉が渇いた二人はすぐそばの売店でジュースを飲んだ。パスを持っているから飲み物は無料だった。
「おいしい」
「君のいる店のお茶のほうがおいしい」
「ありがとうございます」
「いつからあそこにいるの」
「かれこれ五年。最初は制服に慣れなくて」
「俺もこの服には慣れないな」
「でも、こっちの服のほうが軽いし」
「それもそうだな。髪もこのほうが蒸れなくていい」
夏の夜の空気を感じながら、ベンチに座って二人はとりとめのない会話を交わしていた。
何も知らない人から見れば、二人は愛を語り合う恋人同士に見えただろう。けれど、実際は二人はこの街の喫茶店で夕方久しぶりに会った幼馴染みだった。それが証拠に二人の間の距離は恋人というには遠かった。
「次はどこに行こうか」
「あれ」
少女は林の間に見える観覧車を指さした。
「高いところ、怖くない?」
「お化け屋敷よりは」
「それもそうだな」
男性はうなずき、先に立ち上がり、少女の手をとった。少女はされるがままになっていた。
観覧車はゆっくり回っていた。係員がゴンドラに案内した。
ゴンドラは少しずつ動いている。さっと開けられたドアに少女は意を決したかのように乗った。男性も素早く乗った。
「え?」
座席は向かい合わせにあるのに、男性は少女の横に乗った。二人並んで座れない広さではないけれど、身体が密着する。少女はとまどっていた。
「どうして」
「俺が座りたいんだ」
少女はどうしてなのか理由を訊くのが怖かった。少女の疑問を察し男性は言った。
「あの日からずっと俺はお多江を探していた。見つけたら、お守りの礼を言って、嫁に来てもらおうと思っていた」
少女にとって、それは夢だった。決してかなうはずのない夢だと思っていた。けれど、彼もまた同じ夢を見ていたとは。
「そんなこと……畏れおおくて」
「そんなことはない。お多江こそ、俺の妻にふさわしい」
「私は……ふさわしくなど……」
少女はゴンドラの窓に写る自分の顔を見つめた。
美しいわけでも賢いわけでもないのに。それに自分は……。
だからこそ、今日のことだけを思い出に、明日からこの街でまた一人で暮らしていこうと思って、ここに来たのだ。これで勇之助に会うのは最後だと思って。
「そなたは、人の命を助けるために我が身を投げ出したのだろう」
「それは……」
「継子のそなたをいじめ抜いた母親や姉妹をかばうために」
「母親や姉妹を失ったら千太郎が不憫ではありませんか」
「弟を思うゆえだけではあるまい」
少女にとって思い出すのもつらい出来事だった。継母や姉妹にいじめられるよりも、男性に知られるほうがよほどつらい。
ゆっくりと回転する観覧車のゴンドラは頂上へ近づいていく。少女は景色を見る気分にはとてもなれなかった。
「勇之助様に私はふさわしくないのです」
少女は震える声でつぶやいた。
裏野ドリームランドのある周辺の土地一帯を戦国の世に治めていたのは裏野一族であった。
裏野の山城の主、裏野番左衛門の嫡子勇之助はその名の通り、勇気に溢れた若者だった。元服後、父とともに戦に幾度も赴き、武功を上げていた。
一方で勇之助はみやびなものも好んでいた。父の部下榛原掃部から歌の指南を受けていた。
勇之助は掃部の家をたびたび訪れ、その娘お多江の存在を知った。
掃部の亡くなった妻の娘であるお多江は優しい娘だった。勇之助はそんなお多江に惹かれていった。お多江もまた勇之助のことを好ましく思っていた。
だが、二人の幼い恋は掃部の再婚で終わりを告げた。
経済的に苦しかった掃部は、裕福な商人の未亡人を後添いとして迎え入れた。後添いは連れ子の姉妹を家に入れた。さらに長男の千太郎を産むと、お多江をまるで二人の娘の召使のように使い始めたのである。
当初掃部はそれを咎めた。が、後添いは自分の持つ財産をちらつかせた。財産のいくばくかを持参金にすれば連れ子二人を有力な家臣に嫁がせることができると。お多江のような娘ではどこにも嫁にやることができぬと。
お多江の母は身分の低い家臣の家の出であったので、持参金にできる財産などなかったのである。
後添いの持つ財産で借財を整理していた掃部は、彼女を追い出すこともできず、言いなりになるしかなかった。
また、後添いは勇之助が訪問すると、自分の娘二人を表に出し、お多江の姿を見せぬようにした。二人の娘は歌が上手でもなく、勇之助はなんとなく嫌になって榛原家への訪問自体を止めた。
さらに、土地の境界をめぐるいざこざもあって、掃部も家を離れて出兵することが増え、お多江に構っている場合ではなくなった。
お多江は朝から晩まで下女同様にこき使われた。お多江の乳母は後添いに抗議したが、後添いは乳母に容赦なく暇を与えた。
他の下女達は乳母のように奉公できなくなっては大変と後添いに何も言えなくなってしまった。
水汲み、炊事、洗濯、掃除、薪割り、風呂焚き……様々な仕事に追われながらもお多江は耐えた。継母とはいえ、親である。親に従わぬ子は不孝者。それに、この家を追い出されては生きてはいけない。
勇之助は風の噂でお多江の苦境を知ったものの、やはり打ち続く戦乱で城下を離れることが多く、お多江に会うこともできなかった。
そうこうするうちに大変なことになった。
境を接する領地の主が近隣の大国と手を結び、攻め込むらしいという情報がもたらされたのである。
城下は大騒ぎになった。領民たちは城に逃げ込んだ。また領外へ逃れる者もいた。
榛原家は臣下であるので、家族は皆城に入った。お多江もついて行った。
屋敷とは違い、城の中は人手があるので、お多江はこまねずみのように働かなくてもよかった。そこで、持ってきた端切れで袋を作り、城内に祀られている八幡様の社の小石を入れた。
もし、勇之助に会えたらこれを渡そうと思っていた。
今度の戦いは厳しいと聞いている。もし万が一何かが起きたら、そう思うと居ても立ってもいられなかったのだ。
そうこうしているうちに、敵方が境となっている峠を越えてしまったという報が伝えられた。
城内は動揺した。
勇之助様率いる武者の一隊が攻撃に出ると聞いたお多江は後添いや姉妹たちの目を盗んで、城内の若君の住まいになっている西ノ丸に入った。
会えなくても部下の誰かに託せればと思い歩いていると、なんということか、目の前を鎧に身を固めた勇之助が歩いているではないか。
勇之助もお多江に気付いた。
「何用じゃ」
「これを」
お多江はそれ以上何も言わず、守り袋を捧げ渡した。勇之助は守り袋と、それを持つ手の荒れに気付いた。
「かたじけない」
それだけ言うと振り返らずに出陣していった。お多江は後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
その日の午後、裏野の軍勢は敵方と激突した。
敵方優勢との知らせに人々は動揺した。
女子どもは城の裏手へ続く抜け道から逃げよと告げられた。
夜暗くなってから、お多江も継母や姉達、千太郎とともに身をやつして長い抜け道を使い城外に出た。城のほうから火の手が上がるのが見えた。恐らく負けたのだと皆震えあがった。
榛原家の人々は縁のある村へと向かった。だが、その途中で、敵方の足軽達に見つかってしまった。
女子どもばかりで逃れるのは難しい。
が、そこで継母は何を思ったのか、隠しから銭の束を出した。
これで見逃してくれというのである。だが、足軽はそれだけでは納得しなかった。
「娘を置いていけ」
継母の選択肢は一つしかなかった。お多江だけがそこに取り残された。
「千太郎の母親や姉妹がいないというのは不憫であろう」
継母はそう言い捨てると、千太郎を抱きかかえて他の娘らと駆けだした。
お多江はもう勇之助様には会えないのだと思った。
それから先のことは思い出したくなかった。
お多江は涙に濡れた目でゴンドラの外の景色を見つめた。
真っ暗な夜空に飛ぶのは迦陵頻伽。上半身は人、下半身は鳥の姿をしている。妙なる歌声がゴンドラの中にも聞こえてくる。
「いけません」
「ふさわしくないなど、そんなことがあろうか。そなたは命の恩人だ。あの守り袋のおかげで、奪われた城を取り返し、危うい戦に勝つことができたのだ。お多江が守ってくれたのだ。だから、戦いが終わってそなたがはかなくなったことを知った時は……」
お多江は知らない。
城を奪われた後、敵方についた大国とは別の大国と手を結んだ裏野の軍勢が敵方を討ち滅ぼしたことを。さらには、戦いの後、お多江を置いて逃げた榛原の後添いと娘二人を捕え、勇之助が処刑したことも。戦いで討ち死にした父親掃部の家督を弟の千太郎に継がせたことも。
お多江を見殺しにした継母と姉妹がお化け屋敷の釣り橋の下に見えた血の池地獄で阿鼻叫喚の叫びを上げながら浮き沈みしていたことも。
「お多江がいたから、俺は生きてこれたのだ。そなたの我が身を捨てた行ないを見習い、俺は領民のために身を尽くす生き方を選んだ」
そう語る勇之助の顔はいつの間にか壮年の男のものに変わっていた。
父の後を継いだ勇之助は、広げた領地と増えた領民を守り、戦い、家の存続と領地の人々の幸せを願い、天下の覇者に従った。戦国の世の終わりを告げる大きな戦いの数年後に亡くなった時には、大勢の領民にその死を惜しまれた。彼の後を継いだのは千太郎の娘との間に生まれた男子だった。彼やその子孫らもまた領民の安寧のために尽力した。
が、今ここでそれはお多江に語るべきことではない。勇之助は再び元の若い男性に戻っていた。
「本当にここまで来るのは長かった。武門の生まれゆえ殺生の罪を犯しておるからな。やっと地獄から仮とはいえ、ここまで上がってこられるようになったのだ。といっても、まだ償いは終わっていない。そなたを幸せにするまでが償いだと思うのだ」
勇之助はお多江の肩を抱き寄せた。お多江はびくりと身を震わせた。
「さようなことは」
「ずっとこうしたかったのだ」
「私は、私は……」
「そなたを害した者達はまだ地獄におる。彼奴らの罪は重い。そなたには何の罪もない。だからこそ、早くここに来れたのだろう。だが、いつまでもここから出ようとしなかったのはなぜだ。出て行こうと思えば出て行けるのだろう。千太郎もここを出て、すでに生まれ変わっておるのだろう。まさか、継母を待っておるのか」
継母を待っているわけではない。待っていたのは……。
けれど、己のような女を幸せにするのが償いとは。勇之助に罪はないのに。
「俺は愚かだった。戦いに明け暮れ、そなたの苦境を救う手立てをとらなかった。己が行かずとも、部下の誰かに命じてそなたの身を助けるような手立てがとれたはずなのに。何もできぬと思い、しなかった俺の罪も重いのだ」
「勇之助様は何も悪くはありません」
お多江は涙でくしゃくしゃになった顔を勇之助に向けた。勇之助の目も潤んでいた。
「俺はずっとずっとそなたに会うために罪の報いを受けてきたのだ。炎熱の地獄も針の山も、そなたの苦しみを思えば……」
勇之助はお多江を両腕でひしと抱きしめた。
「離さない。生まれ変わったら、今度こそ、添い遂げよう」
二人の乗るゴンドラは一番高い位置で止まっていた。係員が気を利かせてのことである。他に観覧車に乗っている客はいない。
迦陵頻伽の歌声が二人の乗るゴンドラを包み込むように響いた。お多江の凍えた心を溶かすように。
「本当にいいのでしょうか」
「いいのだ。俺を待ってくれたそなたなのだから。本当に済まない。長い間待たせてしまった。そして、ありがとう、待っていてくれて」
お多江は勇之助の胸の中で生きている時には感じたことのなかった幸せを噛みしめていた。
「私も、勇之助様のことをずっとずっとお慕い申しておりました」
この言葉を言うために、自分はこの街で待っていたのだとお多江は気付いた。
ガッタン。
やがてゴンドラは動き始めた。地上へ向かってゆっくりと。
ゴンドラを下りた二人の顔には涙はない。微笑む二人に係員がありがとうございました、またおいでくださいと声を掛けた。
「別れのワルツ」のメロディが園内に流れ始めた。
そろそろ閉園らしい。
「明日も仕事?」
「はい。勇之助様は」
「様はいらない」
「勇之助、さん」
「さんもいらないよ」
「そんな、無理です」
「じゃ、さんでいいよ、今は。俺は動物園で働いてる」
「まあ。それじゃ今度は動物園に行きましょう」
東の空が白んできた。鶏が朝いちばんの鬨の声を上げた。
遊園地を出たお多江と勇之助、それに大勢の人々は亡者の世界へと戻っていった。
ここは裏野ドリームランド。
生者の世と亡者の世が重なり合う場所。
生者には亡者の世は見えないが、ごくたまに見える生者もいるらしい。
もし、真夜中に廃園になった遊園地の中から笑い声が聞こえたり、メリーゴーラウンドのイルミネーションが輝いていたり、観覧車が回っているように見えたりしても、そっとしておいてほしい。
生きていた時に幸薄かった者達が、そこでは幸せな時を過ごしているのだから。
おしまい