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母の形見

「恐れながら大公殿下、この指輪はとても大切なもので……他のものではいけないでしょうか?」

「それがいいと言っているのだ」


 刺々しいといってもいい程の大公の声に、マリーアは軽く俯いて指輪を外した。

 二歳の時に亡くなった母の記憶はマリーアには殆ど残っていない。子供の頃育ててくれたのは乳母であるリラの母だった。物心ついた頃に乳母がこの指輪を渡してくれた日のことは、今でもはっきりと覚えている。


『マリーア姫様、これは貴女のお母様、亡き王妃エレオノラ様からお預かりしていたものです。王妃様は私にこう仰いました。可愛いマリーアともう会えなくなるのは本当に辛いし寂しい。でもお母様はいつもマリーアのことを遠くから見守っています。だからマリーアはお母様の代わりに弟のリオン王子を守って、助けてやって下さい、と……。そしてマリーア姫様がいつもお母様と一緒だという証に、この指輪をお渡しするよう、私に頼まれたのですよ』


 それ以来、子供の頃は細く軽い銀鎖のネックレスで首にかけ、大きくなってからは毎日指にはめ、片時も離さず身につけてきたのだ。

 それを外すと途端に頼りない気分になった。だがエンキに嫁いだ以上、夫である大公と初日から揉め事を起こすわけにはいかない。


 マリーアは一度ギュッと指輪を握り締めてから、強張った手を開いて大公に差し出した。

 思い通りに事が進んだというのに大公は何故か苦虫を噛んだような顔をしながらそれを受け取る。そのままビアンカに渡そうとした大公に、その時上擦った声が、お待ち下さい、と言った。


 リラだった。

 エンキの女官達の陰で目立たぬように控えていたリラは、緊張のあまり蒼褪めた顔でお辞儀をした。


「大公殿下、差し出たことを申し上げますがお許し下さい……。その指輪はマリーア様の大切にされていたもの。どうか―――」

「黙れっ」


 驚いたように固まっていた大公は弾けるようにそう言うと眉をひそめた。


「エンキの者ではないのか。公妃と共にスパルタスから来たんだな。名は?」

「……リラと申します」


 大公は大股にリラに歩み寄ると、うっすらと笑みを浮かべた。


「リラ、か。なかなか美しい女官だな。確かにスパルタスは美人の多い国らしい。公妃はまるで人形のように完璧な美を持っているし、リラは主人のために国主である俺に無礼を働くところも健気な美しさだ」

「大公殿下、リラをお叱りにならないで下さい。リラは私を思って―――」

「怒るものか」


 大公は長年の敵の失脚を見ているような昏い笑い方をして続けた。


「俺は美しいものが好きだからな。リラのことも気に入った。だがいくら美しくとも作り物のような人形の美はあまり好みではないな」


 暗にお前は好みではないと皆の前で言われて、マリーアは抑えた調子で再び口を開いた。


「殿下、リラをお褒め頂き有難うございます。指輪はどうぞお持ち下さい。お気に障ることを申して、申し訳ありませんでした」


 血の気の引いた白い顔に微かに笑みを浮かべたマリーアがそう言うと、大公は一瞬だけ顔を歪めて迷子の子供が親を探しているような表情を浮かべた。

 だが、どうしようと迷うような表情はすぐに消え、今度は強情を張る子供のような表情に変わった。

 大公は口をきつく引き結んで指輪をビアンカに渡し、マリーアを振り返る。


「公妃、今日は一日儀式や宴で疲れただろう。俺も今日は気疲れしたので自室で休むことにする。ゆっくり過ごされるとよい」


 そう言い捨てると、大公はビアンカを伴って部屋を出て行った。

 残されたマリーアは出て行く前にこちらを見て嘲笑を浮かべたビアンカに気付いていた。


 彼女は夫の大公の愛妾なのだ。いくらなんでもここまでされたらわかる。おそらく宴の席で紹介されたセレス・カレッタ子爵夫人とエレナ・ハシュフォード伯夫人の二人も、大公の愛妾に違いない。


 マリーアは強張った肩の力を意識して抜き、成り行きを見守っていた女官達を振り返った。

 皆、とばっちりを食らっては堪らないとばかりに、居心地の悪そうな視線を下に向けている。

 リラが泣きそうに顔を歪めているのがわかったが、マリーアは出来るだけ穏やかに聞こえるよう祈りながら口を開いた。


「今日は大公殿下はいらっしゃらないそうなので、皆、もう下がって結構です。私も……大公殿下のお言葉に甘えて、すぐに休ませて頂きますから」


 セイレッタ侍従長は何事もなかったかのように無表情に礼をして、マリーアの着替えを手伝う人数だけを残し部屋を出て行ったが、その目が異国から来た大公妃、結婚式の当日に他の女に夫をさらわれた妻への侮蔑に煌めくのを、マリーアは感じていた。



 まだだ。

 泣くのはベッドに入って独りになってからだ。エンキの女官達に私が傷付いていると思われてはならない。

 夫に嫌われている惨めな女と哂われているとしても、俯いて顔を隠してはいけない。


 血の気の引いた顎を昂然と上げたまま、マリーアは婚礼の衣装を脱がされ夜着を着せられた。頭に戴いた宝冠や宝石を外し、結い上げた髪を下ろされると、リラだけが残ってブラシをあててくれた。

 他の女官達が出て行っても、座っているマリーアの背後に立ったリラはゆっくりと丁寧な手付きで髪を梳き続ける。


 エンキ人がいなくなった自室で、マリーアは唇を噛んで俯いた。リラの前では気が弛んでしまう。こんなことではいけないとギュッと目を閉じて自分を戒めていたその時、静かな室内に啜り泣く声が響いた。


「リラ……」

「……マリーア様……お可哀相……お可哀相ですっ、何故こんな……っ」

「……泣かないで、リラ」

「どうしてこんな扱いを受けるのですか? スパルタスの第一王女であられるマリーア様が……何故こんなエンキ公国ごときに……っ」

「リラっ、駄目よ。そんなことを思っては駄目。エンキはスパルタスにとっても重要な存在なの。私は……エンキとパンセの間に打ち込まれた楔なのよ」


 マリーアの声は感情を堪えるように低く掠れていた。リラに話しながら自分にも言い聞かせていたのだ。

 ブラシを使うリラの手はいつしか止まり、マリーアの肩にのせられていた。


「でもっ、でも……そのためにマリーア様が犠牲になる必要があるのでしょうか? ……マリーア様がリオン王子のために国王陛下の命令に従ってエンキに嫁がれたのは知っています。でも、リオン王子は姉君のその犠牲に足る弟君ですか……申し訳ありません、身分も弁えずこんな言い方をして……でも国王陛下だってマリーア様がこんな扱いを受けるとわかっていたら、きっと結婚なんて―――」


 訴えるようにどんどん早口になっていくリラの手の温もりを右肩に心強く感じながら、マリーアは口を開いた。


「リラ、やめてちょうだい。私はお母様にリオンを任されたの。私の弟なのよ。それに私はもうこのエンキの大公妃で、スパルタスの王女ではないんだわ。こうなった以上、もうエンキの国民に尽くしていく責任があるの。……エンキを愛して、エンキにも愛してもらえるよう……務めなければ」

「マリーア様、でも大公殿下は―――」

「いいのよ。仕方ないわ。大公殿下は国のため……意に染まぬ結婚を強いられたのですもの。私をお気に召さないのは仕方ないし、我慢しなくては……ただ、私について来てくれたあなたに厭な思いをさせてしまうわね」

「私のことなどどうでもいいんですっ。マリーア様の辛いお立場に比べたら―――」

「どうでもいいことなんてないわ。でも……有難う」


 マリーアはリラの手に自分の手を重ねて涙を堪えていた。その目の奥には抑えても抑えきれない悲しみと絶望が滲んでいたが、認めたら立てなくなってしまう。

 プライドにかけても、絶対に崩れるわけにはいかなかった。

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