婚礼の夜
「公妃、セイン・ルカ公爵はもう知っているな」
大公から声をかけられて顔を向けると、スパルタスの代理結婚式にエンキ側から立会人として出席していたセイン・ルカが立っていた。
「勿論です。セイン・ルカ公爵、スパルタスでの式から大変お世話になりました。今後もどうぞ宜しくお願い致します」
マリーアがそう挨拶すると、セイン・ルカは丁重にお辞儀をして口を開いた。
「勿体ないお言葉。私からもエンキの民を代表して、麗しき妃殿下をお迎え出来た喜びを申し上げます」
それを皮切りにマリーアはエンキの要職にある人物や、高位の貴族達に次々と引き合わされた。皆丁重な態度ではあったが、勿論マリーア本人に親しみを見せることはない。
マリーアは誰に対してもにこやかに微笑んで応対していたが、男性ばかりが続いた後で女性の順番になると、周囲の空気が少し変わったのを感じて不審に思った。
「公妃、エレナ・ハシュフォード伯夫人だ」
前に進み出たのは栗色の髪と目の美女だった。大公と同じくらいの年頃の彼女は、値踏みするような目でマリーアを見ながらゆっくりとお辞儀をした。
「ハシュフォード伯夫人、初めまして」
「大公妃殿下、お目にかかれて光栄ですわ」
挑戦的な眼差しと口調に、微かな敵意を向けられているのがわかった。
「こちらはセレス・カレッタ子爵夫人」
次に紹介されたのも栗色の髪と目、大公と同年代の美女だ。
「カレッタ子爵夫人、初めまして」
「初めまして、大公妃殿下。ようこそエンキへいらっしゃいました」
彼女からも冷めた敵意を感じてマリーアは多少身構える。どちらかといえば男性より女性の方が、スパルタスやマリーア本人に対して強い抵抗感を持っているのかもしれない。
「彼女達はいろいろと私を助けてくれている。公妃も承知しておいて貰いたい」
マリーアが、はい、と頷くと大公は彼女から目を逸らして、ずっと傍に控えていたセイン・ルカに合図を送った。
宴は夜を徹して続くが、大公夫妻は私室に引き取るのだ。セイン・ルカ公爵の合図で立ち上がった出席者達のお辞儀に送られて、大公と大公妃が退出すると、残された連中は美男美女の新婚夫婦の初夜に内心下世話な興味を抱きながら、大量に用意されている酒を酌み交わして宴を続けた。
宴席を出た大公と大公妃はそれぞれの私室に別れた。寝支度をするのだ。
エンキの王城サン・クルー宮殿は三つの区域に分かれている。政務を行うための執政府や司法院が入っていて貴族や役人が多く出入りする左翼宮、迎賓用の部屋や舞踏会用の大広間、玉座の間などの儀式に使われる部屋の収まる右翼宮、そして大公夫妻の居住スペースとなる奥宮。
右翼宮の宴席から回廊を渡って奥の宮に入ると、対外的な煌びやかさが無くなり、落ち着いた雰囲気に包まれていた。
近習に先導されてマリーアが大公妃専用の居室に入ると、スパルタスから持ってきた母エレオノラ王妃の肖像画が掛けてあり、慣れない環境での緊張が少し弛むのを感じた。
部屋で待っていたのは十人程のお仕着せを着た女官達と公妃侍従長だ。ずらりと並ぶ女官達の中に見慣れた顔をみつけて、マリーアは一層ホッとする。
乳姉妹だった女官のリラは自らの意思で、他国に嫁ぐマリーアに従って知る者もいないエンキまで来てくれたのだった。だが、今は彼女に声をかける時ではない。
マリーアはセイレッタ公妃付侍従長が自己紹介の後で、女官達を一人一人紹介するのに合わせて言葉をかけながら、全員をきちんと覚えることに集中した。
日常の様々な身の周りの世話をする彼女らに嫌われたら、マリーアの生活はたちまち行き詰ってしまう。身分高い者は自分では何がどこにあるかもわからないので、着る物ひとつ探せないのだ。しかも身近にいる女官に賄賂を使って、大公妃の日常や秘密、手紙などを探ろうとする人間が現れないとも限らない。
それらの全てを防ぐのは無理だとしても、そういう時に踏み止まらせるのはマリーア本人への好意や忠誠心なのだ。
エンキ人の女官がスパルタス人の大公妃に忠誠心を持つのは難しいだろうが、まずはこちらから近付く努力が必要だった。
全員の紹介がすむと、マリーアは改めて皆に向き直った。
「セイレッタ侍従長、これからお世話になります。大公妃として至らぬところも多いかもわかりませんが、私を支えて下さるようお願いします。皆も……私がエンキにはやく馴染めるよう力を貸して下さい。お願いします」
皆を代表してセイレッタ侍従長が、勿論でございます、と答えると、マリーアは再び口を開いた。
「それから私がスパルタスから連れてきた女官のリラも、不慣れなことも多いと思いますが色々と教えてあげて下さい。リラもはやくエンキに馴染めるよう努めて下さい。お願いします」
皆が礼儀正しくお辞儀をしたところで、扉番が鈴を鳴らして大公の来室を知らせた。
扉が開いて入って来た夫、アルス大公は一人の女性を伴っていた。宴の席で見た記憶のない、赤毛に碧の目の派手目な美女に、マリーアは目を向けた。ドレスは布地も上質で高価なものだ。
「公妃、貴女に挨拶したいという女性を連れてきた。ビアンカ・オルシーニだ」
肩書きがないので先刻右翼宮で紹介出来なかったのだろう。だが彼女がいったいどういう人なのかわからず、とりあえず頷いたマリーアにビアンカが口を開いた。
「大公妃殿下、本当に銀の髪ですのね。キルメニイ王女の歌は私もよく歌っていますわ」
挨拶したいということだったが、まず見た目のことを言われて、マリーアは戸惑った。
心なしか女官達が互いに目配せしたり、肘で突付き合っているような、声にならない興奮が室内に満ちているのを感じて、マリーアは小さな声で夫に、大公殿下……? と問いかける。
大公はマリーアから微妙に視線を逸らしながら、軸足を右から左に移した。
「彼女は歌姫なんだ。……私のためにいつも歌ってくれている。公妃もそのうち聴かせてもらうといい」
「はい……楽しみにしておきます」
無難に返したマリーアにビアンカの、まぁ、という声が聞こえた。顔を向けると彼女はマリーアの右手の指輪を見ていた。
「まぁ、大公妃殿下。素敵な指輪ですこと。スパルタスの指輪ですの?」
マリーアは皆の注目が集まった自分の右手を無意識に左手で覆った。
この指輪は今身に着けている物の中では一番値打ちのない物だ。多分、たくさん持っている宝石や装飾品の中でも一、二を争う、値の張らない物だろう。
それを身に着けているのは母の形見だったからだが、何の石もついていないシンプルな指輪に注目されたのが不思議だった。
「私、そういう指輪が欲しいですわ」
え? と目を見開いたマリーアに大公が妙に力んだ声で、公妃、と呼びかけた。
「彼女にその指輪をやってくれ」
「……」
「聞こえないのか? 貴女は他にいくらでも指輪を持っているだろう。その貧弱な指輪にスパルタスの王女ともあろう人が拘る必要はないだろう」
声を失したマリーアに反抗されていると思ったのか、大公の表情はどんどん険しくなっていく。