アルス・エメロードの思惑
本日二話目です。
「なにっ? ちょっと待て、お前って奴は何を言ってるんだ?」
慌てふためいた主のある意味予想通りの反応に、セイン・ルカは、ですから、と再び口を開いた。
「行き掛かり上、あなたが長らく心に秘めていた初恋の相手がマリーア大公妃殿下ということになっておりますので宜しくと申し上げました」
「ふざけるな。ただの政略結婚でなんだって初恋のなんのとくだらん作り話がいるんだっ!」
「と言われましても、もう言ってしまったんですから仕方ないでしょう。大勢の前でパンセの使者に絡まれ続けるのも体裁が良くないので、政治的な思惑ではなく若く美しい隣国の王女への切ない恋心ゆえの結婚ということで厭味を封じました」
「そんな馬鹿な話を誰が信じるっていうんだっ」
「信じる信じないはどうでもいいことです。要は、この婚姻は生臭いドロドロした思惑とはかけ離れた美しいものだと発信することが大事なのです。せっかく作ったスパルタスとの繋がりに他からケチを付けられないようにするためには、あなたには恋に現を抜かす色惚け大公でいてもらうのが最善でしょう」
うっ、と詰まったアルスに、セイン・ルカはさばさばした口調で続けた。
「それにですね。先程このサン・クルー宮殿に到着したマリーア王女本人をあなたも見たでしょう。あれだけ美しい姫ならば、エンキの大公が恋狂いになったとしても不思議はない。本当に良かったですよ」
「ううー……」
「ああ、勿論言うまでもないですが、いくら美しくても相手はスパルタス王女です。決して気を許さないようにして下さい。正直なところ、対外的には初恋の相手で通しますが、彼女本人にはあまり下手に出ない方がいいように思います。あちらで見た感じ、確かにスパルタス国王に大切にされている様子でしたし、弟のリオン王子は健康に問題もなく、このままいけば次の王になることは確実と思われます。それを笠に着てマリーア王女が何かを画策し出したら面倒ですから」
「勿論、言うまでもないことだ」
アルスはセイン・ルカを真似てそう言うと、口元を皮肉に歪めて笑った。もう機嫌を直したらしい。
「スパルタスの女狐なんかに気を許すもんか。だいたいこの結婚はこっちが頼んだことじゃないんだ。エンキとの縁を欲しがったのはスパルタスなんだからな。臣従じゃなく対等な関係だとわからせてやる」
「どうする気です? やり過ぎると逆効果になりますよ?」
「構うもんか。結婚をしてしまえば名目上スパルタスは彼女の待遇に口出しする権利はないんだ。盛大な儀式や宴をして内外に喧伝した以上、向こうは娘を返せとは絶対に言えないからな。実家の威光を背景にのさばらせては後々面倒だ。最初にガツンと立場をわからせてやる」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
居並んだ人々は、祭壇前に跪いて式を司る教皇大使から祝福を受ける大公と大公妃の姿に溜め息を洩らした。
凛々しく男らしい大公と、その傍に寄り添うたおやかで美しい大公妃は、まるで絵に描いたような好一対だったのだ。
エンキの臣民は勿論、スパルタスでの代理結婚式に参列していた各国の使者達も、二人並んだ姿を初めて見て似合いのカップルだと思っていた。
結婚式と大公妃の戴冠式が終わると、マリーアは初対面のエンキ大公アルス・エメロードに視線を向けた。
この人が今自分の夫となり、これからの運命を共にする相手なのだ。
父と弟のいる祖国スパルタス王国への思いと愛は消えないが、同じようにエンキ公国とその国民への愛と忠誠の義務が生まれたのだ。
エンキの礼装に身を包んだ夫となる大公はすらりとした長身で、しなやかな身のこなしが肉食獣のように危険な印象を与えたが、話し方や態度に粗野な部分はまるでなく、一言で言えば魅力的な男性だった。
王女として生まれた以上、国と国の懸け橋となるために自分の意思とは関係なく結婚することは覚悟していたが、マリーアの胸にその重みが落ちたのは、夫となる男と式を挙げている最中だった。
彼はどんな人なのだろう。何を好み、どんな考え方をするのだろう。
いくら年よりも大人びたところがあるとはいえ、マリーアも年頃の娘なのだ。見たこともなかった婚約者が想像もしていなかった美丈夫だったことで、自分でも驚くくらい緊張していた。
勿論、スパルタスの王宮にも若く美しい貴族は何人もいたが、アルス・エメロードはその誰とも違っていた。誰よりも生き生きと輝いていたのだ。
感情を表に見せないよう長いこと躾けられてきたマリーアが、夫に心を奪われていることは周囲の誰も気が付かなかった。すぐ隣に立つアルス本人ですら気が付いていなかった。
アルスもまた、美しい王女に目を奪われていた。傍で見るとまるで作り物めいた美しさの銀糸の髪に思わず手を伸ばしたくなる。
それを抑えたのはマリーアのように身に着いた習慣のせいではなく、もしや初恋のなんのというくだらない作り話がこの女の耳に入っていないかという、不安と羞恥を含んだ怒りのせいだった。
「マリーア姫、今日から貴女は我が妃となられた。慣れない国で大変なこともあるだろうが、エンキのために尽くして欲しい」
アルスの言葉にマリーアは頷いた。
「至らないところも多いと思いますが、エンキの民に愛される良い大公妃になれるよう……大公殿下のお力になれるよう、力の限り尽くします。どうぞ宜しくお願い致します」
マリーアがそう言った時の気持ちは本物だった。
祖国スパルタスよりもエンキへの責任が勝る立場になった以上、大公の力にならねばならぬ。スパルタス人とエンキ人が同時に溺れていたら、エンキ人を助けなくてはならない。それがエンキの大公妃になるということなのだ。
そうすることで、エンキの民が大公妃に信頼感を持ち、ひいては大公妃の母国スパルタスへも親近感を持つようになる。それが遠回りのようで唯一確実な両国の懸け橋になるということなのだ。
逆に言えば、エンキ人に受け入れられる存在になれなければ、マリーアはどちらの国にとっても必要のないお飾りに過ぎなくなるということだ。
アルスは探るようなまなざしを向けていたが、マリーアの本気を感じ取ったのか小さく微笑んで手を差し出した。
「お手をどうぞ、公妃。エンキの民の前に貴女をお連れしよう」
「はい、大公殿下」
二人の結婚披露宴はそれから三日続くことになっていたが、出席する外国の要人の殆どがその前のスパルタスの宴から梯子していたため宴自体に飽きていたのと、エンキの貴族がスパルタス出身の大公妃に心を開いていないために、概ね静かに進んだ。
大公妃の国からは王妃の兄バルディ公爵を始め、多くの貴族や従者が来ており、宴席の一角で強い存在感を示していた。故意か無意識かは別として、そうした一群はスパルタス風を押し出して、エンキ人を鼻白ませていた。
マリーアは上座の雛壇に大公と並んだまま、その様子に心を痛めていた。
スパルタス人は大国である自国に並々ならぬ誇りを持ち、その王女であるマリーアを一公国に嫁がせることに、値打ちの判らない山猿に高価な宝石を持たせるような苛立ちを覚えていたので、そういう態度が今後どれだけ彼女の立場を危うくするかを考えていないのだった。
隣に座った大公はその空気にまるで気付いていない素振りで表情を変えないままだったが、気付いていない筈がない。
マリーアはなるべくにこやかに見えるよう振る舞いながら、積極的に大公に話しかけ、エンキへの他意がないことを示す努力を続けた。
大公は礼儀正しくマリーアの相手をしていたが、内心はどう思っているのか判らない。
だが、いくら祝賀ムードの宴がエンキとスパルタスで開かれようと、両国の間に見えない壁があるのは事実だった。そしてその壁を壊すために味方もなく一人で立ち向かおうとしているのは、まだ十八歳の少女なのだ。
彼女にとっての長く厳しい日々はまだ始まったばかりだった。