大公の選択
エンキ公国の首都ケルタンのサン・クルー宮殿。その奥まった一室で男二人が密談をしていた。
「セイン。今回の話をどう思う?」
そう口を切ったのはエンキ大公アルス・エメロードだ。
エンキ人に多い黒髪黒瞳の大公は二十五歳。三年前に父ライデン大公が没して以来、大国に囲まれている自国の難しい舵取りをこなしていて、若くとも知・勇・武に優れた大公として、国民に心から慕われている。
そのアルスが話しかけたのは三歳年上のセイン・ルカ公爵だった。
「そうですね。スパルタスがどういうつもりで秘蔵の第一王女を売り込んできたのかは明白です。我が国とパンセの接近を警戒している」
「そうだ。プライドの高いスパルタスが自国の王女を格下と思っているエンキに押し付けようとする理由はパンセだ。お前は秘蔵の第一王女と言ったが、とっくの昔に死んだ前王妃の忘れ形見なんぞ、ちゃんと子供のいる現王妃にとっては目の上の瘤ってやつだろう。王位継承権だってないんだぞ。向こうからしたらいい厄介払いってやつだろう」
「仮にそうだとしても、我々はこの話を粗略に扱うわけにはいきません。向こうの思惑が喩え要らない王女の厄介払いだとしても、こちらはせいぜい有難がってみせる必要があります。受けるにしても断るにしても慎重を期さねば」
セイン・ルカ公爵は武骨な外見のどちらかといえば醜男だが、その内面は計算高い策略家だ。アルスの腹心として世に知られている彼は、考え込むように虚空を見詰めた。
「正直これは、パンセとスパルタスのどちらを選ぶかという決断が必要です。どちらに転んでも片方からは恨まれる。こちらが望んだわけでもないのに、随分と割に合わない話です」
「確かにな。あっちに気を遣い、こっちの顔色を窺って、なんとかバランスを保ってきたっていうのに、くそっ、スパルタスめっ」
歯噛みしたアルスは机上に広げた地図を乱暴に払いのけた。
セイン・ルカ公爵は身軽く屈んで床に落ちた地図を拾い上げ、丁寧な手付きで再び机の上に広げた。
「アルス様、スパルタス側は早く返答を欲しがっています。こちらとしても結論はどうあれ、パンセに知られる前になんとかしなければ、この件にパンセまで口を挟んできたら厄介なことになります」
「そうだ。パンセは何かにつけて我が国のことに口出ししてくるからな。古臭いしきたりをいつまでも守り続け、新しい人材を取り入れようとしてこなかったツケが回ってきて、今やパンセは死にかけの獅子だ。だが……死にかけていようが獅子は獅子だ。鋭い牙と爪を持っている。対応を間違えるとエンキは引き裂かれてしまうだろう」
「どうしますか?」
アルスはセインが広げた地図を睨みつけながら考えを巡らす。暫しの沈黙の後、口を開いた時には心は決まっていた。
「俺はスパルタスを選ぶ」
セインは無言で小さく頷く。
「パンセは―――シェルクの使用権を以前から要求してきているが、それを許すわけにはいかない。我が国が撥ねつけるだけの力を持っていなかったせいで、ズルズルと誤魔化してくるしかなかったが、スパルタスと組めば一息つけるだろう」
シェルクとはエンキ最大の交易用港だ。大陸中の交易船が出入りするシェルクは、入国税や港使用料、商品の関税等でエンキ全体の約四割の税収を誇る、いわば大切な収入源なのである。
自国の国民からではなく他国の人間、船、商品から金を徴収できるこの港は、エンキの心臓部と言っても過言ではない。
勿論エンキの産物もこの港を通って海を隔てた国々に運ばれるが、百年に一度という大飢饉が四年続いた三十年前、先代のライデン大公の政策によって、租税率は最低限にまで抑えられていた。
パンセは両国間の長く深い関係を考慮して、自分もその税率と同じにしろと言ってきたのだ。長く深いというのは属国だったことを思い出せということで、到底聞き入れるわけにはいかない。
アルスとしては、国内の経済に対する緊急支援対策だったのだと口実をつけ、三十年続けた優遇政策を打ち切り、租税率を上げざるを得なかった。
それでも外国船の税よりは全然低いが、暫定的な金額であり最終決定額はまだ検討中なのだと濁して、パンセを誤魔化している。
交易で栄えているエンキとしては、パンセのみに自国の港を解放したら他国にも同様の要求をされるだろうことから、絶対に呑めないのだ。
勿論そうなればパンセは喜々として他国の介入を阻止するだろうが、それは向うの思う壺だ。苦労を重ねてパンセの属国の立場から脱した歴史が水の泡になってしまう。
「パンセに釘を刺すいい機会だ。……あいつらは自分の国政のまずさを棚に上げて、何かというとエンキの努力にいちゃもんをつけてくる。もううんざりだ」
「確かに。両国にまたがるスリ川の件でもパンセ側の言いがかりは酷いものでした」
「毎年のように氾濫するスリ川をいつまでも放っておくパンセの気がしれん。こっちが苦労して治水工事を完了させた途端に文句をつけてきたが、エンキは川下に位置してるんだぞ? どう考えたらパンセの洪水がエンキのせいになるっていうんだ」
「エンキが洪水を収めたことでパンセ国内では自国の政策に不満が高まっていたようですからね。失敗続きの内政の八つ当たりといったところでしょう」
「冗談じゃない。とにかくパンセとスパルタスならば俺はスパルタスを選ぶ。王女を妃にするとは建前だけのこと、実際は人質にすぎないし、確かスパルタスの世継ぎの王子は彼女の実弟の筈だ。王も次期王もその第一王女とやらの安全と立場を考慮して、エンキに対してあまり無理難題を言ってこなくなったらそれだけで有難い」
アルスの言葉にセイン公爵は地図を押さえていた文鎮を手に取って、パンセの上に置いた。
「私も賛成です。スパルタスもエンキを狙っているのは間違いありませんが、少なくともパンセ程なりふり構わぬ態度は向けて来ていませんからね。ただ、嫁いでくる王女がアルス様の命を狙う恐れもあります。万全の注意を払わなくては」
「フンっ、大国の王女としてぬくぬくと温室育ちをしてきた女が、俺を殺せるものか。それにこれは単なる政略結婚で俺の意思ではないんだ。その女と関わるつもりはこれっぽっちもないからな。せいぜい丁重に扱ってやるとしよう。お飾り大公妃としてな」
「アルス様、しかしやり過ぎると相手を怒らせてしまいます。彼女が祖国に愚痴や泣き言を言い付けたら、それもスパルタスが我が国に口出しをする理由になってしまいます。噂によれば世にも稀なる美しい王女だとか。多少は甘やかしてやった方が都合がいいのでは?」
「噂など信じているのか、セイン? お前らしくもない。スパルタス王室が王女の値を吊り上げるために流した噂だろう。俺は牝牛のような女が来たとしても驚かないぞ」
「いや、そんなことはないと思いますよ。スパルタスの国民に『銀の女神』と呼ばれているそうです」
「国民は王族だってだけで盲目的に崇めているんだろう。だが美醜などどうでもいい。とにかくパンセに知られないよう細心の注意を払って、急ぎスパルタスと細かい交渉に入らなくてはな。お前が動ければ一番いいが、それでは目立ち過ぎる。誰か適当な人物を選んでスパルタスに送らねばならん。向こうを軽んじていないと見せるためにも軽すぎず、さりとて恐れてもないと示すため重すぎない肩書きが必要だ。そして向うに丸め込まれないだけの知恵者でなければ」
「それならばショワジー侯爵あたりが適当でしょう。ロイヤー伯、シュティファン公爵でも……」
次々と候補を挙げ始めたセインの声を聞きながら、アルスはぼんやりと考え込んだ。
国民に『銀の女神』と呼ばれ愛されている少女。
大国の第一王女という肩書きを持ち、世継ぎの王子とこの世で唯一人父母を同じくするスパルタス女がやって来る。このエンキへ、自分アルス・エメロードの妃になるために。
山ほどのプライドを持つ鼻持ちならない王女の筈だ。自分より肩書きの落ちる夫とその国を馬鹿にし、これ見よがしにスパルタス風をひけらかすことだろう。
だがスパルタス女の居場所など、このサン・クルー宮殿のどこにもない。勝手にお高くとまってこっちを見下していればいい。
アルスは目を眇めて地図上のスパルタスを睨みつけた。―――こんなことが気になって苛立つとは、自分こそ思った以上にプライドが高いようだった。