それぞれの誇り
「ナーナだってあなたと離れていては寂しいだろうし。帰ったらきっと大喜びするわ」
リラは乳母である自分の母親の名を出したマリーアを、心配そうに見詰めながら口を開く。
「母は私がマリーア様のお傍から離れることをこそ喜ばないでしょう。恐れ多いことながら、母にとってマリーア様も娘のような存在なのですわ。その大事なマリーア様がエンキで一人戦っているというのに、私がスパルタスにのこのこ帰ってごらんなさい。怒って口をきいてくれなくなります。ですから帰れなんて酷いことを仰らないで下さい」
「でも……」
「いったい何があったんです? リオン王子と何か喧嘩でも……?」
「いえ、違うの。ただ……自分の考えに自信が持てなくなっただけ」
マリーアはリオンが言ったことは伏せながらも、自分が責務を果たす時に関係ないリラを巻き添えにしているのは心苦しいというようなことを話した。
だが、黙ってそれを聞いていたリラの表情はみるみる険しくなった。
「マリーア様、あなたにスパルタスの王女として生まれエンキの大公妃となった義務と責任があるように、私にもスパルタス人として祖国の誇る王女をお守りしお仕えする、臣下の義務と責任があるんです。マリーア様のそれとは比べるべくもない小さなものかもしれませんが、私にとっては何にも換えられない大切なものですわ。そしてそれは大公殿下や、スパルタスのあなたの父君や―――主君であるマリーア様ご自身に命じられても、捨てることは出来ません。何故そんなことを考えつかれたかは存じませんけど、もう二度とそんなことは仰らないで下さい」
厳しい表情で優しい言葉を言われて、マリーアの目が潤む。
マリーアが義務と信じる道を行くように、リラも自分の信じる道を歩いているというのだ。
その道は無理強いされたものでも、嫌々でもなく、リラ自身が選んだものだというのだ。
誇りを持っているのが自分だけではないのだという当たり前のことに気付いて、マリーアは恥ずかしくなっていた。
それを察したのか、リラの表情が柔らかく綻ぶ。
「それに、もしかしたら私にだって、エンキの素敵な男性と出会う可能性があるんですから。そうなったらマリーア様に心配頂かなくても、幸せいっぱいになりますわ」
「そうね。……本当にそうだわ」
「そうですとも」
「有難う、リラ。もう二度とこんなことは言わないわ」
マリーアはリラの腕に手をかけて、心から礼を言った。
リラのお蔭で少し気分が持ち直していた。
リオンとももっと話さなくてはならないと思う。せっかく彼が三日間はエンキにいるのだから、この機会を無駄にしてはならないのだ。ことを分けてよくよく話し合えば、リオンももっと大局から物事を見ることが出来るようになるかもしれない。
それには弟を追い詰めるような言い方をしては駄目だった。冷静に、穏やかに話さなくてはならない。この後の晩餐の席では余計なことは言わず、リオンの様子を見て気持ちが和らぐよう心を配ってやろう。そして明日、明後日と時間を作って、リオンと腹を割った話をするのだ。
だが、マリーアはそう決心しながらも、無意識に小さな溜め息を洩らしていた―――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
スパルタスの第一王子を迎えての晩餐は、厨房長が腕によりをかけてこしらえた素晴らしい御馳走が並んだ。
エンキは様々な食材が集まる交易の要だけに、普段から食卓は華やかだが、今日は大国の王子であり大公妃の弟であるリオン王子に敬意と歓迎の意を表して、いつもとは比べ物にならない豪華さだ。
(そうはいっても、肝心のリオン王子がこの料理を喜んでいるんだか、気に入らないんだか、さっぱりわからん)
アルスは雉のポタージュスープを口に運びながら、去勢雄鶏のクリーム風サラダ添えを口に運ぶリオン王子の様子を、気付かれないように窺っていた。
気に入った様子を見せたらすかさずお代わりを勧めるよう、宮廷料理長にあらかじめ命じていたが、どの料理も伏し目がちに一定のテンポで口に運んでいるリオン王子は、どれが好きか判断する材料がない。
マリーアがあまり食欲がない様子なのも気になったが、久しぶりの弟を前にして胸がいっぱいなのだろう。
弟の来訪の挨拶を受けた際のマリーアの全身に満ちた喜びの空気を思い出して、アルスは彼女のためにリオン王子を精一杯歓待しなくてはと心を新たにする。
正直、政治的思惑からリオン王子に接近しておく必要はあるが、それよりもマリーアを喜ばせることの方が、アルスにとっては重要だった。
婚儀を挙げて一年以上経つ今、二人の寝室は別のままだ。
最初に大国の王女である彼女の鼻っ柱をへし折ってやろうと考えて、自分でもどうかと思う程憎々し気な態度を取って以来、歩み寄るきっかけが掴めない。
本当は彼女の美しさや人柄に心を惹かれているのに、最初に意地を張ったつけが回ってきているのだ。
三人の愛妾達、特にビアンカ・オルシーニがマリーアを馬鹿にし、蔑ろにするのも今更止められず、だからといってマリーアの方から歩み寄ってくれることも期待出来ず、八方塞がりだった。
いや、マリーアは最初から変わらず優しく控え目だ。
アルスに対して対立するような態度もとらず、自分への扱いに怒りを見せることもない。ただひたすら耐えているだけだ。
婚儀の日に向けられた、互いに信じ合い、助け合っていきたいと願う眼差しと耀く微笑みが、二度とアルスに向けられなくなっただけで。
マリーアが来て以来、実は愛妾達の部屋を訪うこともやめているのだが、それをマリーア本人にそれとなく知らせる術もない。
本当は婚儀の日も、ビアンカのところには行かず、一人で寝たのだ。流石に結婚のその日に他の女と同衾する程、鬼畜ではない。
それを言うとセイン・ルカは、妃殿下に独り寝をさせただけで充分鬼畜でしょうが、と呆れた顔で首を振っていたが。
愛妾達がマリーアに敵意を剥き出しにするのは、アルスが彼女らから遠のいたせいもあるのだろう。
他の二人はともかく、ビアンカは公的な称号を得る前にアルスの訪れが途絶えたわけで、躍起になるのも無理はない。
彼女をおとなしくさせるには多少機嫌を取ってやる、つまりは寝室を共にすればいいと解っているのだが、何故かそうする気になれないのだった。
今更アルスがビアンカと寝ようがマリーアは気にも留めないだろうに、彼女に顔向け出来ないような気分になるのだ。
出来れば―――マリーアと色々な話をしてみたい。
エンキに伝わる美しい伝説や神話の数々を教えてやって、彼女の笑顔が見たい。
地方や商人からの陳情書を、自分がいかに上手く捌いているかを見せて、尊敬の目で見られたい。
自分の父の思い出を話して、彼女の子供の頃の記憶や大切な人の思い出を聞かせて貰いたい。
何より―――。
正直に言えば、マリーアにとって一番大切な存在になりたかったのだ。
リオン王子よりも誰よりも上になりたい。気を遣った微笑みではなく、心からの笑顔を向けられたい。
彼女から指輪を取り上げてビアンカに与えた後も、その代わりのつもりで指輪や腕輪など豪華な贈り物を何度かしていたが、マリーアはいつも礼儀正しく感謝の言葉を述べるのみだった。
贈り物に込めた謝罪の気持ちを酌み取ってくれているのかどうかはわからない。
自分から、すまなかったと頭を下げればいいのだが、そうするにはアルスのプライドは高すぎたのだった―――。




