エンキの女官
声をかけるよりはやく、彼女はその場に崩れ落ちた。茶器の割れる音と、マリーアの髪を直していた女官の悲鳴が響く。
マリーアはすぐにその場に膝をついて、倒れた女官の手や顔に触れ、貧血を起こしているのを確認すると衣服を緩めた。
「クラウディア、大丈夫?」
倒れた女官はすぐ意識を取り戻して起き上がろうとしたが、マリーアはそれをおしとどめて顔を覗き込んだ。
「具合が悪かったのね? 気付かなくてごめんなさい。急いで起き上がろうとしないで。ゆっくり動いて。このソファーに横になりなさい。サンドラ、手を貸してちょうだい」
てきぱきと指示を出すと、クラウディアを助け起こしたサンドラが、蒼褪めた顔でマリーアを見た。
「妃殿下、お召し物が……」
見るとドレスの裾がお茶で濡れていた。
「お怪我は……っ? 火傷をなさっていらっしゃいませんかっ?」
「大丈夫。それよりクラウディアを。顔色が悪いわ」
「そういうわけにはまいりません。クラウディア、立てるわね? 早くさがって。妃殿下、すぐに片付けますのであちらにお移り下さい。お召し換えをお手伝いいたします」
絶対に譲らないという気迫に押されて、マリーアは仕方なく頷いた。心を許していない大公妃の前ではクラウディアも気が休まらないだろうし、失態を取り繕いたいだろうと思ったからだ。
それでも部屋を移る前に、今日は仕事に戻らなくていいからゆっくり身体を休めるよう言い残しておく。
隣室についてこようとしたサンドラに、まず病人を診てやるよう命じると、彼女は迷うように双方を見比べてから、申し訳ありません、と呟いてクラウディアに駆け寄った。
それを確認してマリーアは隣室に移った。
薄い水色のドレスは裾の部分が濡れて茶色く染みになっていたが、ふわりと広がるエンキ風の形が幸いして、足にかかることなくすんでいた。
ほっと息をついて一人きりで立っていると、自分に仕える女官の体調不良に気付けなかった自己嫌悪を感じた。主人として失格だ。こんなことではエンキの大公妃として信頼を得るどころではないと、恥ずかしくなる。
その時、控え目なノックが聞こえて、マリーアは慌てて表情を整えた。
自己嫌悪は他人に見せるものではない。特にリラ以外味方のいないこのエンキ宮廷では、自分の感情を無防備にさらけ出すのは危険なことなのだ。
マリーアの許しを得て入ってきたのは、サンドラともう一人別の女官だった。
お待たせ致しました、と頭を下げてすぐに着替えを手伝い出す。新しいドレスを身にまとって髪をきちんと整えられた後、サンドラが改まって頭を下げた。
「妃殿下、先程は本当に申し訳ございませんでした」
朋輩というより妹分の失態を代わりに詫びるというサンドラの様子に、マリーアは小さく頷いた。
「気にしなくていいわ。それより……彼女は大丈夫なのですか? 何か持病でもあるのなら、きちんと医師に診てもらわねば」
「いえ……ご心配をおかけして申し訳ありませんが、妃殿下にお移しするような病を持っているわけではないので、どうぞご安心下さい」
マリーアは皮肉な口調に一瞬たじろいだが、ホッとため息混じりの息をついて苦笑した。
「自分の身を案じて言ったわけではありません。ただ、クラウディアの不調に気付いてやれなかった我が身が不甲斐なく……申し訳なく思っただけです」
疲れたように笑うマリーアにサンドラの頑なな目が迷うように揺らいだ。
「彼女の病がそれ程悪くないのならそれで構いません。体調が戻るまで無理せず、ゆっくり休むよう言ってあげて下さい」
マリーアはそう言って、もう下がっていいと合図した。だがサンドラは暫らく口籠もった後に、妃殿下、と呼びかけてきた。
「なんですか?」
「あの……本当にクラウディアの不始末を怒っていらっしゃらないんですか?」
「不始末だなんてっ。体調が悪い時は誰でもああなります。怒るなんて出来ません」
「でも、お衣装に染みがついてしまいました。あのドレスはもうお召しになれません」
「どうして? 汚れたのは裾の部分だけだったと思いますが」
「そうですわ。染み自体も薄いし綺麗に落とせると思います。ですが……高貴なお方は少しでも汚れたものはたとえ綺麗になっても使うのを嫌がられると……」
「そんなことは気になりません。もし染みが残ったら裾の部分に飾りを付けるなりして直せばよいでしょう」
「……」
あっさりと答えたマリーアをまじまじと見詰めていたサンドラは、どこか怒りを含んだ口調で新たな問いを発した。
「妃殿下は何故クラウディアの名を御存知だったのでしょう?」
思いがけない問いにマリーアは、え? と首を傾げて目を見開いた。
「何故とはどういうことですか? 自分の身のまわりの世話をしてくれる女官の名ではないですか」
「ですが、妃殿下付きの女官は十二名もおりますのに……」
サンドラは呟くようにそう言うと、戸惑っているマリーアを正面から見て、小さな笑みを浮かべた。
それはマリーアがエンキに嫁いで以来、初めて侮蔑や敵意の籠もらない笑顔を、エンキ人から向けられた瞬間だった。
「妃殿下、クラウディアは私の可愛がっている後輩なんです。あの子に代わって妃殿下の……マリーア様のお気遣いに感謝いたします」
「サンドラ……」
「私……大国の王女であられたマリーア様がエンキに来られたのは……嫌々だったのだと思っておりました。エンキの人間など……人と思っていらっしゃらないのだと……見下されているに違いないと、勝手に誤解しておりました。申し訳ございませんでした」
後悔したように強張った表情でそう詫びたサンドラに、マリーアは微笑んだ。
エンキに来て間もない頃、自分を名で呼んでほしいと皆に頼んことがある。その時は皆一様に、かしこまりましたと答えていたが、結局誰一人として『妃殿下』という呼び方を崩すことはなかったので、今サンドラが口にしたどの言葉よりも、『マリーア様』という呼び方が嬉しかった。
「有難う。そう言ってくれて嬉しいわ」
深々と頭を下げてお辞儀をしたサンドラに、マリーアは震える声でそう言ったのだった。




