王室の朝
マリーアの白銀の髪が陽光を受けて煌めく。
リラは自分のありふれた栗色の髪とは全く違う乳姉妹の髪に生花を飾りながら、小さく溜め息を洩らした。
「どうしたの? リラ」
聞き取れないくらい小さな吐息にもやっぱり気付いたマリーアの紫色の眸が、鏡越しにリラを見詰めている。
「いえ、なんでもありませんわ」
「もしかして具合でも悪い? それだったら休んでいて構わないのよ?」
相変わらず優しいマリーアの言葉に、リラは微笑んでみせた。
「いえ、本当に何でもありませんの」
それでも心配そうな視線を受けて、リラは観念した。
使用人が自分から主人に向かって、具合が悪いので休ませてほしいなどと訴えられないことを知っているマリーアは、一国の王女と思えないくらい周囲に目配りしているのだ。
そのマリーアが、いつも一番近くにいる、乳姉妹で女官のリラの物憂げな様子に気付かない筈がない。
「私はなんでもないのですけど、ただ……あれですわ」
マリーアはリラが何を言わんとしているのかを知って、ああ……と困ったような笑顔を見せる。
二人の視線の先には数冊の本が置いてあった。マリーアが弟のリオン王子のために用意した本なのだが、何の言付けもなしに返されてきたのだった。
「これはハラン師がリオン王子に読んだ方がいいと仰った本ではありませんか。せっかく姉君が譲って差し上げようとなさったのに……」
「でも、もしかしたらもう持っていたのかもしれないわ」
「だとしても、何か一言……」
「いいのよ。あとでリオンに直接訊いてみるからそんなに心配しないで?」
リラは仕方なく苦笑してみせた。これ以上言い立てても、マリーアを困らせてしまうだけだ。
「申し訳ありません。出過ぎたことを申しましたわ。さぁ、お支度が出来ました」
安心したように頷いた王女が、迎えに来た他の女官と共に部屋を出ると、残されたリラは今度こそ大きく溜め息をついた。
マリーア王女はお優し過ぎる。
このスパルタス王国の第一王女として、強い責任感と教養を身に付けながらも、持って生まれた優しい性格は少しも損なわれていなかった。
それは傍に仕える臣下の立場としては有難いことだったが、マリーア自身にとってはどうなのか。敵の多い宮廷生活を優しさで渡っていける筈もない。
リラが再び溜め息をついたその頃、こちらは女官を従えて姿勢よく歩きながら、マリーア王女も小さく溜め息をついていた。
父国王ロレンツォ七世はあまり賢明だとはいえないが、生まれながらの王ゆえに他が従うのが当たり前という意識と権力志向が強く、民には苛烈な支配者という評判である。
その王と美貌で内外に名を馳せたエレオノラ王妃の間に恵まれたのが、母譲りの美貌を持つマリーアと弟のリオン王子だ。
姉姫の硬質な白銀の髪と比べると、二歳違いの弟王子は柔らかい薄金色の髪だが、無口な性格のせいで華やかさはない。リオン王子が生まれてすぐに母が亡くなったため、マリーアが何かと弟を気にかけ守ってきたが、傍で見ている人間が戸惑う程に無反応無愛想なのだ。
エレオノラ王妃が亡くなって五年後、国王は国内の有力貴族バルディ公爵家から新しい王妃カサンドラを迎えた。
赤みがかった栗色の目と髪を持つ新王妃は、四歳の娘と一歳の息子を伴って王宮入りした。
この二人の子供は、国王が自分の実子として認知したことで、ジャンヌ王女、カール王子と呼ばれる立場となった。
国内で強い影響力を持つ実家の後ろ盾を武器に、カサンドラ王妃は自分の息子を王太子の位に就けるべく策謀を巡らせ、国内の勢力はリオン王子派とカール王子派の二つに分かれて争っている。
マリーアはその中で弟リオン王子のために、幼い頃から父に頼んで良い教育者を招き、その先生方に自分も教えを受けてきた。勿論、リオン王子を正統な地位、王太子にするためだ。
だが、肝心のリオン王子本人がやる気を見せず、かえって隣国エンキやパンセの言葉も流暢に操り、政治や医学にも造詣の深いマリーアの方が、上に立つのに相応しく見られることが増えてきたのだ。
スパルタス王国では男子のみに王位継承権があるため、長子であっても女子のマリーアが王位に就くことはあり得ない。だが、優秀な姉と比較されることの多いリオン王子は、最近尚更投げ遣りな態度を見せるようになっていた。
マリーアは、返されてきた本のことを弟になんと訊くべきか迷いながら歩を進めた。
これから国王一家が王宮のバルコニーに立つ、月一回の公式行事だ。弟と顔を合わす絶好の機会とはいえ、国王夫妻と共に中央バルコニーに立つリオン王子と、左隣の小バルコニーが定位置のマリーアでは、言葉を交わす時間は殆ど無きに等しい。
しかも、国民の前に出る大事な公務の前に、弟が不機嫌になる危険を冒すべきではないだろう。
マリーアはバルコニー前の大扉の前に立つリオン王子の姿を見つけて咄嗟にそう決め、微笑みながら朝の挨拶をするにとどめた。リオン王子の返事が仏頂面で投げ遣りなのはいつものことだ。
マリーアは気にせず、弟と共に父である国王とその妻の出御を待った。
程なくして先触れと共に国王夫妻が現れると、傍らの弟の表情が目に見えて明るくなる。これもいつものことだった。
リオン王子の視線は真っ直ぐに義母であるカサンドラ王妃に向かっている。王妃の赤みがかった栗色の髪に囲まれた顔立ちは、マリーアには驕慢なものとしか思えなかったが、リオンの目には違って映るらしい。
子供達の朝の挨拶を受ける国王は、息子のそんな様子に気付くこともなく、傍らの侍従から錫杖を受け取った。
「陛下、先程お許し頂いた通りにして宜しいですわね?」
するりと言ったのは王妃だった。国王はあっさりと頷いてみせる。何の話かと目を向けたマリーアは、次の瞬間、怒りに眉を吊り上げた。
王妃は後ろに控えるように立っていた自分の息子カールに向かって、今日は中央バルコニーに立つように、と言ったのだ。
「どういうことでしょう。中央バルコニーは国王と王妃、そして王太子であるリオン王子のみが立てる場所の筈ですが」
静かな口調ながら一歩も退かない決意を見せたマリーアに、王妃が誤魔化すように微笑を向けてきた。
「そんなに格式ばって考えなくてもいいでしょう。確かにリオン王子の方が兄ですが、まだ立太子の式をしたわけでもないのですよ。正式に王太子になったのならともかく、そういうわけでもないのですから、兄弟仲良く同じバルコニーに立っても何も問題はありますまい」
「そんな―――こういったことをいい加減にすれば、ゆくゆくは王権を揺るがすことにもなりかねません」
「まあ大袈裟な。このスパルタス王国に我がプラジーニア朝が興ってどれだけ経っていると思うのです。特に貴女の父君ロレンツォ七世陛下の治世に入ってからというもの、近隣諸国も羨む素晴らしい繁栄を誇っているではありませんか。それともマリーア王女は国王陛下のお力を信じていないとでも?」
「そんなことは欠片も考えておりません。私が申し上げたいのは長幼の序を蔑ろにすべきではないということです。兄弟が仲睦まじくあるのは良いことではありますが、リオン王子はいずれ国王陛下の跡を継ぎ、この大スパルタス王国を治める立場です。その権威を薄めるようなことをすれば、従うべき臣下や国民は惑い、国が乱れることに―――」
「まあ、流石に名のある博士達からこぞって賛辞を受けるだけあって、よくお考えですこと」
王妃は声を高めてマリーアを遮ると、わざとらしく扇子を開いて顔を扇いだ。
「でもマリーア王女のご心配には及びませんわ。リオン王子は如何お考えですの? 私の考えと姉君、どちらをお取りになります?」
リオンが唐突に自分に話を振られて、驚いたように目を見開く。王妃とマリーアがにこやかな仮面の下で戦っていたのが、自分に関係していることだとは思ってもいなかったらしい。
マリーアはなんでもいいからとにかく弟が、カール王子と同じバルコニーに立つのは嫌だと言ってくれるよう祈ったが、リオン王子はあっさりと、母上の宜しいように、と答えた。
王妃はリオンに極上の笑顔を向けると、パチッと音を鳴らして扇子を閉じ、マリーアに向き直った。
「国を継ぐべき男といずれ嫁いでいく女とでは、おのずと役割が異なりますわ。リオン王子ご自身がカール王子と一緒でいいと仰るのですから、私達女の出る幕ではありませんわね」